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2017 .09.23
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5.上泉伊勢守




 あの夢のような夏の夜から一年が過ぎた。

 ナツメは来年の夏に必ず来ると言っていたが、あの後、来る事はなかった。

 兄の孫太郎も来ない。

 小野屋の番頭は『伊勢屋』と称して来たが、ナツメの事はよく知らなかった。最近、見かけないから、伊勢の方に行ったのかもしれないとはっきりしなかった。

 もう年頃だし、嫁に行ったのかもしれないと善太夫は諦めた。

 諦めたと言っても、心の中の未練が消える事はなかった。

 ナツメの事を忘れようと、毎晩のように遊女屋通いを続け、他の女を抱いてみても無駄だった。ナツメによく似た娘を捜し出して、共に一夜を過ごしても、余計に空しくなるばかりで、ナツメを忘れる事などできなかった。

 冬住みが始まると、さっそく、敵情を探るために小田原に行こうと円覚坊を誘った。

 円覚坊はニヤニヤしながらも、うなづいてくれた。円覚坊もナツメの事は当然、知っていた。

 ナツメは伊勢屋の娘として善太夫の宿に滞在し、善太夫とナツメの事は草津中で噂となっていた。誰もが二人は一緒になるものと思い、一緒になれば似合いの夫婦だと噂していた。善太夫の兄、太郎左衛門もその噂は聞いていて、大店(おおだな)の商人の娘を嫁に貰えば、この先、湯本家としても何かと便利だろうと賛成していた。誰も、伊勢屋が北条氏とつながりがあるなどとは思ってもいなかった。

 『小野屋』というのは、箕輪の長野信濃守によって、北条氏の御用商人だと知らされて、太郎左衛門は知っていた。小野屋が白根山の硫黄(いおう)の取り引きをしているから中止させるようにと注意されていた。太郎左衛門は白根明神に小野屋との硫黄の取り引きをやめるように命じ、さらに、各宿屋に小野屋という商人が来ても泊めないようにと命じた。

 太郎左衛門は小野屋が以前から、善太夫の宿屋を利用していた事を知らなかった。先代の善太夫も父と共に戦死してしまったため、小野屋について詳しく聞く事はできなかった。太郎左衛門は弟の善太夫に小野屋の事を聞いたが、善太夫はナツメの事があったので、知らないと答えていた。太郎左衛門は善太夫の言葉を信じた。

 当時、湯本家にとって、小田原の北条氏というのは、はるか遠い存在でしかなかった。前回、河越の合戦では、北条氏のために多くの者が戦死したが、北条氏が管領(かんれい)上杉氏のいる上野(こうづけ)の国に攻めて来るはずはないと思っていた。この時期、上野の国内で、北条氏に注目していたのは、長野信濃守だけだったと言っていい。前回、北条氏に負けたとはいえ、上野の武士たちは管領という権威をまだ信じていた。太郎左衛門もそうである。信濃守から小野屋の事を聞いて、一応、取り引きの中止を命じたが、それ程、重要な事だとは思っていなかった。

 湯本家の者たちは、ナツメが小野屋の娘だという事を知らなかったが、円覚坊だけは知っていた。知ってはいても、円覚坊が誰かに言い触らす事はない、と善太夫は信じていた。

「陰流(かげりゅう)の名人も女子(おなご)には形無しじゃのう」と円覚坊は笑った。

「女子じゃない。敵情視察だ」と善太夫は言った。

「ほう、敵情視察か。去年の冬はそんな事を言わなかったのに、急に、北条氏の事が気になるのか」

「うるさい」

「まあ、いいじゃろう。ただし、小田原に行く前に寄る所がある」

「どこです」

「いい所じゃ。いささか高くなっている、おぬしの鼻を折るのに丁度いい」

「俺が天狗になってると言うんですか」

「いささかのう」
 善太夫は今年の夏、円覚坊から陰流の印可(いんか)を得ていた。

 印可を得るという事は、陰流のすべてを身に付けたという印だった。しかし、武芸の修行がこれで終わったというわけではない。後は自分で工夫しながら修行を続けなければならない。当時の武芸は実戦のためのもので、何種類かの技を身に付けたら、後は実戦において、その技を磨いて行くしかなかった。いくら、木剣(ぼっけん)同士の試合で勝てたからといっても、実戦にて通用しなければ何にもならなかった。

 木剣での試合では円覚坊には勝てないにしろ、白根明神の修行者で、善太夫に勝てる者はいなかった。善太夫は実戦での経験がないくせに、自分の腕に自惚れ、いささか天狗になっていた。

 円覚坊は善太夫を上泉(かみいずみ)城(前橋市)に連れて行った。

 上泉城は廐橋(うまやばし、前橋)城と大胡(おおご)城のほぼ中程にあり、広々とした赤城山(あかぎやま)の裾野にあった。

 上泉城の城主、上泉伊勢守秀綱(いせのかみひでつな)は管領上杉氏に属して、武将として戦で活躍しているが、それ以上に、一流の武芸者として有名だった。

 伊勢守は愛洲移香斎(あいすいこうさい)の弟子だった。しかも、ただの弟子ではなく、移香斎の後継者と言われていた。晩年の移香斎は武術を捨てていたが、伊勢守の素質と才能を見抜いて、陰流のすべてを伊勢守に授け、自分の後継者にしたという。

 移香斎と上泉家は古い付き合いがあり、伊勢守の祖父、父親、共に移香斎の弟子だった。移香斎は生涯を通して、武士に陰流を教えた事は少なかったが、上泉家だけは例外で、関東に来る度に、上泉家にしばらく滞在しては陰流を教えていた。

 父親の代から城内に道場を開いて、近辺の武士たちに陰流を教えるようになった。箕輪城の長野信濃守も父親の弟子だった。信濃守が父親の弟子になったため、長野家の武士たちの多くが父親の弟子となり、代が替わって伊勢守の代になっても、長野家と上泉家は師弟関係で結ばれていた。

 伊勢守は移香斎の死後、陰流の武芸をさらに完全なものとして、新陰流(しんかげりゅう)と名を改めた。

 善太夫が円覚坊に連れられて、上泉城に来た時も、城内にある広い武術道場では、大勢の若者たちが修行に励んでいた。

 その光景を見て、こんな所があったのかと善太夫は驚いた。ちらっと見ただけでも、善太夫以上の腕を持つ若者が何人もいるようだった。

 善太夫は目を見張って、若者たちの修行を見つめていた。草津では自分よりも強い者がいないので自惚れていたが、ここに来たら、善太夫の腕など、ほんの子供のようなものだった。善太夫は両手を強く握りしめて、自分の未熟さをかみ締めていた。

 円覚坊のお陰で、伊勢守とも会う事ができた。

 当時、四十歳前後の伊勢守は背丈が六尺近くもある体格のいい人だった。善太夫は猛将という伊勢守を想像していたが、実際の伊勢守は物静かな人で、武芸の達人でありながら、まったくと言っていい程、威圧感を感じさせない人だった。それでいて、大木(たいぼく)を目の前にしているような、圧倒される程の存在感が感じられる不思議な人だった。

「湯本殿の御子息ですか。師匠(愛洲移香斎)がおられた頃、わしは草津の山中で修行した事があった。その時、そなたの祖父、梅雲(ばいうん)殿には随分とお世話になりました。梅雲殿はお元気ですか」

 伊勢守は静かな声で聞いた。

「祖父は今年の夏、亡くなりました」と善太夫は答えた。

「そうでしたか‥‥‥お亡くなりになりましたか‥‥‥」

「眠るように、祖父は息を引き取りました」

「そうでしたか‥‥‥梅雲殿は立派な武将じゃった。わしは共に戦った事はなかったが、三日月の兜(かぶと)をかぶって敵陣に突進し、敵兵をなぎ倒して味方を勝利に導いたという活躍は今でも語り草になっている‥‥‥そなたも梅雲殿に負けない武将になれ」

 善太夫は初めて、祖父の活躍を聞いた。善太夫が物心のついた頃、祖父はすでに隠居していた。鎧(よろい)姿を見た事もないし、武器を手にしている所も見た事はなかった。のんきに歌を詠んだり、お茶を点てたり、碁を打っている姿しか知らない。祖父が戦で活躍して、今でも語り草になっているなんて、まったくの驚きだった。

 善太夫は力強く、うなづいた。

 伊勢守の案内で城内を見学した後、善太夫は伊勢守の弟子、原沢佐右衛門(すけうえもん)という男と試合をした。佐右衛門と善太夫は共に十九歳だったが、勝負は完全に善太夫の負けだった。

 伊勢守は袋竹刀(ふくろしない)という稽古用の武器を考え出して、それを使って試合を行なった。

 木剣で試合をする場合、寸止めと言って、相手の体を打つ寸前に木剣を止める事が一応の規則となっていた。お互いの技量が違う場合は、木剣で試合をしても怪我をする事はなかったが、同じ位の者同士で試合をした場合、どうしても、負けた方が怪我をする事が多かった。悪くすれば骨を折って、一生、剣を持てなくなる場合もある。

 稽古や試合で怪我をする事程、馬鹿げた事はないと、伊勢守が考えたのが袋竹刀だった。竹を割って、なめした鹿革の袋に入れただけの簡単な物だったが、袋竹刀のお陰で怪我人は減り、実際に打ち込む事によって実戦と同じように戦う事ができた。

 善太夫はその袋竹刀でしたたかに打たれていた。佐右衛門に敗れた悔しさから、善太夫は伊勢守に頭を下げ、門弟に加えてもらえるように頼んだ。円覚坊の口添えもあって、善太夫は門弟になる事ができた。

 ナツメに会うために小田原に行く事も忘れ、善太夫は上泉伊勢守に入門した。

 上泉道場には四天王と呼ばれる高弟がいた。羽田(はんだ)源太郎、奥平(おくだいら)孫次郎、神後(じんご)藤三郎、疋田豊五郎(ひきたぶんごろう)の四人だった。善太夫は半年間、彼らに厳しく、しごかれた。

 羽田源太郎は箕輪の長野氏と同族で、上泉家の家臣の伜(せがれ)だった。

 奥平孫次郎は三河の国(愛知県)の郷士(ごうし)の倅で、武者修行の旅に出て、伊勢守の噂を聞いた。上泉城を訪ね、伊勢守との試合に負けて弟子となり、四天王と呼ばれる程の腕になっていた。

 神後藤三郎は長野家の家臣の伜だったが、三男だったため、上泉家の家臣となっていた。

 疋田豊五郎は伊勢守の甥(おい)だった。豊五郎は加賀の国(石川県)の生まれだった。六歳の時、加賀の国で本願寺(ほんがんじ)内の派閥争い(大小一揆)が起こり、豊五郎の父親は敗れて加賀を追われ、伊勢守の父親を頼って上泉に来た。豊五郎の父親は伊勢守の母親の弟だった。父親は豊五郎を上泉に預けると、再び、加賀に戻って戦死した。豊五郎は上泉城にて育てられ、幼い頃から武術を習い、伊勢守の弟子の中でも最も強いと言われていた。

 四天王の下には十人の師範代がいて、その下に伊勢守の嫡男(ちゃくなん)の次郎秀胤(ひでたね)、原沢佐右衛門らがいる。善太夫はまず、佐右衛門を倒す事を目標に修行に励んだ。

 道場には善太夫と同じように、住み込みで修行している者も多かったが、皆、十五、六歳で、善太夫よりも年下だった。彼らは正月に上泉に来て、一年間の修行をして年末には帰って行った。次男や三男の場合、帰らないで、そのまま上泉家の家臣となって修行を続ける者も多かった。自然、上泉家の家臣は名人揃いという事になり、回りの武将たちからは一目(いちもく)おかれる存在だった。

 善太夫は半年間、上泉城下にある修行者たちの長屋に住み込んで、年下の修行者と一緒に、新入りとして雑用などもやりながら、ただ、強くなる事だけを考えて修行に励んでいた。

 長野家の家臣たちの多くが上泉に通いながら修行していた。その中に羽尾道雲(どううん)の次男、源七郎と大戸真楽斎(おおどしんらくさい)の長男、小太郎がいた。二人共、長野信濃守の娘婿(むこ)となって箕輪城に出仕していた。二人共、善太夫より年上だったが、腕の方は大した事はなかった。

 半年間はあっと言う間に過ぎて行った。

 四月の初め、円覚坊が迎えに来た。善太夫は伊勢守を初め、世話になった先輩たちに別れを告げなければならなかった。

 半年間の修行で善太夫の腕はかなり上達していたが、原沢佐右衛門を倒す事はできなかった。佐右衛門も善太夫には負けるものかと修行に励んだため、二人共、回りが驚く程、半年間で腕を上げていた。佐右衛門だけではなかった。修行者全員が善太夫に刺激されて、例年以上に修行に励んでいた。

「また、冬になったら来い」と伊勢守は言ってくれた。

「待ってるぞ」と四天王の面々も言ってくれた。

「痛い目に会わせてやるから、絶対に来いよ」

 佐右衛門は城下のはずれまで見送ってくれた。

「それは俺の言う事だ。覚悟してろよ」

 善太夫は佐右衛門と別れた。

「どうじゃった」と円覚坊が聞いた。

「よかった」と善太夫は答えた。

「うむ。天狗の鼻も折れたようじゃな」

「はい。半年前の自分が恥ずかしいです」

「うむ。武芸は天狗になったら進歩はしない。武芸だけじゃなく、何でもそうじゃ。何事も一生、修行じゃからな」

「はい。いい経験になりました」

 円覚坊は満足そうに、うなづいた。

 善太夫は自分で作った袋竹刀を背負って、草津へと向かった。

 その年の冬も善太夫は上泉伊勢守のもとで厳しい修行を積んだ。

 年末の稽古納めの試合の時、善太夫は原沢佐右衛門に勝つ事ができた。

 佐右衛門はその年、伊勢守の娘を嫁に貰っていた。伊勢守の娘婿として、善太夫に敗れたのが、余程、悔しかったとみえて、稽古納めになった後、正月も祝わないで、三夜沢(みよさわ)の赤城大明神に籠もってしまった。善太夫も負けずに、雪に埋もれた赤城山中に籠もって修行に励んだ。

 年が明けて鏡開きの日、二人は山から出て来て、修行者たちの見守る中、再び、試合を行なった。

 試合は文句なしの相打ちだった。

 その後、善太夫と佐右衛門の二人は、伊勢守から新陰流の目録一巻を伝授されて、共に師範代となった。師範代となったと言っても、上泉の道場において、若い者たちに教える事ができるというもので、自ら道場を持って、新陰流を教える事を許されたわけではなかった。自ら道場を持って新陰流を教えるには、さらに修行を積んで、印可状を貰わなければならなかった。

 善太夫はすでに、円覚坊から陰流の印可を授かっていた。陰流の印可と新陰流の印可は性質が違っていた。陰流の印可は、陰流の技を身に付ければ貰う事ができた。現に、伊勢守も十九歳の時、愛洲移香斎より印可を受けていた。

 陰流の印可は、道場を開くためのものではなく、印可を貰ったら、それ以後は、自分で工夫しろというものだった。陰流の印可を貰った者は多い。しかし、陰流を人に教えるためには、さらに修行を積まなければならなかった。また、印可を貰って道場を開いたからといって、門人が集まるという時代でもなかった。移香斎のように有名になれば、門人は集まって来るが、移香斎の弟子というだけでは門人は来ない。自ら、実戦で活躍しなければ、道場を開く事などできなかった。

 移香斎が亡くなってから十年以上が経ち、時代も変わって行った。移香斎や新当流(しんとうりゅう)の塚原卜伝(ぼくでん)らによって武芸は広められ、武芸者の地位は向上した。この時代になると、武者修行と称して、自分の腕を高く売るために旅をする武芸者も現れて来た。彼らは武将たちに武術指南役(しなんやく)として雇われ、武術を教えた。武将たちとしても、日常茶飯事のごとくに行なわれる戦に勝ち続けて行くためには必死だった。一流の武芸者が来れば、高い銭を払ってでも雇い入れた。そういう時代になっていたので、伊勢守としても簡単に印可を出すわけにはいかなかった。新陰流を人に教えるには、技だけではなく、精神的にも、ある境地まで達していなければならないと考えていた。伊勢守はまだ、誰にも印可を授けてはいなかった。

 善太夫と佐右衛門は目録を授かった後も、天狗になる事なく、四天王を相手に修行に励んでいた。
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