2024 .11.21
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
享禄4(1531) | 次郎、生まれる。父は小雨の湯本下総守幸友、母は鎌原氏。 | 1歳 | |
鎌原氏、羽尾氏と共に、平井の上杉氏に属す。 | |||
9月3日 | 上杉憲政(8)、関東管領職に就く。 | ||
天文4(1535) | 4月 | 長野業政(37)、榛名神社に制令を出す。 | 5歳 |
天文6(1537) | 4月 | 扇谷上杉朝興(50)、河越城にて死す。朝定(13)跡を継ぐ。 | |
7月 | 北条氏綱、河越城を攻め落とし、北条綱成が入る。 | 7歳 | |
天文7(1538) | 北条氏綱、足利義明を討ち取った勲功により関東管領の御内書を得る。 | 8歳 | |
天文8(1539) | 11月 | 氏綱、鶴ケ岡八幡宮を修築する。 | 9歳 |
天文9(1540) | 1月 | 次郎、白根明神の御師になるため、大叔父の成就院のもとに入る。 | 10歳 |
天文10(1541) | 5月 | 真田幸隆(29)、海野平の合戦に敗れ、箕輪城の長野業政(43)を頼る。 | 11歳 |
6月10日 | 武田晴信、信虎を追放する。 | ||
7月 | 関東管領上杉憲政ら、海野棟綱の乞いにより村上義清を攻めるため佐久、小県に出兵する。 | ||
7月17日 | 北条氏綱(56)死す。 | ||
天文11(1542) | 夏 | 次郎、草津に来た真田幸隆(30)と会う。 | 12歳 |
天文12(1543) | この頃、真田幸隆は武田氏に属す。 | 13歳 | |
☆種子島に鉄砲伝来する。 | |||
天文14(1545) | 1月 | 次郎、元服し、瑞光坊を名乗る。 | 15歳 |
9月26日 | 上杉憲政、六万五千で河越城を包囲する。 | ||
10月 | 瑞光坊、円覚坊に連れられて旅に出る。 | ||
10月27日 | 古河公方晴氏(氏康妹婿)、二万の軍勢で出陣。 | ||
天文15(1546) | 3月 | 神保長国、植栗村に移住、植栗氏を称し植栗城主となる。 | 16歳 |
4月20日 | 河越夜戦、上杉方、北条方に敗れる。松山城も落とす。 | ||
上杉方の倉賀野三河守、赤堀上野守ら馬廻衆3000人戦死。 | |||
扇谷上杉朝定も討たれ、扇谷家は滅亡する。 | |||
長野業政の長男、吉業負傷し、それが原因で死亡。 | |||
上杉譜代の臣、大石源右衛門、藤田右衛門佐は北条に降伏する。 | |||
父下総守、叔父、善太夫戦死、他吾妻郡の武士、多数死す。 | |||
兄、太郎右衛門(20)、湯本家を継ぐ。瑞光坊、善太夫を継ぐ。 | |||
天文16(1547) | 8月6日 | 上杉憲政は、倉賀野、深谷、木部、白倉、安中、和田、後閑、三ノ倉、大胡、山上、尻高の騎兵約二万騎を率いて、碓氷峠に兵を進める。武田軍と激戦の末、上杉勢敗れる。上杉方の死傷者4200、武田方2140。 長野業政は出陣せず。吾妻勢も出陣せず。 |
17歳 |
天文17(1548) | 2月 | 上田原の戦い。武田晴信、村上義清に敗れる。真田幸隆も参戦。 | 18歳 |
12月 | 国峰城の小幡氏、北条方となり、緑野郡の小林氏を攻める。 | ||
長尾景虎、越後守護の斡旋により兄の跡を継ぎ、春日山城に入る。 | |||
天文18(1549) | 4月 | 晴信、佐久春日山城を攻略。望月、伴野ら武田に降りる。 | 19歳 |
8月 | 晴信、上野に出陣し三寺尾(寺尾、石原、乗付)にて安中、倉賀野、和田氏らを破る。 | ||
9月 | 晴信、佐久平原城を焼く。 | ||
天文19(1550) | 2月 | 越後守護上杉定実の死没により、景虎越後の実権を握る。 | 20歳 |
3月 | 足利長尾憲長(48)死す。当長、跡を継ぐ。 | ||
9月 | 晴信、戸石城を攻めるが落ちず、11月、退却。 | ||
天文20(1551) | 3月10日 | 北条氏康、三万余騎を率いて平井を攻めるが失敗し、小田原に帰る。 | 21歳 |
兄、太郎右衛門戦死。善太夫、湯本家を継ぐ。 | |||
5月26日 | 真田幸隆、戸石城を落とし、真田に復帰する。 | ||
秋 | 北条氏康、平井を攻める。 | ||
天文21(1552) | 1月 | 平井城、北条氏に攻められ落城。上杉憲政(30)、越後に落ちる。 | 22歳 |
平井城に北条幻庵置く。南上野国は北条領となる。 | |||
那波刑部大輔宗俊は北条方となり、足利長尾、横瀬、佐野、桐生、大胡、廐橋長尾らと戦う。河西衆(西上野衆)は北条方として那波を応援する。 | |||
天文22(1553) | 4月 | 村上義清、葛尾城を捨て、越後の上杉謙信を頼る。 | 23歳 |
8月 | 真田昌幸(7)、人質として甲府に行く。 | ||
8月 | 第一回川中島合戦。 | ||
天文23(1554) | 3月 | 甲相駿3国同盟成立。 | 24歳 |
10月 | 北条氏康、古河城を攻略し、晴氏、藤氏を捕え幽閉する。 | ||
この年、湯本小三郎生まれる。母は善太夫の妹、父は生須湯本三郎右衛門幸運。 | |||
天文24(1555) | 春 | 北条幻庵、厩橋城に入る。 | 25歳 |
7月 | 第二回川中島合戦。 | ||
弘治2(1556) | 3月 | 善太夫の長女、ナツ生まれる。 | 26歳 |
8月 | 真田幸隆、雨飾城を落とし城代となる。 | ||
この年、足利左馬頭義氏(氏康甥)、公方就任。 | |||
弘治3(1557) | 4月 | 武田晴信、上野に進攻し瓶尻(みかじり、富岡と松井田の間)にて長野業政と戦う。善太夫、負傷する。 | 27歳 |
8月 | 第三回川中島の戦。 | ||
この年以前、体光上人、廐橋長野弾正少弼、箕輪長野信濃守、上泉氏らと連歌。 | |||
永禄2(1559) | 3月15日 | 海野長門守幸光(53)、曹洞宗雲林寺(安中後閑長源寺末寺)創建。 | 29歳 |
4月 | 尻高重治死す。 | ||
5月 | 長尾景虎、上洛して将軍義輝に謁見する。 | ||
9月 | 武田晴信の兵は安中、松井田に進出する。この頃、出家して信玄を名乗る。 | ||
10月 | 岩櫃、岳山領の百姓、斎藤氏の圧政に耐え兼ねて、北条領の小野子村に逃散する。 | ||
この頃、武田晴信、信玄と号す。 | |||
永禄3(1560) | 春 | 鎌原宮内少輔、松尾城主真田幸隆を通じ、小諸城主甘利左衛門尉の仲介により信州平原において、信玄に謁し、その幕下となり援を請う。 | 30歳 |
5月 | 国嶺城主小幡尾張守信貞、草津湯治中に小幡図書助景純に居城を奪われる。信貞は妻子と共に甲斐へ行き、信玄を頼る。 | ||
5月19日 | 今川義元、桶狭間山にて織田信長に敗れる。 | ||
5月27日 | 古河公方足利晴氏死す。妻は北条氏康妹。 | ||
7月 | 善太夫の次女、アキ生まれる。 | ||
8月29日 | 長尾景虎、上杉憲政と共に八千余の兵を率いて上野進撃。 | ||
9月 | 北条氏康、景虎の上野進出に対し河越城に出陣。 | ||
9月19日 | 近衛前久、越後に下向する。 | ||
9月28日 | 景虎、沼田城を攻略、北条孫次郎敗死す。ついで廐橋城に入る。 | ||
白井長尾憲景、総社長尾顕景、長野業政、景虎の陣所に参陣する。 | |||
湯本、鎌原、海野氏も斎藤氏と共に岩下衆として斎陣。 | |||
廐橋城主の長野賢忠病死し、その子彦太郎も死に没落する。廐橋城には河田豊前守長親が入る。 | |||
10月 | 氏康、松山城に在城。 | ||
10月29日 | 景虎、上杉憲政を奉じて関東諸将に参陣を促す。越年する。 | ||
11月 | 斎藤憲広(55)は羽尾道雲(57)と結び、塩谷将監入道らに鎌原の館を攻めさせる。浦野下野守、湯本善太夫、横谷左近らの一族がこれを防いだので失敗し、義弟の大戸真楽斎(53)をやって和を講じる。海野兄弟、岩櫃城下に 屋敷を与えられる。 | ||
12月 | 那波顕宗、景虎に降伏する。那波城に北条丹後守高広が入る。 | ||
この頃、幸隆を通じて海野一族が信玄へ随順。海野城築城に幸隆も助力。 | |||
永禄4(1561) | 2月2日 | 信玄(41)、小幡信貞の支援の元に国峰城を攻略。 | 31歳 |
3月 | 景虎(32)、関東の兵を徴収し、小田原攻撃、包囲する。 | ||
閏3月 | 景虎、鎌倉鶴ケ岡八幡宮に拝賀。関東管領に就任する。政虎と改名する。 | ||
6月 | 政虎、帰国する。 | ||
6月21日 | 長野業政(1499-,63)没する。右京進氏業、跡を継ぐ。 | ||
7月 | 岩付の太田資正、松山城を奪回し、上杉憲勝を城主に据える。 | ||
8月 | 信玄、真田幸隆、甘利をして岩櫃城を攻める。憲広は善導寺の住僧を仲に和睦して信玄の軍門に下る。 | ||
8月 | 大暴風雨にて尻高法楽寺倒壊。 | ||
9月 | 第四回川中島の戦。信玄弟、信繁、山本勘助戦死。 | ||
10月上旬 | 鎌原、羽尾合戦。湯本善大夫、羽尾入道道雲、海野長門守幸光、富沢加賀守庸運、浦野下野守、浦野中務大夫、横谷左近将監、大戸真楽斎らと鎌原宮内少輔(43)を攻める。鎌原方は、嫡子筑前守(21)、西窪佐渡守、家子 今井、樋口ら。 | ||
10月下旬 | 赤羽根合戦。斎藤憲広、鎌原城を攻める。鎌原宮内少輔、常林寺の僧を仲介として憲広と和議する。 | ||
11月 | 政虎、関東に出陣、武蔵生山にて北条軍と戦う。 | ||
政虎、廐橋城に北条高広を入れ、沼田倉内城に河田長親を入れる。 | |||
11月18日 | 信玄、北条氏康を助けて上野出陣、高田城(妙義町)、国峰城を落とす。 | ||
12月初旬 | 信玄、氏康と共に倉賀野城の倉賀野左衛門五郎直行を攻める。倉賀野城を守備した橋爪若狭守、守りを固めて両軍を退ける。 | ||
12月 | 上杉政虎、将軍義輝より『輝』の字を賜り、輝虎と改名する。 | ||
永禄5(1562) | 2月 | 輝虎、館林城を落とす。城主赤井文六照康、助命され、いずこともなく落ちて行く。館林城には長尾景長が入る。 | 32歳 |
3月 | 輝虎、佐野城を攻め、帰国する。 | ||
3月 | 信玄、鎌原、羽尾領を検地し境界線を決める。 | ||
鎌原宮内少輔、信州に退去して信玄の保護を受ける。鎌原領200貫余は羽尾領となる。 | |||
3月9日 | 信玄、小幡尾張入道に本領安堵。 | ||
6月 | 羽尾道雲、万座の湯に出掛ける。その留守に真田幸隆、羽尾館を略奪。道雲(59)、信州高井野に落ちる。 | ||
6月13日 | 真田幸隆(50)、信綱(26)父子、四阿山奥宮の社殿改修をする。 | ||
9月 | 道雲、鎌原の老臣樋口次郎左衛門を味方に付け、三原庄に入り鎌原と戦うが敗れ、斎藤憲広を頼り、岩櫃城下平川戸に落ちる。 | ||
9月 | 信玄、上野へ出兵し、箕輪、総社、倉賀野城を攻める。 | ||
9月22日 | 信玄、浦野新八郎の本領安堵。 | ||
12月3日 | 足利藤氏、氏康に追われ、安房の里見義尭を頼る。 | ||
12月 | 輝虎、雪の中、関東に出陣。 | ||
永禄6(1563) | 2月14日 | 北条氏康(49)、武田信玄(43)、松山城を落とし、上野の諸城を落とす。 | 33歳 |
3月 | 輝虎(34)、武蔵騎西城を落とす。 | ||
4月 | 輝虎、北条氏に通じた小山、佐野両氏を攻める。6月帰国。 | ||
9月 | 真田幸隆、岩櫃城を攻撃する。 | ||
10月13日 | 真田幸隆、岩櫃城落城させる。 | ||
11月 | 真田幸隆(51)、吾妻郡の守護代となり、善大夫、三枝松土佐守、鎌原宮内少輔らと岩櫃城代となる。 | ||
12月 | 信玄が倉賀野城を攻めたため、輝虎、雪をおかして関東に出陣。 | ||
永禄7(1564) | 1月 | 湯本善大夫、武田信玄に白根硫黄5箱を贈る。 | 34歳 |
2月15日 | 信玄、戦死した父親に代わり、湯本小次郎に草津湯および沼尾25貫文を安堵。 | ||
2月17日 | 信玄、善太夫の本領安堵、羽尾領内立石、長野原170貫文の地を加増。善太夫、長野原城主となる。 | ||
3月 | 輝虎、二千の兵を嶽山に贈り援護する。信玄、岩櫃城へ信州より救援の兵を送る。 | ||
4月 | 輝虎、佐野、桐生氏を服属させ廐橋に帰城し、越後に帰る。 | ||
5月 | 信玄、上野出陣、倉賀野城を落とす。倉賀野直行は輝虎を頼って去るが、金井淡路守以下倉賀野衆は信玄に所属する。 | ||
6月 | 氏康と氏政、佐野昌綱を攻める。宇都宮広綱、北条に降伏。 | ||
8月11日 | 川中島の戦。 | ||
10月 | 湯本三郎右衛門幸運(33)、家子宮崎陣介、横谷信濃守、横谷左近、鎌原岩見、西窪治左衛門ら、羽尾幸全道雲を攻める。 | ||
11月 | 輝虎、関東に出陣する。 | ||
永禄8(1565) | 2月 | 輝虎、また背いた佐野昌綱を攻めて降ろす。 | 35歳 |
4月 | 氏政、廐橋城の北条高広を攻める。 | ||
5月 | 善太夫の三女、ハル生まれる。 | ||
10月 | 斎藤憲宗、嶽山に入城。上杉氏、援護の兵を岳山に送る。 | ||
真田幸隆、和談を申し入れ、上杉の加勢を返させ池田佐渡守重安を寝返らす。 | |||
11月17日 | 岳山落城。真田方の西窪治部少輔、唐沢杢之助、富沢六郎三郎、蜂須賀伊賀守他150騎戦死。斎藤方の秋間備前守、早川源蔵(善太夫が倒す)他200騎戦死。 | ||
輝虎、関東出陣。 | |||
12月 | 真田幸隆、武山に池田佐渡守、川原左京、鎌原、湯本らを城代として置く。 | ||
永禄9(1566) | 2月 | 輝虎、再び、小田城を落とす。 | 36歳 |
3月 | 輝虎、下総臼井城の原式部大輔胤貞を攻める。5月帰国。 | ||
5月 | 湯本善大夫、信玄より、羽尾領林村内20貫文の地を加増される。 | ||
海野兄弟、吾妻郡代となる。浦野、植栗、湯本、鎌原、西窪、横谷諸氏は真田幸隆預かりとして除外し、富沢以下70余騎は、海野兄弟の配下となる。 | |||
閏8月 | 由良成繁、宇都宮、皆川、成田などの諸将が北条氏康に通じ、輝虎に背く。 | ||
9月29日 | 武田軍に攻められ箕輪城落城。室田鷹留城主長野業通、長野原に逃げる。 | ||
湯本三郎右衛門幸運(35)、箕輪攻めにて、摺臼峠にて戦死。 | |||
10月 | 廐橋城の北条高広、妻子を捨て、北条氏政に応じ、輝虎に背く。 | ||
11月 | 輝虎、関東に出陣するが利根郡確保して下野へ向かう通路を確保するのが精一杯。 | ||
永禄10(1567) | 1月 | 善太夫、三郎右衛門の遺児、小三郎を養子に迎える。 | 37歳 |
湯本小三郎(14)元服し、三郎右衛門幸綱と名乗る。 | |||
佐野昌綱、上杉方から北条方に寝返る。 | |||
2月 | 輝虎、沼田城にあり、佐竹、太田、小山にの将に参陣を促し、佐野城を攻める。 | ||
信玄、内藤修理亮昌豊とその子昌月を箕輪城に配置する。 | |||
4月 | 輝虎、参陣要求に応じない佐竹義重と断交。帰国する。 | ||
5月 | 信玄、惣社城の長尾氏を攻略する。利根川西の西上野の武田支配確立。 | ||
信玄、草津入湯を禁止する。 | |||
10月 | 輝虎、佐野城を攻める。11月22日帰国。 | ||
永禄11(1568) | 1月 | 吾妻勢、柏原城を攻略する。 | 38歳 |
9月 | 織田信長、新将軍を伴い入京する。 | ||
12月13日 | 信玄、駿河に進攻して駿府を占領する。今川氏真、掛川に逃げる。 | ||
12月24日 | 北条氏と上杉氏との同盟のための交渉始まる。由良氏が裏で活躍。 | ||
永禄12(1569) | 1月 | 北条氏康、武田信玄、駿河にて戦う。 | 39歳 |
3月 | 海野幸光、行沢観音堂を再建する。 | ||
5月 | 今川氏真の掛川城、徳川軍に落とされる。 | ||
9月 | 信玄、信濃佐久郡より碓井峠を越えて上野に進攻。 | ||
10月 | 信玄、小田原城を攻める。三増峠の合戦。円覚坊、右腕を失う。 | ||
11月 | 輝虎、沼田城に入る。 | ||
12月 | 信玄、駿河に進攻、蒲原を攻める。城主北条新三郎綱重(幻庵の子)戦死。 今川氏真は小田原に逃げ、氏康に保護される。 |
||
永禄13(1570) | 1月 | 輝虎、上野、川田、藤田の三将を沼田城代にする。 | 40歳 |
2月 | 輝虎、沼田参陣の命に服さない佐野昌綱を攻めて降ろす。 | ||
3月20日 | 北条氏康と上杉輝虎、盟約する。上野国は上杉領となる。 | ||
北条高広、謙信に帰参が許される。 | |||
元亀元 | 5月 | 北条三郎(景虎)と輝虎の姪との婚儀が行なわれる。 | |
10月 | 信玄の廐橋侵略の報に、輝虎、上野出陣。まもなく帰国。 | ||
元亀2(1571) | 10月3日 | 北条氏康(1515-,57)没。 | 41歳 |
12月 | 輝虎、上野に出陣。 | ||
12月27日 | 北条氏政が信玄と和して輝虎と断つ。 | ||
今川氏真、小田原を去り、浜松に向かう。 | |||
この頃、上杉輝虎、謙信と号す。 | |||
元亀3(1572) | 閏正月 | 武田北条の両軍、上杉謙信と利根川を境にして対陣。 | 42歳 |
4月 | 善太夫の長女アキ、小草野新五郎に嫁ぐ。 | ||
謙信帰国。 | |||
8月 | 武田軍、白井城を攻める。 | ||
11月 | 謙信、関東出陣。ほどなく帰国。 | ||
元亀4(1573) | 3月 | 白井城が上杉軍に奪われる。 | 43歳 |
4月13日 | 武田信玄(1521-,53)没。 | ||
信玄の死後、謙信は白井の長尾氏に吾妻進攻を命じる。 | |||
6月 | 白井長尾氏は、植栗河内守、湯本左京進、荒牧宮内少輔の守る柏原城を攻め落とす。 | ||
岩櫃城代海野氏は富沢但馬、植栗河内、渡、忍びの達人八右衛門らに柏原城を奪回させる。 | |||
天正2(1574) | 2月 | 謙信、沼田城に入る。 | 44歳 |
4月 | 謙信、北条氏政と利根川に対陣。5月帰国。 | ||
5月19日 | 真田幸隆(1513-,62)病死する。源太左衛門信綱、後を継ぐ。 | ||
9月 | 謙信、関東出陣。 | ||
11月 | 謙信、鉢形、松山、成田、忍、深谷、古河、栗橋、館林、騎西、岩槻を40日にわたって攻め、廐橋に戻る。12月帰国。 | ||
この年、北条高広、引退して安芸守を名乗り大胡城に移り、嫡子丹後守景広が跡を継ぎ廐橋城主となる。 | |||
天正3(1575) | 4月21日 | 武田勝頼(30)、徳川家康の部下奥平信昌の守る三河長篠城を包囲する。 | 45歳 |
5月21日 | 長篠の合戦にて、真田信綱(38)、同昌輝、禰津元直、禰津月直、望月甚八郎、常田永助、河原正良、河原正忠、河野通秀戦死。 | ||
吾妻武士‥‥富沢勘十郎(但馬守嫡子)、富沢治部少輔、鎌原筑前守重澄戦死、湯本善太夫も負傷し死す。植栗河内守、横谷左近重傷。その他多数。 | |||
PR
草津温泉◇4月8日(薬師の縁日)から10月8日(薬師の縁日)まで営業。冬は冬住みの里で暮らす。
◎五湯‥‥‥御座の湯、カッケの湯、ワシの湯、ワタの湯、滝の湯(打たせ湯)。
◎年表
◇1902年の温泉旅館
◇1904年の集落構成
◇1915年の湯の沢
|