2024 .11.21
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2007 .12.19
3.真田郷
1
三郎が京都で武術の修行に励んでいる時、関東では、武田と北条の合戦が繰り返されていた。
永禄十二年(一五六九年)正月から四月まで、駿河の国で北条軍と睨み合っていた武田軍は、一旦、甲府に引き上げると今度は碓氷(うすい)峠を越えて、上野の国にやって来た。
草津のお屋形、湯本善太夫は真田源太左衛門、兵部丞(ひょうぶのじょう)の兄弟と共に箕輪城で武田信玄を迎えた。上野の兵も加わって、大軍を率いた信玄は武蔵へと進撃した。北条方の城を攻めながら南下して行き、十月には小田原に迫り、城下を焼き払って小田原城を包囲した。
簡単には落とせないと見極めた信玄は、四日間だけ包囲して甲府へと引き上げたが、引き上げる途中、北条軍とぶつかり、三増(みませ)峠において激しい合戦が行なわれた。
勝負は武田軍の圧勝に終わった。しかし、味方の損害もひどく、東光坊の父親、円覚坊(えんがくぼう)は右腕を失う程の大怪我を負ってしまった。幸い、湯本家の者たちは内藤修理亮(しゅりのすけ)の指揮のもと小荷駄隊を守っていたので戦死者はいなかった。
小田原から引き上げると信玄は休む間もなく、駿河へと出陣した。湯本家は駿河進攻には従わず、北から攻めて来る上杉軍に備えて、岩櫃(いわびつ)城(吾妻町)の守りを固めると共に、上杉方の白井(しろい)城(子持村)を攻撃した。
三郎は迎えに来た東光坊から話を聞きながら、武田と北条の溝は深くなるばかりだと嘆いた。今の状況では三郎が北条の娘を嫁に貰う事など、とてもじゃないができなかった。その事を信玄に知られたら、間違いなく湯本家は潰される。死ぬ気で修行を積んで来たのに、世の中は三郎が望むようには動かなかった。
長野原城に帰ると義父、善太夫はいなかった。上杉輝虎(てるとら)(後の謙信)が沼田にいるので、岩櫃城から離れる事はできず、来年の正月を家族で祝う事はできないだろうとの事だった。
義母たちに挨拶を済ませて、小雨村に帰ろうとした時、三郎を訪ねて来た者があった。
会ってみると旅の商人で、三郎の知らない男だった。商人は小声で小野屋の女将から頼まれたと言って、手紙を渡すと帰って行った。
わざわざ、手紙をよこすなんて何事だろう。もしかしたら、琴音が来年、草津に来るのだろうかと浮き浮きしながら読んでみると、手紙の内容は三郎を谷底に突き落とすような残酷なものだった。
十二月六日、駿河の蒲原城を守っていた幻庵の次男、新三郎と三男の箱根少将長順が武田軍に攻められ、守備兵共々全滅した。
幻庵には三人の息子がいて、長男の三郎は九年前に戦死し、三郎の長男も五年前に戦死している。次男の新三郎が三郎の跡を継いでいたのに戦死してしまった。跡継ぎを失った幻庵は、琴音に婿を取って跡を継がせるしか道はなくなった。北条のお屋形様、万松軒(ばんしょうけん)と相談し、出家して早雲寺にいた万松軒の八男、西堂を婿に迎える事に決まった。
十二月十五日、還俗(げんぞく)して北条三郎を名乗った西堂は、琴音と祝言を挙げ、新三郎の跡を継いで小机城主となった。
琴音は二人の兄の戦死を悲しむ間もなく、祝言を挙げなればならなかった。兄たちが戦死するまでの琴音は来年の正月、三郎が小田原に来るのを首を長くして楽しみにしていた。しかし、兄たちの戦死によって自分の立場に気づいたのか、幻庵の言われるままに従った。琴音は幻庵の屋敷を出て、小机城に移って行った。申し訳ないが、琴音の事は諦めて、早く忘れてほしい。
手紙にはそう書いてあった。
琴音が祝言を挙げた‥‥‥信じられなかった。何かの間違いである事を願った。
三郎は東光坊の所に行き、蒲原城が落城したかどうか調べてもらった。駿河方面に飛んでいた山伏の報告によって、事実だった事が確認された。琴音が小机城に嫁いだかどうかまでわからなかったが、小野屋の女将が嘘をつくわけはない。三郎は涙をじっと堪えて、東光坊と別れると走るように小雨村に帰った。
最悪の年末年始だった。三郎は何もやる気が起こらず、屋敷から一歩も外に出なかった。母や妹たちが心配しているのはわかっていても、どうする事もできなかった。
二月になって東光坊が小雨村に来た。囲炉裏の側で丸くなっている三郎を見ると、
「情けない面じゃな」と言いながら上がって来た。
「そろそろ、旅に出るぞ」
「えっ」三郎は眠そうな顔を上げて、東光坊を見た。
東光坊は囲炉裏端に座り込んで、両手を火にかざしていた。
「旅なんか、もうやめました」
「旅はやめたか‥‥‥という事はお屋形様の跡継ぎもやめたのか」
「やめました。もう、何もかもやめたんです」
「何もかもやめて、これからどうするんじゃ」
「どうもしません。もう何もしないんです」
三郎は起き上がって座ると、意味もなく火箸で灰を突っついた。
「結構な身分じゃな‥‥‥わしは何も言わん。お前の事はお前自身で決めろ。ただ、お前に付き合ってもらいたい所があるんじゃ」
「どこです」
「真田じゃ」
「真田に何があるんです」
「わしの親父がいる。去年の十月、小田原攻めで怪我をしてな、見舞いに行こうと思っているんじゃ」
「お見舞いなら師匠一人で行って下さい。今は他人を見舞う程の元気はありません」
「そう言わず、わしの最後の頼みだと思って聞いてくれ」
「最後の頼み?」三郎は顔を上げた。
東光坊は窓の外に下がっている太い氷柱を眺めていた。
「ああ、最後の頼みじゃ」と東光坊は三郎の方を見た。
三郎はまた俯き、灰を突っついた。「師匠は草津を離れるんですか」
「いや、離れはせんが、お前の師匠ではなくなる。お前が跡継ぎをやめれば、新しい跡継ぎを育てなければならんからの。誰に決まるかわからんが、そいつの師匠にならなければなるまい」
「もう、俺の師匠じゃなくなるんですね」
「そりゃそうじゃ。何もやる気がない者に師匠なんか必要あるまい」
「そりゃそうですけど‥‥‥」
「最後の旅じゃ。旅という程の距離でもないがな。行くぞ」
三郎は仕方なく山伏姿になって東光坊に従った。雪の鳥居峠を越えて真田に着くまで、俯いたまま一言もしゃべらなかった。
真田家は湯本家の寄親(よりおや)だった。善太夫は上野に進攻して来た武田家の先鋒、真田一徳斎(幸隆)に湯本家の将来を懸けた。武田家の家臣となった善太夫は、一徳斎の寄子として戦で活躍し、以前、草津とその周辺にある冬住みの村だけだった領地を草津の入り口である長野原へと広げる事に成功したのだった。
「ここが真田郷じゃ」と山を抜けると東光坊が言った。
顔を上げると山に囲まれた平地が見えた。処々に雪が残っている中を川が蛇行しながら流れている。広々とした関東平野を知っている三郎から見れば、狭い土地だと思っただけで、何の感慨もなかった。
東光坊はまた歩き出した。三郎はうなだれたまま後を追った。しばらくして立ち止まり、「この上に真田殿の城がある」と東光坊は言った。
三郎は山の上を見上げてみたが、葉のない樹木が枝を伸ばしているだけだった。
東光坊はまた歩き出した。そして、また立ち止まった。また何かを言うのだろうと思ったが、東光坊は何も言わずに立ち止まっていた。
三郎は顔を上げた。目の前に石碑が立っていた。こんな所に立ち止まって、何をしているのだろうと東光坊を見ると、片手拝みをしながら目を閉じていた。
三郎はもう一度、石碑を見た。
湯本三郎右衛門殿と大きく書いてあった。その上に追善供養と書いてある。三郎右衛門の下には小さく何人もの名前が並んでいた。そして、石碑の回りには、いくつもの花が供えられてあった。
「師匠、これは何なのです」
「お前の親父の供養塔じゃ」
「えっ、どうして、こんな所に父上の供養塔があるんです」
「お前、親父が何で戦死したのか知っているか」東光坊は厳しい顔付きで三郎を見つめた。
「箕輪攻めの時、殿軍(しんがり)を務めて立派に戦死したと‥‥‥」
「そうじゃ。この供養塔はお前の親父が殿軍を務めたお陰で助かった者たちによって立てられたんじゃ。あの時、真田軍は二手に分かれて箕輪に向かった。源太左衛門殿が率いる一隊は大戸を通って鷹留城へと向かい、兵部丞殿が率いる一隊は榛名山を越えて箕輪城へと向かったんじゃ。兵部丞殿が率いる一隊の中に、お前の親父が率いた湯本勢がいた。その時、お屋形様は前の戦で怪我をしていてな、お前の親父を大将として出陣させたんじゃ。兵部丞殿が率いる一隊は榛名湖の先にある摺臼(すりうす)峠の砦を攻め落とした。その砦から真っすぐ下りれば箕輪城の裏に出るんじゃ。表から攻める武田軍と呼応して箕輪城を攻めるはずじゃった。ところが、そこに越後から来た上杉軍がやって来た。兵部丞殿は戦闘命令を下した。敵の方も不意打ちを食らって慌てたが、兵力は味方の倍以上あった。このままでは全滅してしまう危機に見舞われたんじゃ。兵部丞殿は退却する事に決めた。しかし、そのまま山を下りれば箕輪城に出てしまい、挟み撃ちに会ってしまう。挟み撃ちに会わないためには、誰かが殿軍として残り、敵をくい止めなくてはならん。その時、殿軍を志願したのが、お前の親父だったんじゃよ。お前の親父に率いられた湯本勢は立派に殿軍を務めて全滅し、他の者たちの命を助けた。助けられた者たちの中に兵部丞殿が率いていた真田勢が二百人いたんじゃ。その者たちによって、この供養塔は立てられ、あれから三年余りが経つというのに、未だに、これだけの花が供えられているんじゃ」
三郎は改めて供養塔を見た。三郎右衛門の名前の下に並んでいる名前を読んでみた。知らない人が多かったが、時々、父親を訪ねて三郎の家に遊びに来ていた人の名前もあった。
「お前に親父の真似ができるか。助かる見込みなどまったくないのに、殿軍を志願する事ができるか。もし、あの時、お屋形様が怪我をしていなくて出陣したとしても、同じ結果になったじゃろう。それ程の覚悟がなくては、お屋形様は勤まらんのじゃ。わしが言いたいのはそれだけじゃ」
三郎は供養塔に書かれた湯本三郎右衛門という字をじっと見つめていた。お屋形様を継ぐ以前に、今の自分は三郎右衛門の名を継ぐにも値しないと思った。女に振られて、いつまでもくよくよしている自分が情けなかった。自分の事しか考えていない自分が情けなかった。
「立派な武将になって、お屋形様を助けるんだぞ」と父親の声が聞こえたような気がした。 三郎はひざまずいて両手を合わせた。
お屋形様の跡継ぎになった事で多少、自惚れていたのかもしれなかった。旅をして各地を見て、将軍様の師範でもあった上泉伊勢守の弟子になり、いい気になっていたのかもしれなかった。いい気になって、北条家のお姫様を嫁に貰うなどと夢を見ていた。あれは夢だったんだ。かなわぬ夢だったんだ。
三郎は顔を上げると東光坊を見た。
東光坊は目を閉じて片手拝みをしていた。
「師匠、お願いです。もう少し、旅に付き合って下さい」と三郎は言った。
東光坊はゆっくりと目を開けると、「また、旅に出るか」と聞いた。
「はい」と三郎は力強く返事をした。
真剣な顔をした三郎をじっと見つめ、「よし、いいじゃろう」と東光坊はうなづいた。
真田郷の中心に堀と土塁に囲まれたお屋形があり、その回りに家臣たちの屋敷が並んでいた。その一軒に東光坊の父、円覚坊は療養していた。思っていたよりも元気そうだった。
「もう傷の方は大丈夫なんですか」と東光坊が聞くと、
「まあ、何とかな」と陽気に笑った。しかし、右腕のない、その姿は痛々しかった。
「暖かくなれば痛みも治まるじゃろう。それよりも、利き腕がなくなっちまったんで困っておる。片手しかないというのは不便なもんじゃ。何とか飯は食えるようにはなったが、まだ、刀がうまく使えん。やらなければならん事はいっぱいあるんじゃが、刀も使えんのじゃ話にならんわ」
円覚坊は悔しそうに右腕の付け根を押さえた。
「父上を倒すとは敵も大した奴ですね」
三郎は東光坊と円覚坊の父子の会話を黙って聞いていた。円覚坊の噂は色々と聞いてはいても、実際に会うのは初めてだった。東光坊の父親だけあって山伏としての貫禄はすごいものが感じられた。
「風摩じゃ」と円覚坊は言った。「奴らは手ごわいぞ。わしらの忍びは皆、奴らにやられちまった。全滅じゃ」
「風摩にやられたんですか‥‥‥父上、風摩の事を教えて下さい」
三郎も興味深そうな顔をして、円覚坊の話に耳を澄ました。
「わしも色々と調べてはみたが、未だに、その実態はつかめんのじゃ。ただ、言える事はわしらが考えている以上に、その組織は大きいという事じゃ。風摩党のお頭は風摩小太郎といってな、代々、小太郎を名乗って、今は四代目じゃ。初代の小太郎は北条家の初代、早雲の陰の存在じゃった。早雲が伊豆の国を乗っ取り、相模に進出して行ったのは、陰で小太郎が活躍したお陰じゃ。何でも、初代の小太郎というのは愛洲移香斎殿の師匠だった人らしい。二代目の小太郎は移香斎殿の娘を妻に貰い、三代目の小太郎は移香斎殿のお孫さんじゃ。わしは若い頃、二代目の小太郎殿に会った事がある」
「えっ、父上は風摩小太郎に会ったんですか」東光坊は信じられないと言った顔をして父親を見ていた。
「危うく殺されそうになった。今、思えば無茶をしたもんじゃ。移香斎殿を捜していると言ったらな、助かった。小太郎殿から移香斎殿の話を色々と聞いた。しかし、居場所は教えてくれなかった。その後、わしは上泉伊勢守殿を訪ねて、ようやく、草津にいる事を知ったんじゃ。風摩党というのは初代の早雲の時から、北条氏を陰で支えて来たんじゃ。北条氏が大きくなればなる程、風摩党も大きくなるというわけじゃ。風摩党の組織はいくつかに分かれていてな、戦に出て、奇襲攻撃や後方撹乱をする者ばかりじゃない。敵地に長い間、住み込んで、敵の情報を集めている者もかなりいるんじゃ。二代三代とその地に住んでいるからと言って安心はできん。武将たちが喜んで迎える有名な連歌師や茶の湯者だって風摩党なんじゃ。それに武将たちが利用する遊女屋も危ない。風摩はいたる所にいるんじゃよ。ここにもいないとは断言できん」
「草津にもいるのですか」と三郎は聞いた。
円覚坊は三郎の方を見て、口髭を撫でた。
「多分、いるじゃろう。湯治客に扮すれば、わけないからな」
「でも、草津にいたって大した情報なんか得られないじゃないですか」
「そうとは限らん。武将たちがよく利用する宿屋の番頭や女中になれば、以外な情報が得られるかもしれん。武田家の武将と言えども、ああいう湯治場に行けば気が緩む。ちょとした事を口走ってしまうかもしれんからな」
「父上がやってる宿屋が一番、危ない」と三郎は言った。
「そうじゃ。ただし、風摩かどうか見つけ出すのは難しい。決して怪しい素振りを見せないように仕込まれているからな」
「あのう、小野屋の女将さんも風摩なのですか」三郎はずっと気になっていた事を聞いてみた。
「そこの所が、わしにもどうもわからんのじゃ。各地にある小野屋の出店を風摩が拠点にしているのは確かじゃが、小野屋は風摩とは別の組織を持っているのかもしれん」
「小田原で幻庵殿に会いました」と東光坊が言った。
「なに、幻庵殿に?」円覚坊は驚いて目を丸くした。
「小野屋の女将の紹介です」
「そうか、幻庵殿に会ったのか‥‥‥わしが思うには、幻庵殿が風摩党を動かしているんじゃないかと思っていたんじゃ」
「はい。そのような気がします。そして、小野屋の女将さんは幻庵殿をおじさんと呼んでいました」
「という事は、あの女将も北条一族じゃったのか‥‥‥そいつは知らなかった」
「あのう、父上と女将さんはどんな関係なんです」と三郎は円覚坊に聞いた。
「関係か」と円覚坊は笑った。「古い付き合いじゃな。あの頃は善太夫殿も若かったからのう。関係と言われてものう、何と言ったらいいか‥‥‥善太夫殿はあの女将に惚れていたんじゃ。最初、嫁さんに貰うつもりじゃったがうまく行かず、次に側室にしようと思ったが、結局、うまく行かなかった。その後も、女将はちょくちょく草津にやって来た。わしが見た所、二人は未だに惚れ合っている仲じゃな。しかし、お互いの立場があって、添い遂げる事ができなかったという所かのう。あれはあれでいい関係じゃと思うがな、お前にはまだわかるまい。もう少し、大人になればわかるじゃろう」
「おじさん、大丈夫?」と女の子が縁側から顔を出した。「あら、お客さんだったんですか」
女の子は恥ずかしそうに軽く頭を下げて、帰ろうとした。
「いいんじゃ。わしの伜と草津の三郎じゃ」と円覚坊が女の子を引き留めた。
女の子は振り返ると改めて、「いらっしゃいませ」と言って頭を下げた。
「矢沢三十郎殿の娘さんじゃ」
「松です」と女の子は言った。そして、三郎の顔を見つめ、「あのう、湯本三郎右衛門様の息子さんですか」と聞いて来た。
三郎がうなづくと、お松は嬉しそうに笑った。
「父上から三郎右衛門様の事はよく聞いております。父上の命の恩人です。あたし、毎日、供養塔にお花を捧げてるんですよ」
「そうですか。どうもありがとう」
お松は照れくさそうに笑った。年の頃は十歳位か、目のくりっとした可愛い娘だった。
「お松ちゃん、三郎にお屋形の中を案内してやってくれ」と円覚坊が言った。
「はい」とお松は嬉しそうにうなづいた。
父親のお陰で、三郎は真田の人たちに大歓迎された。命の恩人の伜が来た、とあっちでもこっちでも引っ張り凧だった。一徳斎を初め、源太左衛門(信綱)、兵部丞(昌輝)兄弟も、お松の父親の矢沢三十郎(頼康)も甲府に行っていて留守だったが、留守を守っている者たちは皆、三郎の父親に感謝していた。
その夜、お松の祖父で一徳斎の弟、矢沢薩摩守(頼綱)の屋敷に泊めてもらい、父親の話を聞いた。お松も母親と一緒に三郎の側で話を聞いていた。
「武士の鑑じゃな、そなたの父上は。どうじゃ、お松、草津に嫁に行かんか。三郎は父親に似て立派な武将になるぞ」
薩摩守がそう言うと、お松は恥ずかしそうに母親の陰に隠れた。可愛い娘だと三郎は思った。でも、お松はまだ幼すぎた。とても、嫁に貰うなんて考えられなかった。もっとも、薩摩守にしても本気で言ったわけではなかった。その場の冗談に過ぎなかったが、お松にとって、その言葉は心の中に深く刻み込まれた。
真田の人たちに歓迎された三郎は、三ケ月近くも真田郷で過ごした。
三郎が上泉伊勢守の弟子だと知ると、矢沢薩摩守は若い者たちに新陰流を教えてやってくれと言って来た。まだ修行中だから、人に教える事はできないと断ったのに、薩摩守はどうしてもと言って三郎を引き留めた。東光坊に相談すると、真田の若い者たちと付き合っておくのも今後のためになるから引き受けろと言う。
三郎は十五、六歳の若者たちに新陰流を教える事になった。三郎の腕は自分が思っていた以上に強くなっていた。薩摩守も三郎の強さには驚いた。噂を聞いて、若者たちが続々と集まって来た。その中に小草野新五郎という若者がいた。三郎より一歳年上で、三郎に敵対していた。三郎は新五郎から何を言われても相手にしなかったが、ついに試合をする事になってしまった。
三郎は新五郎に勝った。新五郎が三郎に恨みを持つような事になったら、真田を去ろうと思っていた。しかし、新五郎は素直に自分の負けを認め、三郎のもとに通うようになった。それ以来、三郎と新五郎はお互い、友として付き合うようになった。新五郎のお陰で、三郎は益々、真田家中の者たちと親しくなって行った。
真田には人質になっていた善太夫の長女、おナツがいた。三郎の義妹だったが、会うのは初めてだった。七歳の時に真田に連れて来られてから七年余りが経ち、十五歳になっていた。新五郎の屋敷に侍女と共に住んでいて、初めて会った時、真田にも可愛い娘がいるなと思ったら、おぬしの妹だと聞かされて驚いた。二年後、新五郎はおナツと一緒になり、三郎と義兄弟の関係となる。
薩摩守の屋敷に滞在していた三郎の世話をしてくれたのはお松だった。小さな体でチョロチョロしながらも、飯の支度や洗濯などまめまめしく働いていた。とても十一歳とは思えない程、よく気が利いた。三郎にはお松と同じ年頃の妹がいるので、お松に対しても、妹のように気軽に付き合っていた。
「三郎様、草津って、どんな所なんです」
稽古が終わって縁側で汗を拭いていると、お松が側にやって来て聞いた。
「湯池(湯畑)っていうのがあって、熱いお湯がどんどん湧いていて、湯煙りが昇っているんだ。俺はもう慣れたけど、ちょっと臭いかな」
「臭いの?」とお松は首を傾げた。
「うん。硫黄の臭いがするんだ」
「へえ、ここからどのくらい離れてるの」
「そうだな、こっちから行くと登りが多いからな、二日は掛かるな」
「でも、二日で行ける所なんだ」
「そうさ、近い。お松ちゃんも遊びにおいで」
「行きたいけど‥‥‥」
お松は寂しそうな顔をした。その顔が琴音の顔と重なった。三郎は慌てて首を振って、琴音への思いを断ち切った。
「どうかしたんですか」とお松が不思議そうに聞いた。
「何でもない」と言って三郎は首筋の汗を拭いた。
「そうだ。四月になったら円覚坊殿が湯治に行くって言ってたから、一緒に連れてってもらえばいいよ」
「でも、三郎様はいないんでしょ」
「ああ、俺はここを出たら京都に行く」
「京都か、いいなあ。あたしも行ってみたい」
「京都は遠いぞ。女の子が行くには遠すぎるな。あちこちで戦をやってるし、悪い奴もいっぱいいるからな」
「三郎様は強いから大丈夫よね」
お松は三郎が剣を振る真似をした。真剣な顔をして三郎の真似をするお松の仕草はおかしかった。三郎は思わず吹き出した。
「なに笑ってるのよ。おかしい?」
「いや、今に立派な女武者になれるよ」そう言いながらも三郎は笑っていた。
「嘘ばっかし。ねえ、京都からいつ帰って来るんですか」
「年末には帰って来る」
「その時、また、ここに寄って下さいね」
「うん、寄れたらな」
「だめ、絶対よ」とお松は三郎の手を引いた。
「わかったよ」と三郎は優しく、お松の手を握った。お松は嬉しそうに笑った。
真田に滞在中、薩摩守から自分が知らなかった実父、三郎右衛門と義父、善太夫の事を色々と聞き、三郎は湯本家のお屋形様になるため、新たに決心を固めた。女のためではなく、湯本家のために、もっと強くならなければならないと思い、京都に行こうと決めていた。でも、その前に、敵である上杉氏の本拠地を見てみたかった。敵に勝つには、まず、敵をよく知る事だと上泉伊勢守はいつも言っていた。
五月の初め、強い日差しの中、三郎は真田の若者たちに別れを告げて、東光坊と共に上杉氏の本拠地、越後府中(上越市)に向かった。
「小田原には小野屋の女将がいたが、越後には味方は誰もおらん。捕まったら殺されるかもしれん。気を引き締めて行けよ」
三郎は厳しい顔をして、うなづいた。
「お前の腕を試す機会があるかもしれんな」
「人を殺すって事ですか」
「そうじゃ。真田でわかったように、お前の腕はかなり上達している。後は実戦で経験を積む事じゃ」
「人を殺すって、どんな感じなんですか」
「どんなもこんなもない。殺さなければ自分が殺されてしまうからな、慣れるまでは必死じゃ。ああだこうだと考えている暇などない」
「慣れてくれば、どうなんです」
「慣れれば回りの状況が見えてくる。相手の強さもわかるようになる。相手が弱ければ無駄な殺しはしなくて済む。ただし、戦では一々、そんな情けをかけてはいられない。敵は次から次へとやって来る」
三郎もある程度、相手の強さがわかるようになっていた。木剣では難無く、相手の攻撃を避ける事はできるが、真剣でも同じようにできるかわからなかった。ちょっとした油断が命取りになってしまう。人を斬るのも恐ろしいが、それ以上に、自分が斬られるのはもっと恐ろしかった。
「それにな、飛び道具にも気をつけなければならん」と東光坊は言った。
「鉄砲ですか」と三郎は聞いた。
「うむ。これからの戦は鉄砲の使い方次第で決まるかもしれん。手に入れるのは難しいがな。そういえば、箕輪の合戦の時、鉄砲隊も全滅して貴重な鉄砲を十挺も、上杉に奪われてしまったんじゃ」
「えっ、湯本家には鉄砲が十挺もあったんですか」
「小野屋の女将が持って来てくれたんじゃよ」
「へえ、そうなんですか」
「小野屋とは古くから硫黄の取り引きをやっていてな、そのお返しらしい。何でも、玉薬(火薬)を作るのに硫黄が必要なんだそうじゃ」
「硫黄ですか‥‥‥」
三郎は白根山中で煙を上げて燃えている硫黄を思い出した。あの硫黄が鉄砲の玉薬になるなんて知らなかったが、何となく、わかるような気がした。
「でも、敵同士になってしまったから、その取り引きも中止になっちゃったんですね」
「多分な」
「それじゃあ、今、湯本家には鉄砲はないんですか」
「いや。箕輪の合戦の後、一徳斎殿のお陰で、武田のお屋形様より十五挺の鉄砲を贈られたんじゃ。鉄砲をうまく使いこなすのも、お屋形様の腕次第じゃ。これからは戦の駆け引きも学ばなければならんぞ」
「はい、伊勢守殿に学ぼうと思っています」
「そうじゃな。伊勢守殿は武将だった頃、箕輪にいた長野氏の軍師じゃったという。軍学にも詳しい事じゃろう」
真田から地蔵峠を越え、武田の前線を守る海津城(長野市)を見て、武田信玄と上杉輝虎(謙信)が何度も戦った川中島を通り、千曲川に沿って北上した。国境を守る敵兵に見つからないように山中を抜けて、二人は越後に入った。さりげなく回りに気を配りながら、関川に沿った街道を府中目指して北上した。三郎は緊張しながら東光坊に従った。
途中、何事もなく府中に着き、上杉輝虎の春日山城を見上げた。
北条の小田原城とはまったく違い、山そのものが城になっていた。山の頂上に本丸があり、中腹に輝虎が住む屋敷があるという。三郎は城を見上げ、その規模の大きさに驚き、敵ながら大したものだと感心せずにはいられなかった。
府内と呼ばれる城下も賑やかだった。輝虎が前関東管領の上杉憲政のために建てた御館と呼ばれる堀と土塁に囲まれた豪華な屋敷があり、守護所を中心に武家屋敷や町人たちの家が建ち並んでいる。まるで京都のように家々は皆、板葺屋根だった。
町の人々は祭りでもあるのかと思われる程、浮かれ騒いでいた。話を聞くと、お屋形様の跡取りが祝言を挙げたばかりだという。上杉家と北条家が同盟を結び、北条家から人質を受け取った輝虎は、その人質が気に入り、養子に迎えて姪を妻合わせたらしかった。
町並みを抜け、直江津の港から海を眺めながら、「あれ程、敵対していた北条と上杉が同盟したとは、まったく驚きじゃな」と東光坊はうなった。
「北条と上杉が同時に上野に攻めて来たら、大変な事になりますよ」
のんびり、旅なんかしてられないんじゃないかと三郎は思った。
「うむ、そうなったら大変じゃ。しかし、北条は今、駿河で武田と戦っている。上野に大軍を送る余裕はあるまい。問題は上杉じゃ。北条に頼まれ、駿河に出陣している武田の後方を狙って上野に出て行くかもしれん。上杉と北条が同盟に当たって、上野をどのように分けたかが問題じゃな」
府内に戻り、信濃の国から移した善光寺の門前を通った時、ふと、『小野屋』という看板が目に入った。三郎は立ち止まって東光坊を見た。
「あの小野屋ですかね」
「まさか‥‥‥しかし、上杉と北条が同盟したとなると、あの女将の事だ。さっそく、店を出したのかもしれんな」
店の中を覗くと酒屋のようだった。酒樽がずらりと並んでいる。様々な酒があったが、その中に江川酒があった。
二人が顔を見合わせた時、「あら、まあ」と後ろから声を掛けられた。
振り返ると女将が着飾って立っていた。
「驚かせないでよ、まったく。あなたたち、どうして、こんな所にいるの」
「驚いたのはこっちですよ。女将さんこそ、どうしてこんな所に」
お互いに偶然の出会いに驚き、腐れ縁があるようだと笑い合った。
女将の話によると、北条と上杉の同盟の話は武田との同盟が壊れて、すぐに始まったらしい。それ以前に商人として、上杉輝虎に会った事のある女将は表には出ないが、陰で色々と活躍していた。同盟が決まるまでの双方の話し合いや、同盟が決まり、人質を小田原から輝虎がいた上野沼田の倉内城に送った時も女将は立ち会っていた。そして、今回、人質となった北条万松軒(氏康)の息子と上杉輝虎の姪の婚礼を手伝うために越後にやって来たのだという。女ながら、そんな重要な仕事を任されるとは大した女だと、東光坊も三郎も改めて見直していた。
越後の小野屋はそれ程、大きな店ではなかった。それでも、店の奥には庭園があり、立派な屋敷が建っていた。酒好きな輝虎のために、伊豆の銘酒、江川酒を中心に、武器や馬までも扱っているという。
床の間のある客間に案内すると、「敵地じゃ泊まる所にも困ってるんでしょ。今晩はここに泊まりなさい」と女将は笑った。
「越後まで来て、女将殿の世話になるとは思ってもいなかった。かたじけない」と東光坊は頭を下げた。
「いいんですよ。でも、小田原から来た山伏という事にしておいてね」
三郎は琴音の事が聞きたかった。しかし、言い出すきっかけがなかなか見つからなかった。三郎の気持ちを察したのか、女将の方から話してくれた。
「琴音ちゃんの事なんだけどね、本当はあなたに言いたくはなかったんだけど、ここで会っちゃったら仕方ないわね」
「琴音殿の事でしたら、もう、きっぱりと諦めました」三郎は自分に言い聞かせるように、はっきりと言った。
「そう、悪かったわね、辛い思いをさせて」
「いいえ、もう、大丈夫です」
もうすっかり立ち直りましたという顔をして、三郎は女将を見ていた。女将は三郎に対して弱々しい微笑を浮かべ、東光坊をチラッと見てから溜め息をついた。
「実はね、今回、ここのお屋形様の姪御さんと祝言を挙げたのは、琴音ちゃんの旦那様になった人なのよ」
「何ですって」三郎は目を見開いて女将を見つめた。女将が何を言ったのか、理解するのに時間が掛かった。
「琴音ちゃん、あなたの事を諦めて、北条三郎様に嫁いだの。三郎っていうのはね、幻庵様の若い頃の名前なの。出家してたから、その名前を継いだんだけど、あなたも三郎なのよね。偶然ね。名前が同じだったから、琴音ちゃんも三郎様と一緒になる決心をしたのかしら。でも、たった三ケ月で無理やり別れさせられて、三郎様は越後に送られる事になっちゃったのよ」
「そんな‥‥‥」
女将の言っている事が信じられなかった。無理やり一緒にさせといて、今度は勝手に別れさせるなんて、そんな事があるなんて、三郎には信じる事ができなかった。
「本当はお屋形様(氏政)の息子さんが人質になるはずだったの。でも、幼すぎるっていうんで、三郎様に決まっちゃったのよ」
「どうして、そんな‥‥‥今、琴音殿はどうしてるんです」
すぐにでも琴音に会いたかった。会って慰めてやりたかった。
「あのお屋敷に戻って来て、部屋に籠もったままだわ。可哀想に‥‥‥」
「それじゃあ、幻庵殿の跡継ぎはどうなるんです」
「三郎様の弟の四郎様に決まったわ。琴音ちゃんと四郎様を一緒にして、跡を継がせるの」
「そんな勝手な‥‥‥」
そんな事は絶対に許せない。琴音の気持ちも考えずに、勝手な事ばかりして、北条家のやり方は絶対に許せない。三郎は女将の顔を見つめながら、じっと怒りを堪えていた。
「仕方がないのよ」と女将は辛そうに言った。「北条家の事を考えたら、琴音ちゃんには可哀想だけど、幻庵様としてもそうするしかなかったの」
「どうして、弟の四郎様を人質にしなかったんです」と三郎は女将を睨みながら言った。
「それはね、三郎様と四郎様を比べたら、どうしても三郎様の方が見栄えがいいからなのよ。人質に見栄えなんて関係ないんだけど、やはり、北条家の代表として越後に行くとなれば、あばた顔よりも美男の方がいいでしょう。現に三郎様はここのお屋形様に気に入られて養子となり、お屋形様の若い頃の名前、景虎を貰って、一族の娘さんまでお嫁さんに貰ったわ。もし、四郎様が人質になっていたら、こんなにもうまい具合には行かなかったでしょうね」
女将はすまなそうな顔をして三郎を見ていた。三郎は女将を睨むのをやめた。女将にもどうする事もできなかったのに違いない。
東光坊を見ると腕を組んで俯いていた。東光坊なりに琴音の事を心配しているようだった。
「その四郎殿と琴音殿は一緒になるのですか」と三郎は聞いた。
女将はうなづいた。
「いつです」
「琴音ちゃん次第ね。すでに四郎様は幻庵様の養子となって、今、戸倉城(静岡県清水町)に入ってるけど、幻庵様としても、琴音ちゃんの気持ちを考えると、早く一緒になれとは言えないわ」
「四郎様が養子になったのなら、琴音殿と一緒にならなくてもいいんじゃないんですか」
「そうも行かないわよ。四郎様の跡継ぎを琴音ちゃんが産まなければならないでしょ」
三郎は何も言えなかった。北条家中では琴音の存在はただ跡継ぎを産むだけなのかと思うと可哀想すぎた。
「琴音ちゃんも辛いだろうけど仕方がないのよ」
「四郎殿はそんなに醜いんですか」
「三郎様と比べたら落ちるっていう事よ。確かにあばた顔だけど、見られない程、醜くはないわ。でもねえ、琴音ちゃんもあなたの事を諦めた後、三郎様の事を好きになっていたみたいだから、気持ちを変えるのは難しいでしょうね」
五月の半ば、女将の仕事が一段落すると三郎は女将と一緒に小田原へと向かった。東光坊も事の成り行きに驚き、小田原行きに賛成してくれた。上越国境を越えた頃より梅雨に入ったのか、毎日、雨降りとなった。冷たい雨に濡れながら、三郎はずっと、琴音の事を思っていた。
去年の十月、武田信玄は関東の大軍を率いて小田原を攻めた。城下のほとんどは焼かれ、小野屋も燃えてしまった。冬だったので、家を焼かれた者たちは大変、辛い思いをした。半年余りが経ち、ようやく城下も立ち直って活気を帯びて来たが、まだ、家のない者たちもいるという。
ひどい事をすると三郎は思った。しかし、その武田軍の中には湯本家の者たちもいたのだ。義父の善太夫はどんな気持ちだったのだろう。城下を焼くのは城攻めの常套手段だった。城下を焼くのをためらっていたら城攻めなんてできない。それはわかるが、突然、大軍に攻められて焼け出された者たちは可哀想すぎた。
久野の幻庵屋敷に琴音はいた。幻庵もいて、三郎を歓迎してくれた。
「よう来たのう。飛んだ事になってしまったわ。わしはもうすぐ八十になるが、子供たちはみんな、わしより先に死んで行きよった。息子が三人、娘が六人いたんじゃが、残ってるのは娘が四人だけじゃ。息子たちは皆、戦死してしまった‥‥‥琴音に婿を取って、わしの跡を継がせようと思ったんじゃが、その婿も戦のために取られてしまった。琴音にはすまないと思っておる。可哀想に、うちに帰って来てから部屋に閉じ籠もったままじゃ。琴音がお前の事を好きじゃったのは知っていた。こんな事になるのなら、草津に嫁がせた方がよかったかもしれんのう。琴音を慰めてやってくれ」
三郎の目の前にいる幻庵は北条家の長老ではなく、戦で息子を失った父親そのものだった。気落ちして、皺だらけの顔は急に百歳になってしまったかのように哀れだった。
三郎は締め切ったままの琴音の部屋に声を掛けた。何と言って慰めたらいいのかわからなかったが、自分の思っている事を素直に告げた。しかし、琴音は返事も返さず、ただ、すすり泣きが聞こえるばかりで、部屋から出ては来なかった。小野屋の女将が何を言っても無駄だった。
三郎は琴音の気持ちを察しながら、雨降る中、久野を去り、武田の本拠地、甲斐の府中へと向かった。
「可哀想じゃのう」と東光坊が歩きながら言った。「お前を諦め、覚悟を決めて嫁いだ相手は越後に行ってしまった。北条家の娘に生まれなかったら、こんな苦労をしなくてもいいものを可哀想な事じゃ」
「自殺したりしないでしょうか」三郎は本気になって心配していた。
「いや、あの娘は幻庵殿の娘だけあって、芯の強い娘じゃ。時が過ぎれば、気持ちを整理して小机城に行くじゃろう。お前、まさか、琴音殿をさらおうなんて考えているんじゃあるまいな」
「やりたいけど、今の俺にはそんな事はできません」
越後から小田原に向かう途中、三郎は琴音を草津に連れて行こうとずっと考えていた。幻庵が反対しようとも連れ去ろうと決心を固めていた。しかし、琴音とは会う事ができず、琴音の泣き声を聞いているうちに、すでに違う世界に住んでいる事を悟っていた。琴音は北条家の娘である自分を捨てる事はないだろう。幻庵の娘である事に誇りを持っている。その誇りが自殺という最悪の事態を招くのを心配したが、東光坊の言う通り、琴音はこの辛さをきっと耐え抜くに違いなかった。
「辛いじゃろうが、琴音殿を遠くで見守ってやるしかない」
「はい‥‥‥四郎殿と一緒になって、幸せになってくれればいいと願っています」
東光坊はうなづいた。「真田に行って立ち直ったようだな」
足柄峠を越え、雨に煙る富士山を左に見ながら甲府に入った。
さすがに、躑躅(つつじ)ケ崎のお屋形と呼ばれる武田信玄の屋敷は立派だった。しかし、噂の信玄像に比べると、何となく、物足りなさを感じずにはいられなかった。北条の小田原城は城下を見下ろす丘の上にあり、広い堀に囲まれていて、上杉の大軍が攻め寄せても、武田の大軍が攻め寄せても、びくともしなかった。上杉の春日山城は山そのものが大きな城となっていて、たとえ、大軍が攻め寄せても落ちるとは思えない。信玄も要害山という詰めの城を持ってはいるが、ここに北条の大軍が攻めて来たらどうなるのだろうと不安を覚えた。
信玄のお屋形を中心に家臣たちの屋敷が並び、商人や職人たちの住む町は南の方にあった。城下は活気に溢れ、人々は皆、お屋形様の信玄を信頼しているようだった。町の者たちがお屋形様の自慢話をしている場面に三郎は何度も遭遇した。信濃の国から移した善光寺の門前に大きな市場があり、山国とは思えない程、様々な物が取り引きされていた。
飯縄山の宿坊に東光坊と共に修行を積み、今は武田家に仕えている妙厳坊という山伏がいた。妙厳坊の案内で、三郎は武田家の重臣たちの屋敷を見て回った。
上野箕輪城の城代となっている内藤修理亮の屋敷や真田一徳斎の屋敷もあった。信濃牧之島(信州新町)城主の馬場美濃守、信濃海津(松代町)城主の春日弾正、信濃飯田城主の秋山伯耆守(ほうきのかみ)、駿河江尻(清水市)城主の山県三郎兵衛(やまがたさぶろうひょうえ)、陣場奉行を務める原隼人佑(はやとのすけ)など、三郎も何度か噂に聞いている武将たちの屋敷を見て、彼らの活躍を聞いた。
「甲斐の国はな、国そのものが城なんじゃ。敵が攻めて来れば、各地にある狼煙(のろし)台からすぐに、お屋形様のもとに知らせが届く。お屋形様はすぐに兵を送り、敵を追い払ってしまう。ここに敵が攻めて来る事など、絶対にありえんのじゃ」と妙厳坊は自信たっぷりに言い切った。「それにな、武田家はお屋形様を中心に家臣たちは完全に一つにまとまっている。皆、お屋形様のために、いつでも命を捧げる覚悟がある。今の武田軍は最強じゃ。上杉と北条が同盟して、共に攻めて来てもびくともせんわ」
三郎もそうに違いないと納得した。
甲府から南下して、駿河の国に入った。今、駿河の国には今川氏はいなかった。一昨年の暮れ、武田信玄に攻められ、駿府は焼かれ、今川刑部大輔(氏真)は遠江の掛川城に逃げ込んだ。しかし、その掛川城も三河の徳川三河守(家康)に攻められ、刑部大輔は妻の実家である北条氏を頼って伊豆の戸倉城へと逃げた。戸倉城は琴音の夫になる四郎が守っている城だった。領主のいなくなった駿河と遠江の国は、武田と徳川に奪われ、名門の今川家は滅び去った。
「今川のお屋形様(氏真)は親父(義元)を織田弾正(信長)に殺されても弔い合戦をしようとはしなかった。京の公家に憧れて、蹴鞠(けまり)などに熱中しておったんじゃ。滅びて当然とは言えるが、駿河と遠江の二国を治めていた大名が、こんなにも簡単に滅び去るとは恐ろしい世の中になったもんじゃ。世の中の流れを見極めんとこういう目に会う。よく肝に銘じておけよ」東光坊は変わり果てた駿府の町を眺めながら三郎に言った。
「武田や北条、上杉もいつかは滅びてしまうのでしょうか」と三郎は聞いた。
「滅びんとは言えんじゃろうな。信玄殿、万松軒殿、輝虎殿、皆、立派なお屋形様じゃ。だが、その跡を継ぐ者たちは大変じゃ。親父たちに負けん程の武将なら、滅びる事はあるまいが、今川家のような跡継ぎなら滅びてしまうじゃろうのう」
北条氏は今川氏を助けるという名目で駿河に進攻して武田氏と戦っているが、去年の末、蒲原城を落とされて以来、駿河の国はほぼ、武田の領地となっていた。遠江の国は徳川の領地となり、三河守は本拠地を岡崎から引馬(浜松市)に移そうと、城を拡張するための普請を行なっていた。
遠江から三河に入り、徳川三河守の本拠地、岡崎城下を見て、尾張を抜けて美濃に入り、織田弾正の本拠地、岐阜城下へと向かった。
将軍様を連れて京都にやって来ただけあって、織田弾正の岐阜城下は素晴らしかった。山を背にして建つ天主と呼ばれる四階建ての弾正の屋敷は華麗と呼ぶにふさわしい建物だった。梅雨明けの強い日差しを浴びてキラキラと輝いていた。
「すごいのう」と東光坊も天主を見上げながら、うなるばかりだった。「織田弾正という男、ただ者ではないぞ。今に恐ろしい男になるかもしれん」
「ええ、すごいですねえ」と三郎はじっと天主を見つめていた。
この頃、織田弾正は徳川三河守と共に近江(滋賀県)に出陣し、姉川を挟んで浅井(あざい)備前守(長政)と朝倉左衛門督(義景)と対峙していた。三郎と東光坊は合戦の様子を見ようと近江へ向かったが、すでに遅く、織田徳川連合軍の勝利で合戦は終わっていた。噂では織田弾正は驚く程の数の鉄砲を使用したとの事だった。
京都では将軍様の立派な御所も完成し、都は以前にも増して華やいでいた。堀と石垣で囲まれた御所にも岐阜の天主を思わせる四階建ての楼閣があった。二年前、何もなかった地に、こんな立派な御殿を作ってしまうなんて、織田弾正という男の恐ろしさを三郎は感じていた。もし、関東に織田弾正がいたらと思うと、ぞっと寒気だった。
上泉伊勢守の道場も溢れんばかりの門弟が稽古に励んでいた。
伊勢守は六月の末、正親町(おおぎまち)天皇に新陰流を披露して、従四位下(じゅうしいげ)に叙せられたという。今や、伊勢守の名は天皇から町人に至るまで、京中で知らぬ者がいない程に有名になっていた。
去年、共に修行を積んだ堀久太郎は岐阜に帰ってしまって、いなかったが、三郎は一人で眠る間も惜しんで修行に励んだ。琴音の事を心配しながらも、武術の修行に熱中し、伊勢守より軍学も学んだ。
三郎は東光坊の所に行き、蒲原城が落城したかどうか調べてもらった。駿河方面に飛んでいた山伏の報告によって、事実だった事が確認された。琴音が小机城に嫁いだかどうかまでわからなかったが、小野屋の女将が嘘をつくわけはない。三郎は涙をじっと堪えて、東光坊と別れると走るように小雨村に帰った。
最悪の年末年始だった。三郎は何もやる気が起こらず、屋敷から一歩も外に出なかった。母や妹たちが心配しているのはわかっていても、どうする事もできなかった。
二月になって東光坊が小雨村に来た。囲炉裏の側で丸くなっている三郎を見ると、
「情けない面じゃな」と言いながら上がって来た。
「そろそろ、旅に出るぞ」
「えっ」三郎は眠そうな顔を上げて、東光坊を見た。
東光坊は囲炉裏端に座り込んで、両手を火にかざしていた。
「旅なんか、もうやめました」
「旅はやめたか‥‥‥という事はお屋形様の跡継ぎもやめたのか」
「やめました。もう、何もかもやめたんです」
「何もかもやめて、これからどうするんじゃ」
「どうもしません。もう何もしないんです」
三郎は起き上がって座ると、意味もなく火箸で灰を突っついた。
「結構な身分じゃな‥‥‥わしは何も言わん。お前の事はお前自身で決めろ。ただ、お前に付き合ってもらいたい所があるんじゃ」
「どこです」
「真田じゃ」
「真田に何があるんです」
「わしの親父がいる。去年の十月、小田原攻めで怪我をしてな、見舞いに行こうと思っているんじゃ」
「お見舞いなら師匠一人で行って下さい。今は他人を見舞う程の元気はありません」
「そう言わず、わしの最後の頼みだと思って聞いてくれ」
「最後の頼み?」三郎は顔を上げた。
東光坊は窓の外に下がっている太い氷柱を眺めていた。
「ああ、最後の頼みじゃ」と東光坊は三郎の方を見た。
三郎はまた俯き、灰を突っついた。「師匠は草津を離れるんですか」
「いや、離れはせんが、お前の師匠ではなくなる。お前が跡継ぎをやめれば、新しい跡継ぎを育てなければならんからの。誰に決まるかわからんが、そいつの師匠にならなければなるまい」
「もう、俺の師匠じゃなくなるんですね」
「そりゃそうじゃ。何もやる気がない者に師匠なんか必要あるまい」
「そりゃそうですけど‥‥‥」
「最後の旅じゃ。旅という程の距離でもないがな。行くぞ」
三郎は仕方なく山伏姿になって東光坊に従った。雪の鳥居峠を越えて真田に着くまで、俯いたまま一言もしゃべらなかった。
真田家は湯本家の寄親(よりおや)だった。善太夫は上野に進攻して来た武田家の先鋒、真田一徳斎(幸隆)に湯本家の将来を懸けた。武田家の家臣となった善太夫は、一徳斎の寄子として戦で活躍し、以前、草津とその周辺にある冬住みの村だけだった領地を草津の入り口である長野原へと広げる事に成功したのだった。
「ここが真田郷じゃ」と山を抜けると東光坊が言った。
顔を上げると山に囲まれた平地が見えた。処々に雪が残っている中を川が蛇行しながら流れている。広々とした関東平野を知っている三郎から見れば、狭い土地だと思っただけで、何の感慨もなかった。
東光坊はまた歩き出した。三郎はうなだれたまま後を追った。しばらくして立ち止まり、「この上に真田殿の城がある」と東光坊は言った。
三郎は山の上を見上げてみたが、葉のない樹木が枝を伸ばしているだけだった。
東光坊はまた歩き出した。そして、また立ち止まった。また何かを言うのだろうと思ったが、東光坊は何も言わずに立ち止まっていた。
三郎は顔を上げた。目の前に石碑が立っていた。こんな所に立ち止まって、何をしているのだろうと東光坊を見ると、片手拝みをしながら目を閉じていた。
三郎はもう一度、石碑を見た。
湯本三郎右衛門殿と大きく書いてあった。その上に追善供養と書いてある。三郎右衛門の下には小さく何人もの名前が並んでいた。そして、石碑の回りには、いくつもの花が供えられてあった。
「師匠、これは何なのです」
「お前の親父の供養塔じゃ」
「えっ、どうして、こんな所に父上の供養塔があるんです」
「お前、親父が何で戦死したのか知っているか」東光坊は厳しい顔付きで三郎を見つめた。
「箕輪攻めの時、殿軍(しんがり)を務めて立派に戦死したと‥‥‥」
「そうじゃ。この供養塔はお前の親父が殿軍を務めたお陰で助かった者たちによって立てられたんじゃ。あの時、真田軍は二手に分かれて箕輪に向かった。源太左衛門殿が率いる一隊は大戸を通って鷹留城へと向かい、兵部丞殿が率いる一隊は榛名山を越えて箕輪城へと向かったんじゃ。兵部丞殿が率いる一隊の中に、お前の親父が率いた湯本勢がいた。その時、お屋形様は前の戦で怪我をしていてな、お前の親父を大将として出陣させたんじゃ。兵部丞殿が率いる一隊は榛名湖の先にある摺臼(すりうす)峠の砦を攻め落とした。その砦から真っすぐ下りれば箕輪城の裏に出るんじゃ。表から攻める武田軍と呼応して箕輪城を攻めるはずじゃった。ところが、そこに越後から来た上杉軍がやって来た。兵部丞殿は戦闘命令を下した。敵の方も不意打ちを食らって慌てたが、兵力は味方の倍以上あった。このままでは全滅してしまう危機に見舞われたんじゃ。兵部丞殿は退却する事に決めた。しかし、そのまま山を下りれば箕輪城に出てしまい、挟み撃ちに会ってしまう。挟み撃ちに会わないためには、誰かが殿軍として残り、敵をくい止めなくてはならん。その時、殿軍を志願したのが、お前の親父だったんじゃよ。お前の親父に率いられた湯本勢は立派に殿軍を務めて全滅し、他の者たちの命を助けた。助けられた者たちの中に兵部丞殿が率いていた真田勢が二百人いたんじゃ。その者たちによって、この供養塔は立てられ、あれから三年余りが経つというのに、未だに、これだけの花が供えられているんじゃ」
三郎は改めて供養塔を見た。三郎右衛門の名前の下に並んでいる名前を読んでみた。知らない人が多かったが、時々、父親を訪ねて三郎の家に遊びに来ていた人の名前もあった。
「お前に親父の真似ができるか。助かる見込みなどまったくないのに、殿軍を志願する事ができるか。もし、あの時、お屋形様が怪我をしていなくて出陣したとしても、同じ結果になったじゃろう。それ程の覚悟がなくては、お屋形様は勤まらんのじゃ。わしが言いたいのはそれだけじゃ」
三郎は供養塔に書かれた湯本三郎右衛門という字をじっと見つめていた。お屋形様を継ぐ以前に、今の自分は三郎右衛門の名を継ぐにも値しないと思った。女に振られて、いつまでもくよくよしている自分が情けなかった。自分の事しか考えていない自分が情けなかった。
「立派な武将になって、お屋形様を助けるんだぞ」と父親の声が聞こえたような気がした。 三郎はひざまずいて両手を合わせた。
お屋形様の跡継ぎになった事で多少、自惚れていたのかもしれなかった。旅をして各地を見て、将軍様の師範でもあった上泉伊勢守の弟子になり、いい気になっていたのかもしれなかった。いい気になって、北条家のお姫様を嫁に貰うなどと夢を見ていた。あれは夢だったんだ。かなわぬ夢だったんだ。
三郎は顔を上げると東光坊を見た。
東光坊は目を閉じて片手拝みをしていた。
「師匠、お願いです。もう少し、旅に付き合って下さい」と三郎は言った。
東光坊はゆっくりと目を開けると、「また、旅に出るか」と聞いた。
「はい」と三郎は力強く返事をした。
真剣な顔をした三郎をじっと見つめ、「よし、いいじゃろう」と東光坊はうなづいた。
真田郷の中心に堀と土塁に囲まれたお屋形があり、その回りに家臣たちの屋敷が並んでいた。その一軒に東光坊の父、円覚坊は療養していた。思っていたよりも元気そうだった。
「もう傷の方は大丈夫なんですか」と東光坊が聞くと、
「まあ、何とかな」と陽気に笑った。しかし、右腕のない、その姿は痛々しかった。
「暖かくなれば痛みも治まるじゃろう。それよりも、利き腕がなくなっちまったんで困っておる。片手しかないというのは不便なもんじゃ。何とか飯は食えるようにはなったが、まだ、刀がうまく使えん。やらなければならん事はいっぱいあるんじゃが、刀も使えんのじゃ話にならんわ」
円覚坊は悔しそうに右腕の付け根を押さえた。
「父上を倒すとは敵も大した奴ですね」
三郎は東光坊と円覚坊の父子の会話を黙って聞いていた。円覚坊の噂は色々と聞いてはいても、実際に会うのは初めてだった。東光坊の父親だけあって山伏としての貫禄はすごいものが感じられた。
「風摩じゃ」と円覚坊は言った。「奴らは手ごわいぞ。わしらの忍びは皆、奴らにやられちまった。全滅じゃ」
「風摩にやられたんですか‥‥‥父上、風摩の事を教えて下さい」
三郎も興味深そうな顔をして、円覚坊の話に耳を澄ました。
「わしも色々と調べてはみたが、未だに、その実態はつかめんのじゃ。ただ、言える事はわしらが考えている以上に、その組織は大きいという事じゃ。風摩党のお頭は風摩小太郎といってな、代々、小太郎を名乗って、今は四代目じゃ。初代の小太郎は北条家の初代、早雲の陰の存在じゃった。早雲が伊豆の国を乗っ取り、相模に進出して行ったのは、陰で小太郎が活躍したお陰じゃ。何でも、初代の小太郎というのは愛洲移香斎殿の師匠だった人らしい。二代目の小太郎は移香斎殿の娘を妻に貰い、三代目の小太郎は移香斎殿のお孫さんじゃ。わしは若い頃、二代目の小太郎殿に会った事がある」
「えっ、父上は風摩小太郎に会ったんですか」東光坊は信じられないと言った顔をして父親を見ていた。
「危うく殺されそうになった。今、思えば無茶をしたもんじゃ。移香斎殿を捜していると言ったらな、助かった。小太郎殿から移香斎殿の話を色々と聞いた。しかし、居場所は教えてくれなかった。その後、わしは上泉伊勢守殿を訪ねて、ようやく、草津にいる事を知ったんじゃ。風摩党というのは初代の早雲の時から、北条氏を陰で支えて来たんじゃ。北条氏が大きくなればなる程、風摩党も大きくなるというわけじゃ。風摩党の組織はいくつかに分かれていてな、戦に出て、奇襲攻撃や後方撹乱をする者ばかりじゃない。敵地に長い間、住み込んで、敵の情報を集めている者もかなりいるんじゃ。二代三代とその地に住んでいるからと言って安心はできん。武将たちが喜んで迎える有名な連歌師や茶の湯者だって風摩党なんじゃ。それに武将たちが利用する遊女屋も危ない。風摩はいたる所にいるんじゃよ。ここにもいないとは断言できん」
「草津にもいるのですか」と三郎は聞いた。
円覚坊は三郎の方を見て、口髭を撫でた。
「多分、いるじゃろう。湯治客に扮すれば、わけないからな」
「でも、草津にいたって大した情報なんか得られないじゃないですか」
「そうとは限らん。武将たちがよく利用する宿屋の番頭や女中になれば、以外な情報が得られるかもしれん。武田家の武将と言えども、ああいう湯治場に行けば気が緩む。ちょとした事を口走ってしまうかもしれんからな」
「父上がやってる宿屋が一番、危ない」と三郎は言った。
「そうじゃ。ただし、風摩かどうか見つけ出すのは難しい。決して怪しい素振りを見せないように仕込まれているからな」
「あのう、小野屋の女将さんも風摩なのですか」三郎はずっと気になっていた事を聞いてみた。
「そこの所が、わしにもどうもわからんのじゃ。各地にある小野屋の出店を風摩が拠点にしているのは確かじゃが、小野屋は風摩とは別の組織を持っているのかもしれん」
「小田原で幻庵殿に会いました」と東光坊が言った。
「なに、幻庵殿に?」円覚坊は驚いて目を丸くした。
「小野屋の女将の紹介です」
「そうか、幻庵殿に会ったのか‥‥‥わしが思うには、幻庵殿が風摩党を動かしているんじゃないかと思っていたんじゃ」
「はい。そのような気がします。そして、小野屋の女将さんは幻庵殿をおじさんと呼んでいました」
「という事は、あの女将も北条一族じゃったのか‥‥‥そいつは知らなかった」
「あのう、父上と女将さんはどんな関係なんです」と三郎は円覚坊に聞いた。
「関係か」と円覚坊は笑った。「古い付き合いじゃな。あの頃は善太夫殿も若かったからのう。関係と言われてものう、何と言ったらいいか‥‥‥善太夫殿はあの女将に惚れていたんじゃ。最初、嫁さんに貰うつもりじゃったがうまく行かず、次に側室にしようと思ったが、結局、うまく行かなかった。その後も、女将はちょくちょく草津にやって来た。わしが見た所、二人は未だに惚れ合っている仲じゃな。しかし、お互いの立場があって、添い遂げる事ができなかったという所かのう。あれはあれでいい関係じゃと思うがな、お前にはまだわかるまい。もう少し、大人になればわかるじゃろう」
「おじさん、大丈夫?」と女の子が縁側から顔を出した。「あら、お客さんだったんですか」
女の子は恥ずかしそうに軽く頭を下げて、帰ろうとした。
「いいんじゃ。わしの伜と草津の三郎じゃ」と円覚坊が女の子を引き留めた。
女の子は振り返ると改めて、「いらっしゃいませ」と言って頭を下げた。
「矢沢三十郎殿の娘さんじゃ」
「松です」と女の子は言った。そして、三郎の顔を見つめ、「あのう、湯本三郎右衛門様の息子さんですか」と聞いて来た。
三郎がうなづくと、お松は嬉しそうに笑った。
「父上から三郎右衛門様の事はよく聞いております。父上の命の恩人です。あたし、毎日、供養塔にお花を捧げてるんですよ」
「そうですか。どうもありがとう」
お松は照れくさそうに笑った。年の頃は十歳位か、目のくりっとした可愛い娘だった。
「お松ちゃん、三郎にお屋形の中を案内してやってくれ」と円覚坊が言った。
「はい」とお松は嬉しそうにうなづいた。
父親のお陰で、三郎は真田の人たちに大歓迎された。命の恩人の伜が来た、とあっちでもこっちでも引っ張り凧だった。一徳斎を初め、源太左衛門(信綱)、兵部丞(昌輝)兄弟も、お松の父親の矢沢三十郎(頼康)も甲府に行っていて留守だったが、留守を守っている者たちは皆、三郎の父親に感謝していた。
その夜、お松の祖父で一徳斎の弟、矢沢薩摩守(頼綱)の屋敷に泊めてもらい、父親の話を聞いた。お松も母親と一緒に三郎の側で話を聞いていた。
「武士の鑑じゃな、そなたの父上は。どうじゃ、お松、草津に嫁に行かんか。三郎は父親に似て立派な武将になるぞ」
薩摩守がそう言うと、お松は恥ずかしそうに母親の陰に隠れた。可愛い娘だと三郎は思った。でも、お松はまだ幼すぎた。とても、嫁に貰うなんて考えられなかった。もっとも、薩摩守にしても本気で言ったわけではなかった。その場の冗談に過ぎなかったが、お松にとって、その言葉は心の中に深く刻み込まれた。
2
真田の人たちに歓迎された三郎は、三ケ月近くも真田郷で過ごした。
三郎が上泉伊勢守の弟子だと知ると、矢沢薩摩守は若い者たちに新陰流を教えてやってくれと言って来た。まだ修行中だから、人に教える事はできないと断ったのに、薩摩守はどうしてもと言って三郎を引き留めた。東光坊に相談すると、真田の若い者たちと付き合っておくのも今後のためになるから引き受けろと言う。
三郎は十五、六歳の若者たちに新陰流を教える事になった。三郎の腕は自分が思っていた以上に強くなっていた。薩摩守も三郎の強さには驚いた。噂を聞いて、若者たちが続々と集まって来た。その中に小草野新五郎という若者がいた。三郎より一歳年上で、三郎に敵対していた。三郎は新五郎から何を言われても相手にしなかったが、ついに試合をする事になってしまった。
三郎は新五郎に勝った。新五郎が三郎に恨みを持つような事になったら、真田を去ろうと思っていた。しかし、新五郎は素直に自分の負けを認め、三郎のもとに通うようになった。それ以来、三郎と新五郎はお互い、友として付き合うようになった。新五郎のお陰で、三郎は益々、真田家中の者たちと親しくなって行った。
真田には人質になっていた善太夫の長女、おナツがいた。三郎の義妹だったが、会うのは初めてだった。七歳の時に真田に連れて来られてから七年余りが経ち、十五歳になっていた。新五郎の屋敷に侍女と共に住んでいて、初めて会った時、真田にも可愛い娘がいるなと思ったら、おぬしの妹だと聞かされて驚いた。二年後、新五郎はおナツと一緒になり、三郎と義兄弟の関係となる。
薩摩守の屋敷に滞在していた三郎の世話をしてくれたのはお松だった。小さな体でチョロチョロしながらも、飯の支度や洗濯などまめまめしく働いていた。とても十一歳とは思えない程、よく気が利いた。三郎にはお松と同じ年頃の妹がいるので、お松に対しても、妹のように気軽に付き合っていた。
「三郎様、草津って、どんな所なんです」
稽古が終わって縁側で汗を拭いていると、お松が側にやって来て聞いた。
「湯池(湯畑)っていうのがあって、熱いお湯がどんどん湧いていて、湯煙りが昇っているんだ。俺はもう慣れたけど、ちょっと臭いかな」
「臭いの?」とお松は首を傾げた。
「うん。硫黄の臭いがするんだ」
「へえ、ここからどのくらい離れてるの」
「そうだな、こっちから行くと登りが多いからな、二日は掛かるな」
「でも、二日で行ける所なんだ」
「そうさ、近い。お松ちゃんも遊びにおいで」
「行きたいけど‥‥‥」
お松は寂しそうな顔をした。その顔が琴音の顔と重なった。三郎は慌てて首を振って、琴音への思いを断ち切った。
「どうかしたんですか」とお松が不思議そうに聞いた。
「何でもない」と言って三郎は首筋の汗を拭いた。
「そうだ。四月になったら円覚坊殿が湯治に行くって言ってたから、一緒に連れてってもらえばいいよ」
「でも、三郎様はいないんでしょ」
「ああ、俺はここを出たら京都に行く」
「京都か、いいなあ。あたしも行ってみたい」
「京都は遠いぞ。女の子が行くには遠すぎるな。あちこちで戦をやってるし、悪い奴もいっぱいいるからな」
「三郎様は強いから大丈夫よね」
お松は三郎が剣を振る真似をした。真剣な顔をして三郎の真似をするお松の仕草はおかしかった。三郎は思わず吹き出した。
「なに笑ってるのよ。おかしい?」
「いや、今に立派な女武者になれるよ」そう言いながらも三郎は笑っていた。
「嘘ばっかし。ねえ、京都からいつ帰って来るんですか」
「年末には帰って来る」
「その時、また、ここに寄って下さいね」
「うん、寄れたらな」
「だめ、絶対よ」とお松は三郎の手を引いた。
「わかったよ」と三郎は優しく、お松の手を握った。お松は嬉しそうに笑った。
真田に滞在中、薩摩守から自分が知らなかった実父、三郎右衛門と義父、善太夫の事を色々と聞き、三郎は湯本家のお屋形様になるため、新たに決心を固めた。女のためではなく、湯本家のために、もっと強くならなければならないと思い、京都に行こうと決めていた。でも、その前に、敵である上杉氏の本拠地を見てみたかった。敵に勝つには、まず、敵をよく知る事だと上泉伊勢守はいつも言っていた。
五月の初め、強い日差しの中、三郎は真田の若者たちに別れを告げて、東光坊と共に上杉氏の本拠地、越後府中(上越市)に向かった。
「小田原には小野屋の女将がいたが、越後には味方は誰もおらん。捕まったら殺されるかもしれん。気を引き締めて行けよ」
三郎は厳しい顔をして、うなづいた。
「お前の腕を試す機会があるかもしれんな」
「人を殺すって事ですか」
「そうじゃ。真田でわかったように、お前の腕はかなり上達している。後は実戦で経験を積む事じゃ」
「人を殺すって、どんな感じなんですか」
「どんなもこんなもない。殺さなければ自分が殺されてしまうからな、慣れるまでは必死じゃ。ああだこうだと考えている暇などない」
「慣れてくれば、どうなんです」
「慣れれば回りの状況が見えてくる。相手の強さもわかるようになる。相手が弱ければ無駄な殺しはしなくて済む。ただし、戦では一々、そんな情けをかけてはいられない。敵は次から次へとやって来る」
三郎もある程度、相手の強さがわかるようになっていた。木剣では難無く、相手の攻撃を避ける事はできるが、真剣でも同じようにできるかわからなかった。ちょっとした油断が命取りになってしまう。人を斬るのも恐ろしいが、それ以上に、自分が斬られるのはもっと恐ろしかった。
「それにな、飛び道具にも気をつけなければならん」と東光坊は言った。
「鉄砲ですか」と三郎は聞いた。
「うむ。これからの戦は鉄砲の使い方次第で決まるかもしれん。手に入れるのは難しいがな。そういえば、箕輪の合戦の時、鉄砲隊も全滅して貴重な鉄砲を十挺も、上杉に奪われてしまったんじゃ」
「えっ、湯本家には鉄砲が十挺もあったんですか」
「小野屋の女将が持って来てくれたんじゃよ」
「へえ、そうなんですか」
「小野屋とは古くから硫黄の取り引きをやっていてな、そのお返しらしい。何でも、玉薬(火薬)を作るのに硫黄が必要なんだそうじゃ」
「硫黄ですか‥‥‥」
三郎は白根山中で煙を上げて燃えている硫黄を思い出した。あの硫黄が鉄砲の玉薬になるなんて知らなかったが、何となく、わかるような気がした。
「でも、敵同士になってしまったから、その取り引きも中止になっちゃったんですね」
「多分な」
「それじゃあ、今、湯本家には鉄砲はないんですか」
「いや。箕輪の合戦の後、一徳斎殿のお陰で、武田のお屋形様より十五挺の鉄砲を贈られたんじゃ。鉄砲をうまく使いこなすのも、お屋形様の腕次第じゃ。これからは戦の駆け引きも学ばなければならんぞ」
「はい、伊勢守殿に学ぼうと思っています」
「そうじゃな。伊勢守殿は武将だった頃、箕輪にいた長野氏の軍師じゃったという。軍学にも詳しい事じゃろう」
真田から地蔵峠を越え、武田の前線を守る海津城(長野市)を見て、武田信玄と上杉輝虎(謙信)が何度も戦った川中島を通り、千曲川に沿って北上した。国境を守る敵兵に見つからないように山中を抜けて、二人は越後に入った。さりげなく回りに気を配りながら、関川に沿った街道を府中目指して北上した。三郎は緊張しながら東光坊に従った。
途中、何事もなく府中に着き、上杉輝虎の春日山城を見上げた。
北条の小田原城とはまったく違い、山そのものが城になっていた。山の頂上に本丸があり、中腹に輝虎が住む屋敷があるという。三郎は城を見上げ、その規模の大きさに驚き、敵ながら大したものだと感心せずにはいられなかった。
府内と呼ばれる城下も賑やかだった。輝虎が前関東管領の上杉憲政のために建てた御館と呼ばれる堀と土塁に囲まれた豪華な屋敷があり、守護所を中心に武家屋敷や町人たちの家が建ち並んでいる。まるで京都のように家々は皆、板葺屋根だった。
町の人々は祭りでもあるのかと思われる程、浮かれ騒いでいた。話を聞くと、お屋形様の跡取りが祝言を挙げたばかりだという。上杉家と北条家が同盟を結び、北条家から人質を受け取った輝虎は、その人質が気に入り、養子に迎えて姪を妻合わせたらしかった。
町並みを抜け、直江津の港から海を眺めながら、「あれ程、敵対していた北条と上杉が同盟したとは、まったく驚きじゃな」と東光坊はうなった。
「北条と上杉が同時に上野に攻めて来たら、大変な事になりますよ」
のんびり、旅なんかしてられないんじゃないかと三郎は思った。
「うむ、そうなったら大変じゃ。しかし、北条は今、駿河で武田と戦っている。上野に大軍を送る余裕はあるまい。問題は上杉じゃ。北条に頼まれ、駿河に出陣している武田の後方を狙って上野に出て行くかもしれん。上杉と北条が同盟に当たって、上野をどのように分けたかが問題じゃな」
府内に戻り、信濃の国から移した善光寺の門前を通った時、ふと、『小野屋』という看板が目に入った。三郎は立ち止まって東光坊を見た。
「あの小野屋ですかね」
「まさか‥‥‥しかし、上杉と北条が同盟したとなると、あの女将の事だ。さっそく、店を出したのかもしれんな」
店の中を覗くと酒屋のようだった。酒樽がずらりと並んでいる。様々な酒があったが、その中に江川酒があった。
二人が顔を見合わせた時、「あら、まあ」と後ろから声を掛けられた。
振り返ると女将が着飾って立っていた。
「驚かせないでよ、まったく。あなたたち、どうして、こんな所にいるの」
「驚いたのはこっちですよ。女将さんこそ、どうしてこんな所に」
お互いに偶然の出会いに驚き、腐れ縁があるようだと笑い合った。
女将の話によると、北条と上杉の同盟の話は武田との同盟が壊れて、すぐに始まったらしい。それ以前に商人として、上杉輝虎に会った事のある女将は表には出ないが、陰で色々と活躍していた。同盟が決まるまでの双方の話し合いや、同盟が決まり、人質を小田原から輝虎がいた上野沼田の倉内城に送った時も女将は立ち会っていた。そして、今回、人質となった北条万松軒(氏康)の息子と上杉輝虎の姪の婚礼を手伝うために越後にやって来たのだという。女ながら、そんな重要な仕事を任されるとは大した女だと、東光坊も三郎も改めて見直していた。
越後の小野屋はそれ程、大きな店ではなかった。それでも、店の奥には庭園があり、立派な屋敷が建っていた。酒好きな輝虎のために、伊豆の銘酒、江川酒を中心に、武器や馬までも扱っているという。
床の間のある客間に案内すると、「敵地じゃ泊まる所にも困ってるんでしょ。今晩はここに泊まりなさい」と女将は笑った。
「越後まで来て、女将殿の世話になるとは思ってもいなかった。かたじけない」と東光坊は頭を下げた。
「いいんですよ。でも、小田原から来た山伏という事にしておいてね」
三郎は琴音の事が聞きたかった。しかし、言い出すきっかけがなかなか見つからなかった。三郎の気持ちを察したのか、女将の方から話してくれた。
「琴音ちゃんの事なんだけどね、本当はあなたに言いたくはなかったんだけど、ここで会っちゃったら仕方ないわね」
「琴音殿の事でしたら、もう、きっぱりと諦めました」三郎は自分に言い聞かせるように、はっきりと言った。
「そう、悪かったわね、辛い思いをさせて」
「いいえ、もう、大丈夫です」
もうすっかり立ち直りましたという顔をして、三郎は女将を見ていた。女将は三郎に対して弱々しい微笑を浮かべ、東光坊をチラッと見てから溜め息をついた。
「実はね、今回、ここのお屋形様の姪御さんと祝言を挙げたのは、琴音ちゃんの旦那様になった人なのよ」
「何ですって」三郎は目を見開いて女将を見つめた。女将が何を言ったのか、理解するのに時間が掛かった。
「琴音ちゃん、あなたの事を諦めて、北条三郎様に嫁いだの。三郎っていうのはね、幻庵様の若い頃の名前なの。出家してたから、その名前を継いだんだけど、あなたも三郎なのよね。偶然ね。名前が同じだったから、琴音ちゃんも三郎様と一緒になる決心をしたのかしら。でも、たった三ケ月で無理やり別れさせられて、三郎様は越後に送られる事になっちゃったのよ」
「そんな‥‥‥」
女将の言っている事が信じられなかった。無理やり一緒にさせといて、今度は勝手に別れさせるなんて、そんな事があるなんて、三郎には信じる事ができなかった。
「本当はお屋形様(氏政)の息子さんが人質になるはずだったの。でも、幼すぎるっていうんで、三郎様に決まっちゃったのよ」
「どうして、そんな‥‥‥今、琴音殿はどうしてるんです」
すぐにでも琴音に会いたかった。会って慰めてやりたかった。
「あのお屋敷に戻って来て、部屋に籠もったままだわ。可哀想に‥‥‥」
「それじゃあ、幻庵殿の跡継ぎはどうなるんです」
「三郎様の弟の四郎様に決まったわ。琴音ちゃんと四郎様を一緒にして、跡を継がせるの」
「そんな勝手な‥‥‥」
そんな事は絶対に許せない。琴音の気持ちも考えずに、勝手な事ばかりして、北条家のやり方は絶対に許せない。三郎は女将の顔を見つめながら、じっと怒りを堪えていた。
「仕方がないのよ」と女将は辛そうに言った。「北条家の事を考えたら、琴音ちゃんには可哀想だけど、幻庵様としてもそうするしかなかったの」
「どうして、弟の四郎様を人質にしなかったんです」と三郎は女将を睨みながら言った。
「それはね、三郎様と四郎様を比べたら、どうしても三郎様の方が見栄えがいいからなのよ。人質に見栄えなんて関係ないんだけど、やはり、北条家の代表として越後に行くとなれば、あばた顔よりも美男の方がいいでしょう。現に三郎様はここのお屋形様に気に入られて養子となり、お屋形様の若い頃の名前、景虎を貰って、一族の娘さんまでお嫁さんに貰ったわ。もし、四郎様が人質になっていたら、こんなにもうまい具合には行かなかったでしょうね」
女将はすまなそうな顔をして三郎を見ていた。三郎は女将を睨むのをやめた。女将にもどうする事もできなかったのに違いない。
東光坊を見ると腕を組んで俯いていた。東光坊なりに琴音の事を心配しているようだった。
「その四郎殿と琴音殿は一緒になるのですか」と三郎は聞いた。
女将はうなづいた。
「いつです」
「琴音ちゃん次第ね。すでに四郎様は幻庵様の養子となって、今、戸倉城(静岡県清水町)に入ってるけど、幻庵様としても、琴音ちゃんの気持ちを考えると、早く一緒になれとは言えないわ」
「四郎様が養子になったのなら、琴音殿と一緒にならなくてもいいんじゃないんですか」
「そうも行かないわよ。四郎様の跡継ぎを琴音ちゃんが産まなければならないでしょ」
三郎は何も言えなかった。北条家中では琴音の存在はただ跡継ぎを産むだけなのかと思うと可哀想すぎた。
「琴音ちゃんも辛いだろうけど仕方がないのよ」
「四郎殿はそんなに醜いんですか」
「三郎様と比べたら落ちるっていう事よ。確かにあばた顔だけど、見られない程、醜くはないわ。でもねえ、琴音ちゃんもあなたの事を諦めた後、三郎様の事を好きになっていたみたいだから、気持ちを変えるのは難しいでしょうね」
五月の半ば、女将の仕事が一段落すると三郎は女将と一緒に小田原へと向かった。東光坊も事の成り行きに驚き、小田原行きに賛成してくれた。上越国境を越えた頃より梅雨に入ったのか、毎日、雨降りとなった。冷たい雨に濡れながら、三郎はずっと、琴音の事を思っていた。
去年の十月、武田信玄は関東の大軍を率いて小田原を攻めた。城下のほとんどは焼かれ、小野屋も燃えてしまった。冬だったので、家を焼かれた者たちは大変、辛い思いをした。半年余りが経ち、ようやく城下も立ち直って活気を帯びて来たが、まだ、家のない者たちもいるという。
ひどい事をすると三郎は思った。しかし、その武田軍の中には湯本家の者たちもいたのだ。義父の善太夫はどんな気持ちだったのだろう。城下を焼くのは城攻めの常套手段だった。城下を焼くのをためらっていたら城攻めなんてできない。それはわかるが、突然、大軍に攻められて焼け出された者たちは可哀想すぎた。
久野の幻庵屋敷に琴音はいた。幻庵もいて、三郎を歓迎してくれた。
「よう来たのう。飛んだ事になってしまったわ。わしはもうすぐ八十になるが、子供たちはみんな、わしより先に死んで行きよった。息子が三人、娘が六人いたんじゃが、残ってるのは娘が四人だけじゃ。息子たちは皆、戦死してしまった‥‥‥琴音に婿を取って、わしの跡を継がせようと思ったんじゃが、その婿も戦のために取られてしまった。琴音にはすまないと思っておる。可哀想に、うちに帰って来てから部屋に閉じ籠もったままじゃ。琴音がお前の事を好きじゃったのは知っていた。こんな事になるのなら、草津に嫁がせた方がよかったかもしれんのう。琴音を慰めてやってくれ」
三郎の目の前にいる幻庵は北条家の長老ではなく、戦で息子を失った父親そのものだった。気落ちして、皺だらけの顔は急に百歳になってしまったかのように哀れだった。
三郎は締め切ったままの琴音の部屋に声を掛けた。何と言って慰めたらいいのかわからなかったが、自分の思っている事を素直に告げた。しかし、琴音は返事も返さず、ただ、すすり泣きが聞こえるばかりで、部屋から出ては来なかった。小野屋の女将が何を言っても無駄だった。
三郎は琴音の気持ちを察しながら、雨降る中、久野を去り、武田の本拠地、甲斐の府中へと向かった。
「可哀想じゃのう」と東光坊が歩きながら言った。「お前を諦め、覚悟を決めて嫁いだ相手は越後に行ってしまった。北条家の娘に生まれなかったら、こんな苦労をしなくてもいいものを可哀想な事じゃ」
「自殺したりしないでしょうか」三郎は本気になって心配していた。
「いや、あの娘は幻庵殿の娘だけあって、芯の強い娘じゃ。時が過ぎれば、気持ちを整理して小机城に行くじゃろう。お前、まさか、琴音殿をさらおうなんて考えているんじゃあるまいな」
「やりたいけど、今の俺にはそんな事はできません」
越後から小田原に向かう途中、三郎は琴音を草津に連れて行こうとずっと考えていた。幻庵が反対しようとも連れ去ろうと決心を固めていた。しかし、琴音とは会う事ができず、琴音の泣き声を聞いているうちに、すでに違う世界に住んでいる事を悟っていた。琴音は北条家の娘である自分を捨てる事はないだろう。幻庵の娘である事に誇りを持っている。その誇りが自殺という最悪の事態を招くのを心配したが、東光坊の言う通り、琴音はこの辛さをきっと耐え抜くに違いなかった。
「辛いじゃろうが、琴音殿を遠くで見守ってやるしかない」
「はい‥‥‥四郎殿と一緒になって、幸せになってくれればいいと願っています」
東光坊はうなづいた。「真田に行って立ち直ったようだな」
足柄峠を越え、雨に煙る富士山を左に見ながら甲府に入った。
さすがに、躑躅(つつじ)ケ崎のお屋形と呼ばれる武田信玄の屋敷は立派だった。しかし、噂の信玄像に比べると、何となく、物足りなさを感じずにはいられなかった。北条の小田原城は城下を見下ろす丘の上にあり、広い堀に囲まれていて、上杉の大軍が攻め寄せても、武田の大軍が攻め寄せても、びくともしなかった。上杉の春日山城は山そのものが大きな城となっていて、たとえ、大軍が攻め寄せても落ちるとは思えない。信玄も要害山という詰めの城を持ってはいるが、ここに北条の大軍が攻めて来たらどうなるのだろうと不安を覚えた。
信玄のお屋形を中心に家臣たちの屋敷が並び、商人や職人たちの住む町は南の方にあった。城下は活気に溢れ、人々は皆、お屋形様の信玄を信頼しているようだった。町の者たちがお屋形様の自慢話をしている場面に三郎は何度も遭遇した。信濃の国から移した善光寺の門前に大きな市場があり、山国とは思えない程、様々な物が取り引きされていた。
飯縄山の宿坊に東光坊と共に修行を積み、今は武田家に仕えている妙厳坊という山伏がいた。妙厳坊の案内で、三郎は武田家の重臣たちの屋敷を見て回った。
上野箕輪城の城代となっている内藤修理亮の屋敷や真田一徳斎の屋敷もあった。信濃牧之島(信州新町)城主の馬場美濃守、信濃海津(松代町)城主の春日弾正、信濃飯田城主の秋山伯耆守(ほうきのかみ)、駿河江尻(清水市)城主の山県三郎兵衛(やまがたさぶろうひょうえ)、陣場奉行を務める原隼人佑(はやとのすけ)など、三郎も何度か噂に聞いている武将たちの屋敷を見て、彼らの活躍を聞いた。
「甲斐の国はな、国そのものが城なんじゃ。敵が攻めて来れば、各地にある狼煙(のろし)台からすぐに、お屋形様のもとに知らせが届く。お屋形様はすぐに兵を送り、敵を追い払ってしまう。ここに敵が攻めて来る事など、絶対にありえんのじゃ」と妙厳坊は自信たっぷりに言い切った。「それにな、武田家はお屋形様を中心に家臣たちは完全に一つにまとまっている。皆、お屋形様のために、いつでも命を捧げる覚悟がある。今の武田軍は最強じゃ。上杉と北条が同盟して、共に攻めて来てもびくともせんわ」
三郎もそうに違いないと納得した。
甲府から南下して、駿河の国に入った。今、駿河の国には今川氏はいなかった。一昨年の暮れ、武田信玄に攻められ、駿府は焼かれ、今川刑部大輔(氏真)は遠江の掛川城に逃げ込んだ。しかし、その掛川城も三河の徳川三河守(家康)に攻められ、刑部大輔は妻の実家である北条氏を頼って伊豆の戸倉城へと逃げた。戸倉城は琴音の夫になる四郎が守っている城だった。領主のいなくなった駿河と遠江の国は、武田と徳川に奪われ、名門の今川家は滅び去った。
「今川のお屋形様(氏真)は親父(義元)を織田弾正(信長)に殺されても弔い合戦をしようとはしなかった。京の公家に憧れて、蹴鞠(けまり)などに熱中しておったんじゃ。滅びて当然とは言えるが、駿河と遠江の二国を治めていた大名が、こんなにも簡単に滅び去るとは恐ろしい世の中になったもんじゃ。世の中の流れを見極めんとこういう目に会う。よく肝に銘じておけよ」東光坊は変わり果てた駿府の町を眺めながら三郎に言った。
「武田や北条、上杉もいつかは滅びてしまうのでしょうか」と三郎は聞いた。
「滅びんとは言えんじゃろうな。信玄殿、万松軒殿、輝虎殿、皆、立派なお屋形様じゃ。だが、その跡を継ぐ者たちは大変じゃ。親父たちに負けん程の武将なら、滅びる事はあるまいが、今川家のような跡継ぎなら滅びてしまうじゃろうのう」
北条氏は今川氏を助けるという名目で駿河に進攻して武田氏と戦っているが、去年の末、蒲原城を落とされて以来、駿河の国はほぼ、武田の領地となっていた。遠江の国は徳川の領地となり、三河守は本拠地を岡崎から引馬(浜松市)に移そうと、城を拡張するための普請を行なっていた。
遠江から三河に入り、徳川三河守の本拠地、岡崎城下を見て、尾張を抜けて美濃に入り、織田弾正の本拠地、岐阜城下へと向かった。
将軍様を連れて京都にやって来ただけあって、織田弾正の岐阜城下は素晴らしかった。山を背にして建つ天主と呼ばれる四階建ての弾正の屋敷は華麗と呼ぶにふさわしい建物だった。梅雨明けの強い日差しを浴びてキラキラと輝いていた。
「すごいのう」と東光坊も天主を見上げながら、うなるばかりだった。「織田弾正という男、ただ者ではないぞ。今に恐ろしい男になるかもしれん」
「ええ、すごいですねえ」と三郎はじっと天主を見つめていた。
この頃、織田弾正は徳川三河守と共に近江(滋賀県)に出陣し、姉川を挟んで浅井(あざい)備前守(長政)と朝倉左衛門督(義景)と対峙していた。三郎と東光坊は合戦の様子を見ようと近江へ向かったが、すでに遅く、織田徳川連合軍の勝利で合戦は終わっていた。噂では織田弾正は驚く程の数の鉄砲を使用したとの事だった。
京都では将軍様の立派な御所も完成し、都は以前にも増して華やいでいた。堀と石垣で囲まれた御所にも岐阜の天主を思わせる四階建ての楼閣があった。二年前、何もなかった地に、こんな立派な御殿を作ってしまうなんて、織田弾正という男の恐ろしさを三郎は感じていた。もし、関東に織田弾正がいたらと思うと、ぞっと寒気だった。
上泉伊勢守の道場も溢れんばかりの門弟が稽古に励んでいた。
伊勢守は六月の末、正親町(おおぎまち)天皇に新陰流を披露して、従四位下(じゅうしいげ)に叙せられたという。今や、伊勢守の名は天皇から町人に至るまで、京中で知らぬ者がいない程に有名になっていた。
去年、共に修行を積んだ堀久太郎は岐阜に帰ってしまって、いなかったが、三郎は一人で眠る間も惜しんで修行に励んだ。琴音の事を心配しながらも、武術の修行に熱中し、伊勢守より軍学も学んだ。
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