2025 .02.02
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2007 .11.20
15.月見酒
岳山合戦は斎藤城虎丸(じょうこまる)の重臣、池田佐渡守(さどのかみ)の降伏によって、無駄な血を流さずに済んだ。
一時は越後の上杉輝虎と白井(しろい)の長尾左衛門尉(さえもんのじょう)が連合して、岳山城救援のために攻めて来るとの噂が流れ、一徳斎は倉賀野城を攻撃している武田信玄に援助を求めた。
信玄は安中越前入道と三河衆三百人程を援軍として送って来たが、越後からは二千余りの兵が木の根峠を越えて四万(しま)の奥まで出陣して来た。一徳斎は岩櫃城の守りを固めると共に、長男源太左衛門に七百の兵を付けて沢渡(さわたり)の伊賀野山に着陣させた。さらに、仙蔵城と稲荷城の守りを固めて敵の動きを見守った。
三野原(みのはら)一帯にて、川中島合戦のような武田軍と上杉軍の決戦が行なわれるかに思われたが、池田佐渡守が植栗主殿助(うえぐりとのものすけ)を使者として、稲荷城を守っていた植栗安房守(あわのかみ)を通して降伏を申し出て来た。
上杉方が有利の状況にありながら、佐渡守が降伏したのは戦をするには時期が悪かったからであった。ようやく、田植えが終わったばかりで、戦場となる三野原から成田原にかけて、青々とした苗が風に揺れていた。戦に勝ったとしても、田を踏み荒らされて苗が全滅してしまったら民衆は逃散(ちょうさん)してしまうし、一岩斎が戻って来ても会わせる顔がなかった。
一徳斎は佐渡守から人質を受け取って講和に応じた。四万の奥に布陣していた上杉軍は引き上げ、信玄からの援軍も帰って行った。
これで、吾妻郡の武士はすべて武田方となった。上杉輝虎が廐橋に来る冬までは、平和な時が流れるだろうと誰もが思って安堵(あんど)していた。
戦後の処理が一段落すると一徳斎は久し振りに本拠地の真田に帰って行った。
善太夫も久し振りに本拠地の草津に帰って、草津の湯にのんびりと浸かった。
草津の湯治客も徐々に増えつつあるようだった。武田方になった事によって、負傷した武田方の武将たちが来るようになり、一般の湯治客も信濃や甲斐の国から講(こう)を組んで来るようになっていた。ただ、戦に敗れて浪人となった武士が徒党(ととう)を組んでやって来るのには参っていた。
奴らは難癖(なんくせ)を付けて宿屋に居座り、酔っ払っては、やりたい放題の事をやっていた。知らせを受ければ、すぐに追い払ってやれるのだが、奴らは必ず人質を取って、宿屋の主人を威(おど)すので、主人も恐れて泣寝入りする場合が多かった。
善太夫は三郎右衛門に草津の出入り口を厳重にして、食いつめ浪人を入れないようにと命じていたが、奴らを取り締まるのは難しかった。負傷した武田家の武士に扮して別々に草津に入り、入ってから徒党を組んで悪さをしていた。表通りの大きな宿屋は狙わずに、目立たない裏通りの小さな宿屋ばかりを狙っていた。
善太夫は東光坊に食いつめ浪人を見つけ出すように命じた。東光坊はその日のうちに二つの宿屋を占拠していた八人の浪人を捕まえて来た。善太夫はその八人をみせしめとして、髷(まげ)を切って、草津の入り口の木に三日間ぶら下げておいた。三日後に解き放してやったが、炎天下のもと三日間もさらされ、立つ事もできない程、弱っていた。これで、浪人たちが来なくなるとは思えなかったが、しばらくの間は大丈夫だろうと思った。
八月の初め、五回目の川中島合戦が行なわれた。善太夫ら吾妻勢は参加しなかったが、真田源太左衛門は参加して、一徳斎は信濃に帰ったままだった。
池田佐渡守の降伏によって岳山は落ちた。しかし、まだ、油断はできなかった。越後に逃げて行った斎藤一岩斎が、このまま黙っているはずはない。いつか必ず、上杉の兵を引き連れて戻って来るに違いなかった。輝虎は今、川中島にて信玄と戦っているが、安全とは言えなかった。
善太夫は東光坊を使って各地の情報を集めながら、岩櫃城に残っている真田兵部丞を助けていた。
八月の十五日、善太夫は岩櫃城内の屋敷にて、一人で満月を眺めながら酒を飲んでいた。
善太夫が住んでいる屋敷は以前、海野能登守が住んでいた屋敷で、奉行所(ぶぎょうしょ)のある中城(なかじろ)と天狗の丸の中程にあり、平川戸(ひらかわと)の城下町の近くにあった。近くといっても途中に竹林があるため、城下町の喧噪は聞こえては来ない静かな所だった。ここに住めと勧めたのは能登守自身だった。剣術の稽古をするのに丁度いい立木があるからと能登守は善太夫に勧めた。
能登守の言った立木(たちぎ)は庭の片隅にあって、能登守が木剣を打ち込んだ跡が何ケ所も残っていた。善太夫もその木が気に入り、一徳斎に頼むと許してくれた。
武芸一筋の無骨者(ぶこつもの)だと思っていた能登守は以外と風流を好む男らしかった。
庭には花を咲かせる樹木が植えてあり、枯山水(かれさんすい)を思わす石も並べられ、四畳半の茶室も建っていた。床の間と違い棚の付いた書院もあり、能登守が置いていった茶道具や様々な書物もあった。兵法(ひょうほう)に関する書物だけでなく、歌集や連歌(れんが)の手引書、源氏物語まであったのには驚いた。
さらに驚いたのは床の間に飾ってあった掛軸(かけじく)の絵が能登守が描いたものだったとは信じられない事だった。
その絵は山奥にいる仙人を描いたもので、自然の中のちっぽけな人間を現していたが、その仙人が何とも言えないいい表情をしていた。生きている事がこの上もなく楽しいと言っているような表情だった。これが、あの能登守の求めている境地なのだろうかと思った。
能登守はしきりと愛洲移香斎の『和』の事を言っていた。能登守が考えた『和』の世界がこの絵なのだろうと思った。
善太夫は一人、酒を飲みながら満月を眺めていた。
久し振りにのんびりとした気分だった。
岩櫃城代になった当初、母と妻を岩櫃城に呼んだが、今は草津に返していた。斎藤一岩斎が生きている限り、ここはまた戦場となる可能性が高い。母も歳を取り、ここにいるよりも草津の湯に浸かっていたいと言うので、妻と一緒に草津にいてもらう事にした。
二人の娘を産んだ側室の小茶は次女のアキと一緒に小雨村にいた。小雨村には義理の母も住んでいる。義母は未亡人となった兄嫁と孫娘と一緒に暮らしていた。
兄の忘れ形見のヤエもそろそろ嫁に行く時期だった。義母より、いい相手を捜してくれと頼まれていたが、ようやく、縁談がまとまった。相手は沢渡(さわたり)の湯本九郎右衛門で、なかなか、しっかりした若者だった。
沢渡の湯本家は同族だったが、岩櫃城の斎藤氏の被官になっていた。九郎右衛門が五歳の時、父親が平井の合戦で戦死してしまったため、叔父に家督を奪われた。岩櫃の合戦の時、叔父は斎藤方として岩櫃城に入ったが、九郎右衛門は善太夫の執り成しもあって武田方に寝返った。叔父は戦死し、九郎右衛門は家督を取り戻した。湯本家を団結させるためにも、沢渡の湯本家との縁組は喜ぶべきものだった。来年の春、吉日を選んで祝言を挙げる予定になっていた。
長野原城にはつい最近、側室に迎えた初(はつ)という十八の娘がいた。長野原が善太夫の領地となった時、新しく召し抱えた浦野佐左衛門(すけざえもん)の妹だった。
佐左衛門は善太夫に跡継ぎがない事を知っていた。そこで自分の妹を差し出した。新しく家臣となったため新参者(しんざんもの)として扱われ、古参の者にはかなわないと見て、妹を差し出したのだった。もし、妹が跡継ぎを産めば、跡継ぎの伯父として権力の座に座れるとたくらんでいる事は見え見えだった。善太夫は断ろうとしたが、佐左衛門は手回しよく、善太夫にその娘を会わせてしまった。
桜が満開の頃、善太夫は佐左衛門の案内で長野原城下を見回っていた。琴の音色に誘われて諏訪明神の境内に入ると、桜の花の下で琴を弾いている娘がいた。
桜の花びらの散る中、琴を弾く娘の姿はこの世のものとは思えない程の美しさだった。
善太夫は娘の美しさに見とれ、琴の音色に聞き惚れ、いつまでも立ち尽くしていた。
琴の音が止まると娘は善太夫に頭を下げた。
「妹の初です」と佐左衛門が言った。
善太夫は娘と佐左衛門を見比べた。
「さては、罠(わな)に掛けたな」と善太夫が言うと、「とんでもございません」と佐左衛門は慌てて手を振った。
「初の奴がどうしても、お屋形様に琴を聞いて頂きたいと申したものですから」
「ほう。おぬしの考えではなくて、妹の考えだと言うのか」
「はい。妹は以前よりお屋形様の事を慕っておりました」
「嘘を言うな。今まで一度も会った事もないわ」
「いいえ。岩櫃城が落城する以前、ここが本陣となった折、妹はここでお屋形様を見ております」
「あの時、ここにいたのか‥‥‥」
「はい。妹は城下の女たちと一緒に飯の支度をしておりました」
「そうじゃったのか‥‥‥」
佐左衛門の言っている事がすべて本当だとは思わなかったが、善太夫は佐左衛門の妹を気に入ってしまった。佐左衛門が何をたくらんでいようとも、初を側室として有り難く貰う事にした。
佐左衛門は妹が側室になった事によって、やたらと善太夫に近づいて来た。初め、抜け目のない奴と敬遠していたが、付き合ってみるとそれ程、ずる賢い男ではないようだった。
生い立ちが善太夫に似ていた。次男だったため、幼い頃から山伏になるように育てられた。草津の白根明神にて修行を積み、遠く熊野(和歌山県)や大峯山(奈良県)にも修行に行ったという。善太夫より二つ年下で、善太夫が白根明神で修行していたのを知っていて、自分も善太夫のような修験者(しゅげんじゃ)になりたいと憧れていたという。善太夫が父と兄の戦死によって湯本家を継いだように、佐左衛門も父と兄の戦死によって浦野家を継ぎ、海野長門守に仕える事となった。
長門守は主人と仰ぐに足る人物だったが、その兄、道雲が問題だった。いい年をして若い女と見れば見境がなく、妹を差し出せと言われて、きっぱり断ってから、道雲は佐左衛門に辛く当たるようになって行った。その事を長門守に言っても、長門守は岩櫃城にいる事が多く、道雲の嫌がらせが止む事はなかった。いっそ、この土地を離れようかとも思ったが、そんな事をしたら、家族や家来たちが路頭に迷う事になる。じっと我慢して耐えて来た所、善太夫らが道雲を追い出してくれたので飛び上がらんばかりに喜んだ。そこで、道雲を追い出してくれたお礼として、妹を尊敬していた善太夫の側室に送り出したという。
その話を聞いてから善太夫は佐左衛門を信用するようになり、岩櫃城に呼んで使番(つかいばん)の頭(かしら)に命じた。
使番とは連絡係で、善太夫の命令を家臣たちに伝えるために走る使者の事である。今まで、善太夫は特に使番という者を決めてはいなかった。草津にいた頃、使番など一々決める必要などなかった。ところが、今は岩櫃城代であり、長野原城主であり、草津の領主でもあった。今まで、常にそばにいた家臣たちも三ケ所に分かれる事となって、ちょっとした事を伝えるにも使番が必要となった。善太夫は佐左衛門が元山伏だったという所を見込んで、すべてを佐左衛門に任せた。
何日か経って、佐左衛門は若い男を十人連れて来た。身が軽く、足が速く、武芸も身に付け、しかも、読み書きのできる者ばかりだという。
善太夫は彼らを使番として身近に置く事にした。
善太夫が書院にて月を眺めていると、突然、庭に現れた者があった。無断で庭に入って来る者などいないはずだった。
善太夫は曲者(くせもの)だと思って、そばに置いておいた刀を手にして相手を見つめた。
近づいて来る影は女だった。女は善太夫の方を見て笑っていた。
ナツメだった。
「淋しいわね、独りでお月見?」とナツメは言いながら近寄って来た。
「まさか、幽霊じゃないだろうな?」と善太夫は言った。
「なに言ってんのよ。あたしは死んじゃいないわよ」
「どうやって、ここに入った」
「どうやってって、そこの門からよ」
ナツメは広縁に上がると、善太夫の隣に座り込んだ。
「門は閉まっていたはずじゃ」と善太夫は言った。
「あら、開いてたわよ」とナツメは言った。
「そうか」と善太夫は首を傾げてから、ナツメを見つめて、「そこの門は開いてたにしろ、城の門は閉まっていたはずじゃ」と言った。
「閉まってたけど、門番の人が開けてくれたわ」とナツメは当たり前の事のように言って、善太夫からお椀を奪うと酒を一口なめた。「あぁ、おいしい」
「開けてくれたって?」と善太夫は聞き返した。
「そうよ。ちょっと待たされたけどね」
「信じられん」
「いいじゃない、そんな事。現にあたしがここにいるんだから」
「そうもいかん。簡単に城内に入られたら、この城はすぐに落ちてしまう」
「真面目ね。心配ないわ。門番はちゃんとやってるわ。武田のお屋形様に頼まれて、お塩を運んで来たのよ」
「なに、塩をか」
「そう。草津にも運んでおいたわ」
「『小野屋』は塩の商いもやっているのか」
「何でもやるのよ。今、お塩に困ってたんでしょ」
「ああ」と善太夫はうなづいた。
吾妻郡は古くから、越後より塩を仕入れていた。しかし、武田方となって以来、越後から塩が入って来なくなっていた。仕方なく信濃から送って貰っているが、以前のようには手に入らない。特に草津では塩の需要(じゅよう)が高く、値が上がる一方で困っていた。改めて塩のありがたさが分かったが、このまま放ってはおけなかった。
「どれ位あるんじゃ」と善太夫は聞いた。
「欲しいだけあるわ」とナツメは笑った。
「ありがたい事じゃ。感謝する」善太夫は頭を下げた。
「なに、改まってるの。あたしは『小野屋』の主人として、ここに来たんじゃないのよ。昔馴染みに会いに来ただけよ」
「そうか‥‥‥昔馴染みか‥‥‥早いもんじゃな」
「なにが」とナツメは聞いた。
「月日の経つのがじゃ」
「そうね‥‥‥早いわね。前にこうしてお月見したのは、いつだったかしら」
「あれは確か、兄貴が戦死して一年目の秋じゃった」
「覚えててくれたの」
「覚えてるさ。あの時のわしはそなたに夢中じゃったからな。来年また来ると言って帰ったんで、翌年、わしは山開きの後、毎日、白根明神の大鳥居まで迎えに行っておった」
「嘘ばっかし」とナツメは横目で善太夫を見た。
「まあ、実際には行かなかったが、気持ちは行っていた」
「あたしだって、来たかったのよ。でもね、色々とあってね」
「色々とか‥‥‥わしも色々とあったのう」
善太夫はあれから何年経ったのだろうかと心の中で数えていた。随分と昔の事のように思えるし、つい昨日の事のようにも思えた。
「奥方様はどうしたの」とナツメは聞いた。「ここにはいないの?」
「草津じゃ。ここはまだ危ないんでな」
「そんな事言って、他の女を囲ってるんでしょ」
「いや、側室がいないとはいわんが、ここにはおらん」
「お小茶様とお初様ね」とナツメは言った。
善太夫は驚いて、「どうして知ってるんじゃ」と聞いた。
「母上様から聞いたのよ」
「母上に会ったのか」
ナツメはうなづいた。「懐かしがってくれたわ。跡継ぎ様がいないんですってね。あたしがあなたのお嫁さんになってくれたらよかったのにって言ってくれたわ」
「そうか‥‥‥母上はそなたの事を気に入ってたからな」
「あたしが産んであげましょうか」とナツメは世間話のように言った。
「馬鹿な」と善太夫は言いながらも、ナツメが産んでくれたら、素晴しい跡継ぎができるかもしれないと思った。
「無理ね」とナツメは首を振った。「あたしはあなたの側室にはなれないわ」
ナツメは淋しそうに笑った。その笑顔は十二年前と少しも変わっていないように感じられた。
「お初様って綺麗な人ね」とナツメは月を見上げながら言った。
「そうか‥‥‥なに、初にも会ったのか」
「気になってね。ちょっと、覗いて来たの」
「覗いて来た?」
「お塩を運んだ時ね、ちょっと見たのよ‥‥‥うまい事やったじゃない」
「成り行きじゃ」と善太夫は何でもない事のように言った。
「この色男が」とナツメは突然、善太夫の足をつねった。
物凄く痛かったが、ナツメが嫉妬していると思うと嬉しくもあった。
ナツメは月を眺めたまま、「若い娘にはかなわないわね」とつぶやいた。
「さっき、武田のお屋形様に頼まれて、塩を持って来たと言ったな」と善太夫は話題を変えた。
「言ったわ」
「信玄殿と面識があるのか」
「ええ。北条のお屋形様のお使いで何度も会ったわ」
「凄いもんじゃな。北条のお屋形様にしろ、武田のお屋形様にしろ、そう簡単に会えるお人じゃない」
「お侍(さむらい)だからよ」とナツメは言った。「お侍は身分が色々とあるから会う事ができないのよ。商人は武士よりは身分は低いけど、御足(おあし、銭)という手段で取り引きをしてるから、御足の上では対等に会う事ができるの。それと、あたしが女という事もあるんでしょうけどね」
「上杉のお屋形様はどうじゃ、会ったか」
善太夫は冗談として聞いたが、「会ったわ」とナツメは簡単に答えた。
「会ったじゃと、上杉は敵の大将じゃぞ」
「敵でも取り引きができれば、それでいいのよ。今回、持って来たお塩は越後のお塩よ」
「なんじゃ、越後の塩じゃと?」
「そうよ。上杉のお屋形様から買って来たのよ」
「なんという大胆な。上杉のお屋形様は、その塩がどこに行くのか知ってるのか」
「一々、説明はしなかったけど、頭のいいお方だから気づいてるんじゃないの」
「銭で買ったのか」
「銭じゃ売らないわよ」
「銭じゃないのか」
「御足があれば何でも手に入ると思うけど、そうじゃないわ。御足があっても買えないものがあるの。そういう物を持って行けば、欲しい物と取り換えられるっていうわけ」
「塩と何を取り換えたんだ」
「馬よ、甲斐の馬。越後は馬が少ないのよ。戦には馬が必要だわ。上杉のお屋形様は馬が欲しくて、信濃に進攻しようとしてるのよ。だから、馬を持って行ったら、喜んで、お塩をくれたわ」
「成程、馬じゃったのか‥‥‥しかし、馬を持って行って、塩を持って帰って来ただけじゃ、儲けにはなるまい。行って帰って来るだけ疲れるだけじゃ」
「馬鹿ね」とナツメは笑った。「そう考えるのがお侍なのよ。たとえばね、甲斐で馬を十頭買うのに金十両するとするわね。その馬を越後に持って行ったら十五両になるのよ。その十五両でお塩を買って来るわけよ」
「五両も儲かるのか?」
「いいえ、十五両で買って来たお塩を甲斐に持って行くと二十両で売れるというわけよ」
「行って帰って来るだけで、十両も儲かるのか」
「例えばの話よ。でも、そうやって稼いで行くのよ」
「そうか、ない所に持って行けば高く売れるというわけじゃな」
「そういう事、分かった?」
「うむ、分かった。ない所に持って行くか‥‥‥」
善太夫が考えていると、「戦の駆け引きだって、似たようなもんでしょ」とナツメは言った。
「敵の弱点を突く事が勝利をもたらす。それには敵をよく知らなければならないわ。商売も同じ。敵じゃないけど、取り引きする相手をよく知らなければならないのよ」
「うむ‥‥‥しかし、そなたは大した女子(おなご)じゃ。上杉のお屋形様と武田のお屋形様を手玉(てだま)に取ってるようじゃのう」
「そんな大袈裟な事を言わないでよ。あたしだって、ただの女よ」
「恐ろしい女子じゃ」
「そんな目で見ないでよ。いやね」
善太夫は笑った。
誰もに恐れられている上杉輝虎と武田信玄が、目の前にいるナツメに手玉に取られたかと思うと急におかしくなって来た。そして、岩櫃城の城代になった位で喜んでいた自分がちっぽけな存在に見えて来た。
途方もない事をやっておきながら、何でもない事のように言うナツメ。目の前にいるナツメは昔のように可愛く、そんな事をする女には、とても見えなかったが、自分も負けてはおれん、もっともっと大きくならなければならんと善太夫は肝に銘じていた。
池田佐渡守の降伏によって岳山は落ちた。しかし、まだ、油断はできなかった。越後に逃げて行った斎藤一岩斎が、このまま黙っているはずはない。いつか必ず、上杉の兵を引き連れて戻って来るに違いなかった。輝虎は今、川中島にて信玄と戦っているが、安全とは言えなかった。
善太夫は東光坊を使って各地の情報を集めながら、岩櫃城に残っている真田兵部丞を助けていた。
八月の十五日、善太夫は岩櫃城内の屋敷にて、一人で満月を眺めながら酒を飲んでいた。
善太夫が住んでいる屋敷は以前、海野能登守が住んでいた屋敷で、奉行所(ぶぎょうしょ)のある中城(なかじろ)と天狗の丸の中程にあり、平川戸(ひらかわと)の城下町の近くにあった。近くといっても途中に竹林があるため、城下町の喧噪は聞こえては来ない静かな所だった。ここに住めと勧めたのは能登守自身だった。剣術の稽古をするのに丁度いい立木があるからと能登守は善太夫に勧めた。
能登守の言った立木(たちぎ)は庭の片隅にあって、能登守が木剣を打ち込んだ跡が何ケ所も残っていた。善太夫もその木が気に入り、一徳斎に頼むと許してくれた。
武芸一筋の無骨者(ぶこつもの)だと思っていた能登守は以外と風流を好む男らしかった。
庭には花を咲かせる樹木が植えてあり、枯山水(かれさんすい)を思わす石も並べられ、四畳半の茶室も建っていた。床の間と違い棚の付いた書院もあり、能登守が置いていった茶道具や様々な書物もあった。兵法(ひょうほう)に関する書物だけでなく、歌集や連歌(れんが)の手引書、源氏物語まであったのには驚いた。
さらに驚いたのは床の間に飾ってあった掛軸(かけじく)の絵が能登守が描いたものだったとは信じられない事だった。
その絵は山奥にいる仙人を描いたもので、自然の中のちっぽけな人間を現していたが、その仙人が何とも言えないいい表情をしていた。生きている事がこの上もなく楽しいと言っているような表情だった。これが、あの能登守の求めている境地なのだろうかと思った。
能登守はしきりと愛洲移香斎の『和』の事を言っていた。能登守が考えた『和』の世界がこの絵なのだろうと思った。
善太夫は一人、酒を飲みながら満月を眺めていた。
久し振りにのんびりとした気分だった。
岩櫃城代になった当初、母と妻を岩櫃城に呼んだが、今は草津に返していた。斎藤一岩斎が生きている限り、ここはまた戦場となる可能性が高い。母も歳を取り、ここにいるよりも草津の湯に浸かっていたいと言うので、妻と一緒に草津にいてもらう事にした。
二人の娘を産んだ側室の小茶は次女のアキと一緒に小雨村にいた。小雨村には義理の母も住んでいる。義母は未亡人となった兄嫁と孫娘と一緒に暮らしていた。
兄の忘れ形見のヤエもそろそろ嫁に行く時期だった。義母より、いい相手を捜してくれと頼まれていたが、ようやく、縁談がまとまった。相手は沢渡(さわたり)の湯本九郎右衛門で、なかなか、しっかりした若者だった。
沢渡の湯本家は同族だったが、岩櫃城の斎藤氏の被官になっていた。九郎右衛門が五歳の時、父親が平井の合戦で戦死してしまったため、叔父に家督を奪われた。岩櫃の合戦の時、叔父は斎藤方として岩櫃城に入ったが、九郎右衛門は善太夫の執り成しもあって武田方に寝返った。叔父は戦死し、九郎右衛門は家督を取り戻した。湯本家を団結させるためにも、沢渡の湯本家との縁組は喜ぶべきものだった。来年の春、吉日を選んで祝言を挙げる予定になっていた。
長野原城にはつい最近、側室に迎えた初(はつ)という十八の娘がいた。長野原が善太夫の領地となった時、新しく召し抱えた浦野佐左衛門(すけざえもん)の妹だった。
佐左衛門は善太夫に跡継ぎがない事を知っていた。そこで自分の妹を差し出した。新しく家臣となったため新参者(しんざんもの)として扱われ、古参の者にはかなわないと見て、妹を差し出したのだった。もし、妹が跡継ぎを産めば、跡継ぎの伯父として権力の座に座れるとたくらんでいる事は見え見えだった。善太夫は断ろうとしたが、佐左衛門は手回しよく、善太夫にその娘を会わせてしまった。
桜が満開の頃、善太夫は佐左衛門の案内で長野原城下を見回っていた。琴の音色に誘われて諏訪明神の境内に入ると、桜の花の下で琴を弾いている娘がいた。
桜の花びらの散る中、琴を弾く娘の姿はこの世のものとは思えない程の美しさだった。
善太夫は娘の美しさに見とれ、琴の音色に聞き惚れ、いつまでも立ち尽くしていた。
琴の音が止まると娘は善太夫に頭を下げた。
「妹の初です」と佐左衛門が言った。
善太夫は娘と佐左衛門を見比べた。
「さては、罠(わな)に掛けたな」と善太夫が言うと、「とんでもございません」と佐左衛門は慌てて手を振った。
「初の奴がどうしても、お屋形様に琴を聞いて頂きたいと申したものですから」
「ほう。おぬしの考えではなくて、妹の考えだと言うのか」
「はい。妹は以前よりお屋形様の事を慕っておりました」
「嘘を言うな。今まで一度も会った事もないわ」
「いいえ。岩櫃城が落城する以前、ここが本陣となった折、妹はここでお屋形様を見ております」
「あの時、ここにいたのか‥‥‥」
「はい。妹は城下の女たちと一緒に飯の支度をしておりました」
「そうじゃったのか‥‥‥」
佐左衛門の言っている事がすべて本当だとは思わなかったが、善太夫は佐左衛門の妹を気に入ってしまった。佐左衛門が何をたくらんでいようとも、初を側室として有り難く貰う事にした。
佐左衛門は妹が側室になった事によって、やたらと善太夫に近づいて来た。初め、抜け目のない奴と敬遠していたが、付き合ってみるとそれ程、ずる賢い男ではないようだった。
生い立ちが善太夫に似ていた。次男だったため、幼い頃から山伏になるように育てられた。草津の白根明神にて修行を積み、遠く熊野(和歌山県)や大峯山(奈良県)にも修行に行ったという。善太夫より二つ年下で、善太夫が白根明神で修行していたのを知っていて、自分も善太夫のような修験者(しゅげんじゃ)になりたいと憧れていたという。善太夫が父と兄の戦死によって湯本家を継いだように、佐左衛門も父と兄の戦死によって浦野家を継ぎ、海野長門守に仕える事となった。
長門守は主人と仰ぐに足る人物だったが、その兄、道雲が問題だった。いい年をして若い女と見れば見境がなく、妹を差し出せと言われて、きっぱり断ってから、道雲は佐左衛門に辛く当たるようになって行った。その事を長門守に言っても、長門守は岩櫃城にいる事が多く、道雲の嫌がらせが止む事はなかった。いっそ、この土地を離れようかとも思ったが、そんな事をしたら、家族や家来たちが路頭に迷う事になる。じっと我慢して耐えて来た所、善太夫らが道雲を追い出してくれたので飛び上がらんばかりに喜んだ。そこで、道雲を追い出してくれたお礼として、妹を尊敬していた善太夫の側室に送り出したという。
その話を聞いてから善太夫は佐左衛門を信用するようになり、岩櫃城に呼んで使番(つかいばん)の頭(かしら)に命じた。
使番とは連絡係で、善太夫の命令を家臣たちに伝えるために走る使者の事である。今まで、善太夫は特に使番という者を決めてはいなかった。草津にいた頃、使番など一々決める必要などなかった。ところが、今は岩櫃城代であり、長野原城主であり、草津の領主でもあった。今まで、常にそばにいた家臣たちも三ケ所に分かれる事となって、ちょっとした事を伝えるにも使番が必要となった。善太夫は佐左衛門が元山伏だったという所を見込んで、すべてを佐左衛門に任せた。
何日か経って、佐左衛門は若い男を十人連れて来た。身が軽く、足が速く、武芸も身に付け、しかも、読み書きのできる者ばかりだという。
善太夫は彼らを使番として身近に置く事にした。
善太夫が書院にて月を眺めていると、突然、庭に現れた者があった。無断で庭に入って来る者などいないはずだった。
善太夫は曲者(くせもの)だと思って、そばに置いておいた刀を手にして相手を見つめた。
近づいて来る影は女だった。女は善太夫の方を見て笑っていた。
ナツメだった。
「淋しいわね、独りでお月見?」とナツメは言いながら近寄って来た。
「まさか、幽霊じゃないだろうな?」と善太夫は言った。
「なに言ってんのよ。あたしは死んじゃいないわよ」
「どうやって、ここに入った」
「どうやってって、そこの門からよ」
ナツメは広縁に上がると、善太夫の隣に座り込んだ。
「門は閉まっていたはずじゃ」と善太夫は言った。
「あら、開いてたわよ」とナツメは言った。
「そうか」と善太夫は首を傾げてから、ナツメを見つめて、「そこの門は開いてたにしろ、城の門は閉まっていたはずじゃ」と言った。
「閉まってたけど、門番の人が開けてくれたわ」とナツメは当たり前の事のように言って、善太夫からお椀を奪うと酒を一口なめた。「あぁ、おいしい」
「開けてくれたって?」と善太夫は聞き返した。
「そうよ。ちょっと待たされたけどね」
「信じられん」
「いいじゃない、そんな事。現にあたしがここにいるんだから」
「そうもいかん。簡単に城内に入られたら、この城はすぐに落ちてしまう」
「真面目ね。心配ないわ。門番はちゃんとやってるわ。武田のお屋形様に頼まれて、お塩を運んで来たのよ」
「なに、塩をか」
「そう。草津にも運んでおいたわ」
「『小野屋』は塩の商いもやっているのか」
「何でもやるのよ。今、お塩に困ってたんでしょ」
「ああ」と善太夫はうなづいた。
吾妻郡は古くから、越後より塩を仕入れていた。しかし、武田方となって以来、越後から塩が入って来なくなっていた。仕方なく信濃から送って貰っているが、以前のようには手に入らない。特に草津では塩の需要(じゅよう)が高く、値が上がる一方で困っていた。改めて塩のありがたさが分かったが、このまま放ってはおけなかった。
「どれ位あるんじゃ」と善太夫は聞いた。
「欲しいだけあるわ」とナツメは笑った。
「ありがたい事じゃ。感謝する」善太夫は頭を下げた。
「なに、改まってるの。あたしは『小野屋』の主人として、ここに来たんじゃないのよ。昔馴染みに会いに来ただけよ」
「そうか‥‥‥昔馴染みか‥‥‥早いもんじゃな」
「なにが」とナツメは聞いた。
「月日の経つのがじゃ」
「そうね‥‥‥早いわね。前にこうしてお月見したのは、いつだったかしら」
「あれは確か、兄貴が戦死して一年目の秋じゃった」
「覚えててくれたの」
「覚えてるさ。あの時のわしはそなたに夢中じゃったからな。来年また来ると言って帰ったんで、翌年、わしは山開きの後、毎日、白根明神の大鳥居まで迎えに行っておった」
「嘘ばっかし」とナツメは横目で善太夫を見た。
「まあ、実際には行かなかったが、気持ちは行っていた」
「あたしだって、来たかったのよ。でもね、色々とあってね」
「色々とか‥‥‥わしも色々とあったのう」
善太夫はあれから何年経ったのだろうかと心の中で数えていた。随分と昔の事のように思えるし、つい昨日の事のようにも思えた。
「奥方様はどうしたの」とナツメは聞いた。「ここにはいないの?」
「草津じゃ。ここはまだ危ないんでな」
「そんな事言って、他の女を囲ってるんでしょ」
「いや、側室がいないとはいわんが、ここにはおらん」
「お小茶様とお初様ね」とナツメは言った。
善太夫は驚いて、「どうして知ってるんじゃ」と聞いた。
「母上様から聞いたのよ」
「母上に会ったのか」
ナツメはうなづいた。「懐かしがってくれたわ。跡継ぎ様がいないんですってね。あたしがあなたのお嫁さんになってくれたらよかったのにって言ってくれたわ」
「そうか‥‥‥母上はそなたの事を気に入ってたからな」
「あたしが産んであげましょうか」とナツメは世間話のように言った。
「馬鹿な」と善太夫は言いながらも、ナツメが産んでくれたら、素晴しい跡継ぎができるかもしれないと思った。
「無理ね」とナツメは首を振った。「あたしはあなたの側室にはなれないわ」
ナツメは淋しそうに笑った。その笑顔は十二年前と少しも変わっていないように感じられた。
「お初様って綺麗な人ね」とナツメは月を見上げながら言った。
「そうか‥‥‥なに、初にも会ったのか」
「気になってね。ちょっと、覗いて来たの」
「覗いて来た?」
「お塩を運んだ時ね、ちょっと見たのよ‥‥‥うまい事やったじゃない」
「成り行きじゃ」と善太夫は何でもない事のように言った。
「この色男が」とナツメは突然、善太夫の足をつねった。
物凄く痛かったが、ナツメが嫉妬していると思うと嬉しくもあった。
ナツメは月を眺めたまま、「若い娘にはかなわないわね」とつぶやいた。
「さっき、武田のお屋形様に頼まれて、塩を持って来たと言ったな」と善太夫は話題を変えた。
「言ったわ」
「信玄殿と面識があるのか」
「ええ。北条のお屋形様のお使いで何度も会ったわ」
「凄いもんじゃな。北条のお屋形様にしろ、武田のお屋形様にしろ、そう簡単に会えるお人じゃない」
「お侍(さむらい)だからよ」とナツメは言った。「お侍は身分が色々とあるから会う事ができないのよ。商人は武士よりは身分は低いけど、御足(おあし、銭)という手段で取り引きをしてるから、御足の上では対等に会う事ができるの。それと、あたしが女という事もあるんでしょうけどね」
「上杉のお屋形様はどうじゃ、会ったか」
善太夫は冗談として聞いたが、「会ったわ」とナツメは簡単に答えた。
「会ったじゃと、上杉は敵の大将じゃぞ」
「敵でも取り引きができれば、それでいいのよ。今回、持って来たお塩は越後のお塩よ」
「なんじゃ、越後の塩じゃと?」
「そうよ。上杉のお屋形様から買って来たのよ」
「なんという大胆な。上杉のお屋形様は、その塩がどこに行くのか知ってるのか」
「一々、説明はしなかったけど、頭のいいお方だから気づいてるんじゃないの」
「銭で買ったのか」
「銭じゃ売らないわよ」
「銭じゃないのか」
「御足があれば何でも手に入ると思うけど、そうじゃないわ。御足があっても買えないものがあるの。そういう物を持って行けば、欲しい物と取り換えられるっていうわけ」
「塩と何を取り換えたんだ」
「馬よ、甲斐の馬。越後は馬が少ないのよ。戦には馬が必要だわ。上杉のお屋形様は馬が欲しくて、信濃に進攻しようとしてるのよ。だから、馬を持って行ったら、喜んで、お塩をくれたわ」
「成程、馬じゃったのか‥‥‥しかし、馬を持って行って、塩を持って帰って来ただけじゃ、儲けにはなるまい。行って帰って来るだけ疲れるだけじゃ」
「馬鹿ね」とナツメは笑った。「そう考えるのがお侍なのよ。たとえばね、甲斐で馬を十頭買うのに金十両するとするわね。その馬を越後に持って行ったら十五両になるのよ。その十五両でお塩を買って来るわけよ」
「五両も儲かるのか?」
「いいえ、十五両で買って来たお塩を甲斐に持って行くと二十両で売れるというわけよ」
「行って帰って来るだけで、十両も儲かるのか」
「例えばの話よ。でも、そうやって稼いで行くのよ」
「そうか、ない所に持って行けば高く売れるというわけじゃな」
「そういう事、分かった?」
「うむ、分かった。ない所に持って行くか‥‥‥」
善太夫が考えていると、「戦の駆け引きだって、似たようなもんでしょ」とナツメは言った。
「敵の弱点を突く事が勝利をもたらす。それには敵をよく知らなければならないわ。商売も同じ。敵じゃないけど、取り引きする相手をよく知らなければならないのよ」
「うむ‥‥‥しかし、そなたは大した女子(おなご)じゃ。上杉のお屋形様と武田のお屋形様を手玉(てだま)に取ってるようじゃのう」
「そんな大袈裟な事を言わないでよ。あたしだって、ただの女よ」
「恐ろしい女子じゃ」
「そんな目で見ないでよ。いやね」
善太夫は笑った。
誰もに恐れられている上杉輝虎と武田信玄が、目の前にいるナツメに手玉に取られたかと思うと急におかしくなって来た。そして、岩櫃城の城代になった位で喜んでいた自分がちっぽけな存在に見えて来た。
途方もない事をやっておきながら、何でもない事のように言うナツメ。目の前にいるナツメは昔のように可愛く、そんな事をする女には、とても見えなかったが、自分も負けてはおれん、もっともっと大きくならなければならんと善太夫は肝に銘じていた。
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