2025 .02.02
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2007 .11.19
14.東光坊
岩櫃城攻撃の時、羽尾城に立て籠もっていた道雲は、落城後、戦勝祝いの挨拶をするために一徳斎のもとを訪れた。
伜の源六郎が斎藤一岩斎の婿(むこ)なので、どうしても岩櫃城に行くと言うのを羽尾から出さなかった。わしとしては真田軍に参加したかったが、伜の立場もあるので、中立の立場でいる事に決めた。伜もようやく、真田に属する事に決めたので、よろしくお願いするとの事だった。
道雲は善太夫から預かっていた善太夫の姪(めい)、ヤエを返して、七歳になる自分の息子を人質として差し出した。
ずる賢い奴だと思ったが、一徳斎は許す事にした。今後の処置は信玄に聞かなければ分からないが、処置が決まるまで、羽尾の屋形で待っていろと言って帰した。ところが、道雲はおとなしくはしていなかった。ひそかに伜の源六郎を岳山(たけやま)城に送って、一岩斎が越後の上杉勢を連れて攻めて来た時、上杉方となるための準備もしていた。
一徳斎は鎌原宮内少輔と善太夫に道雲の退治を命じた。
道雲の弟、海野長門守と能登守が信濃に行った後の十一月の末、雪の降りしきる中、羽尾攻撃は行なわれた。不意の襲撃だったため、道雲は山の上にある羽尾城にて守りを固める間もなく、屋形を焼かれて逃げ出した。道雲の二人の側室と娘一人が捕えられ、人質として真田に送られた。
道雲は妹婿の大戸真楽斎を頼って逃げたと思われるが、真楽斎も一徳斎をはばかって、匿ったとは言わなかった。しばらくの間、道雲の行方は分からなかった。
十二月に武田信玄は北条万松軒(ばんしょうけん)と呼応して、上杉方の倉賀野城(高崎市)を攻めた。
善太夫ら吾妻衆はその戦には参加しなくてもよかった。越後から出て来るであろう上杉輝虎に備えて、守りを固めていた。すでに、三国峠は雪でふさがれ、今年は来ないだろうと安心していたが、倉賀野城が危ないと聞くと、輝虎は大雪を踏み分けてやって来た。
善太夫らは輝虎の無謀をあきれると共に、その行動力に恐れを感じないわけにはいかなかった。輝虎は廐橋城に入り、休む間もなく倉賀野城に向かった。
信玄と万松軒は、輝虎が来ると聞いて、あっさりと兵を引いた。
輝虎は武田、北条に寝返った城を次々と攻めて、再び、寝返らせた。
倉賀野城を引き上げた信玄は箕輪城を軽く攻めてから大戸に向かった。一徳斎は大戸城にて信玄を迎えて、岩櫃城に案内した。一徳斎から紹介されて、善太夫は初めて武田信玄という男と対面した。
想像していた信玄像と実際の信玄は少し違っていた。噂通りの入道頭で、百戦錬磨(れんま)の武将の面(つら)をしていたが、何となく、目だけが場違いのように、慈悲(じひ)深い優しい目だった。
その目を見た時、善太夫は、この男になら付いて行って悔いはないと思った。きっと、一徳斎も鎌原宮内少輔も信玄の目に魅かれて被官となる決心をしたに違いない。
この時、善太夫は心の底から、信玄のために上杉輝虎と戦おうと決心をした。
信玄は岩櫃城に三泊して兵を休めてから、鎌原宮内少輔のもとに一泊し、鳥居峠を越えて帰って行った。
善太夫は信玄の饗応(きょうおう)役を命じられ、三日間、山の幸や川の幸を捜し求めて走り回っていた。時期が悪く、珍しい物などなかったが、信玄は機嫌よく食べてくれた。
今度来る時は是非、草津の湯に入れてくれと信玄は善太夫に一言言って鎌原に向かった。善太夫は宮内少輔に信玄の好む料理を教えるため、永泉坊を遣(つか)わしていた。
年が明けて、永禄七年(1564年)となった。
善太夫は岩櫃城内に屋敷を与えられ、家族を呼んで新年を岩櫃城で迎えた。
小雨村に帰る事も少なくなり、小雨村は義弟の三郎右衛門に任せっきりだった。
善太夫は三郎右衛門に頼み、甲府の信玄のもとへ、新年の挨拶として白根山の硫黄を送った。
二月になると信玄より各武将に感状が届き、善太夫は本領を安堵(あんど)されたばかりでなく、海野長門守の領地だった長野原一帯を新たに与えられた。当然、長野原城は善太夫のものとなった。今まで、草津の入り口を羽尾兄弟に押えられていたが、今、ようやく、入り口も湯本氏の領地となったのだった。信じられない程の嬉しさだった。
善太夫は、長門守の元家臣だった者たちを湯本家の家臣にするために家老の宮崎十郎右衛門を長野原城に送った。
廐橋に出張して来た上杉輝虎は武蔵方面の北条方の城を攻め続けただけで、吾妻郡には進攻して来なかった。輝虎自身は来なかったが、三月になって三国峠の雪が溶けると越後から岩櫃城奪回のための援軍を呼び、岳山城に差し向けた。
一徳斎は越後の援軍が沼田の倉内城に入ったと知ると、岩櫃城に兵を集めると共に、信濃に出陣していた信玄に知らせた。信玄はすぐに答えて、甲斐から曽根七郎兵衛、信濃から清野刑部左衛門(ぎょうぶざえもん)を援軍として岩櫃城に送った。
善太夫は真田兵部丞と鎌原宮内少輔と共に岳山城に対する仙蔵(せんぞう)城に向かった。
岳山には続々と兵が集まって来ていた。越後から援軍が来ると聞いて士気は上がり、今にも攻めて来そうな気配だった。
三月の下旬、一千人余りの敵の援軍が到着して三野原(みのはら、蓑原)に陣を敷いた。斎藤軍は勢いを得て真田軍の布陣する成田原に攻めて来た。敵の勢いは物凄く、危うく敗れそうになった時、真田源太左衛門率いる信濃からの援軍が側面から攻め込んだため、敵は敗れて三野原まで引き下がって行った。その後、何度か小競り合いはあったが決着は着かなかった。
四月の初め、上杉輝虎は越後に帰った。信玄の誘いに応じた会津の芦名(あしな)氏が越後に侵入して来たためだった。
輝虎がいなくなると、信玄が余地(よち)峠を越えて上野に進攻して来た。信玄来るとの情報を耳にすると、斎藤軍は兵を引いて岳山城に籠もった。
善太夫はその戦のさなか、一徳斎の許しを得て、草津の山開きのため、久し振りに小雨村に帰った。
例年のごとく、雪に埋もれた道を草津に向かい、光泉寺にて山開きの儀式を済ますと後の事を三郎右衛門に任せて、善太夫は長野原城に向かった。
長野原城にて、新しく家臣となった日影(ひかげ)村の富沢権右衛門(ごんうえもん)、浦野佐左衛門(すけざえもん)、赤岩村の篠原勘兵衛、関作兵衛らと会い、彼らを引き連れて戦場に戻ったが、敵は岳山に引き籠もってしまっていた。
岳山の合戦も膠着(こうちゃく)状態となり、岳山の押えとして仙蔵城に甲府からの援軍、曽根七郎兵衛と信濃からの援軍、清野刑部左衛門が入ったため、善太夫らは岩櫃城に戻る事ができた。
暑い日の昼下り、善太夫は自分の屋敷の書院で一人、ぼんやりと庭に咲く山吹の花を眺めていた。
領地が増えてからというもの、善太夫は何かと忙しかった。
義兄の次郎右衛門が亡くなってしまった事が今更ながら悔やまれた。次郎右衛門を長野原城に入れて、三郎右衛門が草津を守ってくれれば安心できたのだったが、次郎右衛門のいない今、長野原城を任せるべき者がいなかった。次郎右衛門の遺児、小次郎はまだ二十歳で頼りない。とりあえず、家老である湯本伝左衛門の伜、五郎左衛門が城代として長野原を守っているが、次郎右衛門と比べると、やはり物足りなかった。
善太夫がぼんやりと考え事をしていると、珍しい男が入って来た。
円覚坊だった。
「お久し振りです」と円覚坊は笑っていたが、後ろに見知らぬ山伏を連れていた。
「熊野にでも行っていたのか」と善太夫は冗談を言った。
「熊野には行かんが、あっちこっちに行ってたわ」
「一徳斎殿の命でか」
円覚坊はうなづいた。
「一徳斎殿より、もうしばらく貸してくれと言われたわ」
「そうですか。実はお屋形、頼みがあるんじゃが」
「何じゃ」
「こいつなんじゃ」と円覚坊は後ろにいる山伏を前に出した。「東光坊(とうこうぼう)といって飯縄(いいづな)山の行者(ぎょうじゃ)じゃ。陰流の忍びを使う。わしの代わりにこいつを使って下され」
「わしの代わりに? まだ、隠居する年でもあるまい」
「早いもんで、わしももう五十じゃ。先もそう長い事はあるまい。隠居はせんが、後の人生を一徳斎殿のために働きたいと思ってるんじゃ」
「そうか‥‥‥」と善太夫は円覚坊を見つめた。
円覚坊には世話になりっぱなしだった。いつか、お礼をしたいと思いながらも何もしてやれなかった。今、この時期に、円覚坊を手放したくはなかったが、円覚坊の思い通りにしてやらなければならないと思った。
「お屋形はまだ若い。わしのような年寄りより、こいつを使った方がいい」と円覚坊は言った。そして、照れ臭そうに、「わしの伜じゃ」と付け足した。
善太夫は驚いて、改めて東光坊を見た。そう言われれば、どことなく円覚坊に似てない事もなかった。
「そなたにこんな立派な伜がおったのか‥‥‥ほう、こいつは驚きじゃ」
「お屋形、こいつの事を頼む」と円覚坊は頭を下げた。
「頭を上げてくれ。世話になったのはわしの方じゃ。そなたがいなかったら、わしは今のようにはなっていなかったじゃろう。頭を下げるのはこのわしの方じゃ」
「勿体ないお言葉‥‥‥」
「これからは、一徳斎殿のために働いてくれ」
その晩、善太夫は円覚坊と東光坊のために、ささやかな宴(えん)を開いた。
善太夫は久し振りに、円覚坊を師匠として武芸の修行に励んでいた若い頃を思い出していた。あの頃は善太夫も若かったが、円覚坊も若かった。丁度、今の東光坊くらいだったのかもしれない。あの頃、先の事など考えずに、ただひたすら武芸に打ち込んでいた。
冬になると、毎年、円覚坊と一緒に各地に旅に出た。
きつい旅だったが、楽しい旅だった。
酒を教えてくれたのも、女の遊び方を教えてくれたのも、博奕(ばくち)を教えてくれたのも円覚坊だった。
山賊退治(さんぞくたいじ)をした事もあった。
雨乞いの祈祷(きとう)をした事もあった。
旅芸人の一座と共に旅をして、舞台で踊った事もあった。
いつだったか、美濃の稲葉山城下(岐阜市)で博奕に勝って、何人もの遊女を呼んで馬鹿騒ぎをした事があった。美女に囲まれて、うまいものを食って、まるで、極楽にでもいるような気分だった。ところが、次の日は無一文となって、米を恵んで貰っていた。
いつも、行き当たりばったりの旅だったが、面白い旅だった。
善太夫は円覚坊と懐かしそうに昔の旅を思い出していた。
東光坊は自分の知らない父親の若い頃の話を興味深そうに聞いていた。
善太夫は円覚坊の意見に従って、次郎右衛門の遺児、小次郎を長野原城の城代に任命する事に決めた。善太夫が湯本家を継いだのは二十一歳だった。二十歳の小次郎だって長野原城を守る事はできるだろうと思った。
「人は自然と、与えられた器(うつわ)に合うように成長して行くもんじゃ。心配はいらん」と円覚坊は言った。
善太夫は信玄の饗応(きょうおう)役を命じられ、三日間、山の幸や川の幸を捜し求めて走り回っていた。時期が悪く、珍しい物などなかったが、信玄は機嫌よく食べてくれた。
今度来る時は是非、草津の湯に入れてくれと信玄は善太夫に一言言って鎌原に向かった。善太夫は宮内少輔に信玄の好む料理を教えるため、永泉坊を遣(つか)わしていた。
年が明けて、永禄七年(1564年)となった。
善太夫は岩櫃城内に屋敷を与えられ、家族を呼んで新年を岩櫃城で迎えた。
小雨村に帰る事も少なくなり、小雨村は義弟の三郎右衛門に任せっきりだった。
善太夫は三郎右衛門に頼み、甲府の信玄のもとへ、新年の挨拶として白根山の硫黄を送った。
二月になると信玄より各武将に感状が届き、善太夫は本領を安堵(あんど)されたばかりでなく、海野長門守の領地だった長野原一帯を新たに与えられた。当然、長野原城は善太夫のものとなった。今まで、草津の入り口を羽尾兄弟に押えられていたが、今、ようやく、入り口も湯本氏の領地となったのだった。信じられない程の嬉しさだった。
善太夫は、長門守の元家臣だった者たちを湯本家の家臣にするために家老の宮崎十郎右衛門を長野原城に送った。
廐橋に出張して来た上杉輝虎は武蔵方面の北条方の城を攻め続けただけで、吾妻郡には進攻して来なかった。輝虎自身は来なかったが、三月になって三国峠の雪が溶けると越後から岩櫃城奪回のための援軍を呼び、岳山城に差し向けた。
一徳斎は越後の援軍が沼田の倉内城に入ったと知ると、岩櫃城に兵を集めると共に、信濃に出陣していた信玄に知らせた。信玄はすぐに答えて、甲斐から曽根七郎兵衛、信濃から清野刑部左衛門(ぎょうぶざえもん)を援軍として岩櫃城に送った。
善太夫は真田兵部丞と鎌原宮内少輔と共に岳山城に対する仙蔵(せんぞう)城に向かった。
岳山には続々と兵が集まって来ていた。越後から援軍が来ると聞いて士気は上がり、今にも攻めて来そうな気配だった。
三月の下旬、一千人余りの敵の援軍が到着して三野原(みのはら、蓑原)に陣を敷いた。斎藤軍は勢いを得て真田軍の布陣する成田原に攻めて来た。敵の勢いは物凄く、危うく敗れそうになった時、真田源太左衛門率いる信濃からの援軍が側面から攻め込んだため、敵は敗れて三野原まで引き下がって行った。その後、何度か小競り合いはあったが決着は着かなかった。
四月の初め、上杉輝虎は越後に帰った。信玄の誘いに応じた会津の芦名(あしな)氏が越後に侵入して来たためだった。
輝虎がいなくなると、信玄が余地(よち)峠を越えて上野に進攻して来た。信玄来るとの情報を耳にすると、斎藤軍は兵を引いて岳山城に籠もった。
善太夫はその戦のさなか、一徳斎の許しを得て、草津の山開きのため、久し振りに小雨村に帰った。
例年のごとく、雪に埋もれた道を草津に向かい、光泉寺にて山開きの儀式を済ますと後の事を三郎右衛門に任せて、善太夫は長野原城に向かった。
長野原城にて、新しく家臣となった日影(ひかげ)村の富沢権右衛門(ごんうえもん)、浦野佐左衛門(すけざえもん)、赤岩村の篠原勘兵衛、関作兵衛らと会い、彼らを引き連れて戦場に戻ったが、敵は岳山に引き籠もってしまっていた。
岳山の合戦も膠着(こうちゃく)状態となり、岳山の押えとして仙蔵城に甲府からの援軍、曽根七郎兵衛と信濃からの援軍、清野刑部左衛門が入ったため、善太夫らは岩櫃城に戻る事ができた。
暑い日の昼下り、善太夫は自分の屋敷の書院で一人、ぼんやりと庭に咲く山吹の花を眺めていた。
領地が増えてからというもの、善太夫は何かと忙しかった。
義兄の次郎右衛門が亡くなってしまった事が今更ながら悔やまれた。次郎右衛門を長野原城に入れて、三郎右衛門が草津を守ってくれれば安心できたのだったが、次郎右衛門のいない今、長野原城を任せるべき者がいなかった。次郎右衛門の遺児、小次郎はまだ二十歳で頼りない。とりあえず、家老である湯本伝左衛門の伜、五郎左衛門が城代として長野原を守っているが、次郎右衛門と比べると、やはり物足りなかった。
善太夫がぼんやりと考え事をしていると、珍しい男が入って来た。
円覚坊だった。
「お久し振りです」と円覚坊は笑っていたが、後ろに見知らぬ山伏を連れていた。
「熊野にでも行っていたのか」と善太夫は冗談を言った。
「熊野には行かんが、あっちこっちに行ってたわ」
「一徳斎殿の命でか」
円覚坊はうなづいた。
「一徳斎殿より、もうしばらく貸してくれと言われたわ」
「そうですか。実はお屋形、頼みがあるんじゃが」
「何じゃ」
「こいつなんじゃ」と円覚坊は後ろにいる山伏を前に出した。「東光坊(とうこうぼう)といって飯縄(いいづな)山の行者(ぎょうじゃ)じゃ。陰流の忍びを使う。わしの代わりにこいつを使って下され」
「わしの代わりに? まだ、隠居する年でもあるまい」
「早いもんで、わしももう五十じゃ。先もそう長い事はあるまい。隠居はせんが、後の人生を一徳斎殿のために働きたいと思ってるんじゃ」
「そうか‥‥‥」と善太夫は円覚坊を見つめた。
円覚坊には世話になりっぱなしだった。いつか、お礼をしたいと思いながらも何もしてやれなかった。今、この時期に、円覚坊を手放したくはなかったが、円覚坊の思い通りにしてやらなければならないと思った。
「お屋形はまだ若い。わしのような年寄りより、こいつを使った方がいい」と円覚坊は言った。そして、照れ臭そうに、「わしの伜じゃ」と付け足した。
善太夫は驚いて、改めて東光坊を見た。そう言われれば、どことなく円覚坊に似てない事もなかった。
「そなたにこんな立派な伜がおったのか‥‥‥ほう、こいつは驚きじゃ」
「お屋形、こいつの事を頼む」と円覚坊は頭を下げた。
「頭を上げてくれ。世話になったのはわしの方じゃ。そなたがいなかったら、わしは今のようにはなっていなかったじゃろう。頭を下げるのはこのわしの方じゃ」
「勿体ないお言葉‥‥‥」
「これからは、一徳斎殿のために働いてくれ」
その晩、善太夫は円覚坊と東光坊のために、ささやかな宴(えん)を開いた。
善太夫は久し振りに、円覚坊を師匠として武芸の修行に励んでいた若い頃を思い出していた。あの頃は善太夫も若かったが、円覚坊も若かった。丁度、今の東光坊くらいだったのかもしれない。あの頃、先の事など考えずに、ただひたすら武芸に打ち込んでいた。
冬になると、毎年、円覚坊と一緒に各地に旅に出た。
きつい旅だったが、楽しい旅だった。
酒を教えてくれたのも、女の遊び方を教えてくれたのも、博奕(ばくち)を教えてくれたのも円覚坊だった。
山賊退治(さんぞくたいじ)をした事もあった。
雨乞いの祈祷(きとう)をした事もあった。
旅芸人の一座と共に旅をして、舞台で踊った事もあった。
いつだったか、美濃の稲葉山城下(岐阜市)で博奕に勝って、何人もの遊女を呼んで馬鹿騒ぎをした事があった。美女に囲まれて、うまいものを食って、まるで、極楽にでもいるような気分だった。ところが、次の日は無一文となって、米を恵んで貰っていた。
いつも、行き当たりばったりの旅だったが、面白い旅だった。
善太夫は円覚坊と懐かしそうに昔の旅を思い出していた。
東光坊は自分の知らない父親の若い頃の話を興味深そうに聞いていた。
善太夫は円覚坊の意見に従って、次郎右衛門の遺児、小次郎を長野原城の城代に任命する事に決めた。善太夫が湯本家を継いだのは二十一歳だった。二十歳の小次郎だって長野原城を守る事はできるだろうと思った。
「人は自然と、与えられた器(うつわ)に合うように成長して行くもんじゃ。心配はいらん」と円覚坊は言った。
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