2024 .11.21
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2007 .11.22
17.箕輪城
善太夫は岳山合戦の活躍によって、武田信玄より林村を賜(たまわ)り、領地はさらに広がった。
善太夫が三日月の兜(かぶと)をかぶって決意を固めてから、わずか四年で領地は倍近くになっている。ただ、増えた領地が、伯父の羽尾道雲と舅(しゅうと)である海野長門守の領地だったという事が、善太夫にとって辛い所でもあった。
羽尾を追い出された後、行方不明だった道雲は、東光坊によって須賀尾の山中に隠れているところを発見された。一徳斎の命により、義弟の三郎右衛門と横谷左近の長男、信濃守らの襲撃に会って殺された。丁度、岳山城を攻撃していた頃であった。
善太夫にとって伯父である道雲は女癖に関して評判よくなかったが、武将としての活躍は目覚ましいものがあった。河越の合戦でも平井の合戦でも、吾妻衆の中心になって、兜首を幾つも取る活躍だった。岩櫃城の一岩斎でさえ、道雲には一目置いていた。しかし、時代の流れを読み取る事ができずに滅び去ってしまった。
善太夫が湯本家を継いだ時、父親の代わりに戦の作法や駆け引きなどを教えてくれたのが道雲だった。亡くなったと聞いて、昔の事が色々と思い出された。
長門守の方は信濃の国にて活躍して、以前の領地と同じ位の領地を賜ったと聞いている。岩櫃城を去る時は落ち込んでいたが、新天地に行って、うまくやっているのでよかったと思った。ただ、長門守が草津に訪ねて来た場合、どんな態度を取ったらいいのか複雑な気持ちだった。
岳山城救援に間に合わなかった上杉輝虎は常陸、下総方面を攻撃して、五月になると越後に帰って行った。
輝虎が引き上げると、善太夫は一徳斎に許しを貰って、しばらく草津で休んでいた。岳山合戦の時の傷がまだ、完治していなかった。
早川源蔵を倒した後、城に登る途中、後ろから敵にやられたのだった。後ろから付いて来るので、味方だと思っていたら敵だった。つい、不覚を取ってしまった。その敵は倒したが、左内股(うちもも)に深く槍を刺された。その時は大した事ないと思っていたのに、毒が入ったのか、だんだんと腫れて熱を持ってきた。中の膿(うみ)を出して、草津の湯に浸かり、大分よくなっていたが、まだ完全ではない。近い内に、箕輪城の総攻撃が行なわれるので、それまでに治しておかなければならなかった。
善太夫は草津にいた三郎右衛門を岳山に呼び、代わりに自分が草津に登った。
草津は戦の負傷者で一杯だった。どこの宿屋もいっぱいで、六つしかない湯小屋はいつも何人もの人が並んでいた。
御座(ござ)の湯は癩病(らいびょう、ハンセン病)に効くというので、癩病患者が利用していた湯だった。混んでいる時は彼らも遠慮して夜になってから入るようにしていたが、負傷した武士が多くなってから、武士たちに締め出されて、夜も入れない状況となっていた。善太夫は何とかしなければならないと滝の湯を広げ、御座の湯は夜間に限って、癩病患者が利用できるようにした。
閏(うるう)八月、武田信玄は箕輪城の総攻撃を開始した。
善太夫の傷は大分よくなっていたが、まだ、馬に乗る事はできなかった。普通に乗る分なら大丈夫でも、武器を手にして走らせる事ができなかった。
一徳斎は焦(あせ)る事はない、戦はまだまだ続く、今の内に充分に休んでおく事だと言った。
善太夫は上杉勢に備えて岳山城を守り、三郎右衛門に参戦してもらう事にした。
「いいか、何事が起ころうとも、源太左衛門殿と兵部丞殿のお二人は絶対に守らなくてはならんぞ。もし、危機にひんした場合、自分の命を投げうってでも、お二人は助けなければならない。これだけは肝に命じておけ」
善太夫はそれだけ言うと義弟の三郎右衛門を送り出した。
一徳斎は長男の源太左衛門に兵五百を付けて、大戸から室田の鷹留(たかとめ)城に向かわせた。
鷹留城は箕輪城の支城で亡き長野信濃守の甥、長野十郎左衛門が守っていた。箕輪城の支城で今、残っているのは鷹留城だけだった。この城が落ちれば、箕輪城は裸同然と言えた。
信濃守は自分の娘たちを箕輪城を囲む城主のもとへ嫁に送り、箕輪衆と呼ばれる武士団を形成していた。その守りは強固で、武田信玄といえども箕輪衆を倒す事はできなかった。
平井城が落城した時、娘婿の一人である国峰城の小幡右衛門尉(おばたうえもんのじょう)は身の危険を感じて、父親の尾張守と共に信玄に降りようとした。その事を逸速く察知した信濃守は同じく娘婿の小幡図書助(ずしょのすけ)に国峰城を攻略させた。尾張守父子は城を失い、信玄を頼った。
信玄は頼って来た尾張守父子を先鋒として上野進攻を始めた。そんな折、信濃守が亡くなった。
五年前の事である。
信濃守の跡を継いだのは、まだ十六歳だった右京進(うきょうのしん)だった。
箕輪衆は動揺した。
このまま、右京進に付いて行くべきか、武田、北条に寝返るべきか‥‥‥
箕輪城内でも変化は起きた。信濃守がいたからこそ、一つにまとまっていた家臣たちも分裂して行き、城から出て行く者も多かった。
尾張守の次に寝返った娘婿は和田城(高崎市)の和田兵衛大夫(ひょうえだゆう)だった。続いて、大戸城の大戸真楽斎の長男、丹後守(たんごのかみ)、山名城(高崎市)の木部宮内少輔(くないしょうゆう)、倉賀野城(高崎市)の倉賀野左衛門五郎と娘婿たちが次々に武田方に寝返って行った。鷹留城の十郎左衛門の娘婿である安中城(安中市)の安中左近大夫も寝返り、箕輪衆は完全に崩れて行った。残るは鷹留城だけとなったのである。
源太左衛門を鷹留城攻撃に向かわせた一徳斎は、次の日、次男の兵部丞に箕輪城を後方から攻めさせるために榛名山を越えさせた。
兵部丞率いる一隊の中に、善太夫の代わりとして参戦する三郎右衛門が家臣を引き連れて加わっていた。
一徳斎と共に、岩櫃城にて箕輪に向かう兵たちを見送ると、善太夫は岳山城に入った。
自分が参戦できない事が悔しかった。しかし、馬に乗れないのだから仕方がない。自分の代わりに三郎右衛門が活躍してくれる事を願いながら、戦の模様を知らせてくれる東光坊らを待っていた。
最初の知らせが入ったのは九月の初めだった。
鷹留城が落城したという。
武田信玄は一万余の兵を引き連れて余地(よち)峠を越えてやって来た。
合戦は箕輪城と鷹留城の中程にある高浜の砦から始まった。高浜砦は那波無理之助(なわむりのすけ)の夜襲によって簡単に落ち、武田軍は箕輪城と鷹留城を遮断(しゃだん)するため白岩に攻め込んだ。
白岩に入った武田軍より、馬場美濃守(みののかみ)、山県三郎兵衛尉(やまがたさぶろうひょうえのじょう)率いる二千の兵が鷹留城に向かった。安中からも小山田左兵衛尉(さひょうえのじょう)率いる一千の兵が鷹留に向かい、源太左衛門と合流した。
籠城するかに見えたが予想に反して、城主の十郎左衛門は打って出た。各地で激しい合戦が行なわれ、武田軍は押されぎみだったが、安中左近大夫、浦野中務大輔(なかつかさだゆう)らの調略によって内応者が出て、あっけなく落城となった。
左近大夫は十郎左衛門の娘婿、中務大輔は以前、鷹留城に出仕していたので、城内に知人が多くいたのだった。
落城した鷹留城には源太左衛門が入って守り、他の者たちは箕輪城に向かった。
「めでたしじゃな」と善太夫は満足そうにうなづいた。
それから三日後、次の知らせが届いた。東光坊自らがやって来た。
もう箕輪城が落城したのかと思ったが、東光坊の顔付きは暗かった。
兵部丞率いる一隊は榛名山を越え榛名湖に出て、摺臼(すりうす)峠(磨墨(するす)峠)にある箕輪城の砦を攻め落とした。この峠から真っすぐに下りれば目指す箕輪城だった。
兵部丞は砦の見張り櫓(やぐら)に登って回りを眺めた。
辺りは静かだった。
この下で戦が行なわれているとは思えない程、鳥たちがさえずり、平和そのものだった。ところが、信じられないものが目に入った。
兵部丞は目の錯覚かと目をこすったが、それは消えなかった。なんと、敵の大軍がこちらに向かって来るのだった。越後から来た上杉軍に違いなかった。
兵部丞は見張り櫓から降りるとすぐに戦闘命令を下した。
上杉軍も突然の攻撃に驚き、一瞬、ひるんだが、すぐに戦闘態勢に入った。
砦を奪ったために、守りに入った真田軍の方が、攻め寄せて来る上杉軍よりも気持ちの上でも不利だった。さらに兵力においても敵の半分にも満たない。このままでは全滅してしまうかもしれなかった。
兵部丞は退却する事に決めた。退却するといっても、このまま、山を下りれば箕輪城に出てしまう。挟み打ちに会わないためには、途中で横道に入らなければならない。それには、殿軍(しんがり)として誰かが、ここで上杉軍をくい止めなければならなかった。
兵部丞は矢沢但馬守(たじまのかみ)を初めとした主立った武将を集めて相談した。その時、殿軍を志願したのが三郎右衛門だった。
兵部丞らは後の事を三郎右衛門と湯本家の兵五十人に任せて退却した。途中から山中に入り、何とか、源太左衛門の守る鷹留城に入る事ができた。
東光坊は鷹留城にて、三郎右衛門の事を聞くと、直ちに摺臼峠に向かった。
三郎右衛門を初めとして五十人の兵は皆、無残な姿で死んでいた。
首のない三郎右衛門の遺体には鉄砲傷が三ケ所、矢傷が二ケ所、槍で突かれた傷が五ケ所もあり、太刀を持った右手は斬られていた。
東光坊は鷹留城に引き返して、源太左衛門に摺臼峠の状況を告げ、黒鍬者(くろくわもの、道路作りや砦の構築、死体処理に携わった人夫)を借りて遺体を収容させた。
「そうか‥‥‥」と善太夫は言っただけだった。
三郎右衛門は実の妹しづの夫だった。三郎右衛門としづは人が羨(うらや)む程、仲がよかった。
しづがどんなに嘆くだろう‥‥‥
子供たちがどんなに悲しむだろう‥‥‥
三郎右衛門は善太夫より一つ年下の三十五歳だった。死ぬには、まだまだ早すぎる。
弟としても、湯本家の重臣としても、絶対に必要な男だった。曲がった事が大嫌いで、家臣思いで、面倒見のいい奴だった。草津の事は何の心配もなく三郎右衛門に任せておけた。
自分が怪我さえしなければ、こんな事にはならなかったかもしれない‥‥‥
三年前に義兄の次郎右衛門を亡くし、今度は義弟の三郎右衛門を失った。しかも、五十人もの家臣も一緒に失った。その中には、一族の四郎左衛門、弥六郎、新八郎に又七郎がいた。家老の宮崎十郎右衛門の長男、彦十郎もいた。鉄砲奉行の黒岩忠右衛門、槍奉行の市川新右衛門、弓奉行の富沢孫太郎も戦死してしまった。領地は増えたとはいえ、余りにも犠牲が大き過ぎた。
「どうして、あんないい奴が死ななければならないんだ」善太夫は心の中で叫んだ。
「兄上、兄上の言った通り、兵部丞殿を守りましたよ」と三郎右衛門の声が聞こえたような気がした。
あんな事を言わなければよかったと善太夫は悔やんだ。
東光坊は善太夫に頭を下げると引き下がって行った。
善太夫は独りになると自分を責めた。
自分の生き方が間違っていたのかもしれないと思った。
一徳斎に付いたのは間違っていたのかもしれないと思った。
しかし、あの時、一徳斎に付かなかったら、羽尾道雲のように領地を奪われて殺されていただろう。自分のやった事は正しかったのだ。
間違ってはいなかったのだ。
しかし、犠牲が多すぎた。あまりにも多すぎた。
管領がいなくなって、越後から上杉輝虎が上野にやって来た。小田原の北条万松軒もやって来た。そして、甲斐の武田信玄が一徳斎を送って来た。上野の国はこの三人によって翻弄(ほんろう)されて行った。
上野の国は三人に取って、早い者勝ちで切り取り自由の国と写っていたのだ。
上野の国にも三人のような武将が出ていれば、こんな事にはならなかっただろう。
もしかしたら、箕輪城の長野信濃守は上野の国をまとめて、他国からの侵略を押えようとしていたのかもしれないと思った。
信濃守は今のようになる事を予測して、上野の国の武将を一つにまとめようとしていたのかもしれない。しかし、あの頃、信濃守の気持ちを理解していた者は少ない。皆、自分たちの身の安全の事ばかり考えて、管領は輝虎を頼り、国峰城の小幡氏は信玄を頼り、彼らに上野の国に進攻する口実を与えてしまったのだった。
善太夫はふと、愛洲移香斎の言葉を思い出した。
陰流の極意は『和』じゃ‥‥‥
海野能登守の話だと上泉伊勢守も言っていたという。新陰流の武術は戦のために使うものではない。『和』のために使うものだ‥‥‥
善太夫にも移香斎が何を言おうとしていたのか、微(かす)かに分かりかけたような気がした。
欲に任せて戦を続けていたのでは何も解決しない。
戦のない新しい世の中を作らなければならないのかもしれないと善太夫は思った。
九月の下旬、東光坊が箕輪城落城の知らせを持って来た。
信玄は本陣を天神山に敷き、若田原において両軍の主力同士の決戦が行なわれたが決着は付かなかった。
長野右京進は籠城策を取り、箕輪城に立て籠もった。しかし、武田の大軍を恐れて、逃げてしまう者が続出し、城内の守りを固める事もままならなかった。
廐橋(うまやばし)城(前橋市)には上杉輝虎の重臣である北条丹後守(きたじょうたんごのかみ)がいたが、どうする事もできなかった。
丹後守は輝虎が留守の間、関東経略の中心となっていた武将だったが、頼みにしていた金山(かなやま)城(太田市)の由良(ゆら)信濃守が先月、北条(ほうじょう)方に寝返ってしまったため、箕輪城を救援したくても兵力が足らなかった。武田軍に備えて廐橋城の守りを固めて、越後からの援軍を待つ事しかできなかった。
輝虎は丹後守から知らせを受けるとすぐに援軍を送った。輝虎自身は越中の事も心配で動く事はできなかったが、新発田尾張守(しばたおわりのかみ)に三千の兵を付けて送り込んだ。
三国峠を越えた尾張守は沼田の倉内城に入り、状況を把握(はあく)すると南下して白井城の兵と合流した。白井から二手に分かれて、一隊は廐橋に向かい、もう一隊は榛名山を越えて箕輪城に向かった。この一隊が兵部丞の隊を襲って、三郎右衛門らが壮絶な戦死をする事となる。
信玄は箕輪城の周辺を焼き払い、完全に包囲を固めていた。
摺臼峠から下りて来た上杉軍は箕輪城を目の前にしながらも近づく事はできなかった。
信玄は小幡尾張守、和田兵衛大夫、大戸丹後守らを使って城内の兵に投降を勧めたが、城内に残っている者たちの意志は堅く、投降に応じる者はいなかった。それでも、夜になるとひそかに城を抜け出して来る者が後を立たなかった。
投降者からの情報によって城内の兵はすでに三百人を割り、守りを固める事も困難な状況だと知ると信玄は総攻撃の命令を下した。
三日間に及ぶ猛攻のすえ、箕輪城は九月の末に落城した。
城主右京進は御前曲輪(ごぜんくるわ)にて一族の者と共に自害して果てた。
信玄は箕輪城に内藤修理亮(しゅりのすけ)を城代として入れ、西上州の拠点とした。
善太夫は東光坊より戦況を聞いて、「そうか‥‥‥」と答えただけだった。
善太夫の傷は大分よくなっていたが、まだ、馬に乗る事はできなかった。普通に乗る分なら大丈夫でも、武器を手にして走らせる事ができなかった。
一徳斎は焦(あせ)る事はない、戦はまだまだ続く、今の内に充分に休んでおく事だと言った。
善太夫は上杉勢に備えて岳山城を守り、三郎右衛門に参戦してもらう事にした。
「いいか、何事が起ころうとも、源太左衛門殿と兵部丞殿のお二人は絶対に守らなくてはならんぞ。もし、危機にひんした場合、自分の命を投げうってでも、お二人は助けなければならない。これだけは肝に命じておけ」
善太夫はそれだけ言うと義弟の三郎右衛門を送り出した。
一徳斎は長男の源太左衛門に兵五百を付けて、大戸から室田の鷹留(たかとめ)城に向かわせた。
鷹留城は箕輪城の支城で亡き長野信濃守の甥、長野十郎左衛門が守っていた。箕輪城の支城で今、残っているのは鷹留城だけだった。この城が落ちれば、箕輪城は裸同然と言えた。
信濃守は自分の娘たちを箕輪城を囲む城主のもとへ嫁に送り、箕輪衆と呼ばれる武士団を形成していた。その守りは強固で、武田信玄といえども箕輪衆を倒す事はできなかった。
平井城が落城した時、娘婿の一人である国峰城の小幡右衛門尉(おばたうえもんのじょう)は身の危険を感じて、父親の尾張守と共に信玄に降りようとした。その事を逸速く察知した信濃守は同じく娘婿の小幡図書助(ずしょのすけ)に国峰城を攻略させた。尾張守父子は城を失い、信玄を頼った。
信玄は頼って来た尾張守父子を先鋒として上野進攻を始めた。そんな折、信濃守が亡くなった。
五年前の事である。
信濃守の跡を継いだのは、まだ十六歳だった右京進(うきょうのしん)だった。
箕輪衆は動揺した。
このまま、右京進に付いて行くべきか、武田、北条に寝返るべきか‥‥‥
箕輪城内でも変化は起きた。信濃守がいたからこそ、一つにまとまっていた家臣たちも分裂して行き、城から出て行く者も多かった。
尾張守の次に寝返った娘婿は和田城(高崎市)の和田兵衛大夫(ひょうえだゆう)だった。続いて、大戸城の大戸真楽斎の長男、丹後守(たんごのかみ)、山名城(高崎市)の木部宮内少輔(くないしょうゆう)、倉賀野城(高崎市)の倉賀野左衛門五郎と娘婿たちが次々に武田方に寝返って行った。鷹留城の十郎左衛門の娘婿である安中城(安中市)の安中左近大夫も寝返り、箕輪衆は完全に崩れて行った。残るは鷹留城だけとなったのである。
源太左衛門を鷹留城攻撃に向かわせた一徳斎は、次の日、次男の兵部丞に箕輪城を後方から攻めさせるために榛名山を越えさせた。
兵部丞率いる一隊の中に、善太夫の代わりとして参戦する三郎右衛門が家臣を引き連れて加わっていた。
一徳斎と共に、岩櫃城にて箕輪に向かう兵たちを見送ると、善太夫は岳山城に入った。
自分が参戦できない事が悔しかった。しかし、馬に乗れないのだから仕方がない。自分の代わりに三郎右衛門が活躍してくれる事を願いながら、戦の模様を知らせてくれる東光坊らを待っていた。
最初の知らせが入ったのは九月の初めだった。
鷹留城が落城したという。
武田信玄は一万余の兵を引き連れて余地(よち)峠を越えてやって来た。
合戦は箕輪城と鷹留城の中程にある高浜の砦から始まった。高浜砦は那波無理之助(なわむりのすけ)の夜襲によって簡単に落ち、武田軍は箕輪城と鷹留城を遮断(しゃだん)するため白岩に攻め込んだ。
白岩に入った武田軍より、馬場美濃守(みののかみ)、山県三郎兵衛尉(やまがたさぶろうひょうえのじょう)率いる二千の兵が鷹留城に向かった。安中からも小山田左兵衛尉(さひょうえのじょう)率いる一千の兵が鷹留に向かい、源太左衛門と合流した。
籠城するかに見えたが予想に反して、城主の十郎左衛門は打って出た。各地で激しい合戦が行なわれ、武田軍は押されぎみだったが、安中左近大夫、浦野中務大輔(なかつかさだゆう)らの調略によって内応者が出て、あっけなく落城となった。
左近大夫は十郎左衛門の娘婿、中務大輔は以前、鷹留城に出仕していたので、城内に知人が多くいたのだった。
落城した鷹留城には源太左衛門が入って守り、他の者たちは箕輪城に向かった。
「めでたしじゃな」と善太夫は満足そうにうなづいた。
それから三日後、次の知らせが届いた。東光坊自らがやって来た。
もう箕輪城が落城したのかと思ったが、東光坊の顔付きは暗かった。
兵部丞率いる一隊は榛名山を越え榛名湖に出て、摺臼(すりうす)峠(磨墨(するす)峠)にある箕輪城の砦を攻め落とした。この峠から真っすぐに下りれば目指す箕輪城だった。
兵部丞は砦の見張り櫓(やぐら)に登って回りを眺めた。
辺りは静かだった。
この下で戦が行なわれているとは思えない程、鳥たちがさえずり、平和そのものだった。ところが、信じられないものが目に入った。
兵部丞は目の錯覚かと目をこすったが、それは消えなかった。なんと、敵の大軍がこちらに向かって来るのだった。越後から来た上杉軍に違いなかった。
兵部丞は見張り櫓から降りるとすぐに戦闘命令を下した。
上杉軍も突然の攻撃に驚き、一瞬、ひるんだが、すぐに戦闘態勢に入った。
砦を奪ったために、守りに入った真田軍の方が、攻め寄せて来る上杉軍よりも気持ちの上でも不利だった。さらに兵力においても敵の半分にも満たない。このままでは全滅してしまうかもしれなかった。
兵部丞は退却する事に決めた。退却するといっても、このまま、山を下りれば箕輪城に出てしまう。挟み打ちに会わないためには、途中で横道に入らなければならない。それには、殿軍(しんがり)として誰かが、ここで上杉軍をくい止めなければならなかった。
兵部丞は矢沢但馬守(たじまのかみ)を初めとした主立った武将を集めて相談した。その時、殿軍を志願したのが三郎右衛門だった。
兵部丞らは後の事を三郎右衛門と湯本家の兵五十人に任せて退却した。途中から山中に入り、何とか、源太左衛門の守る鷹留城に入る事ができた。
東光坊は鷹留城にて、三郎右衛門の事を聞くと、直ちに摺臼峠に向かった。
三郎右衛門を初めとして五十人の兵は皆、無残な姿で死んでいた。
首のない三郎右衛門の遺体には鉄砲傷が三ケ所、矢傷が二ケ所、槍で突かれた傷が五ケ所もあり、太刀を持った右手は斬られていた。
東光坊は鷹留城に引き返して、源太左衛門に摺臼峠の状況を告げ、黒鍬者(くろくわもの、道路作りや砦の構築、死体処理に携わった人夫)を借りて遺体を収容させた。
「そうか‥‥‥」と善太夫は言っただけだった。
三郎右衛門は実の妹しづの夫だった。三郎右衛門としづは人が羨(うらや)む程、仲がよかった。
しづがどんなに嘆くだろう‥‥‥
子供たちがどんなに悲しむだろう‥‥‥
三郎右衛門は善太夫より一つ年下の三十五歳だった。死ぬには、まだまだ早すぎる。
弟としても、湯本家の重臣としても、絶対に必要な男だった。曲がった事が大嫌いで、家臣思いで、面倒見のいい奴だった。草津の事は何の心配もなく三郎右衛門に任せておけた。
自分が怪我さえしなければ、こんな事にはならなかったかもしれない‥‥‥
三年前に義兄の次郎右衛門を亡くし、今度は義弟の三郎右衛門を失った。しかも、五十人もの家臣も一緒に失った。その中には、一族の四郎左衛門、弥六郎、新八郎に又七郎がいた。家老の宮崎十郎右衛門の長男、彦十郎もいた。鉄砲奉行の黒岩忠右衛門、槍奉行の市川新右衛門、弓奉行の富沢孫太郎も戦死してしまった。領地は増えたとはいえ、余りにも犠牲が大き過ぎた。
「どうして、あんないい奴が死ななければならないんだ」善太夫は心の中で叫んだ。
「兄上、兄上の言った通り、兵部丞殿を守りましたよ」と三郎右衛門の声が聞こえたような気がした。
あんな事を言わなければよかったと善太夫は悔やんだ。
東光坊は善太夫に頭を下げると引き下がって行った。
善太夫は独りになると自分を責めた。
自分の生き方が間違っていたのかもしれないと思った。
一徳斎に付いたのは間違っていたのかもしれないと思った。
しかし、あの時、一徳斎に付かなかったら、羽尾道雲のように領地を奪われて殺されていただろう。自分のやった事は正しかったのだ。
間違ってはいなかったのだ。
しかし、犠牲が多すぎた。あまりにも多すぎた。
管領がいなくなって、越後から上杉輝虎が上野にやって来た。小田原の北条万松軒もやって来た。そして、甲斐の武田信玄が一徳斎を送って来た。上野の国はこの三人によって翻弄(ほんろう)されて行った。
上野の国は三人に取って、早い者勝ちで切り取り自由の国と写っていたのだ。
上野の国にも三人のような武将が出ていれば、こんな事にはならなかっただろう。
もしかしたら、箕輪城の長野信濃守は上野の国をまとめて、他国からの侵略を押えようとしていたのかもしれないと思った。
信濃守は今のようになる事を予測して、上野の国の武将を一つにまとめようとしていたのかもしれない。しかし、あの頃、信濃守の気持ちを理解していた者は少ない。皆、自分たちの身の安全の事ばかり考えて、管領は輝虎を頼り、国峰城の小幡氏は信玄を頼り、彼らに上野の国に進攻する口実を与えてしまったのだった。
善太夫はふと、愛洲移香斎の言葉を思い出した。
陰流の極意は『和』じゃ‥‥‥
海野能登守の話だと上泉伊勢守も言っていたという。新陰流の武術は戦のために使うものではない。『和』のために使うものだ‥‥‥
善太夫にも移香斎が何を言おうとしていたのか、微(かす)かに分かりかけたような気がした。
欲に任せて戦を続けていたのでは何も解決しない。
戦のない新しい世の中を作らなければならないのかもしれないと善太夫は思った。
九月の下旬、東光坊が箕輪城落城の知らせを持って来た。
信玄は本陣を天神山に敷き、若田原において両軍の主力同士の決戦が行なわれたが決着は付かなかった。
長野右京進は籠城策を取り、箕輪城に立て籠もった。しかし、武田の大軍を恐れて、逃げてしまう者が続出し、城内の守りを固める事もままならなかった。
廐橋(うまやばし)城(前橋市)には上杉輝虎の重臣である北条丹後守(きたじょうたんごのかみ)がいたが、どうする事もできなかった。
丹後守は輝虎が留守の間、関東経略の中心となっていた武将だったが、頼みにしていた金山(かなやま)城(太田市)の由良(ゆら)信濃守が先月、北条(ほうじょう)方に寝返ってしまったため、箕輪城を救援したくても兵力が足らなかった。武田軍に備えて廐橋城の守りを固めて、越後からの援軍を待つ事しかできなかった。
輝虎は丹後守から知らせを受けるとすぐに援軍を送った。輝虎自身は越中の事も心配で動く事はできなかったが、新発田尾張守(しばたおわりのかみ)に三千の兵を付けて送り込んだ。
三国峠を越えた尾張守は沼田の倉内城に入り、状況を把握(はあく)すると南下して白井城の兵と合流した。白井から二手に分かれて、一隊は廐橋に向かい、もう一隊は榛名山を越えて箕輪城に向かった。この一隊が兵部丞の隊を襲って、三郎右衛門らが壮絶な戦死をする事となる。
信玄は箕輪城の周辺を焼き払い、完全に包囲を固めていた。
摺臼峠から下りて来た上杉軍は箕輪城を目の前にしながらも近づく事はできなかった。
信玄は小幡尾張守、和田兵衛大夫、大戸丹後守らを使って城内の兵に投降を勧めたが、城内に残っている者たちの意志は堅く、投降に応じる者はいなかった。それでも、夜になるとひそかに城を抜け出して来る者が後を立たなかった。
投降者からの情報によって城内の兵はすでに三百人を割り、守りを固める事も困難な状況だと知ると信玄は総攻撃の命令を下した。
三日間に及ぶ猛攻のすえ、箕輪城は九月の末に落城した。
城主右京進は御前曲輪(ごぜんくるわ)にて一族の者と共に自害して果てた。
信玄は箕輪城に内藤修理亮(しゅりのすけ)を城代として入れ、西上州の拠点とした。
善太夫は東光坊より戦況を聞いて、「そうか‥‥‥」と答えただけだった。
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