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2017 .09.23
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18.上杉三郎景虎








 尻高城が落城すると北条氏も黙ってはいられなくなり、正月の半ばには上野に出陣して来た。鉢形の北条安房守が一千の兵を引き連れ、沼田の倉内城に入り、河越の大道寺駿河守が五百の兵を率いて廐橋城に入った。

 柏原城には白井からの援軍が加わり、攻め落とす機を逸してしまった。植栗河内守は悔しがったが後の祭りだった。寄居城には矢沢源次郎の兵が加わり、三郎右衛門は左京進に任せて岩櫃城で待機した。

 奪い取った尻高城には海野能登守が嫡男の中務少輔と共に入り、中山城の攻略を始めると共に、沼田にいる北条軍に対する守りを固めた。さらに、矢沢薩摩守が人質として甲府にいた尻高源次郎と中山安芸守の家老の伜、平形五郎、越後の坂戸城から送られて来た尻高源三郎と中山九兵衛を連れて来て加わった。

 その頃、雪に埋もれた越後の戦況は喜平次方の有利に展開していた。廐橋城主の北条丹後守は兵を率いて三郎景虎のいる御館に入り、三郎方の総大将となって活躍した。御館の士気は上がったが、旗持城(柏崎市)を何度も攻めるが落とす事ができず、中越、下越との連絡を断たれたまま食料の確保にも苦しんでいた。

 二月一日、喜平次は各地から集めた大軍をもって御館を攻撃した。城下はすべて灰燼となる程の猛攻で、三郎方の大将となった北条丹後守が重傷を負い、その傷が元で二日後には亡くなってしまった。同時に北条軍が籠もっている樺沢城の攻撃も始まり、二月半ばには樺沢城は落ち、北条軍は敗走した。雪に埋まった三国峠を越え、無事に上野に逃げ戻ったのは半数にも満たない惨めな結果となった。琴音の夫、四郎は家臣たちに守られ、何とか生き延びた。丹後守の父親、安芸入道もひどい凍傷を負いながらも廐橋城にたどり着いた。

 敗軍を迎えた沼田の安房守は怒り狂ったが、雪の越後に攻め込む事はできなかった。雪が解けるまで、何としても三郎に踏ん張ってもらうより仕方がない。城下の僧侶や山伏を集め、三郎の無事と喜平次の調伏(ちょうぶく)の祈祷をするよう命じた。

 尻高城に入った矢沢薩摩守は尻高源次郎と源三郎の兄弟を新しい城主と認め、中山氏の二人の人質を利用して、中山安芸守の降伏を誘っていた。安芸守は上杉に差し出した人質までも武田が手に入れた事に驚き、心は傾いていたが、武田に寝返ると中山城は北条軍のいる倉内城の前面に立つ事になる。北条軍を恐れて、なかなか決まらなかった。三月の半ばになって、ようやく薩摩守の説得にうなづき、降伏した。薩摩守は兵を率いて中山城に入り、北条に対する守りを固めた。

 中山安芸守が武田方に寝返った頃、越後では、ついに御館が落城していた。二月の末、北条(きたじょう)氏の本拠地、北条城(柏崎市)が落城し、三月三日には琵琶島城(柏崎市)から海路送られた食料も敵に奪われ、御館は完全に孤立してしまった。逃げ出す兵も日を追って多くなり、十七日、三郎景虎は不利な状況を打開するため、和議を計ろうと嫡男の道満丸を人質として春日山城に送る決心をした。道満丸は喜平次の甥なので、殺される事はないだろうと前関東管領の上杉立山(憲政)に頼み、春日山城に向かわせた。ところが、春日山城に行く途中、立山と道満丸は敵兵に捕まり、その場で殺されてしまった。喜平次は、間違いだ、兵たちが勝手にやってしまったと言うが、後の揉め事を避けるために喜平次が殺せと命じたに違いなかった。残る道は小田原に帰って、兄を頼るしかないと三郎は御館を捨て、堀江玄審助の守る鮫ケ尾城(新井市)を目指した。無事に鮫ケ尾城に入る事はできたが、すぐに敵兵に囲まれた。堀江玄審助は三郎を見捨てて降伏し、三郎は最後まで付き従っていた小田原からの家臣たちと共に自害して果てた。三月二十四日、上杉謙信の一周忌も過ぎた後の事だった。

 三郎右衛門が三郎景虎の死を知ったのは四月に入ってからだった。一年余りも越後にいた東光坊が水月坊たちを連れて、ようやく帰って来た。

「師匠、お帰りなさい。どうも御苦労様でした」と三郎右衛門は岩櫃城内の屋敷で東光坊たちを迎えた。共に連れて行った若い三人は疲れ切ったような顔をしているのに、東光坊は疲れた様子もなく、逆に生き生きしているようだった。ゆっくり休めと三人を帰した後、三郎右衛門は酒の用意をさせた。
 東光坊はうまそうに酒を一息に飲み干すと、ニヤニヤしながら、「向こうでわしが何をしていたと思う」と聞いてきた。

「何をって、三郎と喜平次の情報を集めていたんだろう」

「勿論、それもしていたが、それだけで一年余りも向こうにいられるわけはない」

「さては、いい女子ができて一緒に暮らしていたのか」と三郎右衛門もニヤニヤしながら酒を注いでやった。

「馬鹿を言うな、お屋形様じゃあるまいし。実はな、医者をしていたんじゃ」

「えっ、師匠が医者?」

 そう言われてみれば、東光坊の職人のような格好は医者に見えなくもなかった。

「いつだったか、医者になると言ったじゃろう。あの時はできなかった。医者の事など忘れておったが、戦で怪我をした城下の者たちを見てな、何とかしてやろうと医者になったんじゃよ。山伏として城下をうろつくより、医者として怪我人の面倒を見ながら町人の中に入って行った方が情報も集めやすかった。初めの頃は慣れないのでうまく行かなかったが、今はもう名医といってもいい程、腕を上げたわ」

 東光坊は笑ってから急に真顔に戻り、三郎景虎の死を告げた。

「自害してしまったのか‥‥‥」三郎右衛門は顔を歪めて酒を飲んだ。

 東光坊もつらそうな顔をして酒を飲んでいた。

「琴音と別れて、越後に行ってから何年になるのだろう」と三郎右衛門は独り言のように呟いた。

「九年じゃよ」と東光坊は言った。

「九年にもなるのか‥‥‥」

 三郎右衛門は三郎景虎に会った事はなかった。それでも、善恵尼や琴音から話を聞き、何となく親近感を持っていた。今頃言っても仕方がないが、もし、武田が喜平次と結ばなければ、お屋形様になれたかもしれないのに、味方に裏切られて自害してしまうなんて、あまりにも哀れな最期だった。

「北条が坂戸城にこだわらずに、もっと進撃していれば状況は変わったかもしれん」と東光坊は言った。「北条が引き上げてから、三郎は徐々に追い込まれて行ったんじゃ」

「今回、北条の攻撃は何となく、ちぐはぐだったように思うが、風摩党は何をしていたんだ」

「うむ。わしもおかしいと思っていた。何をしているんじゃろうと不思議に思っていたんじゃよ。その事を知りたかったが、今回は深入りはしなかった。なんせ、連れて行った奴らが新米じゃからな。越後の家督争いに首を突っ込んで死ぬのも馬鹿げじゃからのう。ただ、春日山城下にあった小野屋だが、謙信殿の葬儀のあったその夜、焼け落ちている。店の者と思われる焼死体が五つ見つかった。そいつらが風摩なのかはわからんが、喜平次方についた軒猿と呼ばれる忍びの仕業に違いない」

「能登守殿も言っていたが、軒猿というのは越後の山伏たちなのか」

「そうじゃ。謙信殿は米山や妙高など、地元の修験者を多く使っていた。謙信自身が修験者の親玉のようじゃったからのう。他に伊賀者も使っていたらしい。多分、三郎は小田原から風摩の者たちを連れて行ったじゃろう。上杉と北条が同盟していた頃は軒猿と風摩はうまく行っていたじゃろうが、同盟が壊れて敵対関係になった時、風摩がどうなったのかはわからん。三郎のもとにいる風摩が小田原の風摩に敵対したとは思えん。謙信殿が三郎をそのまま養子にしていたからといって、風摩までも越後に残る事を許したとは思えんしな。その時、風摩は小田原に追い返されたのかもしれん」

「あるいは軒猿に殺されたか」

 東光坊はうなづいた。「今回、三郎の周辺に風摩の影は見当たらなかった」

「小野屋を焼かれ、風摩もいないとなると三郎からの情報はなかなか北条に届かなかったという事だな」

「多分な。使いの者は走らせたじゃろうが、喜平次についた軒猿に皆、殺されてしまったに違いない」

 言いづらかったが三郎右衛門は東光坊に亡くなった月陰党の者たちの事を告げた。

「なに、十人もか‥‥‥」

 東光坊は突然、配下の者たちの死を告げられ、しばし呆然としていた。ゆっくりと酒を飲むと、苦い薬でも飲み下したような顔をして、「そうか」と一言だけ言った。

 三郎右衛門は東光坊が持ったままのお椀に酒を注いだ。

「風摩にやられた。多分、北条陸奥守の指揮下にある風摩だろう。陸奥守が廐橋にやって来てから次々に殺された。うちの忍びだけでなく、真田の忍びも岩櫃の忍びもやられたようだ」

 東光坊は何も言わず、厳しい顔付きで夕闇の迫る庭を眺めていた。やはり、十人の配下を失ったのは強い衝撃のようだった。三郎右衛門がムツキたちを戻さなかったのは自分の責任だと言おうとしたら、

「陸奥守といえば、お屋形様のすぐ下の弟じゃったな」と東光坊は落ち着いた声で言った。

 三郎右衛門は東光坊の顔を見つめながら、うなづいた。「武蔵滝山(八王子)の城主で気性の激しい武将だという」

 三郎右衛門は東光坊が留守中の吾妻の状況を詳しく説明した。

「ほう、尻高と中山を落としたか。いよいよ、沼田じゃな。それにしても、上杉が預かっていた上野の人質すべてが武田の手に移ったというは上出来じゃな。沼田の衆もやがて寝返るじゃろう。しばらくはのんびり休もうと思っていたが、そうもできんようじゃな」

「いいえ、しばらく休んで下さい。今回は湯本家の出番はないようだ」

「なに、出番がなければ作ればいいさ」

 東光坊は久し振りに、かみさんと子供の面を拝んで来るかと長野原に帰って行った。

 三郎景虎の死を知った北条安房守は倉内城を猪股能登守、渡辺左近允、藤田弥六郎の三人の家臣に任せ、左衛門佐と共に引き上げた。廐橋城にいた治部少輔と大道寺駿河守も越後から逃げ戻って来た北条安芸入道芳林に任せて引き上げて行った。

 しばらくは安泰だろうと真田喜兵衛も岩櫃城を去って行った。甲府で信玄の七年忌があるので出席しなければならないという。三郎右衛門も草津の山開きのために長野原に帰った。

 善太夫の命日の前日、善恵尼は草津にやって来た。去年、会う事ができなかったので、三郎右衛門は草津で待っていた。尼僧姿の善恵尼は二人の尼僧を連れていた。二人とも善恵尼よりも年上に見えた。

「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」

 善恵尼は微かに笑うと、「お世話になります」と頭を下げた。何となく、いつもと違い、疲れているようだった。

 三郎右衛門は金太夫の宿屋のいつもの部屋に案内した。

「また、敵同士になってしまったわね」

「申し訳ございません」

「あなたが謝る事はないわ」

「でも、こんな事になるなんて‥‥‥甲府で祝言を挙げてから、たったの一年半で敵味方に別れてしまうなんて」

「仕方ないわよ。先の事は誰にもわからないもの」

 善恵尼は連れの尼僧を三郎右衛門に紹介した。一人は梅恵尼といい幻庵の娘、もう一人は桃恵尼といい幻庵の孫だという。

「みんなもう出家しているから、敵も味方もないわ。でも、来年はもう来られるかどうかわからない。その分、のんびりさせてもらうわ。よろしくね」

「はい。どうぞ、ごゆっくりして行って下さい」

 三郎右衛門は風摩党の事を聞きたかったが、敵同士になってしまった今、話してくれるはずはないと諦めた。三郎右衛門は『万屋』に顔を出して里々を呼んだ。

 去年、里々の考えで長野原城下に店を出した『万屋』は今年の山開きの後、草津にも店を出した。店の主人となった双寿坊はすっかり商人になってしまい、愛想笑いを浮かべながら月陰党の娘たちを使っていた。越後から帰って来た水月坊、山月坊、新月坊の三人も普段は番頭として働いていた。

 お屋形で待っていると一時程して里々は現れた。五人の若い者たちを連れていた。

「修行を終えた者たちを連れて参りました」と里々は言って、若者たちを庭に控えさせた。

「ほう。いつもより早いのではないのか」

「はい。いつもは今月一杯、山におりますが、先代のお屋形様の御命日でしたら、お屋形様も草津におられるだろうと思いまして、今年から早める事にいたしました」

「うむ、その方がいいだろう。必ずとは言えんが、会う事ができる」

「はい。左から照月坊、寒月坊、半月坊、ハヅキ、ナガツキでございます」

 三郎右衛門はうなづきながら、一人一人の顔を見つめた。皆、目を輝かせて三郎右衛門を見上げていた。二人の娘は相変わらず美しい。どこから捜して来るのか、仙遊坊の目は確かだと改めて感心した。

「命懸けの仕事だが、湯本家のため働いてもらいたい。よろしくお願いする」

 若者たちは力強く返事をして深く頭を下げた。

 若者たちが去った後、三郎右衛門は善恵尼が来た事を告げ、陰ながら守るように里々に頼んだ。

「やはり、いらっしゃいましたか」と里々はうなづいた。

「出家した身に敵味方もないと言っておられた。すごいお人だ」

「サツキ、ミナヅキ、フミツキと一緒に早速、金太夫様の宿屋に入る事にいたします」

「うむ、頼むぞ。幻庵殿の娘さんとお孫さんも一緒におられるからな」

「かしこまりました」

 善太夫の法事を済ますと三郎右衛門は善恵尼の事を里々に任せて長野原に戻った。お屋形の自室に入るとすぐ、東光坊が現れた。医者から山伏に戻っていた。

 東光坊が越後に行っている間、三郎右衛門は東光坊の存在価値を改めて思い知っていた。三郎右衛門が命ずる以前に東光坊は動き、三郎右衛門が知りたいと思っている事を知らせてくれる。三郎右衛門にとって片腕以上になくてはならない存在だった。

「柏原城の事か」と三郎右衛門は聞いた。

 柏原城はまだ、敵の手にあった。大将の植栗河内守は何をしているのか、なかなか攻撃を仕掛けなかった。口出しができないので歯痒くて仕方がなかった。

 東光坊は首を振った。「河内守は慎重過ぎるな。長篠の時、重傷を負ったのが忘れられないのかもしれん。河内守に比べ、お屋形様の祖父様は大したもんじゃ。上杉からの人質を利用して、沼田の周辺を次々に攻略している」

「薩摩守殿がまた、敵の城を落としたのか」

「名胡桃城(月夜野町)と箱崎城(新治村)を攻略したようじゃ」

「名胡桃と箱崎といったら沼田から三国峠に向かう道に沿ってある城じゃないか」

「そうじゃ。さすがは薩摩守殿じゃ。すでに越後は喜平次のものとなった。越後は味方なんじゃよ。まず、三国峠を確保すれば、越後の援軍を得る事ができるというわけじゃ。三国峠の先の上田庄は喜平次の本拠地ともいえる所じゃ」

「成程、今まで敵だった謙信殿が通った道を援軍が来るというわけだな」

「そういう事じゃ」

 長年、敵対して来た武田と上杉が同盟を結んで、北条と戦うなんて、謙信が生きていた時は誰も考えもしなかったのに、今、現実となっている。世の中の流れというものはまったくわからないものだった。

「それにしても、沼田に近い名胡桃城がよく寝返ったな」

「名胡桃城の鈴木主水は中山安芸守の娘婿なんじゃ。安芸守の説得と上杉に渡した人質が無事だと聞いて寝返る事にしたらしい。後は小川城じゃ。小川城には小川可遊斎、北能登守、南将監と三人がいてな、可遊斎と北能登守は武田につきそうなんだが、南将監が反対しているらしい。詳しい事はわからんが、人質がからんでいるらしいな。可遊斎という男は上方の浪人者で、一流の武芸者だそうじゃ。いつの頃か、名胡桃に流れて来て戦で活躍し、城主に祭り上げられたらしい。可遊斎には子供がいない。北能登守の子供が上杉の人質となり、南将監の子供が北条の人質となったらしい」

「沼田衆は北条にも人質を取られたのか」

「そりゃ当然じゃろう。人質を取らなかったらすぐに寝返られる」

「上杉に取られ、北条にも取られたとは可哀想な事だな」

「尻高、中山などは上杉、北条、そして、武田にも取られている。まったく哀れな事じゃ」

「北条の大軍が来たら、また寝返るのだろうか」

「寝返らなければ滅ぼされるじゃろう。北条の大軍が攻めて来る前に沼田を落とさなければならん」

「名胡桃と箱崎が寝返った事を知れば、北条は攻めて来るだろう」

「まだ内密じゃ。北条に気づかれんように極秘で行なわれておるんじゃよ」

「そうか、そうだろうな」

「前線に出られなくて不満なようじゃの」

「そんな事はないが」と否定してみたが、東光坊をごまかす事はできないと思い、三郎右衛門は苦笑した。

「近いうちに沼田攻めが始まる。湯本勢も参加する事となろう。それまで鋭気を養っておく事じゃ」

 東光坊が去った後、三郎右衛門は琴音から貰った幻庵の一節切を久し振りに吹いてみた。何かと忙しく、一節切の事は忘れていた。善恵尼が幻庵の娘と孫を連れて来たと聞いて思い出したのだった。一節切を吹いていると、イライラしていた気持ちがだんだんと落ち着いて来た。三郎右衛門は何もかも忘れ、一心に一節切を吹き続けた。

 ふと、人の気配を感じ、振り返ると里々がいた。金太夫の仲居をしているはずなのに、わざわざ、みすぼらしい農婦に化けていた。

 里々は頭を下げると、「お屋形様の尺八を聞くのは久し振りでございます」と言って笑った。

「そういえば、お前が遊女だった頃、自慢げに聞かせたっけな」

「あの頃のわたしは何もできなくて、お屋形様が吹くのをうっとりしながら聞いておりました」

「今のお前の横笛は見事だよ。今度また聞かせてくれ」

 里々は顔を少し赤らめて、恥ずかしそうにうなづいた。里々が三郎右衛門に横笛を吹いて聞かせたのは二年前の夏だった。白根山中にある綺麗な沼のほとりで水浴びをした後、里々は裸のまま横笛を吹いていた。

「ところで、何かあったのか」

「いいえ、何もございませんが、善恵尼様がお連れになった方々の身元がわかりましたので、お知らせした方がいいと思いまして」

「幻庵殿の娘さんとお孫さんじゃなかったのか」

「確かにそうでございます。梅恵尼様というお方は北条左衛門佐(氏堯)様の奥方様でございました」

「北条左衛門佐といえば、沼田にいたんじゃなかったか」

「いいえ。そのお方ではございません。先代のお屋形様、万松軒様の弟で幻庵様の跡を継いで小机城主となったお方だそうです。もう二十年近くも前にお亡くなりになられ、二人の息子さんも十年前に戦死なされたそうでございます」

「そうか。幻庵殿の娘というからには偉いお方だと思っていたが、先代のお屋形様の弟の奥方様か。本来ならお会いする事もできないお方だな」

「はい。もう一人の桃恵尼様はただ者ではございません。四十は過ぎていると思われますが、あの身のこなしは相当の腕です。一度、鋭い目付きで見つめられて、背筋が凍るような思いでした。お屋形様の母上様と奥方様とお話をしていらっしゃるのを聞いていただけですので詳しい事はわかりませんが、桃恵尼様のお祖母様というのは幻庵様の最初の奥方様だそうで、娘さんがお二人あって長女は善恵尼様の前の小野屋の御主人で、次女が桃恵尼様の母親だそうです」

「ちょっと待て」と三郎右衛門は言って、一節切を持ったまま考えた。「確か、幻庵様の最初の奥方様というのは愛洲移香斎殿の娘のはずだ。もしかしたら、風摩と関係あるのかもしれんな」

「わたしもそう思いまして、お知らせに参ったのでございます」

「ふーむ。風摩が草津に来たか。いや、ただ湯治に来ただけだろう。あまり詮索しない方がいい。その事には気づかない振りをした方がいいな。誰にも言うなよ」

「はい。かしこまりました」

「決して、ムツキたちの仇を討つなどと考えるなよ。あれは戦だ。やったのが風摩だったとしても、それを命じたのは陸奥守だ。たとえ、桃恵尼殿が風摩だったとしても、善恵尼殿がお連れした大切なお客様だからな」

「はい、わかっております。わたしとしても風摩を敵とは思いたくはありません。ただ、亡くなった者たちが哀れで‥‥‥」

「いつか、戦のない世の中が来る事を願うしかないな」

 里々は驚いたように大きな目をして三郎右衛門を見つめ、「そんな世の中が来るのでしょうか」と聞いた。

「いつかは来るはずだ。お前が小田原で習った陰流の極意は何だか知っているか」

「陰流の極意でございますか」

「うむ」

 里々はしばらく考えていたが首を振った。「わかりません。ただ、強くなる事だけを考えて修行を積んでおりました」

「陰流の極意は『和』だと移香斎殿は言ったらしい」

「和ですか‥‥‥」

「まだ俺にもわからん。ただ、移香斎殿が平和を願っていた事は確かだろう。戦のない平和な世の中をな。晩年の移香斎殿は刀も帯びず、名を隠して草津で医者として、かったい(癩病患者)たちの面倒を見ていたそうだ」

「えっ、武芸の達人が、あのかったいたちの面倒を見ていたのですか」

 里々は信じられないといった顔をして三郎右衛門を見ていた。

「先代のお屋形様が幼い頃、実際に目にしている。その頃は誰もが武芸の達人だとは思わず、変わり者の医者だと思っていたらしい」

「そうだったのですか。移香斎様がそんなお方だったとは‥‥‥」

「そんなお方が言った『和』という意味は非常に重い。今の俺にはわからん。でもな、いつか必ず、その意味を悟りたいと思っている」

 里々は『和』という言葉を噛み締めながら草津に帰って行った。

 五月の末、善恵尼が明日、帰るという里々の知らせを聞いて、三郎右衛門は草津に上り、挨拶に伺った。

「お世話になったわね。久し振りにのんびりしたわ」と善恵尼は屈託なく笑った。疲れも取れたと見えて、顔色もすっかりよくなっていた。

「あなた、聞きたい事が色々とあるんでしょ。遠慮なく聞いたら」

 善恵尼は三郎右衛門の顔をじっと見ながら、そう言った。心の中を見透かされたと三郎右衛門は慌てた。

「でも、敵同士になってしまいましたので」

「あら、あなた、敵同士だった頃、命を懸けて小田原にいらしたじゃない」

「あの時は‥‥‥」

「命よりも琴音ちゃんに会いたかったから?」

「あの時は若かった」

「何を言ってるの。今だって若いじゃないの」

「でも、あの頃のような無茶はできなくなりました」

「お屋形様ですものね。越後の三郎様がお亡くなりになったと聞いて琴音ちゃんは泣いていたわよ。旦那様も越後に出陣して行ったのに、三郎様の事ばかり心配していたわ。あんな所で死なせてしまって‥‥‥ほんと、可哀想に」

 善恵尼はつらそうな顔をして両手を合わせた。三郎右衛門は東光坊から聞いた三郎景虎の最期を思い出した。小声で念仏を唱えていた善恵尼は顔を上げると三郎右衛門を見た。いつもの落ち着いた顔付きに戻っていた。

「善恵尼殿は小田原におられたのですか」と三郎右衛門は聞いた。

「そうよ。わたしが越後に行ったと思ったの」

「はい。春日山城下にも『小野屋』がありましたから」

「あの小野屋は、謙信殿がお亡くなりになった後、すぐに焼けてしまったのよ。小野屋の者たちも皆、殺されてしまったわ」

「今回、風摩党は何をしていたのです。三郎殿も風摩党の者を連れて行ったのでしょう」

「勿論、連れて行ったわ。でもね、北条と上杉の同盟が破れた時、ほとんどの者が殺されてしまったの」

「謙信殿が命じたのですか」

「そうじゃないわ。謙信殿は三郎様に小田原に帰るように勧めたのよ。でも、小田原に帰っても琴音ちゃんは弟に嫁いでしまったし、自分のいる場所はない。越後には妻も子もいる。三郎様は越後に残る決心をして、小田原から連れて行った家臣たちに、帰りたい者は帰っていいって言ったのよ。何人かは帰ったけど、ほとんどの者は越後に残ったわ。風摩党の者たちはお屋形様の命で動いているから帰らざるを得なかった。というのは表向きで、上杉の情報を得るために密かに残ったのよ。勿論、三郎様にも内緒でね。ところが、みんな、殺されてしまったの」

「やはり、謙信殿が命じたんじゃないですか」

 善恵尼は首を振った。

「風摩党の命令権を持っているのはお屋形様だけなの。先代のお屋形様、万松軒様は四十五歳の時、隠居なさって、今のお屋形様に家督を譲ったの。でも、風摩党の命令権は離さなかった。今のお屋形様は家督を継いでから十二年間も風摩党を使う事はできなかったのよ。今のお屋形様だって、色々な情報を知りたかった。そこで、武田から嫁いだ奥方様の側近の者から伊賀者や甲賀者を紹介してもらったの。伊賀者、甲賀者というと忍びの代表みたいに世間では通っているけど、みんな、愛洲移香斎様の孫弟子みたいなものよ。伊賀者や甲賀者も、いくらお屋形様の命令だからといって、移香斎様の孫のいる風摩党の縄張り内で勝手な真似はできない。初めの頃は必ず、風摩党のお頭、小太郎様の所に挨拶に来て、許しを得てから活動していたのよ。でも、世代が代わると、もう移香斎様の事を知っている者は少なくなって来たわ。許しも得ないで勝手に活動する者が現れて来たの。風摩党としては、そんなのを許したら示しがつかなくなるので領内から追い出したわ。自分のために働いていた者たちを追い出され、お屋形様は風摩党を憎むようになり、追い出された者たちは赤目の銀蔵という伊賀者を連れて来た。この赤目の銀蔵のお陰で、風摩党はおかしくなってしまったのよ。万松軒様の命で動く風摩党とお屋形様の命で動く銀蔵一味が陰で対立して、お互いに足の引っ張り合いを始めて、本来の諜報活動がおろそかになってしまったの。三増峠の合戦の時、北条が武田に敗れたのは銀蔵一味のお陰で正確な情報が手に入らなかったからなの。銀蔵一味はお屋形様に取り入って、風摩党にとって代わろうと企み、風摩党の邪魔ばかりしていたわ。万松軒様がお亡くなりになられて、お屋形様はようやく風摩党の命令権を得た。所詮、雇われ者だった銀蔵一味は解雇された。これでようやく、うまく行くと安心したんだけど、銀蔵一味は素直に伊賀には帰らなかった。敵となった越後の謙信様のもとへと行ったのよ。北条の内情に詳しい銀蔵は謙信様に召し抱えられ、風摩党に敵対して来たわ。銀蔵一味に何人の者が殺されてしまったかわからない。銀蔵に邪魔されて諜報活動はうまく行かないし、お屋形様の信用もなくしてしまい、お屋形様は風摩党の命令権を放棄してしまったのよ。弟の陸奥守(氏照)様や安房守(氏邦)様、左馬助(氏規)様や左衛門佐(氏忠)様、江戸の治部少輔(氏秀)様とそれぞれが勝手に風摩党に命令を与えているの。勝手に動いていると言っても、お頭の小太郎様や幻庵様、それに道感様がしっかりしているので一応、風摩党は一つにまとまってはいるけど、以前程の結束はなくなってしまったわね」

 善恵尼は梅恵尼と桃恵尼の方を見て、微かに笑った。梅恵尼と桃恵尼は黙って善恵尼の話を聞いていた。まるで、弟子が師匠の法話を聞いているかのようだった。

「道感殿も風摩党と関係があったのですか」と三郎右衛門は善恵尼に聞いた。

「道感様の娘さんはお頭の奥様なのよ。幻庵様はもうお年でしょ。風摩党の事を道感様にお託しになったのよ」

「そうだったのですか。それで、赤目の銀蔵とやらは今も越後にいるのですか」

「いるわ。今では上杉の忍び、軒猿を仕切っているんじゃないの。銀蔵は謙信様がお亡くなりになると、すぐに喜平次方について、越後にいる風摩党の者を皆殺しにしたの」

「謙信殿が亡くなるまでは、銀蔵も風摩の者たちに手出しはしなかったのですか」

「そんな事はないわ。銀蔵を倒すために次々に越後に送られて、銀蔵対風摩の争いはずっと続いていたのよ。勿論、三郎様はそんな事はご存じなかったけど。謙信様が急にお亡くなりになって、風摩の者たちは直ちに情報を集めて小田原に知らせなくてはならなくなった。銀蔵の相手をしている場合じゃなかった。その隙を狙われて、皆、殺されてしまったのよ。あなたの知りたい事はこれでわかったでしょ。申し訳ないけど、それ以上の事は話せないわ。ただ、銀蔵一味には気をつけた方がいいわね。今は武田と上杉は同盟しているけど、先の事はわからない。風摩党でさえ、未だに倒せないんだから、敵に回したら湯本家の忍びは全滅するわ」

「はい。銀蔵の名、肝に銘じておきます」

 善恵尼はチラッと桃恵尼を見てうなづいた。桃恵尼は微かに笑みを浮かべた。ほんの一瞬、目付きが鋭くなったような気がした。里々が言ったように、ただ者ではなさそうだった。

 翌日、善恵尼たちは帰って行った。

 七月の初め、植栗河内守はようやく柏原城を攻め取る事に成功した。三郎右衛門は左京進に任せて参戦しなかった。敵の隙を狙った奇襲攻撃でうまくは行ったが、被害も予想以上だった。味方の兵三十人余りが戦死し、援軍として寄居城に入っていた矢沢薩摩守の次男、源次郎も戦死してしまった。湯本家の家臣も三人が戦死し、五人が重傷を負った。

 三郎右衛門は戦死した者たちの家族を見舞い、それ相当の恩賞を与え、光泉寺において葬儀を執り行なった。左京進は再び、植栗河内守と共に柏原城の守備を命じられた。
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