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2024 .03.19
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第二部 湯本三郎右衛門





1.小野屋








 雪の積もった山の中を錫杖(しゃくじょう)を鳴らしながら、二人の山伏が歩いていた。

 獣の足跡が所々にあるだけで、人の足跡など、どこにもない。そんな道なき道を二人は歩いている。先を行くのは貫録のある山伏で、その後を追っている山伏の顔には、まだ子供らしさが残っている。白い息を切らせて、ハアハア言いながら必死に歩いていた。

「師匠、ちょっと待って下さい」と若い山伏は雪の中に倒れ込んだ。

「もうすぐじゃ」と言ったきり、師匠と呼ばれた山伏はさっさと行ってしまった。

「くそっ」若い山伏は雪をつかんで口の中に放り込むと歯を食いしばって後を追った。

 しばらく行くと視界が開け、眩しい青空が見えた。師匠が岩に腰掛け、早く来いと手招きした。若い山伏は白い息を吐きながら、這うようにして、やっとの思いで、師匠のもとにたどり着いた。

 そこからの眺めは最高だった。広々とした関東平野が視界いっぱいに広がっていた。

「すごい!」と若い山伏は思わず叫んだ。疲れがいっぺんに吹き飛ぶくらい、いい眺めだった。こんなに広々とした土地を今まで見た事がなかった。

「よく見ておけ」と師匠は言った。「この広い土地を手に入れるために、越後(えちご)(新潟県)の上杉、相模(さがみ)(神奈川県)の北条(ほうじょう)、甲斐(かい)(山梨県)の武田が戦を繰り返しているんじゃ」

「へえ」と言いながら、若い山伏は好奇心のあふれる目をして遠くの方を眺めていた。平野の向こうに大きな川が流れ、その向こうには山々が連なっていた。

「今、武田と北条は同盟を結んでいる。利根川を境に西が武田、東が北条というふうに上野(こうづけ)の国(群馬県)を二つに分けている。武田と北条に勝手に分けられてたまるかと、そこに越後の上杉が北から攻めて来る。上杉は沼田を拠点として毎年、冬になるとやって来て、武田と北条の城を攻めるんじゃ」

「あの川が利根川なんですね」と若い山伏は川の方を指さした。

 師匠はうなづき、「利根川の向こうに見えるのは赤城山じゃ」と言った。

 赤城山は裾野の長い山だった。若い山伏は赤城山の裾野に沿って視線を南の方へと動かした。利根川の流れが輝きながら、広い平野を横切って、ずっと向こうまで続いていた。

「今もどこかで戦をしてるのですか」と若い山伏は師匠の顔を見た。

「いや」と師匠は首を振った。「いつもなら上杉勢は雪解けまで上野にいて、戦をしてるんじゃが、どうしたわけか去年のうちに帰ってしまった。どうやら、越中の方に行ってるらしい」

「越中ですか‥‥‥」

 越中(富山県)と言われても若い山伏には、どこだかわからないようだった。

「武田と北条が同盟を結んでいる限り、上杉の進出は難しいな。一昨年、上杉方の箕輪城(みのわじょう)(箕郷町)が武田に落とされてから、上杉方だった廐橋城(うまやばしじょう)(前橋市)は北条に寝返ってしまった。上杉は上野を諦めて越中方面を攻め取るつもりなのかもしれん。三郎、あそこに見えるのが箕輪城じゃ」

 三郎と呼ばれた若い山伏は師匠の指さす方を見た。山の裾野に城らしい建物が小さく見えた。

「あれが箕輪城‥‥‥」三郎は顔を曇らせて城を見つめた。

「あそこで父上は戦死したのですか」

「いや、お前の父上が戦死したのは、この上じゃ」と師匠は山頂の方を示した。

 三郎は見上げてみたが、どこも雪でおおわれ、どこなのかわからなかった。

「この山は榛名山といってな、山の上に綺麗な沼がある。その沼の近くにある砦で、お前の父親は殿軍(しんがり)として上杉の兵と戦い、全滅したんじゃ。立派な武将じゃった」

 三郎は山の上をしばらく見つめていたが、箕輪城へと視線を移すと、「今、あの城は武田の武将が守っているのですか」と聞いた。

「そうじゃ。内藤修理亮(しゅりのすけ)(昌豊)殿が守っておられる。さあ、行くぞ」

 師匠は山を下り始めた。

「どこに行くのです」

「あそこじゃ」と師匠は箕輪城を顎で示した。

 三郎は錫杖を突きながら師匠の後を追った。
 永禄十一年(一五六八年)正月の半ば、箕輪の城下は、久し振りに戦のない正月を迎えて賑やかだった。一昨年の戦で城下はすっかり焼かれてしまったのに、すでに新しい城下が完成し、市場には様々な物が売っていた。

 三郎は目を輝かせながら市場を見て回った。

「すごいですね、色んな物がある」

「こんな事で驚いていたんじゃしょうがないぞ」と師匠は笑った。

「だって、草津で見た事もないような珍しい物がいっぱいありますよ」

「草津も賑やかだが、あそこは湯治場じゃ。ここは今、上野の国一番の都と呼べるじゃろうな」

 市場には甲冑や武器も売っていた。三郎が興味深そうに眺めていると、

「戦場から盗んで来た物じゃ。ろくな物はない」と師匠が小声で言った。

「えっ」三郎は驚き、見世(みせ)から離れると、「盗んだ物を売ってるのですか」と聞いた。

 師匠はうなづいた。「戦を経験すれば、お前にもわかる。負け戦になれば味方の死体を引き取る事はできん。戦場に放りっぱなしじゃ。そういう死体は百姓たちによって武器や鎧、着物まで剥がされ、そういう物を扱ってる商人に売られるんじゃ。商人たちはそれを適当に直して市場で売るというわけじゃ。時には値打ち物もあるが、そういう物は然るべき武将に高く売る。あんな所では売らんのじゃ」

「そんなひどい事をしてるのですか」

 三郎は振り返って、改めて、並べてある武器を見た。決して新しい物ではないが、まさか、戦場から盗んで来た物とは思えなかった。

「今の世は、武器はいくらあっても足らんのじゃよ」

 二人は市場から離れ、今晩、世話になる宿坊(しゅくぼう)へと向かった。

 丘の上に立つ箕輪城は広くて深い空堀に囲まれ、あちこちに物見櫓が立っていた。本丸には大きな屋敷の屋根が見えた。三郎が唯一知っている長野原城とは比べられない程、大きかった。三郎は城を見上げ、すごい、すごいと感心しながら歩いていた。

 途中、大通りに面して立派な店構えの『小野屋』という商人の屋敷があった。三郎はふと足を止めて屋敷を眺めた。

「師匠、草津にも『小野屋』ってありますよね」

「同じ小野屋じゃ。焼けた城下を復興するのにかなりの手助けをしたらしいな」

 店の中を覗くと水瓶や陶器などが並んでいた。店の大きさは全然違うが、扱っている物は草津と同じようだった。

「小野屋の女将さんは去年、草津が焼けた時も相当な銭を持って来てくれました」

「うむ。わしも詳しくは知らんが、各地に出店を持つ大きな商人らしい。噂では北条氏の御用商人だとも聞く」

「へえ、そうなんですか。うちのお屋形様とかなり親しいようでした」

「らしいな」と言うと師匠は歩き始めた。

 三郎も小野屋から離れて、師匠を追った。

「どんな関係なんでしょう」

「そんな事は知らんよ。わしの親父に聞けばわかるかもしれんな」

「円覚坊殿は真田のお屋形様と一緒に甲斐の府中にいるのですか」

「多分な。甲府にも行く予定じゃから、会ったら聞いてみろ」

「はい」と、うなづいた後、三郎は振り返って小野屋を見つめ、「綺麗な人でした」と呟いた。

 箕輪を後にした二人は冷たいからっ風に押されるように南へと向かい、武田方の和田城下(高崎市)、倉賀野城下(高崎市)を通って、武蔵の国(埼玉県と東京都)に入り、北条方の鉢形城下(寄居町)、松山城下(吉見町)、河越城下(川越市)、江戸城下、小机城下(横浜市)と見て回り、相模の国(神奈川県)に入って、玉縄城下(鎌倉市)、大庭城下(藤沢市)を見て、石尊大権現を祀る修験(しゅげん)の山である大山に登り、北条氏の本拠地、小田原城下へとやって来た。

 小田原は素晴らしい都だった。水を湛えた広い堀に囲まれた大きな城を中心に、広々とした城下町が広がっている。その規模は今まで見て来た、どの城下よりも大きくて立派だった。大通りに面して大きな屋敷が建ち並び、道行く侍たちは凛々しく、着飾った女たちは美しかった。賑わう市場には見た事もないような新鮮な海産物が並び、異国の品々までもが当然のように売られていた。

「すごいですね。これが本当の都っていうんですね。さすが、北条氏だ」

 三郎は感激して、一人ではしゃいでいた。ふと、故郷の事を思い出し、「母上や弟や妹にも見せてやりたい」と呟いた。

 草津しか知らなかった、ついこの間までの事を思うと自分が一回りも二回りも大きくなったように思えた。

「草津のお屋形様はここに来た事あるのですか」と三郎は師匠に聞いた。

「ある。二度来ているはずじゃ。一度めはわしの親父に連れられて来た」

「そうだったのですか。お屋形様は俺にもここを見せたくて旅に出したんですね」

「そういう事じゃ。上野の山の中にいたんじゃ世の中の流れはわからない。湯本家を継ぐには世間の事を知らなけりゃならんからな」

「俺にできるでしょうか」と三郎は不安そうな顔をして師匠を見た。

「できるさ」と師匠はうなづいた。「お前がやらなければならんのじゃ。そのために、こうして旅をしている。世の中の事をその目でよく見ておく事じゃ、表も裏もな」

「表も裏も?」

「そうじゃ。表面ばかりを見て感激していたんじゃ駄目じゃ。裏側もしっかり見なくてはいかん」

「裏側って何です」

「例えばじゃな」と言って、師匠は丘の上に建つ小田原城を指さした。

 当時はまだ、天守閣と呼ばれる華麗な白壁の建物はない。最も高い位置にある本丸には、お屋形様が暮らしている木造の大きな屋敷が並んでいた。

「あの城を見て、ただ、すごいと思うだけじゃなく、どうやってあの城を作ったのかまで考えてみるんじゃ。あの城の中にいるのは北条のお屋形様じゃ。しかし、城を作ったのはお屋形様じゃない。領内の者たちが普請(ふしん)役として集められ、汗水流して働いたからできたんじゃ。それに、草津のお屋形様が二度目にここに来たのは、越後の上杉が関東の大軍を引き連れて、ここを攻めた時じゃった。城下はすべて焼き払われたらしい。城というのは戦をするためにあるんじゃ。いつまた、ここに大軍が攻めて来るともわからんのじゃ。城下は焼かれ、人々は逃げ惑う事じゃろう。ただ、ぼうっと城を眺めているだけじゃなく、そういう事まで色々と考えなけりゃいかんぞ」

 三郎は小田原城を眺め回した。これだけ大きな城を築くのは大変な事だった。どれだけの人々が働いたのか、想像すらできなかった。

「上杉はいつ、ここに攻めて来たのですか」と三郎は聞いた。

「七年程前じゃ。戦が起こる度に被害を被るのは民衆たちじゃという事をまず覚えておけ」

 師匠はそう言うと歩き出した。城を見つめていた三郎は慌てて師匠の後を追って行った。

 三日間、小田原に滞在して城下を見て回った二人は四日目の朝、旅立とうと宿坊を出ようとした。その時、三郎を訪ねて一人の男がやって来た。見るからに商人という格好の男は何人もいる山伏の中から、三郎を見つけて側にやって来た。

 三郎は驚き、師匠を見た。師匠も首を傾げていた。小田原に知人などいるはずはなかった。

「草津から来られた湯本三郎右衛門様ですね」と男は三郎の本名を知っていた。

 三郎は不思議に思いながらもうなづいた。

「手前は小野屋の番頭、半兵衛と申す者でございます。うちの女将より申しつかりまして、お迎えに参りました」

「小野屋の女将さんが‥‥‥」と三郎は師匠を見た。

 師匠は黙って、半兵衛と名乗った男を見つめていた。

「はい。是非ともお連れするようにと頼まれました」

「しかし、どうして、三郎の事がわかったのじゃ」師匠が半兵衛を睨みながら聞いた。

「東光坊様でございますね」と半兵衛は愛想笑いを浮かべながら頭を下げた。

「お二人の事は前からわかっておりました。北条家のお城下を回っておりましたので、敵の間者(かんじゃ)かと目をつけておりました。お名前を調べると信濃の国(長野県)、飯縄山(いいづなさん)の行者(ぎょうじゃ)で東光坊と瑞光坊。女将にその事を話すとすぐにわかりました。瑞光坊というのは草津のお屋形様が若い頃、名乗っていたお名前だそうですね」

「成程、そうじゃったのか‥‥‥しかし、小野屋は敵の間者の事まで調べているのか」

「いえ、たまたま、お二人が目に付いただけでございます」

 三郎と師匠の東光坊は半兵衛に連れられて小野屋に向かった。大通りに面した一等地と呼べる場所に小野屋はあった。小田原に来た翌日、三郎たちは小野屋を見つけていた。その時、店内を覗いたが、女将の姿も番頭の半兵衛の姿も見当たらなかった。奉公人の娘に声を掛けられても、別に用があるわけではないので、そのまま店を出てしまった。

 高価な陶器や様々なお茶道具が並べられた広い店を抜けると風流な庭園があった。今の時期、雪に埋もれている草津では考えられない事だが、見事な枝振りの梅の木には早くも花が咲いていた。

 三郎が梅の花に見とれていると半兵衛が、「どうぞ、こちらへ」と立派な屋敷に案内した。その屋敷の奥に大きな蔵がいくつも並んでいるのが見えた。

 二人は庭園に面した部屋に案内された。床の間には水墨画が掛けられ、綺麗な花が飾られてあった。

「いらっしゃいませ」と着飾った美しい娘が現れ、見事な手捌きでお茶を点ててくれ、二人に渡すと静かに部屋から出て行った。

「すごいですね」と三郎は娘の後ろ姿に見とれながら小声で言った。

「確かにすごい」と東光坊もうなづいた。「しかし、今度から気をつけなければいかんな。もし、ここが敵国じゃったら、今頃、殺されていたかもしれん」

「そうか‥‥‥そうですね」捕まった時の事を思うと恐ろしくなり、三郎は身震いをした。

「この立派な屋敷といい、小野屋が北条家の御用商人だという噂はどうやら本当らしいな」

「はい。でも、女将さんは俺に何の用があるんでしょう」

「さあな」と東光坊は庭に咲き誇る梅の花を眺めながら、お茶を飲んだ。

 女将が静かに現れた。決して派手ではないが、高級そうな着物をさりげなく着ていて優雅だった。

「小田原へようこそ」と女将は美しい顔で、ニコニコしながら言った。

「お久し振りです」と三郎は頭を下げた。

「善太夫様も三郎様が小田原にいらっしゃるなら、ひとこと言ってくれればいいのに、ほんと、水臭いのね」

「お屋形様、いえ、父上は小田原に行く事は知らないのです。ただ、旅に出ると言っただけで」

「あら、そうだったの。でも、会えてよかったわ。あなたに会わせたい人がいるのよ」

「えっ」と言いながら、三郎は東光坊を見た。

 東光坊は柄にもなく、緊張した面持ちで女将を見ていた。

「あなたは愛洲移香斎(あいすいこうさい)様を御存じかしら」と女将は聞いた。

「はい。陰流(かげりゅう)の流祖様で草津でお亡くなりになったとか」

「そう」と女将は満足そうに笑った。「移香斎様はね、あなたのお爺様、いえ、ひいお爺様かな。その人に随分とお世話になったらしいの。あなたに会わせたい人っていうのはね、移香斎様のお弟子さんなのよ。湯本家の跡継ぎのあなたが小田原に来たといえば、会いたがるに違いないわ」

「あの、そのお人は偉い武将なのですか」と三郎は女将に聞いた。北条家の偉い武将に会うなんて、何だか恐ろしかった。

 女将は三郎の気持ちを察したのか、優しく笑いながら首を振った。

「今はもう隠居してるのよ。七十を過ぎたお爺さんだもの」

「そうですか」三郎は少し安心した。

「ちょっと離れてるの。今から案内するわ。広いお屋敷だから、しばらくのんびりするといいわ。別に急ぐ旅じゃないんでしょ」

「はい、そうですけど」と三郎は東光坊を見た。

 東光坊はうなづいた。

「あなたは円覚坊(えんがくぼう)様の息子さんですよね」と女将は東光坊に聞いた。

「はい、そうです」と東光坊は答えた。いつもの師匠と違って、何だか様子が変だった。

「円覚坊様はわたしが善太夫(ぜんだゆう)様と出会った時からずっと、わたしの事を知ってるんですよ」

 女将は少し恥ずかしそうに笑った。

「そうなのですか」と東光坊は首を傾げた。

「あのう、父上とはどういう関係なのですか」と三郎は女将を見つめながら聞いた。

「そうね、話した方がいいかも知れないわね。これからも湯本家とはお付き合いして行かなくちゃならないし‥‥‥わたしが初めて善太夫様に会ったのは十三歳の時だったのよ。善太夫様は十五歳で、宿屋の御主人になるはずだったわ。その後、十六歳の時、もう一度、草津に行って再会したの。その時は半年近くも草津にいて、三郎様のお母様、おしづさんとも仲良しになったのよ。その時、わたし、善太夫様のお嫁さんになって草津に住みたいと思ったわ。でも、わたしは小野屋の女将を継がなければならなくなって、草津には行けなくなったの。善太夫様も父上様や兄上様が戦死なさって湯本家を継がなくてはならなくなって、お嫁さんを貰ったわ。わたしは善太夫様の事をきっぱりと諦めて、商売一筋に生きて来たのよ」

「母上の事も御存じだったのですか‥‥‥驚きました」

「四年位前かな、草津に行った時、お母様にもお会いしたんですよ。久し振りに昔話なんかしてね、楽しかったわ。でも、あの後、お父様が戦死なさって大変だったわね。立派な最期だったって聞いたわ。あなたもお父様に負けない武将になるのよ。善太夫様の養子になって湯本家の跡継ぎになったんだから、しっかりとやらなきゃ駄目よ」

「はい」と、うなづきながら、三郎は目の前にいる女将を眩しそうに眺めていた。母親と同じ位の年齢なのに、ずっと若く見えるのが不思議だった。







 小野屋の女将が三郎に会わせたいと言った、その人は北条家の長老と呼ばれている幻庵(げんあん)だった。

 幻庵は小田原から少し離れた久野(くの)という地に立派な屋敷を持っていた。小野屋の女将に連れられて、三郎と東光坊は幻庵の屋敷の門の前に立った。立派な門には鬼のような顔をした門番が太い棒を構えて立っていた。その門番が女将の顔を見ると急に顔を崩して、「いらっしゃいませ」と頭を下げた。

「いらっしゃる?」と女将が聞くと、

「はい、いつもの所に」と門番は答えて、意味もなくヘラヘラと笑った。

 女将はうなづくと、門には入らずに来た道をまた戻って行った。

「どこに行くのです」と三郎は不思議そうに女将の後を追った。

「幻庵様はあそこにはいないの。裏にもお屋敷があって、そっちにいるらしいわ」

「それじゃあ、あそこには息子さんが住んでいるのですね」

 女将は首を振った。

「幻庵様の息子さんは小机城(横浜市)の方にいるのよ。その息子さんは次男で新三郎様っていうんだけど、本当はその新三郎様のために、あのお屋敷を建てたの。でも、長男の三郎様が戦死してしまって、新三郎様が小机城を継がなくてはならなくなっちゃったの。去年までは幻庵様もあそこに住んでいたんだけど、奥方様がお亡くなりになってから、裏のお屋敷の方にいる事が多いみたい。裏のお屋敷には上野(こうづけ)から連れて来たお妾さんと娘さんが住んでいるのよ」

「上野から?」

「そうよ。幻庵様は越後の長尾弾正(ながおだんじょう)(後の上杉謙信)様が攻めて来るまで、八年間も上野の国にいたの。その時、知り合って連れて来たんですって」

 裏の屋敷は広い敷地内にあったが、表に建つ武家屋敷とはまったく違う、大きな農家のような建物だった。しかも、主の幻庵は職人のような格好をして土間に座り込み、尺八を作っていた。髷を結った髪も長い髭も真っ白だった。

 女将が声をかけると顔を上げ、

「おお、ナツメか、珍しいのう。どうした」と機嫌のいい声で言った。

 しわに刻まれたその顔は、人のよさそうな職人の親方のようだった。

「伯父様、お客様を連れて参りました」

「なに、客じゃと?」

 幻庵は三郎と東光坊を見た。ほんの一瞬だったが、幻庵は鋭い目付きになった。

「草津から来られた湯本三郎右衛門様です」

「なに、草津の湯本‥‥‥あの湯本殿か」

「そうです。移香斎様がお世話になった湯本梅雲(ばいうん)様のひ孫さんです」

「そうか、よく来なすった」と幻庵は目を細めて、嬉しそうに三郎を見上げた。

「湯本です」と言って、三郎は頭を下げた。

「わしも草津には行きたいと思っておったんじゃ。廐橋(前橋)にいた頃、何度も行こうと思ったんじゃが忙しくて行けなかった。そうか、梅雲殿のひ孫さんか‥‥‥梅雲殿の事は移香斎殿より、よく話を聞いたもんじゃ。そうか、草津から来なすったか」

 幻庵は三郎を歓迎してくれた。幻庵はしきりに移香斎と曾祖父、梅雲の話をしてくれた。移香斎も梅雲も三郎が生まれる前に亡くなってしまったので、よく知らなかった。それでも、適当に相槌を打ちながら三郎は話を聞いていた。

 裏庭の方から女と若い娘がやって来た。

「あら、ナツメさん、いらっしゃい。そんな所で話し込んでいないで、どうぞ、お上がり下さい」

 三郎は若い娘をポカンとした顔で見つめていた。その娘はまるで、天女のように綺麗な娘だった。

「わしの娘の琴音(ことね)じゃ」と幻庵が言った。

「えっ」と思わず、三郎は言ってしまった。どう見ても、孫にしか見えなかった。

「いい娘じゃろう」と幻庵は陽気に笑った。

 琴音は恥ずかしそうに母親の後ろに隠れながら三郎を見ていた。

 囲炉裏の間に女将が小田原から運ばせた豪勢な料理が並び、江川酒という銘酒も出された。三郎はまだ、酒に慣れていなかったが、何事も修行だと言われ、付き合う事にした。

 幻庵は酒が好きと見えて、始終、笑みをたたえながら、うまそうに飲んでいた。

「そなたを見ていると久し振りに、わしも若い頃を思い出したわい」と幻庵は楽しそうに言った。

「伯父様が移香斎様と旅をしたって事は聞いてるけど、どんな旅だったの」女将が幻庵にお酌をしながら、興味深そうに聞いた。

「うむ、あれは確か、わしが十五の時じゃった。そなたはいくつじゃ」

「十五です」と三郎は答えた。

「そうか。そなたと同じ頃だったんじゃな。その頃、わしは箱根権現におってのう。親父(早雲)に箱根権現の別当職(べっとうしき)に就けって言われてたんじゃ。わしもそのつもりで修行してたんじゃが、十五になった春、親父と移香斎殿がやって来て、しばらく旅に出て来いと言ったんじゃ。わしは移香斎殿に連れられて旅に出た。途中、命を狙われたり、色々な事があったが楽しい旅じゃったわ。そうじゃ、そなたは美濃(岐阜県)の斎藤道三を知っておるかな」

「いいえ、知りません」

「そうか。そうじゃろうの。そなたが生まれた頃、戦死してしまったわ。美濃のマムシと恐れられた大した武将だったんじゃが、自分の伜に殺されてしまった。惜しい事じゃ」

「えっ、自分の伜に殺されたのですか」琴音に見とれていた三郎は驚いて幻庵を見た。

 幻庵は目を細めて、遠い昔の事を思い出していた。

「そうじゃ。しかし、娘婿が仇(かたき)を討ってくれた。娘婿というのは尾張(愛知県)の織田弾正(信長)じゃ。奴は七年前に駿河(静岡県)の今川治部大輔(じぶだゆう)(義元)を倒しおった。なかなか、やるかもしれんぞ。その道三じゃが、一緒に旅した仲なんじゃよ。奴の親父が移香斎殿の弟子じゃったんでな、美濃に行った時、わしの連れに丁度いいと道連れになったんじゃ」

「斎藤道三様のお父上様って油売りだったんでしょ」と女将が言った。「父子二代で美濃の国を乗っ取ったって評判になったわ。その道三様と一緒に旅したなんて初耳だわ」

「そんな昔の事なんか思い出してる暇なんかなかったからのう」

「それからどうしたんです。美濃からどこ行ったの」

「美濃から近江(おおみ)(滋賀県)の飯道山(はんどうさん)じゃ」

「飯道山て、忍びの発祥の地なんでしょ」

「そうじゃ。飯道山では移香斎殿は神様扱いじゃった。何しろ、忍びの術を考えて教えたのが移香斎殿じゃからな。わしらは移香斎殿しか知らない山の中の岩屋で一冬、修行に励んだんじゃ」

 幻庵の若い妻も娘の琴音も御馳走をつまみながら、幻庵の話を興味深そうに聞いていた。東光坊は酒をグイグイ飲みながら黙って聞いている。三郎は琴音をチラチラ見ながら慣れない酒を飲んでいた。

「その後、大峯山に登ったり、石山本願寺に行ったり、堺港にも行った。勿論、京の都にも行った。それから、播磨(兵庫県)、安芸(広島県)、周防(山口県)、出雲(島根県)へと旅をしたんじゃ。移香斎殿のお弟子さんがあちこちにいて活躍しておったのう。おう、そういえば、信濃の飯縄山にも行った。そこにも八郎坊殿というお弟子さんがおったわ」

「八郎坊殿はまるで天狗のようなお人だったと聞いております」と東光坊が初めて口を挟んだ。

「おっ、そなた、知っておるかね」幻庵は嬉しそうな顔をして東光坊を見た。

「いえ。わたしは知りませんが、お山の語り草になっております」

「うむ、そうじゃろうの。あの辺りに陰流が広まったのは八郎坊殿のお陰じゃ。そして、上野の上泉にも行った。移香斎殿の最後のお弟子である上泉伊勢守(かみいずみいせのかみ)殿の屋敷に行ったんじゃ。その時、伊勢守殿は生まれたばかりの赤ん坊じゃった。あれから五十年後、わしらが上野に攻めて行く事になるとは、あの時、夢にも思っていなかった」

 幻庵の話は夜が更けるまで続いた。琴音と母親は途中から席を外した。三郎は幻庵の話を聞きながらも、琴音の事ばかり考えていた。その後、どうなったのか覚えていない。気がつくと朝になっていて、知らない所に寝かされていた。

「おい、いつまで寝てるんだ」

 師匠の声で目が覚めた。声のした方を見ようとすると、頭がズキーンと痛くなった。

「飲み過ぎじゃ」と東光坊は縁側に座って笑っていた。

「ここはどこです」三郎はやっとの思いで上体を起こした。

「離れじゃ。上泉伊勢守殿が上野を去って、ここに来た時、家族で暮らしていたそうじゃ」

「上泉伊勢守‥‥‥」と言って三郎は頭を抱えた。「昨夜、幻庵殿も言っていたけど、その伊勢守って誰なんです」

「何じゃ、お前、知らんのか。廐橋城の東にある上泉城の城主だった武将じゃ。愛洲移香斎殿の最後のお弟子で、陰流をさらに工夫して新陰流を編み出したお方なんじゃ。草津のお屋形様も伊勢守殿のお弟子なんじゃよ」

「父上が‥‥‥」

「そうじゃ。わしは直接会った事はないがの、親父から話はよく聞いている。偉いお人だそうじゃ」

「今はもう、ここには住んでいないんですか」

「何じゃ、お前、幻庵殿の話を聞いていなかったのか」

「いえ‥‥‥」

「琴音殿の事ばかり考えておったな」と東光坊は笑った。

「いえ、そんな‥‥‥」図星を言われて、慌てて否定しようと思ったが、頭がズキーンと痛くなり、言葉が出て来なかった。

「伊勢守殿は今、京都におられるそうじゃ。向こうで道場を開いて、新陰流を広めていなさる。将軍様も伊勢守殿のお弟子になられたというからな、道場も賑わってるらしい」

「へえ、将軍様も‥‥‥」

「その将軍様も殺されてしまって、新しい将軍様は四国にいるらしいが、京都には入れんそうじゃ。上方でも戦が絶えんようじゃのう」

 三郎は驚いた。将軍様というのは武士の中で一番偉いお人だと聞いている。そんなお人が殺されてしまうなんて信じられなかった。

「将軍様が殺されたのですか」と三郎は聞き返した。

「ああ、そうじゃ」と東光坊は何でもない事のように答えた。今の世の中、何が起こっても不思議はないという顔をしていた。

「関東におられる公方(くぼう)様のように、将軍様も実力のある武将に担がれるだけの存在になってしまったらしいな。わしも京都の事は詳しくは知らんが、権力争いが続いているんじゃろう」

「京の都も戦(いくさ)なんですか‥‥‥」

「今はどこも戦じゃ。そのうちに強い武将が出て来て、天下をまとめる事になるとは思うが、まだまだ、先の事じゃろうな」

「そうなんですか‥‥‥」

「冷たい水で面を洗って来い」

 その日一日、三郎は調子が悪かった。東光坊も旅に出るとは言わず、のんびりと過ごした。小野屋の女将は朝早く小田原に帰り、幻庵も用があると言って小田原に行ったという。 囲炉裏の側で横になっていると琴音がやって来た。

「具合が悪いと聞きましたけど大丈夫ですか」

 琴音は心配そうに三郎の顔を覗いた。

 三郎は慌てて起きるとかしこまって座った。

「大丈夫です。飲み過ぎただけです」

 琴音は三郎を見て笑った。その笑顔は何とも言えずに可愛かった。ずっと、琴音を見ていたいと思うのに、胸がドキドキして、三郎はうつむいた。

「あたしも上野の国で生まれたんですよ」と琴音は言った。

「えっ」と三郎は顔を上げた。

「平井(藤岡市)のお城で生まれたんですって、その後、廐橋のお城に移って、六歳の時、ここに来たの。でも、あまり覚えてないわ」

「そうなんですか‥‥‥」

「三郎様、草津ってどんな所なんです。父上様からお湯が湧き出ている所だって聞きましたけど、本当なんですか」

 琴音は興味深そうな顔をして三郎を見つめた。吸い込まれてしまいそうな大きな目がキラキラと輝いていた。

「ええ、本当です」と三郎は琴音を見つめながら答えた。でも、それ以上は無理だった。視線をそらして囲炉裏の火を眺めた。

「村の真ん中に湯池(湯畑)っていうのがあって、お湯がブクブクと湧き出して、滝になって流れているんです」

「えっ、お湯の滝があるんですか」

 チラッと琴音を見ると、目を丸くして驚いていた。

「お湯の滝があって、みんな、その滝に打たれるんです。そうすれば、どんな病でも治ってしまうんです」

「すごい‥‥‥あたしも行ってみたいわ」

 三郎は顔を上げて琴音を見ると、「ぜひ、来て下さい。琴音殿が来てくれたら、もう大歓迎です」と言って、知らずに笑っていた。

 琴音は沈んだ顔をして、「行きたいけど、草津は遠すぎます」と言った。

「ええ、遠いですね‥‥‥でも、小野屋の女将さんに頼めば大丈夫ですよ」

「そうですね。母上様と一緒に行きたい」

 琴音に笑顔が戻った。三郎は嬉しくなって、思わず琴音の手を取った。

「ぜひ、来て下さい」

 頭が痛いのも忘れて、三郎は琴音と一緒に楽しい時を過ごした。

 琴音に連れられて広い屋敷内も見て回った。表に建つ立派な武家屋敷も見た。裏の屋敷には侍などいなかったのに、当然の事だが、表の屋敷には幻庵の家来たちが大勢いた。着飾った侍女たちもいる。表の屋敷では琴音はお姫様と呼ばれて大切に扱われた。改めて、琴音が北条家のお姫様だという事を思い知らされ、三郎の心は沈んだ。

 裏の屋敷の西側は森になっていて、その中に鞍(くら)作りの職人たちが働いている小屋があった。幻庵は鞍作りの名人で、幻庵の指揮のもとに職人たちは働いているという。森の中には大きな池もあり、その側には茶室の付いた豪華な屋敷が建っていた。北条家のお屋形様が時々、遊びに来るという。

 琴音がお屋形様の事を話すのを、三郎はただ呆然と聞いていた。お互いの身分の違いをまざまざと感じていた。

 その日、東光坊はどこに行っていたのか、日が暮れてから戻って来た。

「体調は戻ったか」と東光坊はニヤニヤしながら聞いた。

「駄目です。余計に頭が痛くなりました」と三郎はうなだれた。

「そいつはな、恋の病というものじゃ」

 三郎を馬鹿にしたような東光坊のニヤニヤ笑いは止まらなかった。それを怒る気力も三郎にはなかった。

「恋の病‥‥‥そうかもしれません」

「琴音殿はいい娘じゃ。お前とはお似合いだが、ちと無理じゃな。幻庵殿のお考えによって、こんな所で暮らしているが、本当ならお城の奥で、大勢の侍女に囲まれて暮らしておられるお姫様じゃ。幻庵殿は北条家のお屋形様の叔父上に当たるお人じゃ。その娘の琴音殿はお屋形様とは従兄妹同士という間柄になる。湯本家とは釣り合いが取れん」

「わかっています」

「辛いかもしれんが忘れる事じゃ。明日、旅に出るぞ」

「えっ、明日ですか‥‥‥」

「そうじゃ。ここにいたら、いつまで経っても恋の病は治らん」

 次の日の朝、三郎は琴音と別れて旅に出た。

 別れる時、琴音は寂しそうな顔をして、「きっと、草津に行きます」と小声で言った。

 三郎はうなづき、「待っています」と答えた。

 琴音を見つめながら、もう二度と会えないだろうと覚悟していた。







 三郎の足取りは重かった。東光坊が時々、話しかけて来ても、ほとんど聞いてはいなかった。頭の中は琴音の事でいっぱいだった。

 相手は北条家のお姫様、どうする事もできないとわかりながらも諦める事はできなかった。まだ旅に出たばかりだというのに、もう旅なんかしたくない。早く、故郷の草津に帰りたかった。

 ふと気がつくと賑やかな町中にいた。小田原の城下に戻って来たようだった。

 東光坊はどこに行くのか、さっさと歩いて行く。三郎は東光坊の足元を眺めながら、黙って後を追っていた。

 東光坊の足が急に止まった。三郎は顔を上げた。

「ちょっと、ここに寄って行く」と言って東光坊は目の前にある屋敷を見上げた。

 大きな旅籠屋のような建物で『孔雀亭(くじゃくてい)』という看板が掲げてあった。

 三郎はただ、うなづいただけで、東光坊の後を追った。何か用があって寄るのだろうと思っていたのに、家の中の雰囲気は予想を裏切っていた。華やかな琴の調べが流れていて、着飾った若い娘が何人も出て来て、二人を迎えた。

「ここは‥‥‥」と三郎は東光坊の顔を見た。

 東光坊はうなづき、「二、三日、ここで遊んで行くぞ」と笑った。「酒の修行を積まなければならん。それと、女子(おなご)もな」

 三郎と東光坊は豪華な部屋に通された。畳が敷き詰められ、襖には華麗な絵が描かれてある。床の間には梅の花が咲き、香炉からは甘い香りが漂っていた。

 三郎は去年、元服(げんぶく)した時、遊女屋に行った事があった。草津では元服すると白根山に登り、硫黄が吹き出している岩の中を歩き回る地獄巡りを経験して、遊女屋で精進(しょうじん)落としをする習わしがある。その時、行った遊女屋は草津一の遊女屋だったが、とても比べられない程、ここは最高級な遊女屋に違いなかった。

「世の中を知るにはな、こういう所も経験しなけりゃならん。ただし、こんな豪華な所は今回が最初で最後じゃ。遊女屋にもピンからキリまである。そのうち、キリも経験させてやる」

「どうして突然、こんな所に来たのです」と三郎は豪華な部屋の中を見回しながら聞いた。

「旅に女子は付き物じゃ。他所の土地に来て、その土地の女子を抱くのは旅の醍醐味というものじゃ」

 東光坊は楽しそうにニヤニヤしていた。

「遊ぶために旅に出たんじゃありません」と三郎は東光坊を睨んだ。琴音と別れたばかりだというのに、こんな所に連れて来るなんて、たとえ師匠でも許せないと思った。

「そう堅い事を言うな。人の上に立つ者は酸いも甘いも知らなくてはならん。今のうちに遊んでおく事じゃ。お屋形様になったら遊びたくてもそんな暇などないぞ」

 三郎は膨れっ面で、東光坊を睨んでいた。

「実を言うとな、小野屋の女将に頼まれたんじゃ。二、三日後に駿河に向かう船が出るそうじゃ。その船にお前を乗せたいらしい。それまで、幻庵殿の屋敷にいてもらうつもりだったが、お前と琴音殿の様子が変になっちまったんでな、ここで遊んでいてくれという事になったんじゃ。女将としては、お前と琴音殿が仲良くなってもいいと思っているんじゃが、幻庵殿が琴音殿を離さんじゃろうとの事じゃ。お前が養子となって北条家に仕えるなら何とかしようもあるが、お前は湯本家を継がなくてはならん。幻庵殿が琴音殿を草津に嫁がせる事は絶対に考えられんそうじゃ。そこで早いうちに二人を引き離した方がいいと小田原一の遊女屋を紹介してくれたんじゃ。わしもこんな豪勢な所に来たのは初めてじゃ。たっぷりと楽しもうではないか」

 三郎は仕方なく、うなづいたけれど、琴音以外の女の事なんて考えられなかった。

 豪華な料理が並び、また、酒が並んだ。二日酔いの辛さを思い知った三郎だったが、琴音を忘れるために飲まずにはいられなかった。

「おいおい、いくら修行だからって飲むのが早すぎるぞ。まだ、真っ昼間じゃ。酔い潰れるには早すぎる。ゆっくりと飲め」

「修行です」と言いながら、三郎はガブガブと酒を飲んだ。

 しばらくして、遊女が二人入って来た。着飾った遊女はこの世の物とは思えない程に美しかった。三郎はもう酔っ払ってしまったのかと目をこすってから、改めて見た。紛れもない現実だった。

 一昨日、琴音に会って、こんな綺麗な娘がこの世にいるのかと呆然となった。そして、今、また、綺麗な娘と会った。草津にいた頃、こんな美人なんて見た事もなかったのに、小田原に来た途端に三人もの美人に会った。小田原にはこんなにも美人が多いのかと三郎は夢の中にいるような気分だった。

 浅香(あさか)と名乗った遊女が三郎の隣に来て、酌をしてくれた。何とも言えないいい匂いに包まれた。千歳(ちとせ)と名乗った遊女は東光坊の隣に行った。

「さすがじゃのう。二人とも目の覚めるような別嬪(べっぴん)じゃ。小田原は本当にいい所じゃのう」 東光坊はでれっとして、ニヤニヤしながら酒を飲んでいた。

「お客様はどちらからおいでですか」と千歳が笑顔を浮かべながら聞いた。

「上野の国じゃ」と東光坊が答えた。

「まあ」と言って驚いたのは三郎の隣にいる浅香だった。「あたし、上野の国で生まれたんですよ」

 あれ、と三郎は思った。琴音もそう言っていたのを思い出した。すると、小田原に美人が多いのではなくて、上野に多いのだろうかと不思議に思った。

「上野のどちらからいらしたのですか」と浅香は聞いた。

「草津じゃ」と東光坊が言った。「そなたはどちらじゃ」

「倉賀野(高崎市)のお城下です」

「なに、倉賀野? 倉賀野からどうして小田原に来たんじゃ」

 三郎もその事が知りたかった。倉賀野の城下は小田原に来る途中に通ったので知っていた。箕輪城の近くで、あんな遠い所から小田原まで来たなんて信じられなかった。三郎は浅香の横顔を見つめながら答えを待った。

 浅香は三郎の視線に気づいて、三郎の方を見ると意味もなく笑った。

「戦で両親を亡くして、家も焼けてしまって、焼け跡を泣きながらウロウロしていたら助けられたのです」

「助けられた?」

「はい。小野屋さんに助けられたのです」

「なに、小野屋の女将に助けられたのか」

「はい」

「あたしもよ」と千歳が言った。「あたしは武蔵の松山で助けられたのです」

 松山の城下も見て来た。あそこも遠かった。

「ほう、小野屋の女将は戦場で娘を拾って遊女屋に売っているのか」

 貧しい家の娘たちが遊女屋に売られるという事は三郎も知っていた。娘たちが人相の悪い男たちに連れられて草津にやって来て、遊女屋に売られるのを見た事があった。人を売り買いするなんて信じられなかったが、当然の事のように行なわれていた。しかし、小野屋の女将がそんな事をしているなんて考えたくはなかった。

「いいえ、違います。そうじゃありません」と千歳は言った。

 三郎はホッとした。

「助けられた子供たちはみんな、女将さんがやっている孤児院に入れられるのです」

「何じゃと、あの女将は孤児院もやっておるのか」

「はい。戦で身寄りを失った子供たちを助けて育てているのです」

「ほう。育てて、そなたたちのようないい女子は遊女にするわけか」

「そうなんですけど、色々とお世話になっているからしょうがないんです。あんな酷い目に会って、おなかをすかしてウロウロしてたのを助けてもらったんだもの。あの時、助けてもらわなかったら、きっと、死んでいたに違いないわ」

「いくつだったんじゃ、助けられた時」

「あたしは十一、浅香ちゃんは八つの時よ」

「そうか、辛い目に会ったんじゃな」

「あたしたちなんかよりもっとひどい目に会った子供たちもいっぱいいます」

 三郎はぼうっとして東光坊と千歳のやり取りを聞いていた。あの女将が戦場で孤児を助けていたなんて思いもしない事だった。そして、目の前にいる二人の女が孤児で、辛い思いをして来たなんて信じられなかった。三郎が酒を飲み干すと、すかさず、浅香が酌をしてくれた。

「ありがとう」と言って、三郎は浅香を見た。

 浅香は微笑を浮かべ、キラキラした目で三郎を見ていた。

「両親は殺されたのですか」と三郎は浅香に聞いた。言ってから、そんな事を聞かなければよかったと後悔した。

「はい、殺されました」と浅香は少し悲しそうな顔をした。「突然、軍勢が攻めて来て、家を焼かれて逃げたんですけど、みんな殺されて‥‥‥あたしだけ助かりました。でも、どうしたらいいのかわからなくて、焼け跡を逃げ回っていたんです。そしたら捕まって、殺されると思ったんですけど小田原に連れて来られて、孤児院に入れられたのです‥‥‥もうやめましょ、こんなお話」

「そうよ。ねえ、草津の事を話して」

 東光坊が面白おかしく草津の事を話すのを二人は喜んで聞いていた。

 三郎は隣の浅香をチラチラ見ながら酒を飲んでいた。浅香と話がしたいと思っても何を話していいのかわからず、ただ、ひたすら酒を飲んでいて、また、酔い潰れてしまった。途中から記憶がなくなり、気がつくと、すでに夜になっていて、別の部屋で豪華な布団の中で寝ていた。また、頭がズキンズキンした。

 喉が渇いて起き上がろうとした時、隣に寝ている浅香に気づいた。三郎は目をこすって浅香の顔を見つめた。可愛い顔をして眠っている。昼間、酒を飲んでいた時は自分よりもかなり年上に見えたのに、寝顔はあどけなく、まだ子供のように見えた。

 浅香が目を開いた。

「大丈夫ですか」と笑った。

「はい。でも、喉が渇いて‥‥‥」

 浅香は起き上がり、枕元においてあった水入れから水を注いでくれた。

 水を飲みながら、行燈の薄明かりの中、三郎は浅香を見ていた。浅香はさっきとは違って寝巻姿だった。自分もいつの間にか着替えさせられていた。

「今、何時(なんどき)です」と三郎は聞いた。

「もう、夜中ですよ」

「俺はいつから寝てるんです」

「夕方からずっと」と言いながら、浅香はクスクスと笑った。

 三郎は部屋の中を見回した。薄暗くてよく見えないが、綺麗な着物が衣桁(いこう)に掛けてあり、部屋の隅に琴が立て掛けてあった。小さな火鉢が一つ置いてあり、部屋の中は暖かかった。正月の末だというのに、こんなにも暖かいなんて、草津では考えられない事だった。

 浅香は布団の上に座って、三郎を見つめていた。寝巻姿の浅香は眩し過ぎた。三郎は照れ隠しに師匠の事を聞いた。

「東光坊様は別のお部屋で千歳さんと一緒です」

「そうですか」

 千歳の隣でニヤニヤしながら酒を飲んでいた師匠を思い出した。いつも厳しい顔をしている師匠のあんな姿を見るのは初めてだった。鼻の下を伸ばして千歳を抱いている師匠の姿を想像して、三郎は知らずに笑っていた。

「どうしたんですか」と浅香が不思議そうな顔をして聞いた。

「いえ、何でもありません。何だか、夢の中にいるようで」

「夢かもしれませんよ」と浅香は笑った。「でも、飲み過ぎですよ。もっと、お酒を楽しまなくっちゃ」

「お酒を楽しむ?」

「そう。お話をしながら、ゆっくりと飲むの。唄を歌ったりしてね」

「唄なんて知りません」

「あたしが教えてあげます」

「はい‥‥‥あのう、浅香さんはいくつなんですか」

「あなたよりも一つ年上ですよ」

「すると、十六?」

 浅香はうなづいた。

「もっと年上かと思いました」

「あたしもあなたが十五だと聞いて驚きました。体も大きいし十八くらいだと思っていました。行者(ぎょうじゃ)さんの格好をしてるけど本当はお侍さんなんですってね」

「師匠から聞いたんですか」

「いいえ、小野屋の女将さんから聞きました。大切なお客様だから粗相のないようにって言われて‥‥‥あたし、まだ、ここに来たばかりで、どうしたらいいか自信なかったんですけど、あなたでよかったわ」

「そうだったのですか‥‥‥それじゃあ、俺の相手に浅香さんを選んだのも女将さんなんですか」

「そうです」

「まいったなあ。女将さんには何から何までお世話になっちゃって‥‥‥あのう、お湯に浸かりたいんですけど、どこです」

 浅香はおかしそうに笑った。

「ここは草津じゃありません。いつでもお湯は沸いてないんですよ」

「あっ、そうか‥‥‥すみません。頭が痛くてお湯に入れば治ると思ったんですけど」

「いいわ。特別に頼んであげる」

「そんな、こんな夜中に、いいですよ」

「大丈夫、待っていて」

 風呂の湯が沸く半時(一時間)程の間、三郎は浅香を抱いた。そして、二人で風呂に入った。

 女の裸を見るのは初めてではなかった。草津の湯小屋は混浴で、しかも、外からも丸見えだった。女の裸なんか子供の頃から見慣れているのに、浅香の裸は思わず、見とれてしまう程に美しかった。

「いやだ。そんなに見ないで」浅香は恥ずかしがって三郎を軽くたたいた。

 三郎は思わず浅香を抱き締めた。幸せだった。このまま、ずっと浅香と一緒にいたいと思った。

 頭痛もいつしか治っていた。風呂から上がった三郎は夜が明けるまで浅香を抱き続けた。

 浅香に夢中になった三郎は、朝から晩まで飽きもせずに浅香を抱いていた。

 浅香から酒を楽しく飲む事を教わった。流行り唄も教わった。浅香の弾く琴を聞いたり、華麗な舞を見たり、囲碁や将棋も教わった。

 浅香は色々な事を知っていた。最高級の遊女屋には身分の高いお客が多く、どんなに偉いお客が来ても楽しませなければならず、様々な知識は勿論、身につけている芸も一流だった。わずか十六歳の娘がそれだけの事を身につけるのは並大抵な努力ではなかった。三郎は浅香を尊敬すると共に、益々、惹かれて行った。

 『孔雀亭』には四泊した。まさしく、夢の中にいるようだった。

 浅香との別れは辛かった。別れたくなかったけれど、立派な武将になって下さいと言われ、いやだ、ここにいたいとは言えなかった。

 小野屋の船の乗って海の上に出た時、その大きさに圧倒され、すごいと感激した。

 青く広々とした海、それは草津にいた頃、話に聞いて想像していた海よりもずっと大きく、ずっと綺麗だった。しかし、その感動よりも浅香との別れの辛さの方が大きかった。

 浅香の笑顔がいつまでも、ちらついていて離れなかった。
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