2025 .01.22
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13.氷雨
長野原で戦死した一徳斎の弟、常田伊予守(ときたいよのかみ)の遺体は鎌原の延命院にて荼毘(だび)に付された。
父と共に長野原城を守っていた長男の永助が喪主(もしゅ)となり、仮の葬儀が行なわれた。
伊予守の初七日が過ぎるまで、一徳斎は延命院に籠もったまま、誰とも会おうとしなかった。
善太夫は裏工作が済むと一旦、草津に帰って、戦死した孫左衛門らの葬儀をして、冬住みを済ませてから、一徳斎が動くのを待っていた。
十月の九日、一徳斎はようやく動き出した。
充分に休養した三千近くの兵を率いて、吾妻(あがつま)川に沿って東へと向かった。
途中、羽尾道雲の籠もる羽尾城の前を通ったが、完全に無視したまま進んで行った。道雲は百人余りの兵と共に立て籠もっていた。急いで攻めなくても、自滅するのは目に見えていた。
善太夫は長野原城にて一徳斎の軍と合流した。
長野原城には海野長門守の兵が五十人程守っていたが、長門守はすでに寝返りが決まっていて、抵抗する事なく、城は明け渡された。
驚くべき事に、長野原城内にはたっぷりの兵糧米(ひょうろうまい)が蓄えられてあった。前回の戦の時、ここの兵糧米はほとんど使い果たしたはずだった。これだけの兵糧米があるという事は、長門守によって運ばれたに違いなかった。
「味な事をするわい」と一徳斎は笑った。
長門守が有利な条件で寝返るために、一徳斎に媚(こび)を売ったに違いないが、この兵糧米は嬉しい土産には違いなかった。
一徳斎はさっそく、兵糧米を皆に分け与えた。
長野原で一夜を明かした真田軍は二手に分かれて進軍した。前回、雁(がん)ケ沢でてこずったため、雁ケ沢に進むのはやめて、一軍は暮坂峠に、もう一軍は須賀尾峠に向かう事になった。
一徳斎は三人の息子、源太左衛門、兵部丞(ひょうぶのじょう)、武藤喜兵衛に二千の兵を任せて暮坂峠に向かわせ、自らは六百の兵を率いて須賀尾峠に向かった。なお、長野原城には祢津松鷂軒(ねづしょうようけん)に二百の兵を指揮させ、羽尾道雲の動きを押えた。
善太夫と鎌原宮内少輔は一徳斎と共に須賀尾峠に向かった。その日は大柏木まで進み、三光院に陣を敷いた。
陣を敷くと間もなく、大戸真楽斎が伜の丹後守と共に陣中見舞いにやって来た。
一徳斎は真楽斎を歓迎し、箕輪の長野氏に対する押えとして、権田(ごんだ)の辺りまで出陣してくれと頼んだ。真楽斎は任せてくれと胸をたたいて引き受けた。
次の日、山中を三島に抜けて、岩櫃城を見渡せる類長(るいちょう)ケ峰の山頂近くに本陣を置いた。
すでに、斎藤勢が吾妻川の向こう側、鳥頭(とっとう)の宮(矢倉)から切沢(きりさわ)の善導寺にかけて陣を敷いているのが見渡せた。
善太夫と宮内少輔は類長ケ峰の北側の中腹辺りにある浦野下野守(しもつけのかみ)の三島城を包囲して、攻撃した。攻撃したというよりは、攻撃する真似をしたと言った方が正しい。下野守はすでに寝返る事に決まっていたが、川向こうから斎藤勢に見られているため、抵抗したが無駄で、仕方なく降伏したという芝居を演じたわけだった。下野守は人質を一徳斎のもとに送って、類長ケ峰の陣に加わった。
一徳斎の本陣を中心にして前方に鎌原宮内少輔、右前方に善太夫、左前方に浦野下野守、後方に矢沢薩摩守と小草野若狭守が陣を敷き、敵の動きを見守った。
今頃、暮坂峠を越えて行った源太左衛門率いる二千の兵が折田の仙蔵(せんじょう)城を落として、そこに陣を敷いているはずだった。
予定では明日、源太左衛門は一千の兵を率いて山田の稲荷(いなり)城に入り、兵部丞と武藤喜兵衛は五百の兵を率いて四阿山(あづまやさん)山頂の高野平(こうやひら)城に入り、三枝土佐守らは岳山(たけやま)城に対する押えとして五百の兵と共に仙蔵城に残るはずだった。
仙蔵城は佐藤将監(しょうげん)が守っているが、寝返りが決まっているし、高野平城は一岩斎の一族、斎藤但馬守が守っているが、前回と同じく逃げ出してしまうだろう。
稲荷城は蜂須賀伊賀守の城で伊賀守自身は岩櫃城内にいるが、内応する手筈(てはず)となっているので難無く手に入るはずだった。すべて、予定通りに行けば、明日中に、高野平城より合図の狼煙(のろし)が上がるはずだった。
善太夫は岩櫃城を眺めながら、すでに、円覚坊が配下の山伏と共に城内に潜入して、敵の山伏と戦っているに違いないと思った。円覚坊がやられる事はないとは思うが、敵もかなりの山伏を使っていると聞く。敵の山伏を倒して、うまくやってくれる事を善太夫は祈った。
吾妻郡は古くから修験道(しゅげんどう)が盛んな土地だった。修験の山といわれる山も多い。斎藤氏の城のある岩櫃山も岳山も修験の山であるし、薬師(やくし)岳、吾嬬(かづま)山、高間(たかま)山、王城(みこしろ)山と続き、信州との国境には白根山、四阿(あづまや)山、浅間山と皆、修験の山である。それらの山々には大勢の山伏がいて修行に励んでいた。彼らは当然、領主である武士と関係を持ち、時には戦にも参加したし、諜報(ちょうほう)活動も行なっていた。善太夫が白根山の山伏を使うように、斎藤氏は岩櫃山と岳山、鎌原氏は浅間山、そして、真田氏は四阿山の山伏を使っていた。
彼ら山伏は、武士同士の合戦が行なわれる以前に活躍しなければならなかった。彼らの持って来る情報によって、今後の作戦を練り、絶対に勝てると確信できるまでは、総攻撃をかけてはならなかった。また、味方の行動を敵に知られないように、敵の山伏を捜し出して殺すのも彼らの役目だった。
今回、一徳斎は、山伏たちが味方同士で殺し合うのを避けるため、味方の山伏、すべてを集めて、彼らの指揮を円覚坊に任せた。円覚坊はその中から腕のいい山伏を百人選んで、敵情を探らせていた。決して表面には現れないが、敵味方の山伏たちが今も戦っているに違いなかった。円覚坊が今、どこで何をやっているのか、善太夫にも分からなかった。
次の日、真田軍と斎藤軍はお互いに動く事なく、吾妻川を隔てて睨(にら)み合っていた。敵の攻撃に備えて、堀を掘り、土塁(どるい)を築き、陣地を固めたが、敵が攻めて来る事はなかった。何度か、吾妻川を越えて、鉄砲を撃って挑発する事もあったが、こちらが動こうとしないので、敵も諦めて守りを固めるだけに終わった。
善太夫は奇岩のそそり立つ岩櫃山の後方をずっと見つめていた。高野平城からの狼煙はいつになっても昇らなかった。予定では、昼過ぎには昇るはずだったが、八つ時(午後二時)になっても、七つ時(午後四時)になっても、その気配はなかった。そして、日暮れ頃から雨が降って来てしまい、ついに、狼煙を見つける事はできなかった。
日暮れと共に岩櫃城内から火の手が上がり、それを合図に、三方から総攻撃が始まる手筈だったが、延期となった。円覚坊らが敵味方の陣地を行き来して、うまく連絡を取っているようだった。
雨は夜になって雪まじりとなり、兵たちを冷たく濡らした。
善太夫が天幕の下から敵陣の篝火(かがりび)を眺めていると本陣から使いが呼びに来た。
本陣に行くと円覚坊がいた。
一徳斎を中心に河原丹波守、丸山土佐守、矢沢薩摩守、小草野若狭守、浦野下野守が並んでいた。善太夫が腰を下ろすと、鎌原宮内少輔がやって来た。
「雪になりそうですな」と宮内少輔は言いながら、善太夫の隣に座った。
「まったくじゃな。明日も雨降りじゃ狼煙が見えん」と一徳斎は言ったが、顔は穏やかだった。「さて、その狼煙の事じゃが、もう、用はなくなった」
「という事は‥‥‥」と若狭守が言った。
一徳斎はうなづいた。「円覚坊より説明してもらおう」
「源太左衛門殿の軍勢は昨日までは予定通りじゃった」と円覚坊は皆の顔を見回した。
長野原を出発した二千の軍は赤岩から暮坂峠を越え、その日は有笠(ありかさ)山に陣を敷いた。
二日目、沢渡(さわたり)を抜けて折田の仙蔵城に向かった。仙蔵城は前回よりも守りを固め、佐藤将監、富沢加賀守、唐沢杢之助(もくのすけ)の三人を大将として二百程の兵が守っていたが、三人とも約束通り簡単に降伏して来た。
三日目、三枝土佐守が五百の兵と共に仙蔵城に残り、源太左衛門は一千の兵を率いて山田の稲荷城に向かった。稲荷城は蜂須賀伊賀守の弟、新右衛門が守っていたが、これも約束通りに降伏して城を明け渡した。ここまでは予定通りだった。
問題は兵部丞と武藤喜兵衛の向かった高野平城だった。前回、あっさりと逃げ出した斎藤但馬守が、今回はしぶとかった。二人は五百の兵と寝返った佐藤、富沢、唐沢の兵二百を連れて攻め登ったが、但馬守はひるまずに攻撃して来た。一岩斎もここを敵に取られたら危ないと兵力を増やして、防御を固めたらしかった。
高野平城は岩櫃城のすぐ北、四阿山頂にあり、東西に細長い城である。東側が追手(おうて)、西側が搦手(からめて)で本丸が一番高い位置にあって、その東に二の丸、三の丸と並んでいる。各曲輪(くるわ)は空堀と土塁に囲まれ、土塁の上にさらに木の塀をめぐらして、そこから、矢と鉄砲を撃って来た。上から攻撃されるため、味方の兵はなかなか進む事ができなかった。それでも、唐沢杢之助が搦手からの突撃に成功すると、一気に攻め落とす事ができた。もう少し遅かったら、岩櫃城からの援軍にやられてしまったかもしれなかった。
高野平城の占拠に成功して、狼煙を上げようとしたら雨が降って来てしまった。
「という訳じゃ。予定は狂ったが、まずまずじゃ」と一徳斎は坊主頭を撫でた。「すでに、岩櫃城内の内応者にも知らせてある。明日も雨降りなら延期するが、やんだら、予定通りに決行する。少し寒いかもしれんが、交替しながら休んでくれ」
善太夫は宮内少輔と共に本陣を出た。
みぞれのような雨はやみそうもなかった。
「うまく行ったようじゃな」と宮内少輔は満足そうに言った。
善太夫はうなづいた。
宮内少輔は敵陣の篝火を眺めながら、「岩櫃はもう、落ちたも同然じゃ」と言って笑うと、自分の陣地の方に帰って行った。
善太夫も確かにそう思った。しかし、あの岩櫃城が落城するとは不思議な気がした。
城主の一岩斎は好きではないが、何度も共に戦って来た仲だった。それが、今、敵味方に分かれて戦っている。明日は城内まで攻め込む事となるだろう。
岩櫃城が落ちれば吾妻郡は武田信玄の支配下となる。これで、吾妻郡内での戦はなくなるだろうが、今度は、武田軍の先鋒として越後の上杉氏と戦わなくてはならなくなる。
まだまだ、戦は続き、平和な時は来そうもないと善太夫は感じていた。
雪にはならなかったが、雨は翌日の昼過ぎまで降っていた。
雨がやむと一徳斎は、善太夫と鎌原宮内少輔と浦野下野守の陣を前方に進めた。吾妻川のすぐ近くまで陣を進めたが、敵は動かなかった。
一岩斎はすでに、岩櫃城の北にある高野平城と北東にある稲荷城が真田軍に奪われた事を知っているはずだった。むやみに攻撃を仕掛けるより、来月には来るであろう越後の上杉軍を待って、籠城作戦に入ったかも知れなかった。
円覚坊の知らせによると、岩櫃城には充分過ぎる程の兵糧が蓄えられているという。上杉輝虎が来るまでの一月や二月は楽に籠城する事ができた。
その日も何事もなく終わるかに見えた夕方、突然、岩櫃城内から物凄い爆音が響いた。円覚坊らが敵の火薬庫に火を点けたに違いない。最高の合図であると共に、敵の火薬を消滅させる事にもなった。
爆音を合図に真田軍は岩櫃城めがけて突撃を開始した。
善太夫は家臣たちを指揮しながら、吾妻川の岸まで進んだ。川向こうの敵が爆音に驚いて、ひるんでいるのが見える。
善太夫は作戦通りに、黒岩忠右衛門率いる鉄砲隊に対岸を攻撃させた。鉄砲が玉込めしている間は石つぶてと弓矢で攻めた。
敵も鉄砲と石と矢で応戦して来るため、なかなか、川を渡る事はできなかった。
鎌原宮内少輔も浦野下野守も鉄砲の玉よけの竹束(たけたば)と楯(たて)を並べて、鉄砲と石と矢を撃ち続けている。
敵味方の兵力はほぼ互角、このままでは決着は着きそうもなかった。しかし、岩下城から富沢新十郎と横谷左近が打って出たため情勢は変わった。
新十郎は雁ケ沢方面から攻めて来る真田軍に対して、岩下城を守っていたが、一岩斎に恨みを持っていて、早いうちから寝返りが決まっていた。新十郎は真田軍である横谷左近を岩下城内に入れて、出撃の合図を待っていた。
新十郎の妻は左近の妹で、二人は義兄弟という間柄だった。岩櫃城内から爆音が響き渡ると、待ってましたとばかりに、二人は斎藤軍に向かって行ったのだった。
新十郎と左近の兵は善太夫らと戦っていた敵の側面を付く事となり、敵兵は混乱した。さらに、切沢の善導寺に陣を敷いていた蜂須賀伊賀守までも寝返って斎藤軍を攻めたので、斎藤軍は三方から攻められ、大混乱に陥り、我先にと岩櫃城内へ逃げ去った。
敵が混乱している隙に、一徳斎率いる真田軍は吾妻川を押し渡って敵陣になだれ込んだ。
善太夫は敵兵を馬上から薙(な)ぎ倒しながら、岩櫃城の搦手(からめて)、切沢口を登って行った。
すでに、岩櫃城ではあちこちから火の手が上がり、追手(おうて)口から攻め登った真田源太左衛門の兵と高野平城から攻め降りた真田兵部丞、武藤喜兵衛の兵が中城(なかじろ)を越えて、三の丸から二の丸に迫ろうとしていた。
敵兵の死体があちこちに転がり、女や子供が悲鳴をあげて逃げ惑っている。
善太夫は海野長門守の屋敷の前を通って、中城へと向かった。
中城には六連銭の旗がたなびき、味方の兵で溢れていた。やがて、二の丸にも六連銭の旗が上がった。二の丸は海野長門守と能登守の兄弟が守っていたので、入るのは簡単だったに違いなかった。
辺りはすでに暗くなっていた。
法螺(ほら)貝の音が鳴り響くと急に静まり返った。
善太夫のもとに一徳斎からの伝令が来た。
攻撃を中止して、所定の位置にて守りを固めろとの事だった。
善太夫は家臣たちを集めると、あらかじめ決められた通り、二の丸の南下にある腰曲輪(こしくるわ)に移動した。善太夫と共にそこを守るのは小草野若狭守だった。
若狭守は一徳斎の重臣の一人だった。いかにも戦慣れした武将という感じで、無駄口など一言もきかない男だった。善太夫も前回、今回と共に一緒だったが、口をきいた事もなかった。しかし、一応、同じ曲輪を守る者として、善太夫は挨拶に出掛けた。
若狭守は篝火の下で小具足(こぐそく)姿で酒を飲んでいた。善太夫の姿を見つけると驚いたが、ニヤッと笑うと手で招いた。
「祝い酒じゃ」と若狭守は手に持ったお椀を持ち上げた。
「少し、早いようですが‥‥‥」と善太夫は言った。
「なに、構わん。お屋形様(一徳斎)には内緒じゃ。おぬしも飲め」
若狭守は善太夫にお椀を渡した。
「しかし、陣中で酒など飲んでは‥‥‥」
「わしにとっては、これは飯と同じじゃ」
善太夫は断る訳にもいかず、若狭守から酒を貰った。
それは濁(にご)り酒ではなく透明な上等の酒だった。
「飲め、うまいぞ。戦の後の酒は格別じゃ」
善太夫は一口飲んだ。
「うまい!」と思わず口から出た程、その酒はうまかった。
「うまいじゃろう。これ程の酒はなかなか飲めん」
「確かに‥‥‥こんなうまい酒を毎日、飲んでるのですか」と善太夫は聞いた。
「まさか」と若狭守は笑った。「こんなのめったに手に入らんわ。これは上方(かみがた)の酒じゃろう。一岩斎もいい物を飲んでおるわ」
「一岩斎? すると、これは‥‥‥」
「二の丸から持って来たそうじゃ」と若狭守は二の丸の方を見上げた。「わしの家来にのう、鼻の利く奴がおってのう。どこに行っても必ず、酒を見つけて来るんじゃ。自分では飲めん癖にな、うまい酒を見付けて来る。おかしな奴じゃ」
善太夫は以前、小野屋から貰った伊豆の江川酒という銘酒を飲んだ事があったが、この酒も、江川酒と同じ位にうまかった。
「明日はきっと、この酒が配られるじゃろうな。わしらで毒味をしてやったというわけじゃ」
若狭守は豪快に笑った。
酒が入ると若狭守は機嫌がいいのか、よくしゃべった。善太夫は信州での合戦の事や武田信玄の事など、若狭守から聞いていた。酒を飲みながら、半時(一時間)近くも若狭守と話し込んでいた。
自分の陣に戻ると、小荷駄奉行(こにだぶぎょう)の中沢杢右衛門(もくえもん)が待っていた。
杢右衛門は青ざめた顔をしてうつむいていた。
「どうした」と善太夫は聞いた。「兵糧が足らんのか」
「いえ。兵糧は充分にございます。敵から奪った兵糧が届きましたので、充分過ぎる程ございます。それと武器も配られましたので、三郎右衛門殿に預けました」
「そうか。鉄砲の玉と玉薬(火薬)もあったか」
「はい。玉も玉薬も矢も充分ございます」
善太夫はうなづいてから、「次郎右衛門の具合が悪いのか」と聞いた。
「はい。危ないかもしれません。何とか血は止まりましたが‥‥‥」
「そうか‥‥‥」
善太夫の義兄、次郎右衛門は切沢の搦手口を真っ先に突撃して行ったが、敵兵に馬を射られ、落馬した所をさらに射られ、それでも、太刀を振り上げて敵に向かって行って一人を斬り倒した。さらに二人目の敵に向かって行こうとした所、力尽きて倒れてしまったという。楯に乗せられて後方に運ばれたが、体に五本の矢が刺さり、首の付け根に刺さった矢は致命的だった。
次郎右衛門は母違いの姉の婿で、善太夫よりも七歳年上だった。父が戦死した後、湯本家を継ぐのは自分に違いないと信じていたのに、善太夫に領主の地位を奪われた。初めの頃、善太夫に反抗していた面もあったが、何度も戦を共にするうちに善太夫の事を認めるようになり、善太夫の補佐役として、なくてはならない存在となっていた。
合戦の時、善太夫が先頭に立って突撃しようとすると、「お屋形がそんな軽はずみな事をすべきではない」と次郎右衛門は家臣たちを励まして、自ら先頭に立って敵陣に飛び込んで行った。今回も敵の攻撃に臆している家臣たちを力づけ、善太夫に代わって真っ先に吾妻川を渡って行ったのだった。
「他に負傷した者はどの位いるんじゃ」
「槍奉行の小林長右衛門殿も危ないかもしれません。他、重傷の者は三名おりますが、命には別条ないでしょう。それよりも、斎藤弥三郎殿によって天狗の丸から善導寺に人質が移されましたが、その中に、姫様がおりません。他の者たちは全員おりますのに、姫様だけがおりません」
「その事か、心配いらん。姫は無事じゃ。道雲殿が預かっている。ヤエは道雲殿の孫じゃからな」
「という事は羽尾に?」
善太夫はうなづいた。
「大丈夫でしょうか」
「この城が落ちれば、道雲殿も降参するじゃろう。姫は戻って来る」
「そうでしたか‥‥‥」
「心配させてすまなかったのう」
「いえ」
「今回の戦はもうすぐ、終わるじゃろう。しかし、来月には、越後の管領殿が攻めて来る事となろう。今回以上の大戦(おおいくさ)になるかもしれん。兵糧は大事に使ってくれ」
「かしこまりました」
杢右衛門が帰ると善太夫は陣内を見て回った。
皆、疲れているようだったが、勝ち戦なので張り切っているようだった。
本丸の方を見上げると異様に静まり返っている。二千人余りいた兵は五百人余りに裏切られ、援軍の白井勢、沼田勢には逃げられ、五百人足らずに減っているはずだった。
敵を本丸まで追い込んだとしても、本丸を落とすのは難しい。無理に押し破ろうとすれば、味方にかなりの犠牲者が出るだろう。
善太夫は本丸から二の丸、三の丸、中城と目を移し、東の空に浮かんでいる円い月の所で目を止めた。
善太夫はその月に、次郎右衛門が死なないようにと祈った。
いずれ、落城するにしろ、上杉輝虎が来るまでは籠城して抵抗を続けるだろう、と誰もが思っていた。ところが、斎藤一岩斎は本丸を囲まれた、その夜の内に、長男の越前守と数名の家臣を引き連れて逃げ出してしまった。岩櫃山中を通り薬師岳を越えて、北へ逃げて行ったと思われた。
夜が明け、一岩斎のいなくなった本丸は何の抵抗もなく門が開かれ、守っていた兵たちは投降した。
本丸の櫓(やぐら)の上に真田の六連銭の旗が掲げられ、盛大な勝鬨(かちどき)があげられた。
本丸が落ち、岩櫃城の支城である岩鼓(いわつづみ)城も落ちた。しかし、一岩斎の三男、城虎丸(じょうこまる)と池田佐渡守の守る岳山城が残っていた。岳山城は三枝土佐守と芦田下野守の兵五百が包囲していたが、守りを固めて出て来ようとはしなかった。
一徳斎は兵たちの乱暴狼藉(ろうぜき)を禁止して、城内を片付けさせた。
敵兵の死骸は具足(ぐそく)や武器、着物までも剥がされ、穴の中に埋められて供養(くよう)された。味方の死骸もあったが、敵の死骸に比べたら、ほんのわずかだった。
味方の死骸は名を記帳されて丁寧に葬(ほうむ)られたが、敵兵の場合は名のある武将以外はまとめて穴の中に埋められ哀れなものだった。さらに哀れなのは、戦に巻き込まれて殺された城下の住民たちだった。必ずと言っていい程、戦の後には、犯された上に殺された若い娘の死骸が草むらの中に転がっていた。白い肌をさらしたまま死んでいる娘の姿は、勝ち戦といえども戦の悲惨さを物語っていた。
城内を片付け終わって、岩鼓の城下にある金剛院の山伏たちに清めの祈祷(きとう)をしてもらった後、切沢の善導寺にて論功行賞(ろんこうこうしょう)のため、首実験が行なわれた。一番の手柄は一岩斎の次男、斎藤弾正左衛門(だんじょうざえもん)の首を取った矢沢薩摩守だった。残念ながら、善太夫は名のある武将の首を取る事はできなかったが、戦の前の敵将の調略(ちょうりゃく)は評価されるべきものだった。
一徳斎は今回の戦の一部始終を細かく記録すると、金剛院内の徳蔵院という山伏を使者として、検使役の武藤喜兵衛と共に、甲斐の武田信玄のもとに送った。
岳山城を包囲していた兵も引き上げさせ、援軍として信州から来ていた芦田下野守、室賀兵部大輔にも帰って貰った。
信玄より正式に岩櫃城主が決まるまで、一徳斎と斎藤弥三郎が本丸に入り、三枝土佐守が二の丸に入り、鎌原宮内少輔が三の丸を守り、善太夫は海野長門守、能登守兄弟と共に中城を守る事になった。さらに、天狗の丸は真田兵部丞、西窪治部左衛門が守り、岩鼓の城は真田源太左衛門、常田永助、丸子藤八郎が守った。そして、今回寝返った者たちの人質は岩下城に集められて、富沢新十郎が預かる事になった。ただ、新十郎の人質は三枝土佐守が預かっていた。
重傷を負った次郎右衛門は治療の甲斐もなく亡くなってしまった。遺体は息子の小次郎に伴われて沼尾村に帰って行った。
次郎右衛門の父親は十二年前の平井の合戦にて戦死していた。次郎右衛門が十八歳の時だった。そして、今度は次郎右衛門が戦死して、後を継ぐ小次郎は十九歳だった。巡り合わせというか嫌な巡り合わせだった。戦国の世とは言え、一族の者が亡くなるのは辛い事だった。善太夫には、父親に負けない武将になれと小次郎を励ます事しかできなかった。
善太夫は海野兄弟と共に一月近く、中城を守っていた。
長門守は善太夫の舅だった。長門守は中城を守っている間、これからどうなるのかと心配そうに善太夫に聞いていた。
寝返るのが遅かったし、兄の道雲が一徳斎の弟を殺してしまったため、本領が安堵(あんど)されるかどうか不安だと言う。毎日、弱気になって心配顔の長門守を見ているのは善太夫には辛かった。長門守はもうすぐ六十歳になるが、急に年を取ってしまったように感じられた。
「そろそろ、隠居をする時期かもしれんのう」と何度も言っていた。
長門守には三人の息子がいたが、二人を平井の合戦で亡くし、もう一人は八歳で病死してしまっていた。娘が三人いて、大戸丹後守、鎌原筑前守、そして、善太夫の妻になっている。隠居したくても、長門守の跡を継ぐ者はいなかった。
善太夫は何と答えていいか分からなかった。
能登守の方は、これからどうなろうとなるようにしかならんと開き直っていた。
善太夫は今まで、能登守とは面と向かって話した事がなかった。新当流(しんとうりゅう)の使い手という噂を耳にして、一度、武芸の話でもしたいと思っていたが、その機会はなかった。今回、一緒にいて、色々と話を聞く事ができた。
「おぬし、愛洲移香斎殿(あいすいこうさい)を知っているか」というのが、能登守が最初に口にした言葉だった。
「わしはのう、移香斎殿と一度、会ってみたかった。移香斎殿の噂を聞いては、会いたいとあちこち出掛けて行ったが会う事はできなかった。それが八年程前、久し振りに羽尾に帰って来ると、移香斎殿はずっと草津にいたと聞いたんじゃ。わしが羽尾を飛び出す前から草津にいたという。すぐ、目の前にいたのに、わしはあっちこっち捜し回っていたわけじゃ‥‥‥わしは羽尾に帰って来るとすぐに草津に行った。移香斎殿が住んでおられた飄雲庵(ひょううんあん)という草庵に円覚坊という行者(ぎょうじゃ)が住んでいた。わしは円覚坊から移香斎殿が剣を捨てて、名を隠し、かったい(癩病患者)の治療に専念していたと聞いて、打ちのめされたように驚いたわ‥‥‥わしはずっと、移香斎殿の噂を聞いて来た。どの噂も移香斎殿の事を武芸の神様のように言う。香取と鹿島にも武芸の神様はいる。飯篠長威斎(いいざさちょういさい)殿じゃ。神道流(しんとうりゅう)を編み出したお方じゃ。長威斎殿は近寄りがたい神々(こうごう)しい神様じゃ。それに比べて、移香斎殿は何というか親しみやすい神様のような感じを受けた。陰流(かげりゅう)という武術が武士よりも山伏や山の民(たみ)、川の民、本願寺の坊主などの間に広まっているのも不思議じゃった。わしは噂を聞くたびに、ぜひ、一度、会いたいと思った。普通、強い者の噂を聞くと、立ち合いたいと考えるんじゃが、移香斎殿の場合は勝てるとは思えなかった。ただ、一度、会ってみたいと思っていたんじゃ」
能登守は若い頃より故郷を出て、武芸の修行に明け暮れていた。常陸(茨城県)の鹿島にて塚原卜伝(ぼくでん)の弟子となって、新当流の武芸を身に付け、師の卜伝のような日本一の武芸者になるため諸国遍歴(へんれき)の旅を続けていた。
故郷に帰って来たのは、平井城が落城してから三年後で、八年程前の事だった。一流の武芸者である能登守は、兄の推薦もあって斎藤一岩斎に仕える事となった。
管領上杉氏が北条氏に敗れて、故郷が危ない。自分が何とかしなければならないと思って帰って来たのだったが、八年間、ここにいて、自分の無力さを嫌という程感じるようになっていた。いくら武芸の達人と呼ばれても、上杉や武田の大軍の前では、どうする事もできなかった。
能登守は自分の武芸をもう一度見直さなくてはならないと思った。羽尾と鎌原程の規模の戦なら、能登守の武芸も役に立つ。しかし、何千、何万の兵がぶつかる戦では役に立たない。一人や二人の武芸者がいた所で戦況に関わる事はなかった。しかし、本物の武芸はそんなちっぽけなものではないはずだった。自分の武芸を生かす道が必ず、あるはずだと信じていた。
「わしはのう、陰流の極意が『和』であると円覚坊から聞いた時、正直いってよく分からなかったんじゃ。武芸というのは人を殺すための技術じゃ。人は皆、戦で活躍するために武芸を身に付ける。殺しの技術が、どうして、『和』になるのか、わしには分からなかった‥‥‥移香斎殿の愛(まな)弟子、上泉伊勢守殿にも何度か会った。立ち合いはしなかった。伊勢守殿は移香斎殿の話をしてくれた‥‥‥わしは移香斎殿の生き様を知った。移香斎殿は生まれは武士じゃが、武士という身分を捨てて、一人の人間として生きて来られたお方じゃった。乞食にまで身を落として、さすらっていた事もあったという。そして、人間は皆、平等であるという立場から、普段、蔑(さげす)まれている人々に陰流を教え、また、身に付けた医術を以て人々を救って来たという‥‥‥そういう移香斎殿だったからこそ、武芸の神様として慕われているし、晩年、かったいたちの中に入って治療してやる事ができたんだと分かったんじゃ。その移香斎殿が言う『和』という言葉は、そこらの生臭(なまぐさ)坊主が言う『和』と違って、ずっと価値のあるお言葉じゃ。その『和』の意味が、ようやく、わしにも分かりかけて来たような気がするわ」
能登守はもう一度、自分の生きる道を捜してみると言った。
能登守は二十年程前、武田信玄に仕えた事があった。まだ、信玄が晴信と名乗っていた若い頃だった。能登守は晴信に武芸の指導をしながら、山本勘助の旗下に入って戦でも活躍した。甲府にて妻を貰って子供もできた。そのまま、晴信に仕えていれば今頃、真田一徳斎に代わって、自分が中心になって吾妻郡に攻め込んだに違いないと思うと少しは悔やまれるが、能登守は武将になるよりも、武芸者になる道を選んだのだった。
能登守が晴信のもとを去ったのは、山本勘助から愛洲移香斎の事を聞いたからだった。
甲府を去って、能登守の移香斎を捜す旅が始まった。移香斎を捜して北から南へと旅を続けたが、結局、会う事はできなかった。会う事はできなかったが、後悔はしていない。移香斎が求め続けていた武芸の道を自分も歩きたいと思っていた。
移香斎は陰流の極意は『和』だと言った。
移香斎の弟子、上泉伊勢守もまた新陰流の極意は『和』だと言って、城を捨て、武将である事を捨て、ただの浪人となって旅立って行った。
伊勢守の弟子は上野の国中に何人もいた。自分の弟子が、自分の教えた武芸で殺し合いをしている。殺し合いをさせるために武芸を教えたのではない、新陰流は戦のために使う殺人(せつにん)剣ではなく、平和な世の中を作り出すために使う活人(かつにん)剣だと言った。
伊勢守がこれから何をやるつもりなのかは分からない。しかし、『和』のために、新陰流を生かすに違いなかった。
能登守もこれから自分の武芸を生かすべき道を見つけようと思っていた。その事を考えるためにも、しばらく、ここを去って、甲府で暮らすのもいいだろうと思った。ただ、山本勘助が二年前の川中島合戦で戦死してしまい、もう、甲府にいないのは残念な事だった。
十一月の半ば近く、ようやく、徳蔵院が信玄の書状を携(たずさ)えて戻って来た。
真田一徳斎が吾妻郡の守護となり、岩櫃城主になる事が正式に決まった。そして、一徳斎が信濃、あるいは甲府に行って留守の時は城代(じょうだい)として、三枝土佐守、鎌原宮内少輔、そして、湯本善太夫の三人が守る事に決まった。
寝返った者たちは人質を甲府に送って本領を安堵された。
斎藤弥三郎は伯父の一岩斎がいなくなれば、自分が岩櫃城主になれると野心を抱いて寝返ったが、その望みは断たれ、一岩斎の所領のうちの五分の一を手に入れただけだった。
海野長門守、能登守の兄弟は一徳斎に預けられる事となり、領地は没収され、その代わりに信濃にわずかばかりの土地を与えられた。
長門守は先祖からの土地を失って嘆(なげ)いていたが、能登守は、わしらの先祖は信濃の海野郷から来た、今、また信濃に帰るだけじゃと笑っていた。
二人は真田源太左衛門率いる兵と共に、家族と家臣を連れて、雪の降る中、信濃へと旅立って行った。
すでに、斎藤勢が吾妻川の向こう側、鳥頭(とっとう)の宮(矢倉)から切沢(きりさわ)の善導寺にかけて陣を敷いているのが見渡せた。
善太夫と宮内少輔は類長ケ峰の北側の中腹辺りにある浦野下野守(しもつけのかみ)の三島城を包囲して、攻撃した。攻撃したというよりは、攻撃する真似をしたと言った方が正しい。下野守はすでに寝返る事に決まっていたが、川向こうから斎藤勢に見られているため、抵抗したが無駄で、仕方なく降伏したという芝居を演じたわけだった。下野守は人質を一徳斎のもとに送って、類長ケ峰の陣に加わった。
一徳斎の本陣を中心にして前方に鎌原宮内少輔、右前方に善太夫、左前方に浦野下野守、後方に矢沢薩摩守と小草野若狭守が陣を敷き、敵の動きを見守った。
今頃、暮坂峠を越えて行った源太左衛門率いる二千の兵が折田の仙蔵(せんじょう)城を落として、そこに陣を敷いているはずだった。
予定では明日、源太左衛門は一千の兵を率いて山田の稲荷(いなり)城に入り、兵部丞と武藤喜兵衛は五百の兵を率いて四阿山(あづまやさん)山頂の高野平(こうやひら)城に入り、三枝土佐守らは岳山(たけやま)城に対する押えとして五百の兵と共に仙蔵城に残るはずだった。
仙蔵城は佐藤将監(しょうげん)が守っているが、寝返りが決まっているし、高野平城は一岩斎の一族、斎藤但馬守が守っているが、前回と同じく逃げ出してしまうだろう。
稲荷城は蜂須賀伊賀守の城で伊賀守自身は岩櫃城内にいるが、内応する手筈(てはず)となっているので難無く手に入るはずだった。すべて、予定通りに行けば、明日中に、高野平城より合図の狼煙(のろし)が上がるはずだった。
善太夫は岩櫃城を眺めながら、すでに、円覚坊が配下の山伏と共に城内に潜入して、敵の山伏と戦っているに違いないと思った。円覚坊がやられる事はないとは思うが、敵もかなりの山伏を使っていると聞く。敵の山伏を倒して、うまくやってくれる事を善太夫は祈った。
吾妻郡は古くから修験道(しゅげんどう)が盛んな土地だった。修験の山といわれる山も多い。斎藤氏の城のある岩櫃山も岳山も修験の山であるし、薬師(やくし)岳、吾嬬(かづま)山、高間(たかま)山、王城(みこしろ)山と続き、信州との国境には白根山、四阿(あづまや)山、浅間山と皆、修験の山である。それらの山々には大勢の山伏がいて修行に励んでいた。彼らは当然、領主である武士と関係を持ち、時には戦にも参加したし、諜報(ちょうほう)活動も行なっていた。善太夫が白根山の山伏を使うように、斎藤氏は岩櫃山と岳山、鎌原氏は浅間山、そして、真田氏は四阿山の山伏を使っていた。
彼ら山伏は、武士同士の合戦が行なわれる以前に活躍しなければならなかった。彼らの持って来る情報によって、今後の作戦を練り、絶対に勝てると確信できるまでは、総攻撃をかけてはならなかった。また、味方の行動を敵に知られないように、敵の山伏を捜し出して殺すのも彼らの役目だった。
今回、一徳斎は、山伏たちが味方同士で殺し合うのを避けるため、味方の山伏、すべてを集めて、彼らの指揮を円覚坊に任せた。円覚坊はその中から腕のいい山伏を百人選んで、敵情を探らせていた。決して表面には現れないが、敵味方の山伏たちが今も戦っているに違いなかった。円覚坊が今、どこで何をやっているのか、善太夫にも分からなかった。
次の日、真田軍と斎藤軍はお互いに動く事なく、吾妻川を隔てて睨(にら)み合っていた。敵の攻撃に備えて、堀を掘り、土塁(どるい)を築き、陣地を固めたが、敵が攻めて来る事はなかった。何度か、吾妻川を越えて、鉄砲を撃って挑発する事もあったが、こちらが動こうとしないので、敵も諦めて守りを固めるだけに終わった。
善太夫は奇岩のそそり立つ岩櫃山の後方をずっと見つめていた。高野平城からの狼煙はいつになっても昇らなかった。予定では、昼過ぎには昇るはずだったが、八つ時(午後二時)になっても、七つ時(午後四時)になっても、その気配はなかった。そして、日暮れ頃から雨が降って来てしまい、ついに、狼煙を見つける事はできなかった。
日暮れと共に岩櫃城内から火の手が上がり、それを合図に、三方から総攻撃が始まる手筈だったが、延期となった。円覚坊らが敵味方の陣地を行き来して、うまく連絡を取っているようだった。
雨は夜になって雪まじりとなり、兵たちを冷たく濡らした。
善太夫が天幕の下から敵陣の篝火(かがりび)を眺めていると本陣から使いが呼びに来た。
本陣に行くと円覚坊がいた。
一徳斎を中心に河原丹波守、丸山土佐守、矢沢薩摩守、小草野若狭守、浦野下野守が並んでいた。善太夫が腰を下ろすと、鎌原宮内少輔がやって来た。
「雪になりそうですな」と宮内少輔は言いながら、善太夫の隣に座った。
「まったくじゃな。明日も雨降りじゃ狼煙が見えん」と一徳斎は言ったが、顔は穏やかだった。「さて、その狼煙の事じゃが、もう、用はなくなった」
「という事は‥‥‥」と若狭守が言った。
一徳斎はうなづいた。「円覚坊より説明してもらおう」
「源太左衛門殿の軍勢は昨日までは予定通りじゃった」と円覚坊は皆の顔を見回した。
長野原を出発した二千の軍は赤岩から暮坂峠を越え、その日は有笠(ありかさ)山に陣を敷いた。
二日目、沢渡(さわたり)を抜けて折田の仙蔵城に向かった。仙蔵城は前回よりも守りを固め、佐藤将監、富沢加賀守、唐沢杢之助(もくのすけ)の三人を大将として二百程の兵が守っていたが、三人とも約束通り簡単に降伏して来た。
三日目、三枝土佐守が五百の兵と共に仙蔵城に残り、源太左衛門は一千の兵を率いて山田の稲荷城に向かった。稲荷城は蜂須賀伊賀守の弟、新右衛門が守っていたが、これも約束通りに降伏して城を明け渡した。ここまでは予定通りだった。
問題は兵部丞と武藤喜兵衛の向かった高野平城だった。前回、あっさりと逃げ出した斎藤但馬守が、今回はしぶとかった。二人は五百の兵と寝返った佐藤、富沢、唐沢の兵二百を連れて攻め登ったが、但馬守はひるまずに攻撃して来た。一岩斎もここを敵に取られたら危ないと兵力を増やして、防御を固めたらしかった。
高野平城は岩櫃城のすぐ北、四阿山頂にあり、東西に細長い城である。東側が追手(おうて)、西側が搦手(からめて)で本丸が一番高い位置にあって、その東に二の丸、三の丸と並んでいる。各曲輪(くるわ)は空堀と土塁に囲まれ、土塁の上にさらに木の塀をめぐらして、そこから、矢と鉄砲を撃って来た。上から攻撃されるため、味方の兵はなかなか進む事ができなかった。それでも、唐沢杢之助が搦手からの突撃に成功すると、一気に攻め落とす事ができた。もう少し遅かったら、岩櫃城からの援軍にやられてしまったかもしれなかった。
高野平城の占拠に成功して、狼煙を上げようとしたら雨が降って来てしまった。
「という訳じゃ。予定は狂ったが、まずまずじゃ」と一徳斎は坊主頭を撫でた。「すでに、岩櫃城内の内応者にも知らせてある。明日も雨降りなら延期するが、やんだら、予定通りに決行する。少し寒いかもしれんが、交替しながら休んでくれ」
善太夫は宮内少輔と共に本陣を出た。
みぞれのような雨はやみそうもなかった。
「うまく行ったようじゃな」と宮内少輔は満足そうに言った。
善太夫はうなづいた。
宮内少輔は敵陣の篝火を眺めながら、「岩櫃はもう、落ちたも同然じゃ」と言って笑うと、自分の陣地の方に帰って行った。
善太夫も確かにそう思った。しかし、あの岩櫃城が落城するとは不思議な気がした。
城主の一岩斎は好きではないが、何度も共に戦って来た仲だった。それが、今、敵味方に分かれて戦っている。明日は城内まで攻め込む事となるだろう。
岩櫃城が落ちれば吾妻郡は武田信玄の支配下となる。これで、吾妻郡内での戦はなくなるだろうが、今度は、武田軍の先鋒として越後の上杉氏と戦わなくてはならなくなる。
まだまだ、戦は続き、平和な時は来そうもないと善太夫は感じていた。
雪にはならなかったが、雨は翌日の昼過ぎまで降っていた。
雨がやむと一徳斎は、善太夫と鎌原宮内少輔と浦野下野守の陣を前方に進めた。吾妻川のすぐ近くまで陣を進めたが、敵は動かなかった。
一岩斎はすでに、岩櫃城の北にある高野平城と北東にある稲荷城が真田軍に奪われた事を知っているはずだった。むやみに攻撃を仕掛けるより、来月には来るであろう越後の上杉軍を待って、籠城作戦に入ったかも知れなかった。
円覚坊の知らせによると、岩櫃城には充分過ぎる程の兵糧が蓄えられているという。上杉輝虎が来るまでの一月や二月は楽に籠城する事ができた。
その日も何事もなく終わるかに見えた夕方、突然、岩櫃城内から物凄い爆音が響いた。円覚坊らが敵の火薬庫に火を点けたに違いない。最高の合図であると共に、敵の火薬を消滅させる事にもなった。
爆音を合図に真田軍は岩櫃城めがけて突撃を開始した。
善太夫は家臣たちを指揮しながら、吾妻川の岸まで進んだ。川向こうの敵が爆音に驚いて、ひるんでいるのが見える。
善太夫は作戦通りに、黒岩忠右衛門率いる鉄砲隊に対岸を攻撃させた。鉄砲が玉込めしている間は石つぶてと弓矢で攻めた。
敵も鉄砲と石と矢で応戦して来るため、なかなか、川を渡る事はできなかった。
鎌原宮内少輔も浦野下野守も鉄砲の玉よけの竹束(たけたば)と楯(たて)を並べて、鉄砲と石と矢を撃ち続けている。
敵味方の兵力はほぼ互角、このままでは決着は着きそうもなかった。しかし、岩下城から富沢新十郎と横谷左近が打って出たため情勢は変わった。
新十郎は雁ケ沢方面から攻めて来る真田軍に対して、岩下城を守っていたが、一岩斎に恨みを持っていて、早いうちから寝返りが決まっていた。新十郎は真田軍である横谷左近を岩下城内に入れて、出撃の合図を待っていた。
新十郎の妻は左近の妹で、二人は義兄弟という間柄だった。岩櫃城内から爆音が響き渡ると、待ってましたとばかりに、二人は斎藤軍に向かって行ったのだった。
新十郎と左近の兵は善太夫らと戦っていた敵の側面を付く事となり、敵兵は混乱した。さらに、切沢の善導寺に陣を敷いていた蜂須賀伊賀守までも寝返って斎藤軍を攻めたので、斎藤軍は三方から攻められ、大混乱に陥り、我先にと岩櫃城内へ逃げ去った。
敵が混乱している隙に、一徳斎率いる真田軍は吾妻川を押し渡って敵陣になだれ込んだ。
善太夫は敵兵を馬上から薙(な)ぎ倒しながら、岩櫃城の搦手(からめて)、切沢口を登って行った。
すでに、岩櫃城ではあちこちから火の手が上がり、追手(おうて)口から攻め登った真田源太左衛門の兵と高野平城から攻め降りた真田兵部丞、武藤喜兵衛の兵が中城(なかじろ)を越えて、三の丸から二の丸に迫ろうとしていた。
敵兵の死体があちこちに転がり、女や子供が悲鳴をあげて逃げ惑っている。
善太夫は海野長門守の屋敷の前を通って、中城へと向かった。
中城には六連銭の旗がたなびき、味方の兵で溢れていた。やがて、二の丸にも六連銭の旗が上がった。二の丸は海野長門守と能登守の兄弟が守っていたので、入るのは簡単だったに違いなかった。
辺りはすでに暗くなっていた。
法螺(ほら)貝の音が鳴り響くと急に静まり返った。
善太夫のもとに一徳斎からの伝令が来た。
攻撃を中止して、所定の位置にて守りを固めろとの事だった。
善太夫は家臣たちを集めると、あらかじめ決められた通り、二の丸の南下にある腰曲輪(こしくるわ)に移動した。善太夫と共にそこを守るのは小草野若狭守だった。
若狭守は一徳斎の重臣の一人だった。いかにも戦慣れした武将という感じで、無駄口など一言もきかない男だった。善太夫も前回、今回と共に一緒だったが、口をきいた事もなかった。しかし、一応、同じ曲輪を守る者として、善太夫は挨拶に出掛けた。
若狭守は篝火の下で小具足(こぐそく)姿で酒を飲んでいた。善太夫の姿を見つけると驚いたが、ニヤッと笑うと手で招いた。
「祝い酒じゃ」と若狭守は手に持ったお椀を持ち上げた。
「少し、早いようですが‥‥‥」と善太夫は言った。
「なに、構わん。お屋形様(一徳斎)には内緒じゃ。おぬしも飲め」
若狭守は善太夫にお椀を渡した。
「しかし、陣中で酒など飲んでは‥‥‥」
「わしにとっては、これは飯と同じじゃ」
善太夫は断る訳にもいかず、若狭守から酒を貰った。
それは濁(にご)り酒ではなく透明な上等の酒だった。
「飲め、うまいぞ。戦の後の酒は格別じゃ」
善太夫は一口飲んだ。
「うまい!」と思わず口から出た程、その酒はうまかった。
「うまいじゃろう。これ程の酒はなかなか飲めん」
「確かに‥‥‥こんなうまい酒を毎日、飲んでるのですか」と善太夫は聞いた。
「まさか」と若狭守は笑った。「こんなのめったに手に入らんわ。これは上方(かみがた)の酒じゃろう。一岩斎もいい物を飲んでおるわ」
「一岩斎? すると、これは‥‥‥」
「二の丸から持って来たそうじゃ」と若狭守は二の丸の方を見上げた。「わしの家来にのう、鼻の利く奴がおってのう。どこに行っても必ず、酒を見つけて来るんじゃ。自分では飲めん癖にな、うまい酒を見付けて来る。おかしな奴じゃ」
善太夫は以前、小野屋から貰った伊豆の江川酒という銘酒を飲んだ事があったが、この酒も、江川酒と同じ位にうまかった。
「明日はきっと、この酒が配られるじゃろうな。わしらで毒味をしてやったというわけじゃ」
若狭守は豪快に笑った。
酒が入ると若狭守は機嫌がいいのか、よくしゃべった。善太夫は信州での合戦の事や武田信玄の事など、若狭守から聞いていた。酒を飲みながら、半時(一時間)近くも若狭守と話し込んでいた。
自分の陣に戻ると、小荷駄奉行(こにだぶぎょう)の中沢杢右衛門(もくえもん)が待っていた。
杢右衛門は青ざめた顔をしてうつむいていた。
「どうした」と善太夫は聞いた。「兵糧が足らんのか」
「いえ。兵糧は充分にございます。敵から奪った兵糧が届きましたので、充分過ぎる程ございます。それと武器も配られましたので、三郎右衛門殿に預けました」
「そうか。鉄砲の玉と玉薬(火薬)もあったか」
「はい。玉も玉薬も矢も充分ございます」
善太夫はうなづいてから、「次郎右衛門の具合が悪いのか」と聞いた。
「はい。危ないかもしれません。何とか血は止まりましたが‥‥‥」
「そうか‥‥‥」
善太夫の義兄、次郎右衛門は切沢の搦手口を真っ先に突撃して行ったが、敵兵に馬を射られ、落馬した所をさらに射られ、それでも、太刀を振り上げて敵に向かって行って一人を斬り倒した。さらに二人目の敵に向かって行こうとした所、力尽きて倒れてしまったという。楯に乗せられて後方に運ばれたが、体に五本の矢が刺さり、首の付け根に刺さった矢は致命的だった。
次郎右衛門は母違いの姉の婿で、善太夫よりも七歳年上だった。父が戦死した後、湯本家を継ぐのは自分に違いないと信じていたのに、善太夫に領主の地位を奪われた。初めの頃、善太夫に反抗していた面もあったが、何度も戦を共にするうちに善太夫の事を認めるようになり、善太夫の補佐役として、なくてはならない存在となっていた。
合戦の時、善太夫が先頭に立って突撃しようとすると、「お屋形がそんな軽はずみな事をすべきではない」と次郎右衛門は家臣たちを励まして、自ら先頭に立って敵陣に飛び込んで行った。今回も敵の攻撃に臆している家臣たちを力づけ、善太夫に代わって真っ先に吾妻川を渡って行ったのだった。
「他に負傷した者はどの位いるんじゃ」
「槍奉行の小林長右衛門殿も危ないかもしれません。他、重傷の者は三名おりますが、命には別条ないでしょう。それよりも、斎藤弥三郎殿によって天狗の丸から善導寺に人質が移されましたが、その中に、姫様がおりません。他の者たちは全員おりますのに、姫様だけがおりません」
「その事か、心配いらん。姫は無事じゃ。道雲殿が預かっている。ヤエは道雲殿の孫じゃからな」
「という事は羽尾に?」
善太夫はうなづいた。
「大丈夫でしょうか」
「この城が落ちれば、道雲殿も降参するじゃろう。姫は戻って来る」
「そうでしたか‥‥‥」
「心配させてすまなかったのう」
「いえ」
「今回の戦はもうすぐ、終わるじゃろう。しかし、来月には、越後の管領殿が攻めて来る事となろう。今回以上の大戦(おおいくさ)になるかもしれん。兵糧は大事に使ってくれ」
「かしこまりました」
杢右衛門が帰ると善太夫は陣内を見て回った。
皆、疲れているようだったが、勝ち戦なので張り切っているようだった。
本丸の方を見上げると異様に静まり返っている。二千人余りいた兵は五百人余りに裏切られ、援軍の白井勢、沼田勢には逃げられ、五百人足らずに減っているはずだった。
敵を本丸まで追い込んだとしても、本丸を落とすのは難しい。無理に押し破ろうとすれば、味方にかなりの犠牲者が出るだろう。
善太夫は本丸から二の丸、三の丸、中城と目を移し、東の空に浮かんでいる円い月の所で目を止めた。
善太夫はその月に、次郎右衛門が死なないようにと祈った。
いずれ、落城するにしろ、上杉輝虎が来るまでは籠城して抵抗を続けるだろう、と誰もが思っていた。ところが、斎藤一岩斎は本丸を囲まれた、その夜の内に、長男の越前守と数名の家臣を引き連れて逃げ出してしまった。岩櫃山中を通り薬師岳を越えて、北へ逃げて行ったと思われた。
夜が明け、一岩斎のいなくなった本丸は何の抵抗もなく門が開かれ、守っていた兵たちは投降した。
本丸の櫓(やぐら)の上に真田の六連銭の旗が掲げられ、盛大な勝鬨(かちどき)があげられた。
本丸が落ち、岩櫃城の支城である岩鼓(いわつづみ)城も落ちた。しかし、一岩斎の三男、城虎丸(じょうこまる)と池田佐渡守の守る岳山城が残っていた。岳山城は三枝土佐守と芦田下野守の兵五百が包囲していたが、守りを固めて出て来ようとはしなかった。
一徳斎は兵たちの乱暴狼藉(ろうぜき)を禁止して、城内を片付けさせた。
敵兵の死骸は具足(ぐそく)や武器、着物までも剥がされ、穴の中に埋められて供養(くよう)された。味方の死骸もあったが、敵の死骸に比べたら、ほんのわずかだった。
味方の死骸は名を記帳されて丁寧に葬(ほうむ)られたが、敵兵の場合は名のある武将以外はまとめて穴の中に埋められ哀れなものだった。さらに哀れなのは、戦に巻き込まれて殺された城下の住民たちだった。必ずと言っていい程、戦の後には、犯された上に殺された若い娘の死骸が草むらの中に転がっていた。白い肌をさらしたまま死んでいる娘の姿は、勝ち戦といえども戦の悲惨さを物語っていた。
城内を片付け終わって、岩鼓の城下にある金剛院の山伏たちに清めの祈祷(きとう)をしてもらった後、切沢の善導寺にて論功行賞(ろんこうこうしょう)のため、首実験が行なわれた。一番の手柄は一岩斎の次男、斎藤弾正左衛門(だんじょうざえもん)の首を取った矢沢薩摩守だった。残念ながら、善太夫は名のある武将の首を取る事はできなかったが、戦の前の敵将の調略(ちょうりゃく)は評価されるべきものだった。
一徳斎は今回の戦の一部始終を細かく記録すると、金剛院内の徳蔵院という山伏を使者として、検使役の武藤喜兵衛と共に、甲斐の武田信玄のもとに送った。
岳山城を包囲していた兵も引き上げさせ、援軍として信州から来ていた芦田下野守、室賀兵部大輔にも帰って貰った。
信玄より正式に岩櫃城主が決まるまで、一徳斎と斎藤弥三郎が本丸に入り、三枝土佐守が二の丸に入り、鎌原宮内少輔が三の丸を守り、善太夫は海野長門守、能登守兄弟と共に中城を守る事になった。さらに、天狗の丸は真田兵部丞、西窪治部左衛門が守り、岩鼓の城は真田源太左衛門、常田永助、丸子藤八郎が守った。そして、今回寝返った者たちの人質は岩下城に集められて、富沢新十郎が預かる事になった。ただ、新十郎の人質は三枝土佐守が預かっていた。
重傷を負った次郎右衛門は治療の甲斐もなく亡くなってしまった。遺体は息子の小次郎に伴われて沼尾村に帰って行った。
次郎右衛門の父親は十二年前の平井の合戦にて戦死していた。次郎右衛門が十八歳の時だった。そして、今度は次郎右衛門が戦死して、後を継ぐ小次郎は十九歳だった。巡り合わせというか嫌な巡り合わせだった。戦国の世とは言え、一族の者が亡くなるのは辛い事だった。善太夫には、父親に負けない武将になれと小次郎を励ます事しかできなかった。
善太夫は海野兄弟と共に一月近く、中城を守っていた。
長門守は善太夫の舅だった。長門守は中城を守っている間、これからどうなるのかと心配そうに善太夫に聞いていた。
寝返るのが遅かったし、兄の道雲が一徳斎の弟を殺してしまったため、本領が安堵(あんど)されるかどうか不安だと言う。毎日、弱気になって心配顔の長門守を見ているのは善太夫には辛かった。長門守はもうすぐ六十歳になるが、急に年を取ってしまったように感じられた。
「そろそろ、隠居をする時期かもしれんのう」と何度も言っていた。
長門守には三人の息子がいたが、二人を平井の合戦で亡くし、もう一人は八歳で病死してしまっていた。娘が三人いて、大戸丹後守、鎌原筑前守、そして、善太夫の妻になっている。隠居したくても、長門守の跡を継ぐ者はいなかった。
善太夫は何と答えていいか分からなかった。
能登守の方は、これからどうなろうとなるようにしかならんと開き直っていた。
善太夫は今まで、能登守とは面と向かって話した事がなかった。新当流(しんとうりゅう)の使い手という噂を耳にして、一度、武芸の話でもしたいと思っていたが、その機会はなかった。今回、一緒にいて、色々と話を聞く事ができた。
「おぬし、愛洲移香斎殿(あいすいこうさい)を知っているか」というのが、能登守が最初に口にした言葉だった。
「わしはのう、移香斎殿と一度、会ってみたかった。移香斎殿の噂を聞いては、会いたいとあちこち出掛けて行ったが会う事はできなかった。それが八年程前、久し振りに羽尾に帰って来ると、移香斎殿はずっと草津にいたと聞いたんじゃ。わしが羽尾を飛び出す前から草津にいたという。すぐ、目の前にいたのに、わしはあっちこっち捜し回っていたわけじゃ‥‥‥わしは羽尾に帰って来るとすぐに草津に行った。移香斎殿が住んでおられた飄雲庵(ひょううんあん)という草庵に円覚坊という行者(ぎょうじゃ)が住んでいた。わしは円覚坊から移香斎殿が剣を捨てて、名を隠し、かったい(癩病患者)の治療に専念していたと聞いて、打ちのめされたように驚いたわ‥‥‥わしはずっと、移香斎殿の噂を聞いて来た。どの噂も移香斎殿の事を武芸の神様のように言う。香取と鹿島にも武芸の神様はいる。飯篠長威斎(いいざさちょういさい)殿じゃ。神道流(しんとうりゅう)を編み出したお方じゃ。長威斎殿は近寄りがたい神々(こうごう)しい神様じゃ。それに比べて、移香斎殿は何というか親しみやすい神様のような感じを受けた。陰流(かげりゅう)という武術が武士よりも山伏や山の民(たみ)、川の民、本願寺の坊主などの間に広まっているのも不思議じゃった。わしは噂を聞くたびに、ぜひ、一度、会いたいと思った。普通、強い者の噂を聞くと、立ち合いたいと考えるんじゃが、移香斎殿の場合は勝てるとは思えなかった。ただ、一度、会ってみたいと思っていたんじゃ」
能登守は若い頃より故郷を出て、武芸の修行に明け暮れていた。常陸(茨城県)の鹿島にて塚原卜伝(ぼくでん)の弟子となって、新当流の武芸を身に付け、師の卜伝のような日本一の武芸者になるため諸国遍歴(へんれき)の旅を続けていた。
故郷に帰って来たのは、平井城が落城してから三年後で、八年程前の事だった。一流の武芸者である能登守は、兄の推薦もあって斎藤一岩斎に仕える事となった。
管領上杉氏が北条氏に敗れて、故郷が危ない。自分が何とかしなければならないと思って帰って来たのだったが、八年間、ここにいて、自分の無力さを嫌という程感じるようになっていた。いくら武芸の達人と呼ばれても、上杉や武田の大軍の前では、どうする事もできなかった。
能登守は自分の武芸をもう一度見直さなくてはならないと思った。羽尾と鎌原程の規模の戦なら、能登守の武芸も役に立つ。しかし、何千、何万の兵がぶつかる戦では役に立たない。一人や二人の武芸者がいた所で戦況に関わる事はなかった。しかし、本物の武芸はそんなちっぽけなものではないはずだった。自分の武芸を生かす道が必ず、あるはずだと信じていた。
「わしはのう、陰流の極意が『和』であると円覚坊から聞いた時、正直いってよく分からなかったんじゃ。武芸というのは人を殺すための技術じゃ。人は皆、戦で活躍するために武芸を身に付ける。殺しの技術が、どうして、『和』になるのか、わしには分からなかった‥‥‥移香斎殿の愛(まな)弟子、上泉伊勢守殿にも何度か会った。立ち合いはしなかった。伊勢守殿は移香斎殿の話をしてくれた‥‥‥わしは移香斎殿の生き様を知った。移香斎殿は生まれは武士じゃが、武士という身分を捨てて、一人の人間として生きて来られたお方じゃった。乞食にまで身を落として、さすらっていた事もあったという。そして、人間は皆、平等であるという立場から、普段、蔑(さげす)まれている人々に陰流を教え、また、身に付けた医術を以て人々を救って来たという‥‥‥そういう移香斎殿だったからこそ、武芸の神様として慕われているし、晩年、かったいたちの中に入って治療してやる事ができたんだと分かったんじゃ。その移香斎殿が言う『和』という言葉は、そこらの生臭(なまぐさ)坊主が言う『和』と違って、ずっと価値のあるお言葉じゃ。その『和』の意味が、ようやく、わしにも分かりかけて来たような気がするわ」
能登守はもう一度、自分の生きる道を捜してみると言った。
能登守は二十年程前、武田信玄に仕えた事があった。まだ、信玄が晴信と名乗っていた若い頃だった。能登守は晴信に武芸の指導をしながら、山本勘助の旗下に入って戦でも活躍した。甲府にて妻を貰って子供もできた。そのまま、晴信に仕えていれば今頃、真田一徳斎に代わって、自分が中心になって吾妻郡に攻め込んだに違いないと思うと少しは悔やまれるが、能登守は武将になるよりも、武芸者になる道を選んだのだった。
能登守が晴信のもとを去ったのは、山本勘助から愛洲移香斎の事を聞いたからだった。
甲府を去って、能登守の移香斎を捜す旅が始まった。移香斎を捜して北から南へと旅を続けたが、結局、会う事はできなかった。会う事はできなかったが、後悔はしていない。移香斎が求め続けていた武芸の道を自分も歩きたいと思っていた。
移香斎は陰流の極意は『和』だと言った。
移香斎の弟子、上泉伊勢守もまた新陰流の極意は『和』だと言って、城を捨て、武将である事を捨て、ただの浪人となって旅立って行った。
伊勢守の弟子は上野の国中に何人もいた。自分の弟子が、自分の教えた武芸で殺し合いをしている。殺し合いをさせるために武芸を教えたのではない、新陰流は戦のために使う殺人(せつにん)剣ではなく、平和な世の中を作り出すために使う活人(かつにん)剣だと言った。
伊勢守がこれから何をやるつもりなのかは分からない。しかし、『和』のために、新陰流を生かすに違いなかった。
能登守もこれから自分の武芸を生かすべき道を見つけようと思っていた。その事を考えるためにも、しばらく、ここを去って、甲府で暮らすのもいいだろうと思った。ただ、山本勘助が二年前の川中島合戦で戦死してしまい、もう、甲府にいないのは残念な事だった。
十一月の半ば近く、ようやく、徳蔵院が信玄の書状を携(たずさ)えて戻って来た。
真田一徳斎が吾妻郡の守護となり、岩櫃城主になる事が正式に決まった。そして、一徳斎が信濃、あるいは甲府に行って留守の時は城代(じょうだい)として、三枝土佐守、鎌原宮内少輔、そして、湯本善太夫の三人が守る事に決まった。
寝返った者たちは人質を甲府に送って本領を安堵された。
斎藤弥三郎は伯父の一岩斎がいなくなれば、自分が岩櫃城主になれると野心を抱いて寝返ったが、その望みは断たれ、一岩斎の所領のうちの五分の一を手に入れただけだった。
海野長門守、能登守の兄弟は一徳斎に預けられる事となり、領地は没収され、その代わりに信濃にわずかばかりの土地を与えられた。
長門守は先祖からの土地を失って嘆(なげ)いていたが、能登守は、わしらの先祖は信濃の海野郷から来た、今、また信濃に帰るだけじゃと笑っていた。
二人は真田源太左衛門率いる兵と共に、家族と家臣を連れて、雪の降る中、信濃へと旅立って行った。
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