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2017 .02.26
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21.次男誕生








 沼田攻めから帰った三郎右衛門は草津に上った。お松の怒った顔がちらつき、馬の足取りも重かった。もうこれ以上、延ばすわけにはいかない。まもなく、生まれそうだった。

 三郎右衛門はお屋形の自室に入るとお松を呼んだ。

「お帰りなさいませ。ご無事で何よりでございました。まずは温泉に入ってのんびりなさいませ」お松は嬉しそうな顔をして三郎右衛門に挨拶をした。

 嫁いで来てから五年が経ち、まだ二十一歳なのに、すっかり奥方としての貫禄がついていた。いつもニコニコしていて怒る事など滅多にないが、今日は覚悟をしなければならなかった。

「話があるんだ」と三郎右衛門はお松から視線をはずして言った。

「何でございます」とお松は首を傾げ、大きな目で三郎右衛門を見つめた。

「実はな‥‥‥」と言ったきり、その先の言葉が出て来なかった。

「どうしたのでございます。もしや、どなたか戦死なされたのですか」

「いや、そうではない。実は‥‥‥すまん。許してくれ」三郎右衛門は両手をついて謝った。

「だめです。許しません」とお松は言った。

 顔を上げるとお松は恐ろしい顔をしていた。

「お前、知っているのか」

「知らないと思っていたのですか」

「どうして知っているんだ」

「草津中の噂になっております。知らないのはお屋形様だけでございましょう」

「なに、噂になっている?」

「お屋形様が東光坊様の娘さんといい仲になって子供ができたという噂です」

「誰が一体、そんな噂を‥‥‥」

「誰が流したかが問題ではございません。お屋形様はわたしにお約束なさいました。決して浮気はしないと‥‥‥」

 膨れっ面をしながらも、お松の目には涙が溜まっていた。

「すまん。つい‥‥‥」

「つい、手を出してしまわれたのですか」と涙声で言ってから、お松は堪え切れずに顔をそむけて涙を拭いた。

 声を殺して泣いているお松を見ながら、悪い事をしてしまったと三郎右衛門は心の底から詫びていた。ようやく泣きやむと、恨めしそうな顔をして三郎右衛門を横目で見て、

「お美しいお方でございますからね、お久さんは」と言った。

「お久?」三郎右衛門は怪訝な顔をしてお松を見つめた。

「ごまかしてもだめです」とお松は三郎右衛門をじっと睨んでいた。弱気なお松は消えて、再び、強気なお松に戻っていた。

「噂を聞いて、わたしはすぐに会いに参りました。ほんと、びっくりしましたよ。あんなに大きなおなかになって。あの人、金太夫様の仲居をしていたお方ではありませんか。東光坊様の娘さんだなんて、ちっとも知りませんでした。東光坊様も知らんぷりしているなんて、まったくひどい事です」

「いや、東光坊を責めるな。東光坊も子供の父親の事は知らなかったんだ」

「まあ、父親にも内緒だったのですか」

「この前、言ったら、こっぴどく怒られた。薩摩守殿に合わす顔がないと言ってな」

「ほんとですよ。お祖父様に合わす顔がないのはわたしの方です」

「すまん。薩摩守殿にも本当の事を話して許してもらうつもりじゃ。もう二度と浮気はせん。許してくれ」

「許すも許さないも、もうすぐ子供は生まれます。子供には何の罪はございません」

「すまん」

「子供が生まれる前にお久さんをここに移して下さい」

「なに、ここに入れるのか」

「お屋形様のお子が他所で生まれたら可哀想ではありませんか。村の者たちは皆、知っております。ここに迎えなければ、わたしが悪者になってしまいます。辛いけれど覚悟を決めました」

「すまん」三郎右衛門はもう一度、深く頭を下げた。
 長野原に戻り、東光坊の家にいる里々に会って話を聞くと、お久というのは里々の本名だった。考えてみればおかしなものだが、三郎右衛門は里々という名が本名だと思っていた。噂を流したのはやはり東光坊で、東光坊は本気で里々を養女にするつもりだという。

「わたしは密かに生むつもりでしたのに、東光坊様は子供のためには、ちゃんとお屋形様の子だと認めて貰った方がいいとおっしゃって」

「勿論だ。俺の子としてちゃんと育てる。お前は俺の側室となり、草津のお屋形で子を産むんだよ」

「そんな‥‥‥」だめです、だめですと言うように里々は何度も首を振った。

「お松が許してくれた」

「奥方様が‥‥‥」里々は三郎右衛門をじっと見つめた。里々の目がだんだんと潤んで来た。「ほんとに申し訳ない事をしてしまいました。奥方様は立派なお方です」

 里々は涙を拭くと、草津の方を向いて両手を合わせた。

「会いに来たそうだな」と三郎右衛門は聞いた。

「はい。草津の山開きの時、『万屋』の者たちが噂を流すと、翌日にやって参りました」

「そうか‥‥‥お松は怒っていたか」

 里々は静かに首を振った。

「目に涙を溜めておりました。でも、決して取り乱したりはせず、お体をお大事にとおっしゃられ、お帰りになりました」

「そうか‥‥‥」

 草津に連れて行くつもりだったが無理だった。里々を長野原のお屋形に入れたと知らせるとお松はすぐにやって来て、里々の面倒を見始めた。

 沼田の倉内城が落ちた後、須川衆の活躍で猿ケ京の宮野城も落城し、尻高城から逃げて宮野城を守っていた尻高左馬助は討ち死にを遂げた。これで、真田安房守は吾妻郡と利根郡をほぼ平定し、残るは白井城だけとなった。白井攻撃のため、湯本勢は再び、柏原城を守る事となった。三郎右衛門と共に柏原城に入ったのは寝返った渡辺左近允だった。

 左近允は岩櫃城下に屋敷を貰い、幼なじみの女を妻に迎え、老母と共に新しい生活を始めていた。

「まさか、故郷を捨てて上野に住む事になるとは思ってもいなかったぞ。まあ、それも浮世のならいというものじゃな」

 左近允は豪快に笑った。遊び人だけあって堅苦しい所はなく、三郎右衛門もすぐに馴染む事ができた。

「そなた、草津の領主だそうじゃの。戦が一段落したら、かみさんと母親を草津に連れて行ってやりたいと思っているんじゃ。まあ、よろしく頼むわ」

「ええ、喜んでお迎えいたします。左近殿、故郷に未練はないのですか」

「ないと言ったら嘘になる」

 左近允は急に厳しい顔付きになった。当たり前の事だった。聞かなければよかったと三郎右衛門は後悔した。

「馴染みの女たちに別れも告げなかったからのう。それに、向こうに残っている家臣たちの家族の事を思うとやりきれんわ」

 三郎右衛門は何も言わなかった。鉢形城下にいる宗徳坊より知らせが入り、裏切った藤田能登守の家族と渡辺左近允の家族、それに、左近允の家臣たちの家族も処刑されたと聞いていた。北条安房守は能登守の妻が家老の娘でも、左近允の妻が重臣の娘でも容赦はしなかった。もし、自分が左近允の立場だったら、どうなっていただろうと考えていた。

「城を奪われ、おめおめと逃げ帰った所で、お屋形様(北条安房守)は許すまい。そんな事をくよくよ考えても仕方がない。武田家に仕えたからには北条家を敵に回して戦わなければならんからな。家臣たちにも生まれ変わったつもりで励めと言ってある」

 左近允は辛そうな顔をして、遠くの山々を見つめていた。

 五月二十日、三郎右衛門は善太夫の命日の法要のため、草津に帰った。月陰砦からキサラギが二年間の修行を終えた若者を連れて下りて来た。里々が砦を下りてから、キサラギが師範として娘たちを鍛えていた。一人では大変なので、三期生のミナヅキが師範代になっている。今年、山を下りて来たのは東月坊、静月坊、南月坊、カンナ、シモツキ、シワスの六人だった。

 キサラギは六人を紹介して下がらせた後、里々の具合を聞いた。

「今日か明日にも生まれるだろう」

「お師匠様は幸せでございます。健やかなお子様がお生まれになるようお祈り申し上げます」

 キサラギは三郎右衛門をじっと見つめ、頭を下げると下がって行った。三郎右衛門の脳裏にあの夜の事が思い出された。

「何を考えているんだ」と独り言を呟き、首を振った。

 法要は無事に終わった。ついに善恵尼は来なかった。去年、もう来られないかもしれないと言っていたが、本当に来ないとは思っていなかった。毎年、顔を見せていたのに会えないのは淋しかった。もう二度と会えないのかもしれなかった。善恵尼には世話になりっぱなしで、何のお返しもできないのが悔やまれた。

 光泉寺からお屋形に帰るとすぐ、長野原から知らせが入った。里々が元気な男の子を産んだという。善太夫の生まれ変わりだと皆、喜んでいるという。三郎右衛門は馬を飛ばして長野原へと向かった。三郎右衛門の次男は里々の本名を取って久三郎と名付けられた。

 五月の末、去年、砦を下りて一年間、旅をしていた者たちが帰って来た。照月坊、寒月坊、半月坊の三人を率いていたのは行願坊で、今回は京都まで足を伸ばして、各地の情報を集めて来たという。

「織田大納言様(信長)は琵琶湖のほとりの安土という所に、まるで極楽浄土を思わせる華麗な城を建て、益々勢いが盛んになっております。先月には、ついに本願寺を屈服させ、上人様を石山の地から追い出しました。家臣の柴田修理亮(勝家)に加賀を攻めさせ、羽柴筑前守(秀吉)には播磨を攻めさせております」

「柴田修理亮は聞いた事があるが、羽柴筑前守というのは初めて聞く名だな」

「噂では羽柴筑前という男、小者から武将に成り上がった男らしく、信長が最も信頼している武将のようで、以前は木下藤吉郎と名乗っていたそうでございます」

「木下藤吉郎か。京都にいた時、聞いた事があったような気がする」そう言った後、「そういえば、堀久太郎殿はどうしておられるだろうか」と三郎右衛門は独り言のように呟いた。

「お屋形様は堀久太郎をご存じなのですか」と行願坊は驚いた顔をして三郎右衛門を見た。

「上泉伊勢守殿の道場で一緒に修行に励んだんだよ。一年足らずだったがな」

「そうでございましたか。堀久太郎といえば信長の側近衆でございます。織田家の名だたる武将でさえも側近衆の機嫌を損ねるととんだ目に会うと恐れております。直接、見た事はございませんが、堀久太郎は重要な奉行職を幾つも勤めております。なかなか有能な男のようでございます」

「そうか。信長の側近衆か」三郎右衛門は満足そうにうなづいた。

 幼い頃より信長の小姓(こしょう)を勤めていて、物覚えがよく、頭の回転の速い久太郎が信長に信頼されるのは当然の事だった。それでも、久し振りに久太郎の活躍を聞くと自分の事のように嬉しかった。

「お屋形様がそのような男とお知り合いだったとは、まったく驚きです。共に厳しい修行を積んだ仲というのは、いつまでも覚えているものでございます。もしもの時、お役に立つかと思われます」

 久太郎の事を思い出していた三郎右衛門は我に返って、行願坊をじっと見つめ、「もしもの時というのは、信長が草津に攻めて来た時の事か」と聞いた。

「はい。もしもでございます」

「馬鹿な事を申すな。信長がここに来るには武田家を倒さなくてはなるまい」

「旅に出ると回りの状況がよくわかります。このままの状態ですと武田家の運命は‥‥‥」

 三郎右衛門は最後まで聞かずに、「滅多な事を言うな」と強い口調でたしなめた。

「申し訳ございません」と頭を下げた後、行願坊は、「北条家の者が安土に出入りしております。鷹狩りが好きな信長のために鷹を贈っているようでございます」と付け加えた。

「北条が信長の機嫌を取っているのか」

 三郎景虎が亡くなった後、武田と上杉の同盟に対抗して、北条は徳川と同盟を結んだ。三河守(家康)の斡旋で信長に接近したに違いなかった。

「北条は裏切られた武田を倒すために、本気になっている模様であります。今の信長は五万余りの兵を軽く動かす事ができるでしょう。武田家はどう集めても三万が精一杯、しかも、東と西に兵を分けなければなりません。難しいものと思われます」

「うーむ。五万か‥‥‥」

「信長の領国は尾張、美濃、越前、近江、伊勢、山城、河内、和泉、大和、摂津、丹波、播磨、但馬と数知れません。五万というのは武田攻めに動かせる兵力です。まだまだ余裕がございます」

「すごいな」としか三郎右衛門には言えなかった。

 長篠の合戦の時より信長は想像以上に勢力を拡大していた。今の状況で信長が攻めて来たら武田家も危ないかもしれない。そんな事は考えたくなかったが、あの名門の今川家が滅亡したのを三郎右衛門はこの目で見ている。武田家が永遠に不滅だとは言い切れなかった。

「忘れておりました。小野屋ですが、安土の城下にありました」

「なに、小野屋が信長の本拠地にあったというのか」

「はい。近所の者に聞いてみますと、二年程前に店を出したようでございます」

「善恵尼殿はおられたのか」

「いいえ、お見かけしませんでした。安土では見ませんでしたが、京都の小野屋でお見かけしました。あれは三月の初め頃でしたか、若い娘さんを連れて京都の店に参りました。娘さんの方は残りましたが、善恵尼殿はすぐにお帰りになったようでございます」

「その若い娘というのはお澪という名ではなかったか」

「はい。店の者がそう呼んでいるのを耳にしました」

「やはりな。その娘は善恵尼殿の跡継ぎだ」

「成程、そうでございましたか。ただの奉公人にしては店の者たちの態度がおかしいと思っておりました」

「お澪殿を京都に送ったか。さすがだな。北条家のために信長の動きを探るつもりだろう。そして、北条が織田と同盟を結ぶ事が決まれば、小野屋が中心になって話を進めるのかもしれん。大したもんだ。常に先へ先へと読んで行動している。見習わなければならんな」

 行願坊は今年、山を下りた三人の若者を連れて、また京都へと旅立って行った。

 七月の初め、人質として真田へ行っていた妹のおしほが真田家の家老、河原丹波守の四男、右京亮(うきょうのすけ)と祝言を挙げた。四男といっても、上の三人の兄が長篠の合戦で戦死しているので、右京亮は嫡男だった。三郎右衛門は義弟の西窪治部少輔と共に真田に行き、妹の祝言を祝った。

 おしほと共に人質となっていた弟の小四郎とも久し振りに会って酒を酌み交わした。小四郎は今、甲府に住み、安房守の長男、源三郎(信幸)と次男、源次郎(信繁)の二人に仕えていた。今回、妹の祝言を祝うため、休みを貰って二年振りに真田に帰って来たという。三郎右衛門と同じような口髭を蓄え、体格も一回り大きくなっていた。

「まさか、おしほが丹波守殿の嫡男に嫁ぐとは驚いた」と三郎右衛門が言うと、

「俺もまったく知らなかったが、右京亮殿の方がおしほにぞっこんなんだそうだ」と小四郎は酒を注いでくれた。

「おしほの方はどうなんだ。昨日、会った時、何となく沈み込んでいるようだったが」

「そんな事はない。祝言の前日だ。緊張していただけだろう」

「それならいいんだが、安房守殿より話を聞いた時、おしほの気持ちを聞く事もなく、湯本家のためには最高の縁談だろうとうなづいてしまった。昨日、おしほは何も言わなかったが気になってな」

「大丈夫さ、きっとうまく行くよ。親父がちゃんと見守っている」と小四郎は父親の供養塔がある方向を指で示した。

「おう、そうだ。お松に頼まれていたんだ。花を供えてくれってな」

「姉上に頼まれたといって、おしほが毎日、花を供えていたらしいぞ」

「へえ、そうだったのか」

「右京亮殿も花を供えているおしほを見初めたのかもしれんな」

「うむ、そうかもしれん。お前、甲府の方はどうなんだ」

「悪くはない。居心地はいいよ。甲斐の都だからな」

「安房守殿の御子息はどんなお方なんだ」

「お二人共、利発だよ。源三郎様は十五歳、源次郎様は十四歳、一つ違いの兄弟なんだが、性格は大分違う。源三郎様の方がずっと大人だ。落ち着いている。それに比べて、源次郎様の方は遊び好きというか、何にでも興味を持つ。もっとも源三郎様は生まれながらにして跡継ぎ様だから、いい加減な事はできないのかもしれない。源次郎様はまったく気楽にやっている」

「長男が源三郎様で、次男が源次郎様なのか。反対ではないのか」

「俺も変だと思ったけど、源三郎様がお生まれになられた時、安房守殿は武藤家を継いでおられた。武藤家の長男は代々、三郎を名乗っているそうだ。それで、武藤家の跡取りとして源三郎を名乗ったんだ。源次郎様の方は次男だったので、そのまま源次郎を名乗られたというわけらしい」

「成程、そういう訳だったのか。ところで、お前もそろそろ身を固めた方がいいんじゃないのか。甲府にはいい女子が大勢いるだろう」

「いい女子はいるが、人質の身分では贅沢も言えまい」

「すまんな」と言って、三郎右衛門は小四郎に酒を注いでやった。

「なに、俺が選んだ道さ。若殿のために生きると決めたんだ」

「そうか、頑張ってくれ」

 酒を飲む小四郎を眺めながら、随分と成長したなと三郎右衛門は思った。人質として肩身の狭い思いをしながら苦労をしたに違いないが、それでも、小四郎にとっては草津を離れてよかったのだと思えた。

「いい女子で思い出したが、お前、武田のお屋形様の妹で出家なされた信松尼殿をご存じないか」

「信松尼殿なら、甲府で知らぬ者はいない。美しいお方だ」

「おう、お前も知っていたか」

「お松御料人様の頃から知っている。俺がまだここにいた頃、ここに泊まってから草津に行ったんだ。でも、その時はうまく騙された。甲府に行って初めてわかったよ。あの時の侍女が御料人様だったってな。兄上も騙された口だろう」

「まあな。それで、信松尼殿は高遠城に行かれたのか」

「兄上、どうしてその事を? 確かに信松尼殿は仁科殿に呼ばれて、三月に高遠城にお移りになられたが」

 小四郎は意味ありげな顔をして三郎右衛門を見ていた。三郎右衛門は灯台(室内照明器具)の明かりを見つめながら、「そうか。行かれたか」と呟いた。

 高遠がどんな所だか知らないが、五郎が側にいれば信松尼も心強い事だろう。水月坊の喜んでいる顔が浮かんで来て、三郎右衛門は知らずにニヤッと笑っていた。

「どうしたんだ。兄上も信松尼殿に惚れた口なのか」

「そうではないが、気になってな」

「信松尼殿が甲府からいなくなって、大勢の男たちが嘆いていたよ」

「だろうな。尼にしておくには勿体ない」つい本音を言ってしまい、三郎右衛門は小四郎を見た。

 小四郎は鼻で笑って、「相変わらず、兄上は女好きだな」と呆れたような顔をしていた。

「何を言うか」

「聞いたぞ。東光坊の娘を孕ませたそうだな」

「それを言うな」と三郎右衛門は睨んだが、小四郎はニヤニヤと笑っていた。

「だけど、東光坊にそんな娘がいたとは知らなかった」

「東光坊も女好きなのさ。飯縄山にいた若い頃の子供らしい。母親が亡くなって東光坊を訪ねて来たんだ」

「へえ、それを姉上に内緒で頂戴したというわけか」

「まさか、子ができるとは思わなかった。まったく参ったよ」

 その夜、遅くまで二人は語り合った。

 七月の末、岩井堂城が白井勢に奪われるという事件が起こった。まさしく、敵の不意打ちだった。しかも、卑劣なやり方で敵は岩井堂城を奪い取っていた。

 岩井堂城の城将に富沢左衛門尉という男がいた。兄の治部少輔が長篠の合戦で戦死し、跡を継いで岩井堂城を守っていた。左衛門尉は兄の家臣も受け継いだが、文句ばかり言うので敬遠し、自分の言いなりになる若い者たちばかりを引き連れていた。確かに、兄と比べたら左衛門尉は劣っていた。主人を見限った三人の家臣が白井方に寝返り、酒宴の席で左衛門尉を斬り殺し、城代の富沢伊予守も殺して、白井勢を城に引き入れたのだった。白井攻めを目前にして、岩井堂城を奪われたのは痛かった。直ちに奪い返そうと海野長門守はいきり立ったが、真田安房守は引き留めた。

「今は敵も警戒している。無駄な負傷者がでるだけだ」

「左衛門尉は騙し討ちにあったんじゃぞ。断じて許せん。仇を討たなくては気がすまん」

「気持ちはわかるが今は待て」

 長門守は安房守の言う事を聞かず、密かに忍びの者を放って、左衛門尉を殺した三人を暗殺した。その事を聞いて安房守は何も言わなかったが、二人の間に険悪な空気が漂っているのを誰もが気にしていた。

 八月になり白井攻めが始まった。今回の攻撃は吾妻川に沿って東進するのではなく、沼田から南進して途中にある小城を落とし、白井城を孤立させる作戦だった。真田勢と同時に廐橋城から箕輪城の内藤勢が北進して白井を目指す事になっていた。

 三郎右衛門は柏原城を渡辺左近允に任せ、湯本勢を率いて倉内城へ向かった。







 今回の白井攻撃に真田安房守(昌幸)は真田軍の総力を挙げた。真田からも一千余りの兵が加わり、吾妻衆と沼田衆を合わせて三千余りの兵力で白井を目指した。三郎右衛門は先陣を命じられ、湯本勢百人を率いて進撃した。三郎右衛門と共に先陣を務めたのは安房守の弟、加津野市右衛門、矢沢三十郎、海野中務少輔、富沢但馬守、沼田衆の久屋三河守と西山市之丞だった。

 湯本左京進も湯本勢五十人を率いて本陣の左脇を固め、義弟の西窪治部少輔は殿軍(しんがり)を務めた。矢沢薩摩守と海野能登守は倉内城の留守を守り、海野長門守は岩櫃城を守った。

 片品川を越え、鎌田城(昭和村)を攻めると城主、加藤丹波守は降参して先陣に加わった。続いて、半里余り川上にある阿曽の砦を攻めた。この砦には北条方の金山城(太田市)主、由良刑部大輔(国繁)の兵が守っていたが城を明け渡し、金山城へと逃げ去った。

 戦う事もなく、二つの城を落とした真田軍は勢いに乗って南下し、長井坂城(赤城村)に攻め寄せた。ここでも城を包囲しただけで、敵は降伏した。守っていた城兵は地元の者たちで、味方になる事を約束して城を明け渡した。次の津久田城(赤城村)は白井が近いせいか、すぐには降伏しなかった。城将の牧弥六郎と須田加賀守は一応、抵抗する所を見せてから、城を明け渡して白井へと逃げて行った。猫山城(赤城村)の城主、牧和泉守も軽く抵抗した後、城を捨てて不動山城へと逃げ去った。

 利根川を挟んで白井城と向かい合っている見立(みたち)の不動山城(赤城村)はしぶとかった。城主は山本加兵衛で、猫山城から逃げて来た牧和泉守の兵も加わり、城兵は百人余りとなっていた。この城を奪われたら白井城は裸同然となってしまうので、必死になって守りを固めて待ち受けていた。それでも、兵力の差はどうしようもなかった。真田軍の先陣の猛攻を受けると落城し、半数余りの兵が討ち死にした。

 湯本勢も先を争って突撃し、兜首を幾つも取る活躍をしたが、馬廻衆の山本与次郎と市川新太郎が戦死し、十数人の負傷者が出てしまった。不動山城を焼き払った後、斎藤加賀守の守る勝保沢城を攻撃している最中、突然、撤退命令が下された。岩櫃城の海野長門守から、北条安房守の軍勢が烏(からす)川に沿って大戸に向かっていると知らせが届いたという。

 真田軍は利根川を渡り、白井城の北を通り、吾妻川に沿って岩櫃城へと急いだ。先陣だった三郎右衛門たちは殿軍となり、白井勢の追撃軍と戦いながら後退した。敵の追撃も長くは続かず、すぐに引き上げて行ったので、大した損害もなかった。真田軍は途中にある岩井堂城を簡単に奪い取り、守備兵を入れると岩櫃城へと帰った。すでに、北条軍は鉢形へと引き上げていた。

 真田軍と同時に北上した箕輪城の内藤軍は真壁城(北橘村)を落とし、八崎城を落とした後、北条軍の進撃を知って箕輪城に撤退した。内藤軍が戻るとの知らせを受けた北条軍は挟み撃ちを恐れて引き上げて行った。

 白井城は落とせなかったが、今回の進撃は真田軍の強さを国内に示す事となり、成功したと言えた。周辺の小城をほとんど落とされ、完全に孤立した白井城が落ちるのは時間の問題だった。

 九月の末、武田四郎(勝頼)が一万余りの大軍を率いて上野に進撃して来た。小諸城主の武田左馬助を先陣として碓氷峠を越え、松井田、安中を通り箕輪城に入った。真田安房守はお屋形様を迎えるため箕輪城に向かった。三郎右衛門は柏原城に戻り、渡辺左近允と共に守っていた。

 月陰党の者たちの報告によると、箕輪城から廐橋城に移った武田のお屋形様は東に進撃し、怒涛の勢いで北条方の今村城(伊勢崎市)、茂呂(もろ)城(伊勢崎市)、江田城(新田町)、反町城(新田町)と攻め落とし、金山城に向かっている。『風林火山』の旗がなびく所、敵なしといった有り様で、武田軍の健在振りを嫌というほど関東の武将たちに示していたという。柏原城の城兵たちは武田軍の進撃を素直に喜んでいたが、三郎右衛門は素直に喜ぶ事はできなかった。武田と北条が戦っている隙を狙って、織田信長が攻めて来るのではないかと不安だった。

「まあ、めでたい。軽く祝杯でもあげようではないか」と左近允が酒を飲む真似をした。

 左近允は本当に酒が好きだった。何だかんだと理由をつけては酒を飲んでいた。ただ、酒に飲まれる事はなく、やるべき事はきちんとしているので文句を言う筋はなかった。

「そうですね。わたしらだけで飲むのは何ですから、みんなにも配りますか」

「おう、そいつはいい。たまには景気を付けなくてはな」

 三郎右衛門は側近の宮崎孫九郎に命じて酒を配らせた。いい気になって皆で騒いでいる時、廐橋城から真田安房守の使者がやって来た。三郎右衛門は兵たちを持ち場に戻らせ、本丸の屋敷で使者と会った。使者は三郎右衛門の義弟、小草野新五郎だった。

「兄上、俺にも一杯、いただけませんか。馬を飛ばして来たので喉が渇いた」

 三郎右衛門は孫九郎に合図を送った。

「武田のお屋形様の快進撃を聞いてな。みんなで祝杯をあげていたんだ。安房守殿には内緒にしてくれ」

「わかってますよ」と新五郎は笑った。

 孫九郎が持って来た枡酒を片手拝みして、一息に飲み干すと新五郎は、「こいつは最高だ」と歓声を上げた。

「伊豆の銘酒だよ」

「伊豆だって? 敵の酒じゃないか」新五郎は怪訝な顔をして、三郎右衛門と空になった枡の中を見比べた。

「今はな。同盟していた頃、草津の宿屋で使うんで取り寄せたんだよ。もう在庫もなくなって来た。再び、同盟しない限り、手に入らんだろう」

「成程な。敵はこんなうまい酒を飲んでいるのか」

 新五郎は空の枡を口に持っていき、最後の一滴まで飲んだ。

「もう一杯いくか」と三郎右衛門は笑いながら言った。

「いや、今はいい。草津でゆっくり飲もう」

「何をのんきな事を言っている。草津はまもなく冬住みだ。来年まで待つというのか」

「そうじゃない。これからすぐに草津に行くんだ」

「何だと?」

 草津で何かあったのだろうと一瞬、思ったが、それなら、草津から誰かが知らせてくれるはずだった。廐橋にいた新五郎が知っているわけはない。何事だろうと三郎右衛門は新五郎の説明を待った。

「武田のお屋形様が甲府に帰る前に、草津の温泉に浸かりたいと申してな、すぐに準備をするよう命じられたんだ」

「なに、お屋形様が‥‥‥」

 まったく思ってもいない事だった。まもなく冬住みになるという、こんな時期に突然、お屋形様が来るなんて、こいつは大変な事になったと慌てたが、そんな素振りは顔には出さず、落ち着いた振りをして、「お屋形様はいつ、草津に来られるのだ」と聞いた。

「今、金山城を攻めている。落とすのは難しいかもしれん。お屋形様も忙しいらしく、十月中には甲府に戻らなければならんそうだ。多分、十月の初め頃になるだろう」

「そうか。草津に来るのはお屋形様とあと何人位なんだ。まさか、あの大軍がすべて、草津に上るわけではあるまいな」

「まさか。草津まで行くのは名のある武将たちとその側近の者たち、まあ、五十人位だろう」

「五十人か‥‥‥うむ、その位なら何とかなりそうだ」

「それとな、お屋形様が草津に行っている間、一千近くの兵が長野原で待つ事となろう。そっちの面倒も見なければならない」

「一千の兵か」

「大変だが、酒の一杯づつでも振る舞わなければなるまい」と新五郎は手に持ったままの枡を持ち上げた。

 三郎右衛門はうなづきながら、どれだけの酒がいるだろうかと考えた。一人二合で計算しただけでも、一斗樽が二十樽も必要だった。何としてでも集めなければならなかった。

「一千の兵を置いて、他の者たちは先に帰るのか」

「いや、真田まで先に行き、そこで合流するようだ」

「そうか。お屋形様と一緒に安房守殿も一緒に草津に来るのか」

「うちのお屋形様が御案内するんだよ」

「そいつはよかった。安房守殿が一緒なら心強い」

 三郎右衛門は柏原城の守備を左近允に任せ、新五郎と一緒に馬を飛ばして草津に向かった。樹木は見事な程に色づき、落ち葉を舞い散らす風は刺すように冷たかった。

 夕暮れ前に草津に着き、お屋形に入ると三郎右衛門は町奉行の雅楽助と家老の湯本伝左衛門を呼び、武田のお屋形様一行が来る事を告げ、目を丸くして驚いている二人に、てきぱきと指示を与えて準備をさせた。そして、金太夫を呼び、部屋の確保をさせ、万屋にいるフミツキを呼び、女たちに仲居になるように命じた。

 十月の七日、東光坊が草津に来て、武田のお屋形様が廐橋城に入ったと知らせた。金山城を包囲し、使者を送って降伏を促したが、由良刑部大輔はうなづかず、今回は諦め、膳城(粕川村)、山上城(新里村)、大胡城(大胡町)を落として、一旦、廐橋城に戻った。倉内城の城代だった河田伯耆守が膳城を守っていて、見事、討ち取ったが味方の損傷も多く、原隼人佑が重傷を負ってしまった。草津に行くのを楽しみにしていた隼人佑は諦めて甲府に帰って行ったという。

 この隼人佑は長篠の合戦で戦死した隼人佑の長男で、父親の名を継いで活躍していた。残念な事に、その時の傷がもとで甲府に帰ってすぐに亡くなってしまった。弟が後を継ぎ、やはり隼人佑を名乗った。

 三郎右衛門は東光坊の話を聞き終わると、腕組みをしながら、「明日から冬住みに入らなければならんが、今年は延期するしかないな」と言った。

「お薬師さんにお願いするしかあるまい。返って、他のお客さんがいない方がいいかもしれんぞ」

「そうだな。それで、廐橋から、すぐにこちらに向かうのか」

「いや。これから白井を攻めるそうじゃ。白井を攻めた後、二手に分かれ、一軍は一条右衛門大夫(勝頼の叔父)殿に率いられ、吾妻川に沿って岩櫃城に向かい、そのまま甲府へと引き上げて行くらしい。もう一軍はお屋形様が率いて沼田に向かい、倉内城に入り、中山城、尻高城を経て岩櫃城に向かうそうじゃ」

「すると、あと半月は掛かるんじゃないのか」

「そうじゃな。その位は掛かるかもしれん」

「半月か‥‥‥大雪が降らなければいいがな」

 三郎右衛門は庭を眺めた。まだ積もる程ではないが、昨夜、初雪が降っていた。

「うむ。天に祈るしかない」

「白井で二つに分かれるという事は、五千の兵が長野原に来るのか」

「いや、長野原に留まるのは千五百弱じゃろう。三千五百は鎌原まで行くはずじゃ」

「鎌原か‥‥‥孫次郎殿も大変だな。それで草津に来るのは何人だ」

「武田のお屋形様、真田のお屋形様、武田左馬助殿、跡部尾張守殿、内藤修理亮殿、土屋惣蔵殿、馬場民部少輔殿、小山田備中守殿、小宮山内膳殿じゃ。それぞれが供の者を四、五人連れて来る。それと護衛の鉄砲隊が五十人程で、総勢百人弱といったところじゃな」

「百人ならなんとかなりそうだな。長野原の方は大丈夫なのか」

「陣右衛門殿が張り切ってやっておる。長野原に大軍を迎えるのは岩櫃攻めの時以来じゃと言ってな」

「そんな事があったのか」

「わしもその頃は飯縄山にいたんで知らんのじゃが、岩櫃攻めの時、長野原の諏訪明神に一徳斎殿率いる三千の兵を迎えたらしい」

「ほう、そんな事があったのか」

「陣右衛門殿に任せておけば大丈夫じゃろう」

 宮崎陣右衛門は長篠の合戦の時、善太夫の馬廻衆として出陣し、生き残った陣介だった。善太夫の死後は三郎右衛門を助けて活躍し、今では家老の一人になっていた。

 三郎右衛門は宿屋の主人たちを集めて、冬住みに入るのが遅れてしまうが了承してくれと頼み、光泉寺の山伏たちには雪が降った時、主要道路の雪かきを頼んだ。

 昼から降り始めた雪が本降りとなった十四日の夜、三郎右衛門がお屋形様を迎えるための最終的な確認をしていると東光坊が現れた。

「いよいよ、降って来たな。積もらなければいいが。武田のお屋形様が岩櫃城にお入りになられた。明日、草津に来るそうじゃ」

 そう言うと東光坊は両手をこすりながら部屋の中央に置いてある火鉢に近づき、隣に座り込むと両手をかざした。

「予定より早かったな。白井の長尾一井斎は降伏したのか」

「いや、駄目だったようじゃ。一井斎は武田軍に何度も痛い目に会っているから、簡単には寝返らんかもしれん。一万の大軍で攻めれば落とせん事もないが、どうせ、充分な兵糧が確保してあるんじゃろう。そうなると長期戦になる。徳川に攻められている高天神城の事もあって、武田のお屋形様もそうのんびりしてもいられないようじゃ。軽く攻めただけで、二手に分かれ、お屋形様は沼田に向かわれた」

「高天神城はどんな様子なんだ」

「高天神城の回りを徳川が出城を築いて囲んでいるようじゃ。武田のお屋形様も毎年のように高天神城まで出陣して敵を追い散らし、兵糧を入れてはいたが、これからはそれも難しくなるじゃろう。武田軍が遠江に出て行けば、北条が駿河を攻めるからな」

「高天神城を徳川に奪われると遠江は徳川のものとなり、駿河の国も危なくなってしまう」

「高天神城は武田家の要かもしれん。もし、徳川に奪われれば、武田家の上洛の夢はついえるかもしれんな」

「上洛の夢か‥‥‥ついえて欲しくはない。長篠で戦死した者たちのためにもな」

「そうじゃな。上洛を夢見ながら死んで行った者たちのためにな‥‥‥」

 翌日の夕方、武田のお屋形様の一行が草津にやって来た。一晩降り続いた雪は一尺近くも積もったが、朝にはやみ、日が出て来た。村総出で雪かきをやり、一行が見える頃には道路の雪はすっかり消えて乾いていた。

 三郎右衛門は白根明神の鳥居まで行き、一行を迎えた。武装した湯本家の者たちが道の両側を警固する中、家老の湯本伝左衛門の案内で、武田左馬助を先頭に騎馬武者が続いた。お屋形様は中程にいて、前後を真田安房守と内藤修理亮が守り、左右は鉄砲隊が守っていた。徒歩の鉄砲隊以外は皆、戦支度を解き、軽装だった。一行は村人たちの歓迎を受け、広小路で馬を降りると指定された宿屋へと納まった。

 金太夫の宿屋にはお屋形様と真田安房守が入った。三郎右衛門がお屋形様に挨拶に伺うとお屋形様は機嫌よく気楽に声を掛けて来た。

「お松とお菊が世話になったのう。残念ながら、お松は出家してしまったが、そなたの噂はよく聞いている。山深い草津に置いておくのは勿体ない武将だと申しておったわ。今は安房守と共に上野の事を頼む。上野の平定が終わったら、甲府に来てもらう事となろう」

「はっ、勿体ないお言葉、ありがたく頂戴いたします」三郎右衛門は深々と頭を下げた。

「まずは自慢の温泉に入るか」

「はい。御用意はすでにできております」

「うむ、案内してくれ」

 滝の湯は塵一つないほど綺麗に掃除され、回りには幕が張られてあった。他の客はすべて帰したので貸し切り同然だったが、武田のお屋形様を一目見ようと草津の者は勿論、近在からもやじ馬が集まって来ていた。見物人の見守る中、湯に浸かってもらうわけにも行かず、幕を張らなければらなかった。

 お屋形様が滝の湯から上がると武将たちが交互に入り、草津の湯を満喫した。全員が湯から上がった後、三郎右衛門は歓迎の宴を開いた。準備の期間が長かったので、料理も酒も最高の物を集める事ができ、お屋形様を初め武将たちも目を見張って喜んでくれた。これだけ充分な持て成しができるようになったのも、すべて、善恵尼のお陰だった。月陰党の女たちは自慢の芸を披露し、遊女たちも着飾って酌に出た。ハヅキが仁科五郎に見初められて側室になった前例があるので、遊女たちは皆、張り切っていた。

 宴が終わった後、三郎右衛門は真田安房守に呼ばれた。安房守の供をして来たのは小草野新五郎、春原勘右衛門、矢野半左衛門、高梨兵庫助の四人で、隣の部屋で賑やかに酒を飲んでいた。

「お屋形様は充分に喜んでおられる。明日一日、ゆっくりと休んで、明後日、甲府に向けて帰られる。お屋形様も忙しいんじゃよ。謙信殿がお亡くなりになって越後に出陣して以来、まったく、休む間もない程じゃ。遠江に行って徳川と戦い、伊豆に行って北条と戦い、今回、上野に出て来る前も、伊豆に行って北条軍と対峙していたんだ。大軍を率いて行っても、今の所、戦果ははかばかしくない。戦費ばかりがかさみ、領土は一向に増えない。唯一増えたのが沼田だ。沼田を足掛かりに東上野を手に入れるしかない。本当はな、お屋形様は亡きお屋形様のように小田原を攻めたいんじゃよ。でも、今の武田家にはそんな余裕はない‥‥‥明日もよろしく頼むぞ」

 次の日もいい天気だった。お屋形様はのんびりと温泉巡りをして過ごした。滞在中、何の問題も起こらず、皆、満足して帰って行った。お屋形様は、今度は妻子を連れて来たいと言い、跡部尾張守も妻子の機嫌を取るのに湯治はいいと賛成した。土屋惣蔵は初花という遊女と深い仲になり、改めて迎えを寄越すと言って腰の物を預けて行った。惣蔵は長篠で戦死した土屋右衛門尉の弟で、兄の跡を継いで百騎持ちの侍大将になっていた。甲府に妻子がいるので本気にはできないが、初花は夢でも見ているかのような気持ちで惣蔵を見送った。

 一行が帰った後、雪が降り続き、草津は雪に埋もれ、長い冬住みへと入って行った。

 その頃、遠江では武田四郎の留守を狙って、徳川三河守が高天神城を攻めていた。
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金山城 URL
城名:金山城、新田金山城 築城年:1469年 築城者:岩松家純 城区分:山城 所在地:〒373−0027 群馬県太田市金山町40−98 電話:0276−20−7090 URL:http://www.city.ota.gunma.jp/gyosei/0100a/005/01/kanayamajo/index.html コメント:武田氏、上杉氏、北条氏の城攻めを撃退した堅城で、関東七城の一つです。豊臣秀吉の小田原城攻めの際、攻撃・落城し廃城となりました。
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