2025 .01.22
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11.決意
梅雨時の雨の中、羽尾道雲(はねおどううん)は鎌原(かんばら)城の近くで倒れている娘を助けた。
粗末な身なりは泥だらけで、山の中を旅して来たのか手も足も傷だらけだった。長い髪を無造作に束ねて、苦しそうに顔をしかめていた。真っ黒に汚れていても、その顔立ちは美しく、胸元からのぞく白い肌は、道雲の欲望をそそった。
娘を城内の屋敷に連れて行って、ゆっくりと休ませ、起きられるようになると風呂に入れて綺麗な着物を着せた。思っていた通り、風呂上がりの娘はまぶしい程の美しさだった。
道雲はニコニコしながら娘の機嫌をとって、娘のために山のような御馳走を用意した。
「サワといいます。武蔵の国からやって参りました」
「ほう。武蔵から一人で来たのか」
サワは弱々しく、うなづいた。「両親を戦(いくさ)で亡くして、万座(まんざ)の湯にいる叔母を訪ねてやって参りました。でも、急に差し込みに襲われてしまって‥‥‥」
「そうか、そうか、万座に叔母上がおるのか。ここから万座はすぐじゃ。わしが連れて行ってやろう。まずは腹ごしらえをして、ゆっくりと休む事じゃ」
「ほんとにありがとうございます。あたしみたいな者に、こんなにもよくして下さるなんて‥‥‥」
サワは目に涙を溜めて、頭を下げた。
道雲は目を細めて、「いいんじゃ、いいんじゃ」と何度もうなづいた。
道雲は女好きで有名だった。
正式な妻は、すでに亡くなっているが善太夫の伯母である。妻が生きているうちに六人の側室を持ち、死んでからも三人の側室を持った。その内、四人はすでに亡くなっていて、皆、道雲に弄(もてあそ)ばれた上の若死にだった。気に入った娘がいれば手当り次第に手をつけ、飽きの来ない娘だけを側室に迎えた。道雲の餌食(えじき)となった娘は領内に数知れなかった。
鎌原城に移ってからも早速、娘あさりをして、タケという十八の娘を側室に迎えていた。タケを迎えて、まだ一月も経っていないのに、タケの事など忘れたかのように、サワに夢中になっていた。
初めはおどおどしていたサワも道雲が自分を大切に扱ってくれるので、徐々に打ち解けて行った。
梅雨が上がると道雲は浮き浮きしながら、サワを連れて万座の湯に登った。叔母に会って、正式にサワを側室に迎えるつもりでいたが、万座の湯にサワの叔母はいなかった。
サワは気落ちして、がっかりしていた。道雲にしてみれば、その方がよかった。道雲は沈み込んでいるサワを慰め、とうとう、一夜を共にした。
サワから見れば、道雲は父親以上も年上だったが、頼る者のいなくなった今、道雲を頼らざるを得なかった。欲しい物は何でも買ってくれるし、毎日、うまい物を食べさせてくれるので、サワは道雲に甘えっ放しだった。
道雲は鼻の下を伸ばして、万座の湯でサワとの楽しい日々を過ごしていた。
道雲が万座でいい気になっている頃、鎌原では一大事が起きていた。
道雲の留守を見計らったように、鎌原宮内少輔(くないしょうゆう)が真田一徳斎と共に武田軍を率いて鎌原を襲撃したのだった。
道雲の長男、源六郎は岩櫃城の方に行っていて留守で、鎌原城を守っていた兵は戦う以前に逃げ散った。逃げ遅れた二人の側室、源九郎という十六歳の息子と九歳の娘が捕まって、人買いに売るため甲府に送られた。
宮内少輔は勢いに乗って、羽尾城、長野原城も攻め落とした。
羽尾城は道雲の本城だったが、本拠地を鎌原に移してからは、少数の兵が守っているだけだった。鎌原が武田軍にやられたと知ると抵抗する事もなく、岩櫃城へと逃げて行った。
長野原城は道雲の弟、海野長門守の城だった。長門守は斎藤一岩斎の重臣として岩櫃城にいる事が多く、非常時の時以外は守備兵も少なかった。籠城(ろうじょう)したとしても、武田の大軍を相手に持ちこたえられないと城兵は長門守のいる岩櫃城へと逃げて行った。
鎌原の旧領を取り戻し、羽尾、長野原と、戦わずして羽尾領は宮内少輔の手の内に入った。
羽尾城、長野原城攻撃の時には、善太夫も草津から降りて来て加わっていた。
善太夫は円覚坊の活躍によって、宮内少輔の鎌原襲撃を知っていた。宮内少輔が一徳斎と共に鎌原城を取り戻したとの報が入ると、善太夫は決心を固めた。
宮内少輔と共に真田一徳斎の旗下に入って、管領上杉氏と戦おうと決心した。
上杉が勝てば、先祖代々の草津の地は奪われ、一族は皆、殺されるだろう。しかし、武田が勝てば、領地を増やせるかもしれない。米の取れる土地を手に入れる事ができるかもしれなかった。
湯本家の領地は田畑が少なく、草津の湯治客でもっているようなものだった。戦続きで湯治客が減り、兵糧(ひょうろう)を手に入れるのも大変だった。善太夫は米の取れる土地が欲しかった。
善太夫は今まで、自分から進んで戦をしようと思った事はなかった。常に上からの命令で動いて来た。命令に従って来たからといって得した事などない。戦で父親を失い、兄を失い、大勢の家臣を失っても、感状という、たった一枚の紙切れだけで済まされて来た。
もう、そんな事は繰り返したくない。
どうせ、戦をするなら、自分の意志で、自分たちのために命を懸けよう。
湯本家の運命を真田一徳斎という男に賭けてみようと決心した。
善太夫は決心を家臣たちに告げた。
家臣たちも喜んで、善太夫の決心を受け入れた。善太夫がやる気なら、喜んで、命を捧げようと誓ってくれた。
善太夫は出陣の時、三日月の前立(まえだて)の付いた兜(かぶと)をかぶった。
その兜は祖父、民部入道梅雲(みんぶにゅうどうばいうん)が戦で活躍した時、管領上杉氏より賜(たまわ)ったもので、有名な甲冑師(かっちゅうし)、明珍信家(みょうちんのぶいえ)の作であった。
黄金色に輝く前立の三日月は名誉ある湯本家の家紋である。祖先が鎌倉の将軍、源頼朝(みなもとのよりとも)より賜ったという由緒ある家紋であった。家臣たちは、善太夫がその兜をかぶっているのを見て、改めて善太夫の決意を知った。
三日月の兜を着けた善太夫の顔は引き締まり、目は異様に輝いていた。
家臣たちは善太夫の姿を仰ぎ見ながら、腹の底から力が涌いて来るのを感じていた。
湯本家の武者たちは大声で鬨(とき)の声を上げると羽尾を目指して行軍して行った。
真田一徳斎は手に入れた長野原城に弟の常田伊予守(ときたいよのかみ)を守将として入れ、善太夫と丸子藤八郎に守りを任せた。さらに、芦田下野守(あしだしもつけのかみ)の配下である依田(よだ)彦太郎、室賀兵部大輔(むろがひょうぶだゆう)の配下である小泉左衛門も配置した。そして、羽尾城には義弟の祢津松鷂軒(ねづしょうようけん)を守将として入れると、ひとまず、信濃に帰って行った。
一徳斎の兵の中に、善太夫の長女、ナツが侍女(じじょ)と一緒に混じっていた。
善太夫は正式に武田の被官(ひかん)となり、娘を人質として一徳斎に差し出したのだった。まだ七つの娘を母親と離すのは可哀想だったが仕方がなかった。人質となったナツのためにも、武田方として上杉勢と戦わなくてはならなかった。
以後、吾妻郡は須川(白砂川)を境に、西が武田方、東が上杉方と分けられ、善太夫らの守る長野原城は前線に位置する重要な要害(ようがい)となった。
善太夫は義兄の湯本次郎右衛門に、家老の宮崎十郎右衛門を付けて、長野原城の守備を命じた。
万座にて、サワといちゃついていた羽尾道雲は、すべての領地が奪われた事を知ると、信じられない事のように驚いた。呆然として、油断していた自分を責めたが、すでに、どうする事もできなかった。帰る場所を失い、かといって、いつまでもここにいるわけにもいかない。宮内少輔が勢いに乗って攻めて来る可能性が高かった。道雲は供の家臣を連れて、信濃の国、高井郷へと落ちて行った。
道雲が家臣たちと今後の事を相談している隙に、サワはいなくなっていた。家臣たちに命じて捜させたが、どこにもいなかった。自分以外に頼る者のいないサワが急にいなくなるのは変だった。もしかしたら、あの娘も宮内少輔の放った罠(わな)だったのかと気づいたが、後の祭りだった。
草津に戻った善太夫を珍しい客が待っていた。
小野屋のナツメだった。
「お久し振り」とナツメは当然のように湯宿の屋敷の方で、善太夫を待っていた。
「ほう‥‥‥」と言ったきり、善太夫はナツメを見つめた。
二度も自分を裏切った女なのに、憎めない女だった。自然と笑いが込み上げて来た。
ナツメも笑っていた。お互いにもう若くはなかったが、不思議な事にナツメは十年前とあまり変わっていなかった。
「どうしたのよ、そんな顔をして。もっと、歓迎してくれると思ったのに」
「ああ、いや。充分に歓迎しているつもりじゃが」
「そう‥‥‥五年振りかしら」
「五年じゃと? 十年じゃよ」と善太夫は言った。
ナツメはクスッと笑った。
ナツメの顔を見つめながら、はっと善太夫は思い出した。「五年というと、もしや、あの時の‥‥‥」
ナツメはうなづいた。
「しかし、なぜ、あんな所に?」
「あの時、説明したじゃない。たまたま、うちの若い者が倒れていたあなたを見つけたのよ」
「しかし、あんな戦場に‥‥‥信じられん」
「何言ってんの、あそこは戦場なんかじゃなかったわ。平和な村だったのよ。それをあんたたち武士が勝手に戦を始めたから戦場になっちゃったんじゃない。村人たちは大迷惑よ」
「うむ。確かに、そなたのいう通りじゃな」
やはり、あれは夢じゃなかった。あの時、ナツメに助けられなかったら死んでいたかもしれなかった。善太夫は改めて、お礼を言おうとしたが、ナツメはそんな昔の事はどうでもいいという顔をして、「いよいよ、この辺りも物騒になって来たみたいね」と話題を変えた。
「ああ」と善太夫は答えた。「そのうち、大戦(おおいくさ)となるじゃろう」
「いやだわね」
「いやか‥‥‥」善太夫はお礼の事は口には出さず、心の中で感謝して、「あれから、どうしておった」と聞いた。
「色々と忙しかったわ。越後の上杉氏に攻められて、小田原のお店は焼けちゃったしね。あの時、あなたもいたんでしょ」
「ああ。やはり、小野屋は焼けたのか‥‥‥わしもそなたの事が心配じゃったが、どうする事もできなかった。無事で何よりじゃ‥‥‥孫太郎殿も御無事か」
ナツメはうなづいた。
「そいつはよかった‥‥‥そなたはいつも、忘れた頃にやって来るのう」
「忘れた頃? あたしの事、忘れてたの」
「いや。何度も忘れようと思ったが、なぜか、忘れる事ができん」
「あたしもよ。急にあなたに会いたくなって、こうしてやって来たのよ」
「何を言うか、小娘でもあるまいし」
「小娘でなくても、恋はするのよ」とナツメは笑った。
本当に嬉しそうな笑いだった。善太夫もつい釣られて笑った。
「兄上からあなたへのお土産、持って来たわ」
「いつも悪いのう」
ナツメが手を上げると隣の部屋から若い男が二人、重そうな木箱を運んで来た。
善太夫が不思議そうに眺めていると、ナツメに言われて、男たちは荷をほどいた。
木箱の中から出て来たのは、なんと、鉄砲だった。
「種子島よ」とナツメは言った。「十挺あるわ」
「なに、十挺もあるのか」
善太夫は鉄砲を手にして見た。
善太夫が以前、孫太郎より鉄砲を貰ったのは、もう十四年も前の事だった。当時、宝物だった鉄砲も、ようやく、武器として戦場で使われ始めていた。しかし、未だに高価であり、また、有力な武将たちが買い占めてしまうため、手に入れるのは容易な事ではなかった。
鎌原宮内少輔が武田信玄より贈られたといって五挺の鉄砲を持っていた。岩櫃城の一岩斎も上杉政虎から鉄砲を贈られたと聞く。しかし、吾妻郡内において十一挺もの鉄砲を持っているのは善太夫だけだった。
「少しは役に立つでしょう」
「少しどころか、充分すぎる程、役に立つわ。しかし、どうして、わしにこんな高価な鉄砲をくれるんじゃ」
「どうしてかしらね‥‥‥きっと、硫黄でかなり儲けたんじゃないの。あたしはただ、持って行けって言われただけ」
「硫黄か‥‥‥」
「あなたは武田方になったのよね。北条と武田は組んでるから、あなたとも味方同士になったのよね」
「そういう事じゃな」
「これからはちょくちょく来るわね」
「ああ。それは構わんが‥‥‥」
「うちの者たちにも、ここのお湯に入れてやりたいわ」
「小野屋さんの人たちか」
「そう。でも、ここじゃなくていいのよ。もっと小さなお宿でいいわ」
「いや。ここに泊まってくれ。今は昔のように忙しくはないんじゃ」
「あら、やっぱり、そうだったの。何となく寂しくなったなとは思ってたのよ。やっぱり、戦のせいなのね」
「ああ。これからは益々、厳しくなりそうじゃ。須川から向こうは敵の勢力圏じゃからのう。向こうから客が来る事はあるまい。以前は平井の城下、箕輪の城下、白井の城下、そして、武蔵や越後の国からもお得意さんが来てくれたが、それらの客は来なくなる」
「だって、湯治のために来るんだから、別に敵の国からだって来られるんでしょ」
「来ようと思えば来られる。しかし、敵国との境界には必ず関所ができる。普通の者が、その関所を通り抜ける事は難しい。いくら、湯治に行くと言っても通してはくれまい」
「そうよね。わたしたち商人が無理に通ろうとすれば、荷物はすべて没収されちゃうものね。簡単には通れないわ」
「今、須川が上杉と武田の境になっているんじゃ。須川に橋が架かっているが、あの橋は厳重に警固(けいご)されている。湯治客は通る事はできまい」
「そうね。東から来るのは難しいわね。信州からお客さんを取ればいいのよ」
「前は信州からもお客は来たんじゃ。善光寺があった頃はな」
「そうか、善光寺がなくなっちゃったんだわね。甲府に立派な善光寺ができたけど、あそこから、ここまで来るのはちょっと大変ね」
「まあ、そのうち、景気よくなるじゃろう‥‥‥今回はゆっくりして行けるのか」
「あたし? そうねえ、また、十月の冬住みが始まるまで、のんびりしようかしら‥‥‥」
「そいつはいいねえ」
「そうしたいんだけど、そうもいかないのよ」
「忙しいのか」
「まあね」
「結構じゃな」
ナツメは二泊だけして帰って行った。
武装した武士に囲まれて、硫黄を積んで帰って行った。
その一行の中に、羽尾道雲と共に万座の湯に行ったサワという娘が混じっていたが、善太夫が知っているはずはなかった。
善太夫は黒岩忠右衛門(ちゅうえもん)を鉄砲奉行(ぶぎょう)に命じて鉄砲隊を編成させた。
忠右衛門は善太夫の幼友達だった。三男だったため、善太夫と同じように山伏になるため白根明神に入っていた。ところが、上の兄二人が戦死してしまったため、黒岩家を継いで善太夫の家臣となった。
子供の頃から細工(さいく)物が好きで、鉄砲に興味を持ち、善太夫が鉄砲を撃ちに行く時は必ず付いて来た。善太夫は忠右衛門に鉄砲の撃ち方を教え、暇をみて、玉薬(火薬)の作り方を研究してくれと頼んでいた。それは、孫太郎より善太夫が頼まれていた事だったが、湯本家の当主となった今、善太夫にはする暇がなかった。忠右衛門にも玉薬の作り方は未だに分からないらしいが、鉄砲の腕の方は善太夫以上に上達していた。鉄砲隊を編成するに当たって、鉄砲奉行に任命するのに打ってつけの男だった。
道雲の留守を見計らったように、鎌原宮内少輔(くないしょうゆう)が真田一徳斎と共に武田軍を率いて鎌原を襲撃したのだった。
道雲の長男、源六郎は岩櫃城の方に行っていて留守で、鎌原城を守っていた兵は戦う以前に逃げ散った。逃げ遅れた二人の側室、源九郎という十六歳の息子と九歳の娘が捕まって、人買いに売るため甲府に送られた。
宮内少輔は勢いに乗って、羽尾城、長野原城も攻め落とした。
羽尾城は道雲の本城だったが、本拠地を鎌原に移してからは、少数の兵が守っているだけだった。鎌原が武田軍にやられたと知ると抵抗する事もなく、岩櫃城へと逃げて行った。
長野原城は道雲の弟、海野長門守の城だった。長門守は斎藤一岩斎の重臣として岩櫃城にいる事が多く、非常時の時以外は守備兵も少なかった。籠城(ろうじょう)したとしても、武田の大軍を相手に持ちこたえられないと城兵は長門守のいる岩櫃城へと逃げて行った。
鎌原の旧領を取り戻し、羽尾、長野原と、戦わずして羽尾領は宮内少輔の手の内に入った。
羽尾城、長野原城攻撃の時には、善太夫も草津から降りて来て加わっていた。
善太夫は円覚坊の活躍によって、宮内少輔の鎌原襲撃を知っていた。宮内少輔が一徳斎と共に鎌原城を取り戻したとの報が入ると、善太夫は決心を固めた。
宮内少輔と共に真田一徳斎の旗下に入って、管領上杉氏と戦おうと決心した。
上杉が勝てば、先祖代々の草津の地は奪われ、一族は皆、殺されるだろう。しかし、武田が勝てば、領地を増やせるかもしれない。米の取れる土地を手に入れる事ができるかもしれなかった。
湯本家の領地は田畑が少なく、草津の湯治客でもっているようなものだった。戦続きで湯治客が減り、兵糧(ひょうろう)を手に入れるのも大変だった。善太夫は米の取れる土地が欲しかった。
善太夫は今まで、自分から進んで戦をしようと思った事はなかった。常に上からの命令で動いて来た。命令に従って来たからといって得した事などない。戦で父親を失い、兄を失い、大勢の家臣を失っても、感状という、たった一枚の紙切れだけで済まされて来た。
もう、そんな事は繰り返したくない。
どうせ、戦をするなら、自分の意志で、自分たちのために命を懸けよう。
湯本家の運命を真田一徳斎という男に賭けてみようと決心した。
善太夫は決心を家臣たちに告げた。
家臣たちも喜んで、善太夫の決心を受け入れた。善太夫がやる気なら、喜んで、命を捧げようと誓ってくれた。
善太夫は出陣の時、三日月の前立(まえだて)の付いた兜(かぶと)をかぶった。
その兜は祖父、民部入道梅雲(みんぶにゅうどうばいうん)が戦で活躍した時、管領上杉氏より賜(たまわ)ったもので、有名な甲冑師(かっちゅうし)、明珍信家(みょうちんのぶいえ)の作であった。
黄金色に輝く前立の三日月は名誉ある湯本家の家紋である。祖先が鎌倉の将軍、源頼朝(みなもとのよりとも)より賜ったという由緒ある家紋であった。家臣たちは、善太夫がその兜をかぶっているのを見て、改めて善太夫の決意を知った。
三日月の兜を着けた善太夫の顔は引き締まり、目は異様に輝いていた。
家臣たちは善太夫の姿を仰ぎ見ながら、腹の底から力が涌いて来るのを感じていた。
湯本家の武者たちは大声で鬨(とき)の声を上げると羽尾を目指して行軍して行った。
真田一徳斎は手に入れた長野原城に弟の常田伊予守(ときたいよのかみ)を守将として入れ、善太夫と丸子藤八郎に守りを任せた。さらに、芦田下野守(あしだしもつけのかみ)の配下である依田(よだ)彦太郎、室賀兵部大輔(むろがひょうぶだゆう)の配下である小泉左衛門も配置した。そして、羽尾城には義弟の祢津松鷂軒(ねづしょうようけん)を守将として入れると、ひとまず、信濃に帰って行った。
一徳斎の兵の中に、善太夫の長女、ナツが侍女(じじょ)と一緒に混じっていた。
善太夫は正式に武田の被官(ひかん)となり、娘を人質として一徳斎に差し出したのだった。まだ七つの娘を母親と離すのは可哀想だったが仕方がなかった。人質となったナツのためにも、武田方として上杉勢と戦わなくてはならなかった。
以後、吾妻郡は須川(白砂川)を境に、西が武田方、東が上杉方と分けられ、善太夫らの守る長野原城は前線に位置する重要な要害(ようがい)となった。
善太夫は義兄の湯本次郎右衛門に、家老の宮崎十郎右衛門を付けて、長野原城の守備を命じた。
万座にて、サワといちゃついていた羽尾道雲は、すべての領地が奪われた事を知ると、信じられない事のように驚いた。呆然として、油断していた自分を責めたが、すでに、どうする事もできなかった。帰る場所を失い、かといって、いつまでもここにいるわけにもいかない。宮内少輔が勢いに乗って攻めて来る可能性が高かった。道雲は供の家臣を連れて、信濃の国、高井郷へと落ちて行った。
道雲が家臣たちと今後の事を相談している隙に、サワはいなくなっていた。家臣たちに命じて捜させたが、どこにもいなかった。自分以外に頼る者のいないサワが急にいなくなるのは変だった。もしかしたら、あの娘も宮内少輔の放った罠(わな)だったのかと気づいたが、後の祭りだった。
草津に戻った善太夫を珍しい客が待っていた。
小野屋のナツメだった。
「お久し振り」とナツメは当然のように湯宿の屋敷の方で、善太夫を待っていた。
「ほう‥‥‥」と言ったきり、善太夫はナツメを見つめた。
二度も自分を裏切った女なのに、憎めない女だった。自然と笑いが込み上げて来た。
ナツメも笑っていた。お互いにもう若くはなかったが、不思議な事にナツメは十年前とあまり変わっていなかった。
「どうしたのよ、そんな顔をして。もっと、歓迎してくれると思ったのに」
「ああ、いや。充分に歓迎しているつもりじゃが」
「そう‥‥‥五年振りかしら」
「五年じゃと? 十年じゃよ」と善太夫は言った。
ナツメはクスッと笑った。
ナツメの顔を見つめながら、はっと善太夫は思い出した。「五年というと、もしや、あの時の‥‥‥」
ナツメはうなづいた。
「しかし、なぜ、あんな所に?」
「あの時、説明したじゃない。たまたま、うちの若い者が倒れていたあなたを見つけたのよ」
「しかし、あんな戦場に‥‥‥信じられん」
「何言ってんの、あそこは戦場なんかじゃなかったわ。平和な村だったのよ。それをあんたたち武士が勝手に戦を始めたから戦場になっちゃったんじゃない。村人たちは大迷惑よ」
「うむ。確かに、そなたのいう通りじゃな」
やはり、あれは夢じゃなかった。あの時、ナツメに助けられなかったら死んでいたかもしれなかった。善太夫は改めて、お礼を言おうとしたが、ナツメはそんな昔の事はどうでもいいという顔をして、「いよいよ、この辺りも物騒になって来たみたいね」と話題を変えた。
「ああ」と善太夫は答えた。「そのうち、大戦(おおいくさ)となるじゃろう」
「いやだわね」
「いやか‥‥‥」善太夫はお礼の事は口には出さず、心の中で感謝して、「あれから、どうしておった」と聞いた。
「色々と忙しかったわ。越後の上杉氏に攻められて、小田原のお店は焼けちゃったしね。あの時、あなたもいたんでしょ」
「ああ。やはり、小野屋は焼けたのか‥‥‥わしもそなたの事が心配じゃったが、どうする事もできなかった。無事で何よりじゃ‥‥‥孫太郎殿も御無事か」
ナツメはうなづいた。
「そいつはよかった‥‥‥そなたはいつも、忘れた頃にやって来るのう」
「忘れた頃? あたしの事、忘れてたの」
「いや。何度も忘れようと思ったが、なぜか、忘れる事ができん」
「あたしもよ。急にあなたに会いたくなって、こうしてやって来たのよ」
「何を言うか、小娘でもあるまいし」
「小娘でなくても、恋はするのよ」とナツメは笑った。
本当に嬉しそうな笑いだった。善太夫もつい釣られて笑った。
「兄上からあなたへのお土産、持って来たわ」
「いつも悪いのう」
ナツメが手を上げると隣の部屋から若い男が二人、重そうな木箱を運んで来た。
善太夫が不思議そうに眺めていると、ナツメに言われて、男たちは荷をほどいた。
木箱の中から出て来たのは、なんと、鉄砲だった。
「種子島よ」とナツメは言った。「十挺あるわ」
「なに、十挺もあるのか」
善太夫は鉄砲を手にして見た。
善太夫が以前、孫太郎より鉄砲を貰ったのは、もう十四年も前の事だった。当時、宝物だった鉄砲も、ようやく、武器として戦場で使われ始めていた。しかし、未だに高価であり、また、有力な武将たちが買い占めてしまうため、手に入れるのは容易な事ではなかった。
鎌原宮内少輔が武田信玄より贈られたといって五挺の鉄砲を持っていた。岩櫃城の一岩斎も上杉政虎から鉄砲を贈られたと聞く。しかし、吾妻郡内において十一挺もの鉄砲を持っているのは善太夫だけだった。
「少しは役に立つでしょう」
「少しどころか、充分すぎる程、役に立つわ。しかし、どうして、わしにこんな高価な鉄砲をくれるんじゃ」
「どうしてかしらね‥‥‥きっと、硫黄でかなり儲けたんじゃないの。あたしはただ、持って行けって言われただけ」
「硫黄か‥‥‥」
「あなたは武田方になったのよね。北条と武田は組んでるから、あなたとも味方同士になったのよね」
「そういう事じゃな」
「これからはちょくちょく来るわね」
「ああ。それは構わんが‥‥‥」
「うちの者たちにも、ここのお湯に入れてやりたいわ」
「小野屋さんの人たちか」
「そう。でも、ここじゃなくていいのよ。もっと小さなお宿でいいわ」
「いや。ここに泊まってくれ。今は昔のように忙しくはないんじゃ」
「あら、やっぱり、そうだったの。何となく寂しくなったなとは思ってたのよ。やっぱり、戦のせいなのね」
「ああ。これからは益々、厳しくなりそうじゃ。須川から向こうは敵の勢力圏じゃからのう。向こうから客が来る事はあるまい。以前は平井の城下、箕輪の城下、白井の城下、そして、武蔵や越後の国からもお得意さんが来てくれたが、それらの客は来なくなる」
「だって、湯治のために来るんだから、別に敵の国からだって来られるんでしょ」
「来ようと思えば来られる。しかし、敵国との境界には必ず関所ができる。普通の者が、その関所を通り抜ける事は難しい。いくら、湯治に行くと言っても通してはくれまい」
「そうよね。わたしたち商人が無理に通ろうとすれば、荷物はすべて没収されちゃうものね。簡単には通れないわ」
「今、須川が上杉と武田の境になっているんじゃ。須川に橋が架かっているが、あの橋は厳重に警固(けいご)されている。湯治客は通る事はできまい」
「そうね。東から来るのは難しいわね。信州からお客さんを取ればいいのよ」
「前は信州からもお客は来たんじゃ。善光寺があった頃はな」
「そうか、善光寺がなくなっちゃったんだわね。甲府に立派な善光寺ができたけど、あそこから、ここまで来るのはちょっと大変ね」
「まあ、そのうち、景気よくなるじゃろう‥‥‥今回はゆっくりして行けるのか」
「あたし? そうねえ、また、十月の冬住みが始まるまで、のんびりしようかしら‥‥‥」
「そいつはいいねえ」
「そうしたいんだけど、そうもいかないのよ」
「忙しいのか」
「まあね」
「結構じゃな」
ナツメは二泊だけして帰って行った。
武装した武士に囲まれて、硫黄を積んで帰って行った。
その一行の中に、羽尾道雲と共に万座の湯に行ったサワという娘が混じっていたが、善太夫が知っているはずはなかった。
善太夫は黒岩忠右衛門(ちゅうえもん)を鉄砲奉行(ぶぎょう)に命じて鉄砲隊を編成させた。
忠右衛門は善太夫の幼友達だった。三男だったため、善太夫と同じように山伏になるため白根明神に入っていた。ところが、上の兄二人が戦死してしまったため、黒岩家を継いで善太夫の家臣となった。
子供の頃から細工(さいく)物が好きで、鉄砲に興味を持ち、善太夫が鉄砲を撃ちに行く時は必ず付いて来た。善太夫は忠右衛門に鉄砲の撃ち方を教え、暇をみて、玉薬(火薬)の作り方を研究してくれと頼んでいた。それは、孫太郎より善太夫が頼まれていた事だったが、湯本家の当主となった今、善太夫にはする暇がなかった。忠右衛門にも玉薬の作り方は未だに分からないらしいが、鉄砲の腕の方は善太夫以上に上達していた。鉄砲隊を編成するに当たって、鉄砲奉行に任命するのに打ってつけの男だった。
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