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2024 .11.21
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第1部 湯本善太夫





1.飄雲庵




 あの男が草津にやって来た。

 あの男が来てから、戦(いくさ)が始まった。

 善太夫(ぜんだゆう)が十二歳の時だった。

 当時、まだ、善太夫とは名乗っていない。

 湯本次郎と呼ばれ、大叔父、成就院(じょうじゅいん)のもとで武芸の修行に励んでいた。

 天文(てんぶん)十一年(一五四二)の夏の初めの事である。

 次郎がその男を見たのは、草津の入り口にある白根明神の境内であった。

 当時、白根神社は現在の運動茶屋公園から草津小学校にかけての一帯にあった。囲山(かこいやま)公園の地に移ったのは明治に入ってからの事である。

 広い境内には宿坊(しゅくぼう)がいくつも建ち並び、大勢の山伏(やまぶし)たちが修行に励んでいた。次郎の大叔父、成就院も白根明神に仕える山伏だった。

 次郎は武芸の師匠である円覚坊(えんがくぼう)という山伏を相手に剣術の稽古をしていた。

「エーイ!」と汗びっしょりの次郎は、円覚坊に向かって木剣を打った。

 円覚坊は簡単に次郎の木剣を避けると、「それまで」と言って、鳥居の方を眺めた。

 見慣れない武士が鳥居の下で馬を降りていた。

「真田弾正忠(さなだだんじょうちゅう)じゃ」と円覚坊は言った。

 次郎には、その真田弾正忠という武士が何者なのか分からなかったが、弾正忠と一緒にいる鎌原筑前守(かんばらちくぜんのかみ)は知っていた。筑前守は次郎の伯父であった。

「おお、次郎坊か、大きゅうなったのう」と筑前守がニコニコしながら声を掛けて来た。

 そして、弾正忠に何事か言うと、今度は弾正忠が、「湯本殿の御子息か‥‥‥いい面構えをしておる」と低い声で言って、うなづいた。

 一体、何者だろう、と次郎は弾正忠の顔を見上げていた。

 年の頃は三十前後か、左の頬(ほお)に矢傷らしい傷が引きつっている。何度も戦に出た事のある顔付きだったが、優しそうな目をしていて、悪い人じゃなさそうだ。身なりは大した事ないが、伯父の態度からすると偉い人なのかもしれないと次郎は思った。

 弾正忠の後ろには二人の武士がいて、何が可笑しいのか、次郎の方を見て笑っていた。

 弾正忠は次郎から隣にいる円覚坊に目を移すと、「おぬし、こんな所におったのか」と驚いたような顔をして言った。

「はい、お久し振りで‥‥‥」円覚坊はニヤニヤしながら頭を下げた。

「確か、移香斎(いこうさい)殿を捜しておったようじゃったが、会う事はできたのか」と弾正忠は円覚坊に聞いた。

「ようやく、会えました。この地で飄雲庵(ひょううんあん)と名乗って住んでおりました」

「なに、移香斎殿が、この草津におるのか」弾正忠は目を丸くして、円覚坊を見つめた。

 円覚坊は首を振った。「もう四年程前にお亡くなりになりました」

「わしらも知らなかったんじゃよ」と筑前守は笑った。「飄雲庵と名乗る変わったお人が庵(いおり)を結んで住んでいるというのは知っておったがの、そのお人が、まさか、愛洲(あいす)移香斎殿じゃったとは、円覚坊がこの地に来て、初めて分かったんじゃ」

「そうじゃったか‥‥‥移香斎殿はお亡くなりになられたのか‥‥‥後で詳しく、話を聞かせてくれ。しばらく、ここでのんびりするつもりじゃ」

 そう言うと、弾正忠は筑前守と共に拝殿(はいでん)の方へと向かった。

「師匠、何者だ」と次郎は弾正忠の後ろ姿を見送りながら、円覚坊に聞いた。

「信州真田の領主じゃ。去年、領地を追われてのう、上州に逃げて来たんじゃよ」

「浪人か」

「まあ、今はそうじゃのう。だが、このまま、浪人で終わる男じゃない。顔を覚えておいて損のない男じゃ」

「そうか‥‥‥真田弾正忠だな‥‥‥」
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2.ナツメ




 夏の終わりの頃だった。

 瑞光坊(ずいこうぼう)は光泉寺の門前に立つ市からの帰り、湯治客を眺めながら、のんびりと歩いていた。

 草津には様々な客が訪れた。

 きらびやかに着飾った身分の高いお公家(くげ)さんや僧侶。

 偉そうな髭(ひげ)をたくわえて、槍や薙刀(なぎなた)をかついだ、いかつい顔をした武士。

 旅なれた山伏や遊行聖(ゆぎょうひじり)。山伏は真言(しんごん)を唱え、遊行聖は念仏を唱えながら歩いている。

 あちこちから流れて来る遊女や乞食(こじき)、旅芸人。鮮やかな着物に身を包んだ天女のように美しい遊女もいれば、乞食同然のボロをまとったお化けのような遊女もいる。

 時には武家の奥方が立派な輿(こし)に乗って、大勢の侍女(じじょ)を引き連れてやって来る事もある。

 身分も着ている物も様々だったが、草津に来ると皆、平等になったかのように、裸になって湯に入った。

 広小路には、御座(ござ)の湯、綿(わた)の湯、脚気(かっけ)の湯、滝の湯と四つの湯小屋があるが、ほとんど、回りから丸見えだった。勿論、男女混浴で、皆、草津に来た解放感からか、何の抵抗もなく裸になっている。中には、湯から出て素っ裸のまま、広小路を歩いている者もいるが、誰も気にも止めない。

 草津は不思議な所だった。

 瑞光坊は初めて草津に来た時、裸の人たちを見て驚いたが、それよりも、色々な種類の人がいる事の方がもっと驚きだった。小雨村にいた頃、見た事もない違う種類の人々が草津には大勢いた。噂に聞く都とは、こういう所なのかと驚いていた。

 草津は山の中の小さな村だったが、都とは言えないまでも、一種独特の華やかさを持った町だった。

 いつものように、湯池(湯畑)に湯煙が立ち昇り、硫黄(いおう)の臭いが鼻を突く。

 いつものように、滝の湯には大勢の者が湯を浴びていた。

 道行く男たちが足を止めて、ニヤニヤしながら湯小屋を眺めている。

 毎日、この時刻になると、仕事前の遊女たちが大勢、湯を浴びにやって来ていた。

 遊女たちは見られているのを承知で、キャーキャー言いながら誇らしげに体を見せびらかしている。
3.善太夫




 長かった冬も終わり、四月の八日、例年のごとく草津の山開きが行なわれた。

 いつもは、父親の下総守(しもうさのかみ)が行列の先頭に立って、草津に登るのだったが、今年はいなかった。下総守を初め家臣たちのほとんどが戦(いくさ)に行ったまま、まだ帰って来ない。

 留守を守る湯本次郎右衛門が沼尾村から小雨村にやって来て、下総守の代理として先頭に立って登って行った。

 瑞光坊(ずいこうぼう)も善太夫(ぜんだゆう)の代わりとして、正装して行列に加わっていた。錫杖(しゃくじょう)を突きながら、雪を踏み分けて登って行く瑞光坊の顔付きは去年とは打って変わって、頼もしく感じられた。

 行列はまず、白根明神に参拝して、今年の繁栄と戦に行っている者たちの無事を祈願(きがん)し、光泉寺にて山開きの儀式を行なった。

 薬師堂(やくしどう)から雪景色の中、湯煙を上げている湯池(湯畑)を見下ろしながら、ようやく、春がやって来たと皆が実感していた。顔をほころばせながら、「今年もまた、忙しくなるぞ」とうなづき合っていた。

 瑞光坊は円覚坊(えんがくぼう)と共に、番頭や女中を引き連れて湯宿に向かった。

 屋根の雪は思っていた程なかった。冬の間、山に籠もって修行を続けていた光泉寺の山伏たちが、雪下ろしをしてくれたようだった。

 すべての戸を開け放して、大掃除が始まった。冬の間、蔵の中にしまって置いた家財道具をすべて出さなくてはならない。

 湯治客を迎え入れる準備で、草津の村は大わらわだった。

 村もようやく落ち着いて、湯治客の姿もちらほら見え始めた四月の二十三日の事だった。

 髪を振り乱し、汚れた鎧(よろい)を身に付けた騎馬武者が一騎、広小路を駈け抜けて、お屋形へと向かって行った。しばらくして、また一騎、二騎と泥にまみれた武者がやって来た。

 瑞光坊は円覚坊と一緒に湯宿の門の所から、目の前を駈け抜けて行く武者たちを眺めていた。

「ただ事じゃないぞ」と円覚坊はお屋形の方を見上げながら言った。

「もしや、父上の身に何か‥‥‥」と瑞光坊も不安な面持ちでお屋形の方を見た。

「かもしれん」と円覚坊は言った。「城を落とす時に敵と戦い‥‥‥」

「怪我をしたとでも言うのか」と瑞光坊は円覚坊に聞いた。

「分からん」と円覚坊は厳しい顔付きで首を振った。「分からんが、あれ程の慌(あわ)て様、よくない事が起こった事は確かじゃろう」

 瑞光坊は円覚坊の言葉を最後まで聞かずに、お屋形の方に駈け出して行った。円覚坊も瑞光坊の後を追った。
4.雷鳴




 小田原の北条氏に敗れて、面目(めんぼく)を失った管領(かんれい)上杉憲政(のりまさ)は名誉を挽回しようと、翌年の七月、甲斐(かい)の武田晴信(後の信玄)を倒すため、二万騎を率いて信濃の国(長野県)に進撃した。

 佐久郡の小田井原(御代田)にて合戦は行なわれ、またもや、管領は敗れてしまった。

 二度の負け戦(いくさ)によって、関東管領としての権威は完全に失墜(しっつい)してしまった。

 武田との合戦には、善太夫の兄、湯本太郎左衛門も出陣して行ったが、戦には参加しなかった。箕輪(みのわ)城の長野信濃守業政(しなののかみなりまさ)がその戦に反対したため、信濃守の指揮下にある吾妻勢は箕輪城にて待機していたのみに終わった。

 月日の経つのは速かった。

 父親と叔父の三回忌も過ぎて、もう、善太夫と呼ばれる事にも慣れ、まだ十八歳の若さだったが、宿屋の主人としての貫禄もいくらか身に付いて来ていた。宿屋の主人になってからも武術の修行は続けていたが、茶の湯や連歌(れんが)などの修行もしなければならなかった。

 当時、茶の湯と連歌は武士の嗜(たしな)みの一つとされていた。いくら、戦で活躍しても、それらを身に付けていなければ一人前の武士と見なされなかった。かといって、吾妻郡(あがつまぐん)内の武士すべてが、本格的に茶の湯と連歌を嗜んでいたわけではない。皆、真似事に過ぎなかった。この辺りの武士同士でお茶会や連歌会をやる場合、それで充分だった。しかし、善太夫という格の高い宿屋の主人は真似事だけでは済まされない。どんなお客が来ても、それ相当に接待しなければならない。茶の湯や連歌など知らないでは済まされなかった。善太夫の恥は湯本家の恥となる。善太夫はそれぞれの専門家に付いて修行しなければならなかった。

 初めの頃、茶の湯にしろ連歌にしろ、そんなもの、すぐに覚えられると簡単な気持ちでいたが、どちらも、やればやる程、奥の深いものだった。茶の湯をやるには茶道具の目利(めき)き(鑑定)ができなくてはならないし、連歌をやるには、古典を読まなくてはならない。『古今(こきん)和歌集』や『源氏物語』など読んでいると頭が痛くなったが、仕方がなかった。さらに、猿楽(さるがく)の舞や鼓(つづみ)の打ち方まで稽古させられ、宿屋の主人も楽ではない事を思い知らされていた。宿屋を開いている半年間は、それらの修行で忙しく、冬住みになると毎年、円覚坊と共に旅に出ていた。

 去年の冬の旅では信濃の国にて真田幸隆と再会した。

 幸隆は甲斐の武田晴信に属して、真田の領地を回復していた。幸隆は武田軍の先鋒(せんぽう)として、葛尾(かつらお)城(埴科郡坂城町)の村上義清と戦っていた。善太夫らが行った時、丁度、戦の準備をしている所だった。

「ほう、善太夫殿の湯宿をお継ぎになられたか」

 小具足(こぐそく)姿の幸隆はニコニコして善太夫を歓迎してくれた。

「この前のように、のんびりと草津の湯に浸かりたいが、何かと忙しくてのう」

 幸隆は生き生きしていた。武田の先鋒として、信濃を平定する事に生きがいを感じているようだった。
5.上泉伊勢守




 あの夢のような夏の夜から一年が過ぎた。

 ナツメは来年の夏に必ず来ると言っていたが、あの後、来る事はなかった。

 兄の孫太郎も来ない。

 小野屋の番頭は『伊勢屋』と称して来たが、ナツメの事はよく知らなかった。最近、見かけないから、伊勢の方に行ったのかもしれないとはっきりしなかった。

 もう年頃だし、嫁に行ったのかもしれないと善太夫は諦めた。

 諦めたと言っても、心の中の未練が消える事はなかった。

 ナツメの事を忘れようと、毎晩のように遊女屋通いを続け、他の女を抱いてみても無駄だった。ナツメによく似た娘を捜し出して、共に一夜を過ごしても、余計に空しくなるばかりで、ナツメを忘れる事などできなかった。

 冬住みが始まると、さっそく、敵情を探るために小田原に行こうと円覚坊を誘った。

 円覚坊はニヤニヤしながらも、うなづいてくれた。円覚坊もナツメの事は当然、知っていた。

 ナツメは伊勢屋の娘として善太夫の宿に滞在し、善太夫とナツメの事は草津中で噂となっていた。誰もが二人は一緒になるものと思い、一緒になれば似合いの夫婦だと噂していた。善太夫の兄、太郎左衛門もその噂は聞いていて、大店(おおだな)の商人の娘を嫁に貰えば、この先、湯本家としても何かと便利だろうと賛成していた。誰も、伊勢屋が北条氏とつながりがあるなどとは思ってもいなかった。

 『小野屋』というのは、箕輪の長野信濃守によって、北条氏の御用商人だと知らされて、太郎左衛門は知っていた。小野屋が白根山の硫黄(いおう)の取り引きをしているから中止させるようにと注意されていた。太郎左衛門は白根明神に小野屋との硫黄の取り引きをやめるように命じ、さらに、各宿屋に小野屋という商人が来ても泊めないようにと命じた。

 太郎左衛門は小野屋が以前から、善太夫の宿屋を利用していた事を知らなかった。先代の善太夫も父と共に戦死してしまったため、小野屋について詳しく聞く事はできなかった。太郎左衛門は弟の善太夫に小野屋の事を聞いたが、善太夫はナツメの事があったので、知らないと答えていた。太郎左衛門は善太夫の言葉を信じた。

 当時、湯本家にとって、小田原の北条氏というのは、はるか遠い存在でしかなかった。前回、河越の合戦では、北条氏のために多くの者が戦死したが、北条氏が管領(かんれい)上杉氏のいる上野(こうづけ)の国に攻めて来るはずはないと思っていた。この時期、上野の国内で、北条氏に注目していたのは、長野信濃守だけだったと言っていい。前回、北条氏に負けたとはいえ、上野の武士たちは管領という権威をまだ信じていた。太郎左衛門もそうである。信濃守から小野屋の事を聞いて、一応、取り引きの中止を命じたが、それ程、重要な事だとは思っていなかった。

 湯本家の者たちは、ナツメが小野屋の娘だという事を知らなかったが、円覚坊だけは知っていた。知ってはいても、円覚坊が誰かに言い触らす事はない、と善太夫は信じていた。

「陰流(かげりゅう)の名人も女子(おなご)には形無しじゃのう」と円覚坊は笑った。

「女子じゃない。敵情視察だ」と善太夫は言った。

「ほう、敵情視察か。去年の冬はそんな事を言わなかったのに、急に、北条氏の事が気になるのか」

「うるさい」

「まあ、いいじゃろう。ただし、小田原に行く前に寄る所がある」

「どこです」

「いい所じゃ。いささか高くなっている、おぬしの鼻を折るのに丁度いい」

「俺が天狗になってると言うんですか」

「いささかのう」
6.表舞台




 天文(てんぶん)二十年(1551年)の正月の末、箕輪(みのわ)の長野信濃守から出陣命令が届いた。

 兄、太郎左衛門は家臣を引き連れて、義父の羽尾道雲(はねおどううん)と共に箕輪に向かい、さらに、管領(かんれい)上杉氏の城下、平井に向かった。

 小田原の北条氏が今度は平井に攻めて来るという。

 河越の合戦の時のように、平井には関東の武士が大勢集まったが、あの合戦の後、北条方に寝返った武士もかなりいて、あの時程の盛り上がりはなかった。それぞれの陣地においても、北条軍が攻めて来たら、絶対に追い払ってやるという気迫はなく、半ば、逃げ腰だったという。

 留守は沼尾村の湯本次郎右衛門の長男小次郎と生須(なます)村の湯本三郎右衛門が小雨村のお屋形に来て守っていた。

 小次郎は太郎左衛門の妹婿(むこ)であり、善太夫から見れば義兄という関係にあった。三郎右衛門は善太夫の義弟に当たった。昨年の春、妹のしづは三郎右衛門のもとに嫁いでいた。

 身内の者たちは皆、嫁を貰っているのに、善太夫はまだ独り身だった。縁談はあるが、善太夫は乗り気ではなかった。兄の太郎左衛門としても、湯宿の主人の縁談にはさほど興味もなく、善太夫の好きにさせていた。

 善太夫としては、相変わらずナツメの事が忘れられず、他の娘を嫁に貰う事など考えられなかった。他の娘を嫁に貰う位なら、遊女屋に通って遊んでいる方がまだ増しだった。『若旦那』と持て囃されて、お気に入りの遊女を抱いていた方が気が楽だった。

 善太夫は冬住みの期間は、円覚坊と一緒に旅に出ている事が多かったが、去年と今年は、上泉伊勢守のもとで武芸の修行に励んでいた。

 伊勢守のもとにも箕輪から出陣命令が届いた。伊勢守は家臣を引き連れて、箕輪城に向かった。四天王のうち羽田源太郎と疋田豊五郎と神後藤三郎の三人が伊勢守に従い、奥平孫次郎だけが残った。原沢佐右衛門も出陣し、道場に残ったのは、一年間の修行に来ている若い者たちだけになった。

 善太夫は孫次郎と共に若い者たちを教えていたが、二月の初め、円覚坊が迎えに来ると小雨村に帰った。兄、太郎左衛門から、留守を守るようにと頼まれたという。

 留守を守ると言っても、北条軍がここまで攻めて来る事はあり得ず、特にする事もなかった。善太夫は『小野屋』の孫太郎から貰った鉄砲をかついで雪山に入って行き、毎日、鉄砲を撃っていた。

 鉄砲の腕はかなり上達していた。弓矢よりも威力があって、戦でも役に立ちそうだったが、たったの一挺ではどうしようもなかった。兄とも相談して、もっと手に入れたかったが、高価過ぎて買う事はできなかった。

 この頃、吾妻郡内には、善太夫が持っている鉄砲が一挺あっただけだった。管領の上杉憲政(のりまさ)、箕輪の長野信濃守、白井(しろい)の長尾左衛門尉(さえもんのじょう)など有力な武将たちは皆、鉄砲を持ってはいたが、宝物の一種として大切に保管していた。兵たちに持たせて実戦で使う事などできない程、高価で贅沢(ぜいたく)な物だった。

 二年後の天文二十二年、二十歳の織田信長は義父、斎藤道三(どうさん)との会見の時、三百挺近くの鉄砲を所持していたと言われ、四年後の天文二十四年、武田晴信は川中島の合戦において三百挺の鉄砲を使用したと言われている。次第に国内にて大量生産されるようになり、鉄砲は各地に普及して行くが、この時はまだ、武器というよりも贅沢な贈答品として扱われていた。
7.瓶尻の合戦




 春になった。

 ナツメは来なかった。

 ナツメに会いに小田原まで行きたかったが、湯本家の当主となった今、そんな勝手な事はできなかった。

 善太夫はその年の秋までナツメを待っていた。ナツメはついに来なかった。伊勢屋の番頭は硫黄の取り引きにやって来たが、ナツメの事までは分からなかった。

 善太夫はまたもや、ナツメに期待を裏切られた。

 もう二度と、ナツメの事は考えるまいと強く心に誓った。

 翌年の春、鈴は男の子を産んだ。

 善太夫は初めての子供の誕生を喜び、家臣たちも跡継ぎの誕生に大喜びだった。その日は小雨村中で大騒ぎだったが、生まれた子はあっけなく、三日目に亡くなってしまった。喜びが大きかっただけに、悲しみはそれ以上だった。善太夫は亡くなった赤ん坊を抱きながら、持仏堂(じぶつどう)に三日間も籠もっていた。

 善太夫が子供を失った頃、小田原の北条氏康は駿河(静岡県)の今川義元、甲斐(山梨県)の武田晴信と三国同盟を結んだ。後方を固めた北条氏は本腰を入れて関東平定に乗り込んで来るかと思われたが、慎重な氏康は内政に力を注ぎ、家臣団を強化するのに充分な時間を要して、すぐに攻めては来なかった。

 氏康が上野(こうづけ)の国に攻めて来たのは、それから一年後の天文(てんぶん)二十四年(1555年)の春だった。善太夫ら吾妻(あがつま)勢は箕輪城にて待機していた。

 北条軍は怒涛(どとう)の勢いで廐橋(うまやばし)城を落とし、北上して沼田の倉内城も攻め落とした。

 北条氏の進攻によって、上野の国は利根川を境に東と西に分けられ、東側は北条方となり、西側は長野信濃守を中心に北条氏に敵対するという形になった。利根川以東にある上泉城も北条方にならざるを得ない立場となり、伊勢守も北条氏に降伏して、長野氏と敵味方に分かれてしまった。

 北条氏は利根川の東側を固めると勝鬨(かちどき)をあげながら引き上げて行った。

 善太夫らは肩透かしをくらった格好となり、一戦も交えずに本拠地に帰った。

 越後に逃げた管領上杉憲政は、長尾景虎に管領職(かんれいしき)と上杉姓を譲り、関東の地を平定してくれと頼んだ。景虎は憲政の頼みを喜んで引き受けた。しかし、景虎としても、すぐに関東に進出する事はできなかった。武田晴信に追われた村上義清が越後に逃げて来て、景虎に助けを求めていた。

 景虎は関東に進出する以前に、晴信を倒さなくてはならなかった。景虎と晴信は信濃の川中島(長野市)にてぶつかった。第一回の合戦が天文二十二年の秋、第二回の合戦が天文二十四年の秋、以後、景虎と晴信は三回も川中島にて合戦を行なう事となる。

 上野の国は越後の長尾氏、相模の北条氏、甲斐の武田氏という三大勢力に挟まれた格好となり、戦国の乱世はいよいよ本格化しようとしていた。

 箕輪の長野信濃守業政(なりまさ)は、長尾景虎を新しい管領と認め、飽くまでも北条氏康と戦うつもりでいた。長野氏の指揮下にあった吾妻郡の武士たちも長野氏に従う事となり、改めて同盟を結んだ。
8.真田一徳斎




 善太夫の矢傷は一年近くかかったが、草津の湯のお陰で完全に治った。

 善太夫が湯本家を継いだ時は大勢の家臣を亡くした後で、湯本家の将来も思いやられたが、あれから十年近くが経ち、亡くなった者たちの息子が立派な武士に成長して、湯本家も安泰と言えた。ただ、嫁を貰って十年近く経つのに、跡継ぎに恵まれないのが、ただ一つの不安だった。

 善太夫の妻、鈴はすぐ亡くなってしまった男の子を産んだ後、今度は流産してしまい、その後、子供はできなかった。

 流産の後、善太夫は家臣たちの勧めもあって側室(そくしつ)を迎えた。妻の事を思うと気が進まなかったが、兄は二十五歳で亡くなって跡継ぎがなく、弟の善太夫が跡を継いだ。善太夫にもしもの事があったら、誰が跡を継ぐのだと言われ、善太夫も断れなかった。

 側室は家臣の娘たちから選ばれ、中沢杢右衛門(もくうえもん)の妹、小茶という十六歳の娘に決まった。小茶は勿論、美しい娘だったが、控えめでおとなしく、妻の鈴ともうまくやって行けそうだった。

 小茶は翌年の夏、元気な女の子を産んだ。今度こそ無事に育ってくれる事を祈りながら、善太夫は初めての娘にナツと名付けた。夏に生まれたからナツだと善太夫は言ったが、その名前の裏には、ナツメへの思いが隠されていた。ナツメのようないい女になれとの思いが込められていた。

 永禄(えいろく)三年(1560年)の山開きのすぐ後、珍しい男が善太夫を訪ねて来た。湯宿の準備がまだ整っていなかったので、湯宿の屋敷の方に彼らを案内した。

 頭を丸めて山伏の格好をしていたが、その男は紛れもなく真田幸隆だった。幸隆を連れて来たのは従兄(いとこ)の鎌原宮内少輔(かんばらくないしょうゆう)だった。

「久し振りに移香斎(いこうさい)殿の墓参りでもしようと思ってのう」と幸隆は笑った。屈託(くったく)のない笑いだった。

 幸隆は武田晴信の被官(ひかん)として先鋒(せんぽう)を務め、信濃の国を平定するために活躍していた。

 晴信でさえ落とす事のできなかった村上義清の戸石(といし)城を落とした活躍は吾妻郡にも聞こえ、さすが幸隆だと感心させたものだった。

 幸隆は去年、お屋形の晴信が法体(ほったい)になって信玄(しんげん)と号したのにならい、一徳斎(いっとくさい)と号していた。今、善太夫とは敵味方の関係にあったが、そんな事は少しも構わず、懐かしい友にでも会ったような態度だった。

 善太夫はさっそく、一徳斎を愛洲移香斎の墓に案内した。
9.長尾景虎




 真田一徳斎(いっとくさい)が来た次の月には、国峰(くにみね)城(甘楽町)の小幡尾張守(おばたおわりのかみ)が家臣たちを引き連れて、草津にやって来た。

 尾張守の長男、右衛門尉(うえもんのじょう)は箕輪の長野信濃守の娘婿になっていたが、東からは北条氏、西からは武田氏と二大勢力に挟まれて、このままでは領地を失う不安にかられていた。こんな時期、湯治(とうじ)を思い立ったのは、同じ信濃守の娘婿となっている大戸(おおど)氏、羽尾(はねお)氏の腹の内を探って、今後の対策を練るためだった。彼らが信濃守と共に、武田、北条と戦う覚悟でいれば、自分も命を懸けよう、しかし、彼らの覚悟が中途半端なら、武田の軍門に下ろうと決心をした旅だった。

 大戸氏、羽尾氏と会って、彼らの覚悟を知った尾張守は決心を新たにして草津を訪れた。その時の尾張守は迷い一つないさっぱりとした顔付きだった。

「草津の湯に浸かって鋭気を養い、北条の奴らを片っ端から、なぎ倒してくれるわ」と尾張守は張り切っていた。

 善太夫の湯宿の奥座敷に泊まり、日夜、遊女を呼んで豪遊していた尾張守は、一瞬にして転落した。留守にしていた国峰城が同族の小幡図書助(ずしょのすけ)に奪われてしまったのだった。

 小幡図書助もまた、信濃守の娘婿だった。図書助の後ろに信濃守がいる事を悟った尾張守は武田の軍門に下る決心を固めた。

 尾張守から相談を受けた善太夫は、尾張守を鎌原宮内少輔(かんばらくないしょうゆう)のもとに送った。尾張守は国峰城を奪い返すため、甲斐の国まで行って武田信玄を頼った。

 八月の末、側室の小茶が子供を産んだ。今度こそ、男の子だろうと楽しみにしていたのに、またしても女の子だった。善太夫の次女は秋に生まれたので、アキと名付けられた。

 アキの誕生を祝っていた時、上野(こうづけ)の国中が震える程の大事件が起こった。

 越後の長尾景虎(かげとら)が大軍を率いて上野に進攻して来たのだった。その中には当然のように、管領(かんれい)の上杉憲政の姿があった。

 越後の大軍は怒涛(どとう)の勢いで、北条氏の前線だった沼田の倉内城を攻め落とし、九月の末には廐橋(うまやばし)城(前橋市)も落として、そこに本陣を敷いた。以前、管領の配下だった武将たちが続々と廐橋に集まって来た。

 白井(しろい)城(子持村)の長尾左衛門尉、蒼海(おうみ)城(元総社町)の長尾能登守、勧農(かんのう)城(足利市)の長尾但馬守、箕輪城の長野信濃守を初めとして、吾妻の武士たちも皆、景虎の前に伺候(しこう)した。善太夫も勿論、景虎の軍門に下った。昨日まで北条方だった者までも平然とした顔で集まって来ていた。ただ、その中に、上泉伊勢守の顔がなかった。

 白井の長尾氏の被官となっていた伊勢守の弟が伊勢守を名乗って、上泉城主として廐橋にやって来ていた。誰もが不思議がり、伊勢守の弟から理由を聞いたが、伊勢守が病に倒れて、急遽(きゅうきょ)、隠居する事となったと聞かされただけだった。

 善太夫は心配になって上泉城に向かった。
10.羽尾と鎌原




 善太夫の義父、長野原城主海野長門守(うんのながとのかみ)が、小雨村の屋形(やかた)を訪ねて来たのは冬住みに移ってすぐの時だった。具合が悪くなって寝込んでいる妻の見舞いだと言ったが、用件がそれだけではない事は善太夫には分かっていた。

 吾妻郡が武田の支配下に入って以来、鎌原宮内少輔(かんばらくないしょうゆう)の態度が大きくなって、皆の反感を買っていた。何かというと武田信玄の威を笠に着て、旗頭になった気でいる。岩櫃城の斎藤一岩斎が羽尾(はねお)氏と組んで、宮内少輔を攻めようとしているとの情報を善太夫は円覚坊から聞いていた。

 去年も、一岩斎と羽尾氏は宮内少輔を攻めたが、善太夫らに知らせなかったため、善太夫らは宮内少輔の味方をし、襲撃は失敗に終わった。今回は失敗しないように、長門守を善太夫のもとに送って来たのだった。

 奥の部屋に寝ている妻を見舞った後、善太夫は長門守を庭園内に建つ茶室に案内した。

「大した事なさそうじゃの」と長門守は池の中を覗き込むようにして言った。

「はい。冬住みの準備で忙しかったので疲れたのでしょう」

「鈴の奴、亡くなった母親にそっくりになって来たのう‥‥‥子供ができんのが残念じゃ」

 善太夫は長門守のためにお茶を点(た)てた。

 お茶を飲みながら、長門守は子供の頃の鈴とその母親の事を懐かしそうに話してくれた。

 なかなか本題に入ろうとしなかったので、「宮内少輔殿の事ですね」と善太夫の方から頃合いを見て切り出した。

 長門守は驚いたような振りを見せたが、顔を少ししかめながら、うなづいた。

「困っておる。兄上(羽尾道雲)と宮内少輔は仲が悪すぎる。同族でありながら困ったもんじゃ。武田、上杉、北条と虎視眈々(こしたんたん)とこの上野の国を狙っておるというのに、同族同士で争っていてどうするんじゃ。弱ったものよ」

「争いは避けられないのですか」と善太夫は聞いた。

「難しいのう」と長門守は首を振った。「一岩斎殿は武田軍に降伏したとはいえ、本気ではない。越後の管領殿と年中、連絡を取っている。この冬にも管領殿は廐橋(うまやばし)に来るそうじゃ。一岩斎殿は管領殿が来る前に、前回の汚名をそそぎたいんじゃ。箕輪の長野信濃守殿のいない今、上野の国を代表する武将は自分をおいて他にないと一岩斎殿は思っている。武田の先鋒(せんぽう)となっている宮内少輔をこのまま放ってはおけんじゃろう」

 長門守は宮内少輔の味方はしないでくれと言って帰って行った。
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