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2024 .11.21
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享禄4(1531)   次郎、生まれる。父は小雨の湯本下総守幸友、母は鎌原氏。 1歳
    鎌原氏、羽尾氏と共に、平井の上杉氏に属す。  
  9月3日 上杉憲政(8)、関東管領職に就く。  
天文4(1535) 4月 長野業政(37)、榛名神社に制令を出す。 5歳
天文6(1537) 4月 扇谷上杉朝興(50)、河越城にて死す。朝定(13)跡を継ぐ。  
  7月 北条氏綱、河越城を攻め落とし、北条綱成が入る。 7歳
天文7(1538)   北条氏綱、足利義明を討ち取った勲功により関東管領の御内書を得る。 8歳
天文8(1539) 11月 氏綱、鶴ケ岡八幡宮を修築する。 9歳
天文9(1540) 1月 次郎、白根明神の御師になるため、大叔父の成就院のもとに入る。 10歳
天文10(1541) 5月 真田幸隆(29)、海野平の合戦に敗れ、箕輪城の長野業政(43)を頼る。 11歳
  6月10日 武田晴信、信虎を追放する。  
  7月 関東管領上杉憲政ら、海野棟綱の乞いにより村上義清を攻めるため佐久、小県に出兵する。  
  7月17日 北条氏綱(56)死す。  
天文11(1542) 次郎、草津に来た真田幸隆(30)と会う。 12歳
天文12(1543)   この頃、真田幸隆は武田氏に属す。 13歳
    ☆種子島に鉄砲伝来する。  
天文14(1545) 1月 次郎、元服し、瑞光坊を名乗る。 15歳
  9月26日 上杉憲政、六万五千で河越城を包囲する。  
  10月 瑞光坊、円覚坊に連れられて旅に出る。  
  10月27日 古河公方晴氏(氏康妹婿)、二万の軍勢で出陣。  
天文15(1546) 3月 神保長国、植栗村に移住、植栗氏を称し植栗城主となる。 16歳
  4月20日 河越夜戦、上杉方、北条方に敗れる。松山城も落とす。  
    上杉方の倉賀野三河守、赤堀上野守ら馬廻衆3000人戦死。  
    扇谷上杉朝定も討たれ、扇谷家は滅亡する。  
    長野業政の長男、吉業負傷し、それが原因で死亡。  
    上杉譜代の臣、大石源右衛門、藤田右衛門佐は北条に降伏する。  
    父下総守、叔父、善太夫戦死、他吾妻郡の武士、多数死す。  
    兄、太郎右衛門(20)、湯本家を継ぐ。瑞光坊、善太夫を継ぐ  
天文16(1547) 8月6日 上杉憲政は、倉賀野、深谷、木部、白倉、安中、和田、後閑、三ノ倉、大胡、山上、尻高の騎兵約二万騎を率いて、碓氷峠に兵を進める。武田軍と激戦の末、上杉勢敗れる。上杉方の死傷者4200、武田方2140。
長野業政は出陣せず。吾妻勢も出陣せず。
17歳
天文17(1548) 2月 上田原の戦い。武田晴信、村上義清に敗れる。真田幸隆も参戦。 18歳
  12月 国峰城の小幡氏、北条方となり、緑野郡の小林氏を攻める。  
    長尾景虎、越後守護の斡旋により兄の跡を継ぎ、春日山城に入る。  
天文18(1549) 4月 晴信、佐久春日山城を攻略。望月、伴野ら武田に降りる。 19歳
  8月 晴信、上野に出陣し三寺尾(寺尾、石原、乗付)にて安中、倉賀野、和田氏らを破る。  
  9月 晴信、佐久平原城を焼く。  
天文19(1550) 2月 越後守護上杉定実の死没により、景虎越後の実権を握る。 20歳
  3月 足利長尾憲長(48)死す。当長、跡を継ぐ。  
  9月 晴信、戸石城を攻めるが落ちず、11月、退却。  
天文20(1551) 3月10日 北条氏康、三万余騎を率いて平井を攻めるが失敗し、小田原に帰る。 21歳
    兄、太郎右衛門戦死。善太夫、湯本家を継ぐ  
  5月26日 真田幸隆、戸石城を落とし、真田に復帰する。  
  北条氏康、平井を攻める。  
天文21(1552) 1月 平井城、北条氏に攻められ落城。上杉憲政(30)、越後に落ちる。 22歳
    平井城に北条幻庵置く。南上野国は北条領となる。  
    那波刑部大輔宗俊は北条方となり、足利長尾、横瀬、佐野、桐生、大胡、廐橋長尾らと戦う。河西衆(西上野衆)は北条方として那波を応援する。  
天文22(1553) 4月 村上義清、葛尾城を捨て、越後の上杉謙信を頼る。 23歳
  8月 真田昌幸(7)、人質として甲府に行く。  
  8月 第一回川中島合戦。  
天文23(1554) 3月 甲相駿3国同盟成立 24歳
  10月 北条氏康、古河城を攻略し、晴氏、藤氏を捕え幽閉する。  
    この年、湯本小三郎生まれる。母は善太夫の妹、父は生須湯本三郎右衛門幸運。  
天文24(1555) 北条幻庵、厩橋城に入る。 25歳
  7月 第二回川中島合戦。  
弘治2(1556) 3月 善太夫の長女、ナツ生まれる。 26歳
  8月 真田幸隆、雨飾城を落とし城代となる。  
    この年、足利左馬頭義氏(氏康甥)、公方就任。  
弘治3(1557) 4月 武田晴信、上野に進攻し瓶尻(みかじり、富岡と松井田の間)にて長野業政と戦う。善太夫、負傷する。 27歳
  8月 第三回川中島の戦。  
    この年以前、体光上人、廐橋長野弾正少弼、箕輪長野信濃守、上泉氏らと連歌。  
永禄2(1559) 3月15日 海野長門守幸光(53)、曹洞宗雲林寺(安中後閑長源寺末寺)創建。 29歳
  4月 尻高重治死す。  
  5月 長尾景虎、上洛して将軍義輝に謁見する。  
  9月 武田晴信の兵は安中、松井田に進出する。この頃、出家して信玄を名乗る。  
  10月 岩櫃、岳山領の百姓、斎藤氏の圧政に耐え兼ねて、北条領の小野子村に逃散する。  
    この頃、武田晴信、信玄と号す。  
永禄3(1560) 鎌原宮内少輔、松尾城主真田幸隆を通じ、小諸城主甘利左衛門尉の仲介により信州平原において、信玄に謁し、その幕下となり援を請う。 30歳
  5月 国嶺城主小幡尾張守信貞、草津湯治中に小幡図書助景純に居城を奪われる。信貞は妻子と共に甲斐へ行き、信玄を頼る。  
  5月19日 今川義元、桶狭間山にて織田信長に敗れる。  
  5月27日 古河公方足利晴氏死す。妻は北条氏康妹。  
  7月 善太夫の次女、アキ生まれる。  
  8月29日 長尾景虎、上杉憲政と共に八千余の兵を率いて上野進撃  
  9月 北条氏康、景虎の上野進出に対し河越城に出陣。  
  9月19日 近衛前久、越後に下向する。  
  9月28日 景虎、沼田城を攻略、北条孫次郎敗死す。ついで廐橋城に入る。  
    白井長尾憲景、総社長尾顕景、長野業政、景虎の陣所に参陣する。  
    湯本、鎌原、海野氏も斎藤氏と共に岩下衆として斎陣。  
    廐橋城主の長野賢忠病死し、その子彦太郎も死に没落する。廐橋城には河田豊前守長親が入る。  
  10月 氏康、松山城に在城。  
  10月29日 景虎、上杉憲政を奉じて関東諸将に参陣を促す。越年する。  
  11月 斎藤憲広(55)は羽尾道雲(57)と結び、塩谷将監入道らに鎌原の館を攻めさせる。浦野下野守、湯本善太夫、横谷左近らの一族がこれを防いだので失敗し、義弟の大戸真楽斎(53)をやって和を講じる。海野兄弟、岩櫃城下に 屋敷を与えられる。  
  12月 那波顕宗、景虎に降伏する。那波城に北条丹後守高広が入る。  
    この頃、幸隆を通じて海野一族が信玄へ随順。海野城築城に幸隆も助力。  
永禄4(1561) 2月2日 信玄(41)、小幡信貞の支援の元に国峰城を攻略。 31歳
  3月 景虎(32)、関東の兵を徴収し、小田原攻撃、包囲する  
  閏3月 景虎、鎌倉鶴ケ岡八幡宮に拝賀。関東管領に就任する。政虎と改名する。  
  6月 政虎、帰国する。  
  6月21日 長野業政(1499-,63)没する。右京進氏業、跡を継ぐ。  
  7月 岩付の太田資正、松山城を奪回し、上杉憲勝を城主に据える。  
  8月 信玄、真田幸隆、甘利をして岩櫃城を攻める。憲広は善導寺の住僧を仲に和睦して信玄の軍門に下る。  
  8月 大暴風雨にて尻高法楽寺倒壊。  
  9月 第四回川中島の戦。信玄弟、信繁、山本勘助戦死。  
  10月上旬 鎌原、羽尾合戦。湯本善大夫、羽尾入道道雲、海野長門守幸光、富沢加賀守庸運、浦野下野守、浦野中務大夫、横谷左近将監、大戸真楽斎らと鎌原宮内少輔(43)を攻める。鎌原方は、嫡子筑前守(21)、西窪佐渡守、家子 今井、樋口ら。  
  10月下旬 赤羽根合戦。斎藤憲広、鎌原城を攻める。鎌原宮内少輔、常林寺の僧を仲介として憲広と和議する。  
  11月 政虎、関東に出陣、武蔵生山にて北条軍と戦う。  
    政虎、廐橋城に北条高広を入れ、沼田倉内城に河田長親を入れる。  
  11月18日 信玄、北条氏康を助けて上野出陣、高田城(妙義町)、国峰城を落とす。  
  12月初旬 信玄、氏康と共に倉賀野城の倉賀野左衛門五郎直行を攻める。倉賀野城を守備した橋爪若狭守、守りを固めて両軍を退ける。  
  12月 上杉政虎、将軍義輝より『輝』の字を賜り、輝虎と改名する。  
永禄5(1562) 2月 輝虎、館林城を落とす。城主赤井文六照康、助命され、いずこともなく落ちて行く。館林城には長尾景長が入る。 32歳
  3月 輝虎、佐野城を攻め、帰国する。  
  3月 信玄、鎌原、羽尾領を検地し境界線を決める。  
    鎌原宮内少輔、信州に退去して信玄の保護を受ける。鎌原領200貫余は羽尾領となる。  
  3月9日 信玄、小幡尾張入道に本領安堵。  
  6月 羽尾道雲、万座の湯に出掛ける。その留守に真田幸隆、羽尾館を略奪。道雲(59)、信州高井野に落ちる。  
  6月13日 真田幸隆(50)、信綱(26)父子、四阿山奥宮の社殿改修をする。  
  9月 道雲、鎌原の老臣樋口次郎左衛門を味方に付け、三原庄に入り鎌原と戦うが敗れ、斎藤憲広を頼り、岩櫃城下平川戸に落ちる。  
  9月 信玄、上野へ出兵し、箕輪、総社、倉賀野城を攻める。  
  9月22日 信玄、浦野新八郎の本領安堵。  
  12月3日 足利藤氏、氏康に追われ、安房の里見義尭を頼る。  
  12月 輝虎、雪の中、関東に出陣。  
永禄6(1563) 2月14日 北条氏康(49)、武田信玄(43)、松山城を落とし、上野の諸城を落とす。 33歳
  3月 輝虎(34)、武蔵騎西城を落とす。  
  4月 輝虎、北条氏に通じた小山、佐野両氏を攻める。6月帰国。  
  9月 真田幸隆、岩櫃城を攻撃する。  
  10月13日 真田幸隆、岩櫃城落城させる  
  11月 真田幸隆(51)、吾妻郡の守護代となり、善大夫、三枝松土佐守、鎌原宮内少輔らと岩櫃城代となる。  
  12月 信玄が倉賀野城を攻めたため、輝虎、雪をおかして関東に出陣。  
永禄7(1564) 1月 湯本善大夫、武田信玄に白根硫黄5箱を贈る。 34歳
  2月15日 信玄、戦死した父親に代わり、湯本小次郎に草津湯および沼尾25貫文を安堵。  
  2月17日 信玄、善太夫の本領安堵、羽尾領内立石、長野原170貫文の地を加増。善太夫、長野原城主となる。  
  3月 輝虎、二千の兵を嶽山に贈り援護する。信玄、岩櫃城へ信州より救援の兵を送る。  
  4月 輝虎、佐野、桐生氏を服属させ廐橋に帰城し、越後に帰る。  
  5月 信玄、上野出陣、倉賀野城を落とす。倉賀野直行は輝虎を頼って去るが、金井淡路守以下倉賀野衆は信玄に所属する。  
  6月 氏康と氏政、佐野昌綱を攻める。宇都宮広綱、北条に降伏。  
  8月11日 川中島の戦。  
  10月 湯本三郎右衛門幸運(33)、家子宮崎陣介、横谷信濃守、横谷左近、鎌原岩見、西窪治左衛門ら、羽尾幸全道雲を攻める。  
  11月 輝虎、関東に出陣する。  
永禄8(1565) 2月 輝虎、また背いた佐野昌綱を攻めて降ろす。 35歳
  4月 氏政、廐橋城の北条高広を攻める。  
  5月 善太夫の三女、ハル生まれる。  
  10月 斎藤憲宗、嶽山に入城。上杉氏、援護の兵を岳山に送る。  
    真田幸隆、和談を申し入れ、上杉の加勢を返させ池田佐渡守重安を寝返らす。  
  11月17日 岳山落城。真田方の西窪治部少輔、唐沢杢之助、富沢六郎三郎、蜂須賀伊賀守他150騎戦死。斎藤方の秋間備前守、早川源蔵(善太夫が倒す)他200騎戦死。  
    輝虎、関東出陣。  
  12月 真田幸隆、武山に池田佐渡守、川原左京、鎌原、湯本らを城代として置く。  
永禄9(1566) 2月 輝虎、再び、小田城を落とす。 36歳
  3月 輝虎、下総臼井城の原式部大輔胤貞を攻める。5月帰国。  
  5月 湯本善大夫、信玄より、羽尾領林村内20貫文の地を加増される。  
    海野兄弟、吾妻郡代となる。浦野、植栗、湯本、鎌原、西窪、横谷諸氏は真田幸隆預かりとして除外し、富沢以下70余騎は、海野兄弟の配下となる。  
  閏8月 由良成繁、宇都宮、皆川、成田などの諸将が北条氏康に通じ、輝虎に背く。  
  9月29日 武田軍に攻められ箕輪城落城。室田鷹留城主長野業通、長野原に逃げる。  
    湯本三郎右衛門幸運(35)、箕輪攻めにて、摺臼峠にて戦死。  
  10月 廐橋城の北条高広、妻子を捨て、北条氏政に応じ、輝虎に背く。  
  11月 輝虎、関東に出陣するが利根郡確保して下野へ向かう通路を確保するのが精一杯。  
永禄10(1567) 1月 善太夫、三郎右衛門の遺児、小三郎を養子に迎える。 37歳
    湯本小三郎(14)元服し、三郎右衛門幸綱と名乗る。  
    佐野昌綱、上杉方から北条方に寝返る。  
  2月 輝虎、沼田城にあり、佐竹、太田、小山にの将に参陣を促し、佐野城を攻める。  
    信玄、内藤修理亮昌豊とその子昌月を箕輪城に配置する。  
  4月 輝虎、参陣要求に応じない佐竹義重と断交。帰国する。  
  5月 信玄、惣社城の長尾氏を攻略する。利根川西の西上野の武田支配確立。  
    信玄、草津入湯を禁止する。  
  10月 輝虎、佐野城を攻める。11月22日帰国。  
永禄11(1568) 1月 吾妻勢、柏原城を攻略する。 38歳
  9月 織田信長、新将軍を伴い入京する。  
  12月13日 信玄、駿河に進攻して駿府を占領する。今川氏真、掛川に逃げる。  
  12月24日 北条氏と上杉氏との同盟のための交渉始まる。由良氏が裏で活躍。  
永禄12(1569) 1月 北条氏康、武田信玄、駿河にて戦う。 39歳
  3月 海野幸光、行沢観音堂を再建する。  
  5月 今川氏真の掛川城、徳川軍に落とされる。  
  9月 信玄、信濃佐久郡より碓井峠を越えて上野に進攻。  
  10月 信玄、小田原城を攻める。三増峠の合戦。円覚坊、右腕を失う。  
  11月 輝虎、沼田城に入る。  
  12月 信玄、駿河に進攻、蒲原を攻める。城主北条新三郎綱重(幻庵の子)戦死。
今川氏真は小田原に逃げ、氏康に保護される。
 
永禄13(1570) 1月 輝虎、上野、川田、藤田の三将を沼田城代にする。 40歳
  2月 輝虎、沼田参陣の命に服さない佐野昌綱を攻めて降ろす。  
  3月20日 北条氏康と上杉輝虎、盟約する。上野国は上杉領となる。  
    北条高広、謙信に帰参が許される。  
元亀元 5月 北条三郎(景虎)と輝虎の姪との婚儀が行なわれる。  
  10月 信玄の廐橋侵略の報に、輝虎、上野出陣。まもなく帰国。  
元亀2(1571) 10月3日 北条氏康(1515-,57)没 41歳
  12月 輝虎、上野に出陣。  
  12月27日 北条氏政が信玄と和して輝虎と断つ。  
    今川氏真、小田原を去り、浜松に向かう。  
    この頃、上杉輝虎、謙信と号す。  
元亀3(1572) 閏正月 武田北条の両軍、上杉謙信と利根川を境にして対陣。 42歳
  4月 善太夫の長女アキ、小草野新五郎に嫁ぐ。  
    謙信帰国。  
  8月 武田軍、白井城を攻める。  
  11月 謙信、関東出陣。ほどなく帰国。  
元亀4(1573) 3月 白井城が上杉軍に奪われる。 43歳
  4月13日 武田信玄(1521-,53)没  
    信玄の死後、謙信は白井の長尾氏に吾妻進攻を命じる。  
  6月 白井長尾氏は、植栗河内守、湯本左京進、荒牧宮内少輔の守る柏原城を攻め落とす。  
    岩櫃城代海野氏は富沢但馬、植栗河内、渡、忍びの達人八右衛門らに柏原城を奪回させる。  
天正2(1574) 2月 謙信、沼田城に入る。 44歳
  4月 謙信、北条氏政と利根川に対陣。5月帰国。  
  5月19日 真田幸隆(1513-,62)病死する。源太左衛門信綱、後を継ぐ。  
  9月 謙信、関東出陣。  
  11月 謙信、鉢形、松山、成田、忍、深谷、古河、栗橋、館林、騎西、岩槻を40日にわたって攻め、廐橋に戻る。12月帰国。  
    この年、北条高広、引退して安芸守を名乗り大胡城に移り、嫡子丹後守景広が跡を継ぎ廐橋城主となる。  
天正3(1575) 4月21日 武田勝頼(30)、徳川家康の部下奥平信昌の守る三河長篠城を包囲する。 45歳
  5月21日 長篠の合戦にて、真田信綱(38)、同昌輝、禰津元直、禰津月直、望月甚八郎、常田永助、河原正良、河原正忠、河野通秀戦死。  
    吾妻武士‥‥富沢勘十郎(但馬守嫡子)、富沢治部少輔、鎌原筑前守重澄戦死、湯本善太夫も負傷し死す。植栗河内守、横谷左近重傷。その他多数。  

 
     
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草津温泉



◇4月8日(薬師の縁日)から10月8日(薬師の縁日)まで営業。冬は冬住みの里で暮らす。

  • 妙立山日晃寺‥‥‥日蓮宗。元浄行庵。安政4年(1857)建立。
     
  • 金比羅神社‥‥‥寛政九年(1792)以前に建立。
     
  • 白根神社‥‥‥真言修験。明治6年、囲山に移遷。7月17、18日祭礼日。

     嘉吉3年(1443)、山名宗全が白根神社に百石寄進。

     享徳5年(1456)、上杉顕定、黒岩顕季、太田道灌らが、朱泥大植木鉢を寄進。

     永正9年(1512)、後柏原天皇が神札を奉納。

     弘治3年(1557)、上野国神名帳に従一位にて記載あり。
     
  • 草津山光泉寺‥‥‥真言宗。

    文化2年(1810)には、現在の光泉寺の所は薬師堂の大伽藍を中心に釈迦堂、念仏堂、十王堂、無縁寺、鐘楼、仁王門らがあり、光泉寺は現在の駐車場の所に山門をくぐるとあった。4月8日、温泉開きの花祭り。小雨に分院あり。

    住職‥‥‥九世存鏡(-1478)、十世隆慶(-1503)、十一世清算(-1533)、十二世清存(-1572)、十三世玄英(1591)
     
  • 薬師堂‥‥‥温泉明神を祀る温泉宮が仁王門の脇にあり。温泉明神の本地は薬師如来。お湯善(とうぜん)さまあり。
     
  • 月洲寺‥‥‥湯本三郎右衛門幸綱が隠居寺兼夏寺として建立。父は湯本三郎右衛門幸運。
     
  • 草津山常楽院‥‥‥熊野権現系修験。

    文政12年(1829)、光泉寺に草津山号を譲る。湯本氏と同族の細野氏が草津を宗教的に支配していた。
     
  • 龍沢寺(六合村日影)‥‥‥雙林寺末。湯本氏開基(曇英和尚か?)。
     
  • 熊本院(長野原町大字応桑字小代)‥‥‥真言宗醍醐派の修験。
     
  • 大乗院(長野原町林)‥‥‥浦野氏、六合村日影の浦野氏と同族。
     
  • 金剛院(原町)‥‥‥修験。 


◎草津への道

  • 保科道‥‥‥善光寺→保科→菅平→鳥居峠→田代→大笹→中居→前口→草津
     
  • 仁礼道‥‥‥越後→善光寺→仁礼→鳥居峠→草津
     
  • 毛無峠道‥‥‥須坂→毛無峠→鳴尾→門貝→西窪→中居
     
  • 万座峠道‥‥‥須坂→万座峠→鳴尾→門貝→西窪→中居
     
  • 地蔵峠道‥‥‥上田→禰津→地蔵峠→山の湯(旧鹿沢温泉)→田代→大笹→中居
     
  • 渋峠道‥‥‥善光寺→渋峠→芳ケ平→草津
     
  • 暮坂峠道‥‥‥中之条→暮坂峠→小雨→諏訪原→草津。大正頃まで往来があった。
     
  • 道陸神峠道‥‥‥横谷(松谷)→道陸神峠→川原畑→長野原→草津
     
  • 大戸道‥‥‥豊岡→室田→三之倉→権田→長井→萩生峠→萩生→大戸→大柏木→須賀尾→横壁→長野原→草木原→草津。宗長が利用。
     
  • 沓掛道‥‥‥沓掛→鼻田峠→狩宿新田→羽根尾→草津→鎌原→草津。 


◎五湯‥‥‥御座の湯、カッケの湯、ワシの湯、ワタの湯、滝の湯(打たせ湯)。

  • 地蔵の湯は修験常楽院細野氏の私有。
     
  • 宝暦5年(1755)以前に、カッケの湯は熱の湯と名前が変わり、その前にあったタムシ、ミズムシの湯という露天湯(足を浸した)がカッケの湯と呼ばれるようになり、宝暦以後は草津七湯と書かれるようになる。
     
  • 効能‥‥‥頭痛、癩瘡、損傷、打撲、眼病、虚労、議痰、中風、癲癇など。
     
  • 御座の湯、滝の湯は癩に効く。カッケの湯、鷲の湯、綿の湯は癩には向かない。
     
  • 1784年頃、地蔵の湯の辺りをさいの河原と呼び、大日堂、不動堂、月洲寺があった。 



◎年表

  • 嘉禎3年(1237)、三原庄領主に海野左衛門尉(小太郎)幸氏。
     
  • 建長3年(1251)、赤城山麓の寺院(粕川村大字室沢字宇通)全焼する。
     
  • 弘安4年(1281)、浅間山噴火する。
     
  • 文明16年(1484)4月、太田金山城の由良成繁が三百人の供を連れて湯治に来る。
     
  • 文明18年(1486)9月、藤之坊堯恵、草津湯治。
     
  • 文亀2年(1502)3月26日、宗祇、宗長、草津湯治。
     
  • 永正6年(1509)9月12日、宗長、草津湯治。大胡城の大胡上総介を訪ねる。
     
  • 大永7年(1526)秋、越後守護代長尾為景、草津入湯。室田の長年寺長老と会談。
     
  • 永禄2年(1559)小幡信貞入湯中、居城を奪われる。
     
  • 永禄3年(1560)5月、小幡信貞、草津入湯。
     
  • 永禄7年(1564)、湯本善大夫、武田信玄より岩櫃城攻めの功により本領草津谷の他、羽根尾氏領分であった立石、長野原を合わせて与えられる。善大夫、信玄に硫黄5箱献上する。
     
  • 天正15年(1587)3月30日、近衛前久竜山、草津に湯治に来て、5月、薬師堂の本尊の名号 を歌の頭に十首詠む。
     
  • 天正15年(1587)5月、秀吉の異父妹朝日姫、草津入湯。7月、本願寺顕如光佐、教如光寿、顕尊佐超、草津湯治。
     
  • 天正16年(1588)9月、秀吉の養子秀次、草津入湯。
     
  • 文禄3年(1594)10月、大谷刑部少輔吉継、草津湯治。吉継の娘は真田幸村の妻。
     
  • 文禄4年(1595)秀吉、草津湯治を計画するが適わず。
     
  • 慶長3年(1598)4月、前田利家、草津湯治。
     
  • 慶長11年(1606)、湯本三郎右衛門、館林城主榊原康政に硫黄15貫目贈る。
     
  • 天知元年(1681)、沼田城主真田伊賀守改易され、以後草津は天領となる。
     
  • 宝永7年(1710)、光泉寺火災。正徳3年(1713)光泉寺再興される。
     
  • 寛政2年(1790)、この頃より湯の花を採取する。
     
  • 明治2年(1869)4月7日、草津全焼する。以後、冬住みの習慣なくなる。
     
  • 明治5年(1872)、運動茶屋にあった白根神社、現在地に移る。
     
  • 明治15年(1882)、白根山大爆発、樹木立ち枯れ。
     
  • 明治20年(1887)、癩病者を湯の沢に移転。御座の湯を湯の沢に移す。
     
  • 明治22年(1889)、光泉寺薬師堂焼失。
     
  • 明治25年(1891)、白根山大噴火。
     
  • 明治34年(1901)、光泉寺を薬師堂跡に移転。
     
  • 明治37年(1904)、白根山弓池爆発。
     
  • 大正5年(1916)、リー女子、湯の沢地区に聖バルナバ医院設立。
     
  • 大正8年(1919)、草津に初めて電灯が灯る。
     
  • 大正12年(1923)、草津新四国八十八ケ所霊場開山。
     
  • 大正15年(1926)、草津電鉄軽井沢草津間全線開通。
     
  • 昭和6年(1931)、栗生楽泉園国立療養所開設。この頃、湯の沢地区の人口は800人で全町の三分の一を占める。
     
  • 昭和16年(1941)、湯の沢地区解散式。
     
  • 昭和23年(1948)、天狗山ヒュッテ完成。
     
  • 昭和26年(1951)、群馬大学付属病院草津分院、湯の沢地区に設置。
     
  • 昭和37年(1962)、草軽電鉄廃止。

 


  • 三原庄‥‥‥海野一族である羽尾氏は長野原区域、鎌原氏は嬬恋村西部区域、西窪氏は嬬恋村東部区域を支配。

    鎌原氏は文明の頃より管領上杉顕定に属す。

     ・下屋修験‥‥‥滋野一族。熊野系統。
     
  • 細野御殿之助(三友助)幸久‥‥‥望月姓。源頼朝より湯本姓を頼る。
     
  • 湯根三右衛門‥‥‥源頼朝より湯根姓を賜る。湯の花採取の権利を持つ。湯小屋の清掃、旅行病者の始末、乞食などの取り締まり、夜番を任されていた。
     
  • 沢渡の湯を支配したのは、草津湯本の分家湯本九郎右衛門。
     
  • 木曽義仲の家来‥‥‥今井四郎兼平、樋口次郎兼光、楯六郎親忠、根井太郎行親、望月十郎重頼、

    樋口氏は兼光の死後も伊奈郡樋口村に居住していたが、文安2年(1445)に、樋口の当主は吾妻郡小宿村に移住し、そこに43年居住し、延徳元年(1489)に、平井城にいた上杉民部大 輔顕定に仕えるために吉井町馬庭に移った。
     
  • 岩櫃城‥‥‥吾妻太郎維元から4代の孫吾妻四郎助光の時、承久3年(1221)の乱に北条義時軍に加わり、宇治川の合戦で戦死。家臣の大野越前は、主君を太田の城に押し込めて、かつて、吾妻氏の有力な地侍であった塩谷日向、秋間三郎と3人で相談し、吾妻氏の領地を3 分して横領してしまった。秋間三郎は太田城(吾妻町植栗)の二の曲輪に住み、大野越前は原町の平川戸にあった稲荷城に住み、塩谷日向は中之条横尾の和利宮の城に住んだ。文明の頃、大野は秋間を滅ぼし、次いで塩谷も降ろして岩櫃城を乗っ取った。太田金山城の由良国繁に従属して吾妻東部を独裁していたが、その家来の植栗河内守元吉は吾妻太郎の同族だったので、大野の家来であり、大野に怨を抱いていた斎藤三郎憲実をそそのかして、大野を攻め、これを滅ぼした。
     
  • 室田長年寺 

    初代 曇英慧応(-1504)、2代 宝光智証(-1519.2.25)、3代 桂室伊繁(-1523.4.8)、4代 器山宗範(-1537.3.17)、5代 養室紹舜(-1576.12.20)、6代 鳳室青丹(-1570.10.24)
     
  • 1681年の沼田領覚書によると、草津の湯宿表屋敷35軒、1軒に付き湯鐚2貫775文づつ、裏屋敷25軒、1軒に付き416文づつ、毎年、湯銭として徴収した。
     
  • 1686年の検地帳によると、草津には、百姓居敷23軒、表屋敷40軒、裏屋敷18軒、計81軒。
     
  • 1690年の村費取立記録によると、表通33軒、中通25軒、裏通60軒、計130軒。
     
  • 1732年、滝下、南ノ台、さいの河原、浄土、入口、北ノ台、泉水などを開いて新屋敷地を作り、見取検地を受ける。
     
  • 1764年の三ケ村明細村差出書上帳によると、

    草津村‥‥‥家数150軒、人数807人、男406人、女401人。女馬75疋、牛無。山伏1人本山常楽院、座頭1人、大工7人、鍛冶その他職人無。

    前口村‥‥‥家数33軒、人数128人、男64人、女64人。女馬7疋、牛無。大工職人無。

    小雨村‥‥‥家数14軒、人数88人、男40人、女48人。馬10疋、牛無。大工1人、職人無。
     
  • 1788年の巡見使に差し出した絵図の添え書きによると、

     草津村‥‥‥家数182軒、人数717人、男402人、女315人。女馬75疋。

     小雨村‥‥‥家数22軒、人数103人、男52人、女51人。女馬22疋。

     前口村‥‥‥家数17軒、人数94人、男50人、女44人。女馬6疋。
     
  • 1825年の三ケ村明細村差出書上帳によると、

     草津村‥‥‥家数181軒、大工9人、桶屋2人、畳屋2人、石切3人、左官2人。

     小雨村‥‥‥家数26軒、職人無。

     前口村‥‥‥家数23軒、職人無。
     
  • 1800年頃の居酒屋、料理屋

     ・桐屋(金比羅の近く)・美濃屋(光泉寺山門前)・浪花屋・天の字屋・元木屋・朝日屋・難波屋 
     
  • 江戸時代初期(沼田藩真田支配)1681年

      湯支配  湯本平兵衛

      目付   宮崎文右衛門

      湯入改  宮崎十郎右衛門、中沢杢右衛門

      大笹関番 坂上武右衛門、富沢権右衛門、湯本弥五助、湯本伝右衛門

      名主   新納伊右衛門

      肝煎   湯本覚右衛門、湯本安兵衛

      百姓代  黒岩忠右衛門
     
  • 入湯税として、毎年800貫文前後、沼田藩に納めた。
     
  • 7日間~10日間を一廻りと言って、湯治客から416文づつ湯銭を徴収した。真田氏はこの重税によって改易された。天領になってからは湯銭が免除され、宿賃だけになる。
     
  • 1681年、沼田藩が断絶すると、草津は幕府の直轄地となり、名主は入札によって2年毎に改められ、年寄は江戸時代通じて、湯本覚右衛門と湯本安右衛門が世襲した。
     
  • 1865年の宿屋  大家と呼ばれる勢力のある宿屋が11戸あった。

    山本十右衛門、湯本平兵衛、湯本安兵衛、湯本角右衛門、中沢善兵衛、黒岩忠蔵、坂上治右衛門、山口幸右衛門、宮崎文右衛門、中沢杢右衛門、市川権兵衛。
     
  • 客の部屋の事を壷と呼んでいた。草津の習わしとして、刀や懐中の金などは、すべて、主人に預けた。
     
  • 広小路‥‥‥今の湯畑。湯畑の地名は明治四十年頃、付けられた。

 


◇1902年の温泉旅館
  • 一等温泉宿(皆内湯あり)

    望雲館(黒岩忠四郎)、一井(市川善三郎)、日新館(湯本柳三郎、旧名安兵衛)、大東館(山本与平次)、長善館(中沢市郎次)、山本館(市川久三郎)
     
  • 二等温泉宿

    福栄館(湯本半平)、昇英舎(桐山仁平)、松盛楼(富永徳次郎)
     
  • 三等以下五等に至る温泉宿

    民屋(中沢善十郎)、松の屋(市川〆蔵)、七ツ星(新納伊三郎)、林屋(小林善太郎)、松村屋(宮崎五郎平)、山幸(山口幸八郎)、穀屋(小林長蔵)、旭屋(松田徳郎)、月の井館(湯本登作)、一田屋(宮崎常吉)、万屋(伊能弥平)、改良館(羽田五平)、郭公館(田村長作)、大津屋(山口栄太郎)、対瀧舎(成沢せい)、山木屋(山口久八)、新納屋(丸尾きさ)、綿屋(天野千代)、遠州屋(黒岩宮次郎)

 


◇1904年の集落構成

  • 宿泊施設 温泉旅館8軒35棟、温泉旅舎6軒11棟、温泉宿屋1軒1棟、旅館2軒2棟、旅舎10軒17棟、入湯旅館3軒5棟、旅人宿6軒7棟、下宿1軒1棟、木賃宿3軒3棟  計40軒82棟
     
  • 飲食店  料理屋8軒8棟、食堂4軒4棟
     
  • 食糧品店 酒・穀類店5軒5棟、牛肉店2軒2棟、野菜・豆腐・牛乳店4軒4棟、菓子店3軒3棟
     
  • 太物・呉服・荒物・雑貨店7軒7棟、薬・時計・陶器店4軒4棟、湯の花販売店2軒2棟、置物等製造10軒10棟、大弓場1軒1棟、貸本店1軒1棟、運送業2軒2棟、写真店1軒1棟、理髪店4軒4棟、医院3軒3棟、その他16軒16棟

    合計117軒159棟

     

◇1915年の湯の沢

  • 旅館16軒、商店14軒、理髪店2軒、飲食店2軒、大工1軒、左官1軒、建具屋1軒、農業20軒

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