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2024 .03.19
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15.御館の乱








 御寮人様たちが草津から帰った二ケ月後の閏(うるう)七月、しばらく甲府に滞在していた真田喜兵衛が草津にやって来た。三郎右衛門が慌てて長野原から草津に上ると喜兵衛は湯上がりのさっぱりした顔で金太夫の宿屋でくつろいでいた。

「草津は涼しくていいな。今年は七月が二度もあったせいか、甲府は残暑が厳しくてかなわん」と言いながら、笑顔で三郎右衛門を迎え、甲府の様子を話してくれた。

「長篠の合戦から二年が経ち、ようやく武田家も立ち直ったようだ。亡くなった武将たちの後釜も何とかお役目をこなしている。まあ、以前とまったく同じとは言えんがな。この先、経験を積んで行けば、まずは大丈夫だろう」

 そう言う喜兵衛自身もすっかり真田家のお屋形様という貫禄が身についていた。

 三郎右衛門が正月に嫁いだ花嫁の事を聞くと、北条家の姫様と武田のお屋形様はうまく行っているという。姫様はまだ十四歳で、お屋形様の御長男、武王丸(信勝)殿は十一歳、まるで、娘といってもいい年頃なんだが、お屋形様はお気に入りで可愛がっておられるようだと言って笑った。

「北条との同盟が強化され、徳川と織田の連合軍と戦う準備はできた。まずは徳川勢に囲まれている遠江の高天神城を助けなければならん。高天神城を奪われたら遠江を徳川に取られるだけでなく、駿河も危なくなってしまうからな」

「いよいよ、徳川を倒しますか」

 喜兵衛は扇子を仰ぎながら、うなづいた。

「来月には出陣する事となろう。越後の謙信は越中に出陣した。当分、関東へは出て来ないだろうが、吾妻衆には守りは固めてもらわなくてはならん」

「喜兵衛殿は遠江まで出陣するのですか」

「うむ。そのために帰って来たんだ」

 喜兵衛は草津に一泊し、翌日、岩櫃城に行き、吾妻衆を集めて、今後の事を相談すると出陣の準備をしなければならないと忙しそうに真田へ帰って行った。

 八月に入り、武田のお屋形様は領内に出陣命令を下し、八月の末、一万五千余りの兵を率いて遠江に出撃した。徳川勢を追い散らし、高天神城に兵糧や弾薬を入れる事には成功した。しかし、武田軍が引き上げると徳川軍は再び高天神城を包囲して、新たに砦を築き始めた。

 その頃、上杉謙信は能登の七尾城(七尾市)を落として加賀に進攻し、手取川で織田軍と戦い、圧倒的な勝利を得ていた。織田信長が上杉謙信に大敗したとの報が三郎右衛門のもとに届いたのは冬住みの始まった十月の半ばの事だった。知らせを持って来たのは沼田城下にいた東光坊の配下、東円坊で、七尾城にいる謙信より沼田の城代、河田伯耆守に書状が届き、沼田城下では、織田を倒し、謙信の上洛も間近だと大騒ぎをしているという。

「大納言になった信長も毘沙門天にはかなわなかったか」

 三郎右衛門は改めて、上杉謙信という武将の偉大さと恐ろしさを知った。そして、信長を共通の敵とした武田と上杉が同盟して、共に戦えばいいのではないかと思った。この時、武田方の武将は皆、密かに宿敵の謙信に拍手を送っていた。
 年が明け、天正六年(一五七八年)の正月の半ば、東円坊が再び、重大な情報を持って来た。雪解けと共に大軍を率いて関東に出陣するため、謙信が領内に出陣命令を下したという。

「上洛するのではなく、関東に攻め込むというのか」と三郎右衛門は不審に思って聞き返した。勢いに乗って織田を倒し、上洛するのが当然だった。

「上杉勢が越中に出陣している隙に、北条勢が下野(栃木県)や常陸(茨城県)に出陣して上杉方の者たちを倒しておりました。謙信殿のもとへ援軍派遣の要請が度々参っているようでございます。関東管領の謙信殿としては放って置く事ができず、関東を平定して後、上洛する模様であります」

「成程な」と言って、三郎右衛門は火鉢に手をかざした。助けを求められれば、謙信が関東に出て来るのは間違いなかった。

「それで、兵力はどれ程なんだ」

「噂では北陸勢も含まれ、五万は下らないだろうと」

「なんと五万か。うーむ、それ程の大軍に攻め込まれたら、吾妻など一溜まりもないぞ」

「吾妻に攻め込まれたら、もう、どうしようもございませんが、救援依頼のあった下野、常陸方面に行かれるかと思われます」

「いや、それだけの規模で出陣するとなれば、武蔵は無理にしろ、上野は平定するつもりだろう。どうせ、柏原城を奪われた白井の長尾一井斎も謙信殿に救援依頼したに違いない。吾妻も危ないぞ」

 三郎右衛門は直ちに東光坊を呼んだ。三郎右衛門が言うより早く、東光坊はこれからすぐに越後に行って来ると言った。今の時期、上越国境は雪で閉ざされているが、そんな事を気にする事もなく、東光坊は水月坊、山月坊、新月坊の若い三人を引き連れて越後へと旅立って行った。

 東光坊たちを見送ると三郎右衛門は側近の者たちを連れ、馬を飛ばして岩櫃城へ向かった。途中、岩櫃から長野原へと行く使いの者と出会った。至急、岩櫃に集まれとの事だった。どうやら、岩櫃でも謙信の関東攻めを知ったらしい。

 岩櫃城に着くと自分の屋敷に入り、衣服を改め、二の丸内にある海野能登守の屋敷を訪ねた。能登守は白い息を吐きながら庭で槍の素突きをしていた。まもなく七十歳に手が届くというのに達者なものだった。

「早いな。そなたの忍びも沼田におったと見える」

 能登守は息を切らす事もなく、そう言って笑った。

「はい。白井にもおりますが、上杉の動きを知るには沼田が一番でしょう」

「うむ」とうなづき、気合を入れて一突きすると、能登守は側に控えていた家臣に槍を渡した。

「大変な事になったのう。今まで、謙信は吾妻には入って来なかった。関東に攻めて来ても、越中の事が心配で、向こうで事が起これば、すぐに引き上げて行った。しかし、今、謙信は越中を平定した。後方の憂いはなくなったわけじゃ。本腰を入れて関東を攻めるつもりなのかもしれん。そうなると、この吾妻も決して安全とは言えない」

「はい、その通りだと思います。下野、常陸へと行く前に、上野を平定してしまおうと思っているに違いありません」

「うむ。我らだけでは到底、戦う事はできん。真田殿は勿論の事、武田のお屋形様にも出て来てもらわん事にはのう」

 まず、こういう時は心を静める事が一番じゃと言って、能登守はお茶を進ぜようと茶室に案内した。三郎右衛門の屋敷の庭にあるのと似た造りの四畳半の侘び茶室だった。

 三郎右衛門は床の間に掛けてある水墨画を眺めながら待っていた。小さな絵で、山中の渓流が描かれてあった。一瞬の内に描かれた絵で、最小限の筆遣いで自然の偉大さを表現していた。能登守が絵を描く事は善太夫より聞いていた。三郎右衛門の屋敷にも能登守が描いた水墨画が飾ってあった。その絵は山奥にポツンといる仙人を描いたもので、その仙人が何とも言えないいい顔をしていた。描き方はまったく違うが、これも能登守が描いたものだろうかと考えていると能登守が着替えてやって来た。

「その絵は京都で手に入れた物じゃよ。落款(らっかん)がないので誰が描いた物かわからんが、わしは雪舟じゃないかと思っておる」

「雪舟ですか」と改めて、絵を眺めた。三郎右衛門も雪舟の名は知っていた。京都にいた時、上泉伊勢守の供をして公家衆のお茶会に出掛け、雪舟の絵を見せてもらい、雪舟という画僧の偉大さも聞いていた。

「すごい絵じゃよ。わしもこのような絵を描きたいと思っているんじゃが、とても、これだけの境地には行けん」

 能登守は雪舟の絵をしばらく見つめてから、炉端に座ると慣れた手捌きでお茶を点て始めた。

「上杉謙信が初めて関東に攻めて来たのはもう二十年近くも前の事じゃった。あの頃は長尾景虎と名乗っておったが、あっと言う間に上野を平定してしまった。その年、謙信は廐橋城で年を越し、正月には関東中の武将が先を争って挨拶に伺ったものじゃ。二月になると十万近くにも膨れ上がった関東の兵を引き連れて北条の本拠地、小田原を攻めたんじゃよ。勿論、その中にわしもいたし、善太夫殿もいた」

「今回はどうなるのでしょう」と三郎右衛門は能登守の見事な点前(てまえ)を眺めながら聞いた。

「三国峠を越え、沼田に入り、白井を通って廐橋城に向かうじゃろうな。そして、まず、箕輪城を攻め、榛名山を越えて岩櫃を攻める。同時に白井から吾妻川沿いに攻め寄せ、南の大戸口からも、北の大道峠からも攻め寄せるじゃろう。この岩櫃が落ちてしまえば、吾妻はすべて、上杉のものとなってしまう。今こそ、吾妻衆は一致団結して、上杉の大軍と戦わなければならない。領内の男どもは皆、戦ってもらう事になろう」

 その日、三郎右衛門は岩櫃城に泊まり、翌日、集まって来た吾妻衆の主立った武将たちと軍議を行なった。敵の大軍に備えて厳重な守りを固めると共に、長期の籠城を覚悟して、充分な兵糧を蓄える事が決められた。軍議の最中、沼田の兵五百が白井に向かったとの報が入った。さては、柏原城を攻めるつもりだなと海野兄弟は直ちに出陣命令を下し、兵を率いて柏原城の救援に向かった。三郎右衛門も湯本勢を率いて従った。

 柏原城を守っていた植栗河内守、湯本左京進、荒牧宮内少輔は必死に防戦したが兵力の差があり過ぎた。城兵は二百にも満たないのに、敵兵は白井勢に沼田勢、さらに廐橋勢も加わり一千余りもいた。籠城するには兵糧が乏しかった。勿論、岩櫃に援軍を要請したが、援軍が来る前に完全に包囲されてしまいそうな状況となった。逃げ道を失う前に落ちた方がいいと決断し、城を焼き払って寄居城へ引き上げた。

 岩櫃勢が寄居城に着いた時は柏原城は焼け落ち、敵の手に落ちていた。

 謙信が攻めて来るという、この時期に柏原城を敵に奪われたのは痛かったが、仕方がなかった。岩櫃城からの援軍は五百足らずで、たとえ戦ったとしても柏原城は奪われ、かなりの損害を受けた事だろう。城兵が助かっただけでもよかったと思わなければならなかった。

 敵は柏原城を奪い取っただけで攻めては来なかった。三百ほどの城兵を入れて守りを固めると勝鬨(かちどき)を上げながら引き上げて行った。岩櫃勢も寄居城の守りを固めて引き上げた。

 冷たい北風に乗って雪が降って来た。皆、首をすぼめて無言で行軍した。

 越後の大軍が吾妻に攻め込んで来たら、一体、どうなってしまうのだろうか。武田軍が援護に来たとしても絶対に勝てるという見込みはなかった。今の武田家には信玄はいない。吾妻衆と共に戦って来た一徳斎もいない。信玄の跡を継いだ四郎も、一徳斎の跡を継いだ喜兵衛も、一角の大将には違いないが、それぞれの父親に比べると何となく頼りないように思われた。

 二月になると謙信が大軍を率いて関東に攻めて来るという噂は知らない者はいないと思われる程に知れ渡っていた。農民たちが寄れば必ず、どこに逃げたらいいのかが話題となり、信濃なら大丈夫だろうと知り合いや親戚のある者は荷物をまとめて逃げて行った。

 岩櫃城を初めとした吾妻郡内の城では毎日のように普請が続き、大軍に攻められても耐えられるように強化を図り、また、敵の進入路には新たに砦がいくつも築かれた。

 三郎右衛門は長野原城を強化すると共に、左京進が守る寄居城の普請も手伝った。そして、月陰党を使って、前回のごとく柏原城に狐火を飛ばせた。同じ手が二度と効くとは思えないが、少し位は効き目があるだろう。それに、里々が面白がって、くノ一たちを使い、色気で城内の兵たちを惑わしているようだった。

 謙信の関東攻めは三月の十五日と日付までが伝わっていた。沼田にいる東円坊も白井にいる慶乗坊もその日を探り出していた。越後にいる東光坊も、その事を知らせて来た。北陸の兵たちもその日に合わせて戦の準備をしているという。大軍が動くとなれば秘密にしておく事は不可能だが、前以て公表するというのもおかしな事だった。海野能登守がその事をどう思っているのか聞こうと三郎右衛門は岩櫃城に向かった。

 能登守は城下にある道場で若い者たちに武術を教えていた。三郎右衛門が声を掛けると、「そなたも一汗かかんか」と機嫌よく近づいて来た。

 能登守に誘われたのは初めてではなかった。三郎右衛門はそのつど断っていた。新陰流と新当流では流派が違い、稽古の仕方も違っていた。自分が顔を出せば必ず、挑戦して来る者が現れる。湯本家のお屋形として負けるわけには行かないし、勝てば、しこりが残り、能登守に迷惑がかかってしまうだろう。能登守もその事がわかっているのか無理には勧めなかった。

 謙信の関東出陣の予告について聞くと、

「確かに今回の謙信の行動は少しおかしな所がある」と能登守は髭を撫でながら言った。「やたら、関東出陣を触れ回っている感もある。もしかしたら、関東に攻めると思わせておいて上洛するのかもしれんな」

 三郎右衛門も、信長を安心させる手ではないのかと思っていた。

「でも、あの謙信殿がそんな裏をかくような事をしますかね」

「なにしろ、今度の敵は織田信長じゃ。謙信なりに強敵じゃと思っているのかもしれん」

「武田と北条を関東の地に縛り付けておいて一気に上洛するのでしょうか」

「かもしれんな」

 能登守は稽古をしている若い者たちを眺めながら、よしと言うようにうなづいた。三郎右衛門が見ると、十六、七の体格のいい若者が師範代と思われる男と稽古をしていた。なかなか素質のある若者だった。

「一気に上洛したとして謙信殿は信長に勝てるのでしょうか」と三郎右衛門は若者の動きを見ながら能登守に聞いた。

「そうじゃな」と言って能登守は城の方へ歩き出した。三郎右衛門は後を追った。

「謙信は本願寺と同盟した。本願寺は門徒を何万人と殺され、信長に恨みを持っている。本願寺を味方にすれば勝てるじゃろう」

「吾妻衆としては謙信殿に上洛してほしいですね」

「ああ、その通りじゃが、上洛する前に牽制のために小田原を攻めるという事も考えられる。わしらとしては上洛を願いながらも、守りを固めて待ち構えるしかあるまい」

 三月になると真田喜兵衛が一千余りの兵を率いて岩櫃城に入った。その中には小諸城主、武田左馬助の兵と海津城主、春日弾正の兵も含まれていた。謙信の出方によっては、武田左馬助、春日弾正自身も兵を率いて来るという。一千余りの兵は援軍として各地に分散され、謙信に対する防御はひとまず完成した。三郎右衛門はいつでも出陣できる態勢を取りながら岩櫃城に詰めていた。

 三月十二日、謙信出陣の三日前の日暮れ間近、岩櫃城の三郎右衛門の屋敷に越後にいる東光坊のもとから水月坊が戻って来た。急いで来たとみえて汗びっしょりだった。

「いよいよ、関東出陣にそなえて北陸の大軍が春日山の城下に集まったようだな」と三郎右衛門が言うと、水月坊は以外にも首を振った。

「春日山城下に北陸勢が終結するはずだったのですが、急遽、取りやめとなりました。それぞれ、本拠地に戻って待機している模様でございます」

「なに、北陸勢は本拠地に戻ったのか」

「さようでございます。おかしいと思い、春日山城に忍び込み、謙信殿の屋敷を探ってみますと人々が慌ただしく動き回り、一大事が起こった模様でございました」

「一大事?」

「はっ、謙信殿が倒れたのでございます」

「なに、謙信殿が‥‥‥」

「詳しい事はわかりませんが、関東出陣は遅れるかもしれません、そうお伝えしろと東光坊殿より命じられました」

「そうか、謙信殿が倒れたか‥‥‥」

 庭にある満開の桜の花を眺めながら、三郎右衛門は真田喜兵衛にこの事を告げるべきかを考えたが、はっきりとした事がわかるまでは黙っていようと決めた。

 次の日、山月坊が越後から戻り、謙信が意識不明の状態にあると知らせ、出陣予定の翌日、十六日に新月坊が戻り、謙信が十三日に亡くなった事を知らせた。

「謙信殿がお亡くなりになっただと‥‥‥」

 三郎右衛門は呆然として、昨夜の雨でほとんど散ってしまった桜の花を見つめていた。意識不明になったと聞いてから、もしやとは思っていたが、それが現実になるとは思えなかった。毘沙門天の化身がそんなにもあっさりと亡くなるわけはないと思っていた。

「信じられん‥‥‥謙信殿が上洛を前にお亡くなりになるなんて‥‥‥東光坊は何をしている。どうして戻って来ないのだ」

「謙信殿が急にお亡くなりになったため、越後で家督争いが起こるかもしれないと申しておりました。水月坊と山月坊を連れて越後に戻るよう命じられました」

「家督争いが始まる? そういえば謙信殿には北条三郎の他にも養子がいたな」

「北条三郎は謙信殿の名を受け継ぎ、上杉三郎景虎と名乗っております。もう一人は謙信殿の姉の子で、上杉喜平次景勝と名乗っているそうでございます。喜平次の妹が三郎に嫁いでいて、二人は義兄弟という間柄でございます」

「三郎景虎と喜平次景勝か。義兄弟で家督を争うと言うのだな‥‥‥御苦労だった。直ちに越後に戻ってくれ」

 すぐに知らせなければならないと三郎右衛門は喜兵衛のいる中城へと向かったが、ふと立ち止まり、考えを変え、二の丸にいる海野能登守を訪ねて謙信死去を知らせた。

「なに、謙信が亡くなったじゃと。何を寝ぼけておるんじゃ」

 馬鹿な事を言うなという顔付きながらも、能登守は半信半疑で三郎右衛門を見ていた。

「越後にいる東光坊よりの知らせでございます」と三郎右衛門は言った。

「東光坊というのは円覚坊の伜じゃったな。今、越後におるのか」

「はい」

「うーむ。東光坊が言うからには信用するしかあるまい。しかし、謙信が亡くなるとは‥‥‥うーむ、信じられん事じゃ」

「東光坊が言うには越後では家督争いが始まるかもしれないと」

「家督争い? そういえば謙信には養子が二人おったな」

「三郎景虎と喜平次景勝だそうです」

「そうじゃったな。うーむ、大変な事になったのう。今、謙信が亡くなれば織田信長の思う壷じゃ。信長の奴、余程、運のいい奴と見える。信玄殿は上洛の途中でお亡くなりになられ、謙信も上洛する前に亡くなった。信長め、この事を聞いたら、小躍りして喜ぶじゃろう。とにかく、謙信の死を確かめなくてはならん。そなた、喜兵衛殿にも知らせたのか」

「いえ、まだです。この事を知っているのは今の所、わたしと能登守殿だけです」

「そうか」と能登守は満足そうにうなづいた。

「この事は今しばらく黙っていてくれ」と言うと、慌てて長門守のいる本丸へと向かって行った。

 能登守の後ろ姿を見送りながら、喜兵衛より先に能登守に知らせてよかったと思った。もう少しで、海野兄弟の反感を買ってしまう所だった。

 三郎右衛門は北の空を見上げ、越後にいる三郎景虎の事を考えた。琴音と別れさせられ、越後に行ってから八年の月日が流れていた。謙信の姪との間に長男も生まれたと聞いている。もし、三郎が謙信の跡を継いだなら、北条のお屋形様と上杉のお屋形様は兄弟となり、武田のお屋形様とも義兄弟となる。三国同盟が結ばれ、共に信長と戦えばいいのではないのだろうか。そうすれば関東の地に戦はなくなるに違いない。単純にそう思っていた。







 三月の末には武田家でも上杉謙信の死は確認された。真田喜兵衛は謙信に対して守りを固めていた吾妻衆に、そのままの態勢でしばらく待てと命じた。三郎右衛門は前線の寄居城で待機しながら、上杉方の沼田、白井、廐橋の状況を探っていた。

 越後にいる東光坊からは、謙信の死の翌日から早くも家督争いが始まったと知らせが届いていた。

 三月十五日、謙信の葬儀は城下の林泉寺で盛大に行なわれた。葬儀が済むとすぐに喜平次景勝は春日山城の実城(みじょう)と呼ばれる本丸を占拠し、内外に謙信の後継者である事を宣言した。城内にある兵器庫と金蔵も手に入れ、戦闘準備を開始した。金蔵には謙信が残した黄金が三万両近くあったという。一方、出遅れた三郎景虎は自分の屋敷がある二の丸の守りを固めると共に、実兄の北条相模守(氏政)、義弟の武田四郎(勝頼)に救援を求めた。

 三月の末から四月に掛けては、お互いに味方を集める事に集中し、不気味な睨み合いが続いた。

 喜平次景勝に付いたのは、赤田(刈羽村)城主の斎藤下野守、新発田(新発田市)城主の新発田尾張守、竹俣(新発田市)城主の竹俣三河守、安田(柏崎市)城主の安田掃部助、与板(与板町)城主の直江与兵衛らを中心にした謙信の側近衆で、喜平次の実家である坂戸(六日町)城の上田衆も勿論、喜平次方だった。

 三郎景虎に付いたのは、後見役だった不動山(糸魚川市)城主の山本寺(さんぽんじ)伊予守、人質となって小田原に行っていた事のある猿毛(柿崎町)城主の柿崎左衛門大夫、三条(三条市)城主の神余(かなまり)小次郎、栖吉(長岡市)城主の上杉十郎、栃尾(栃尾市)城主の本庄清七郎、鮫ケ尾(新井市)城主の堀江玄審助らで、北条氏とつながりのある者、あるいは側近衆に反感を持っていた者たちだった。

 五月五日、いよいよ、春日山城下で両軍の火蓋が切られると各地で合戦が始まった。越後の国を二つに分け、両軍の勢力は今の所、五分五分だった。

 梅雨の最中の五月の半ば、三郎景虎の救援依頼に答えるため、北条も武田も越後に向けて出撃した。北条の先鋒は武蔵鉢形城主の北条安房守(氏邦)で上野の廐橋を目指し、武田の先鋒は信濃小諸城主の武田左馬助(信豊)で奥信濃の飯山を目指した。

 寄居城に詰めていた三郎右衛門たちは、沼田、白井、廐橋を守る上杉勢がどちらに付くのか注目していた。喜平次景勝に付けば、北条軍と共に攻めなければならない。三郎景虎に付けば、味方となり上野国内の戦は回避される。

 安房守が廐橋城を攻めると、城主の北条丹後守は難無く開城した。安房守は廐橋城に入り、北条丹後守は安房守の家臣、猪股能登守と共に白井に向かった。白井の長尾一井斎も北条に城を明け渡し、さらに、沼田の倉内城も三郎景虎方となった。

 安房守が廐橋城に入った頃には小田原から大軍を率いて出陣した北条のお屋形様、相模守(氏政)も河越に着陣していた。相模守の本陣には滝山城主の陸奥守(氏照)、江戸城主の治部少輔(氏秀)、韮山城主の左衛門佐(氏忠)、小机城主の四郎(氏光)も加わり、兵力は一万近くになっていた。武田の人質だった四郎は琴音のもとに帰り、以前のごとく小机城主となって、兄を救うべく出陣していた。

 廐橋、白井、沼田が味方の北条領になったからには、いつまでも待機していても始まらない。喜兵衛は越後に進撃するため、信濃から連れて来た救援部隊と共に引き上げて行った。その時、吾妻郡の信濃寄りに位置する鎌原氏、西窪氏、湯本氏の三氏は越後に向かう真田軍と合流するように命じられた。

 三郎右衛門は左京進を寄居城に残し、五十人余りの兵を引き連れて、西窪治部少輔、鎌原宮内少輔と共に真田へと向かった。善太夫の命日に善恵尼が草津に来たとの知らせが届いていたが、帰るわけにはいかなかった。善恵尼の事は雅楽助と金太夫、そして、里々に任せるしかなかった。

 その頃、春日山城下では激しい合戦が続き、何千軒もの町家が焼かれ、二の丸にいた三郎景虎は本丸からの攻撃に耐え切れず、妻子を伴い、城下にある御館(おたて)と呼ばれる平城に移っていた。御館は二十六年前、北条氏に攻められ、上野の平井城から逃げて来た前関東管領の上杉立山(リュウザン、憲政)のために謙信が建てた城だった。御館川と呼ばれる関川の支流の北側に位置し、二重の堀と土塁に囲まれている。府内(直江津)と呼ばれる城下の中心にあり、春日山城から一里も離れていなかった。上杉立山を味方に付けた景虎は正当な後継者として関東管領職を受け継ぐ事を宣言した。

 三郎右衛門たちが戸石城下の伊勢山に着くと出陣の準備を整えた喜兵衛が待っていた。

「武田のお屋形様は一万近くの兵を率いて、今、海津(かいづ)城(松代町)におられる。先鋒は小諸の左馬助殿と海津の副将、小山田備中守殿で、喜平次方となった飯山城を楽々と落とし、信越国境まで進んでいる。直ちに追いつかなければならん」

 三郎右衛門は喜兵衛から海津城主だった春日弾正が五月七日に病死した事を聞かされた。五十二歳だったという。海津城は川中島にあり、宿敵上杉謙信の信濃侵入を押さえていた重要な城だった。謙信と戦う時、常に前線に立って勇ましく戦って来た春日弾正は謙信が亡くなるのを待っていたかのように亡くなってしまった。

 長篠の合戦で馬場美濃守、内藤修理亮、原隼人佑、山県三郎兵衛が亡くなり、翌年、岩村城を守っていた秋山伯耆守が信長に殺された。そして、今、春日弾正が亡くなり、信玄と共に戦って来た宿老と呼ばれた武将は誰もいなくなってしまった。彼らの名は信玄の名と共に噂となって関東に広まり、敵はその名を聞いただけで恐れ、味方はその名を聞くと安心したものだった。今の武田家にそれほど有名な武将はいない。喜兵衛を初めとして皆、まだ若いので活躍するのはこれからかもしれないが、何となく心細さを感じないわけにはいかなかった。

「春日弾正殿がお亡くなりになり、お屋形様をお諌めする者がいなくなってしまった。嘆かわしい事だな」と喜兵衛は厳しい顔付きでポツリと言った。

 湯本、鎌原、西窪の吾妻軍が加わり、一千近くとなった真田軍は冷たい雨の降る中、海津城を目指した。

 本陣となっている海津城の回りは武田の兵で溢れていた。かつて、ここ、川中島を舞台に信玄と謙信が何度も戦った。真田隊の中にも川中島の合戦に参加した者がいて、若い者たちに戦話を聞かせていた。若い者たちは目を輝かせて、武将たちの活躍を聞き、自分も活躍をして有名になるんだと張り切っていた。

 三郎右衛門がこの地に来たのは二度目だった。東光坊と共に越後に向かう時、真田から川中島を通って北上した。そして、北条家の人質として越後に行った三郎景虎の祝言に出会った。その三郎景虎が今、喜平次景勝と上杉家の跡目を狙って争っている。これだけの武田の援軍と北条の援軍が加われば、景虎の勝ちは目に見えていた。武田、上杉、北条が結べば、織田と徳川の連合軍も簡単に倒せるだろう。もしかしたら、戦のない平和な時代が間近に迫っているのかもしれない。千曲川の悠々とした流れを眺めながら、三郎右衛門はそう思っていた。

 城下にある明徳寺で春日弾正の冥福を祈った後、真田隊は千曲川沿いに信越国境近くにある飯山城を目指した。

 飯山城は武田軍によって占領されていた。すでに先鋒の武田左馬助、小山田備中守は越後に入り、小出雲(オイズモ、新井市)という地に陣を敷いているという。すぐにでも前線に合流するのかと思っていたが、真田隊はいつまでも経っても飯山から動かなかった。

 飯山城には上野の箕輪城から来た内藤修理亮(長篠で戦死した修理亮の嫡男)と仁科郷から来た仁科五郎もいた。城内にいた仁科五郎は雨が降っているにもかかわらず、わざわざ、城外に陣を敷いている三郎右衛門のもとへ訪れ、去年、妹たちが世話になった事のお礼を述べた。五郎は武田のお屋形様よりも十歳くらい若く、思っていたよりも小柄で、どことなく、お松、お菊の姉妹と似ていた。武田家の一族でありながら自然に恵まれた仁科郷で育ったせいか、格式ばった所はなく、おおらかな人柄だった。三郎右衛門が恐縮していると、ここは戦場だ。面倒な事は抜きにして語り合おうではないかと持参した酒を持ち出した。三郎右衛門は喜んで、五郎の酒を受けた。

 五郎の話によると、お松御寮人様は草津から帰った後、もう思い残す事はないと言って、甲府に帰って出家してしまったという。織田家との婚約が破れた後、美しいお松御寮人様に縁談話が殺到した。一族の者からの話もあったし、重臣たちからの話もあった。お松御寮人様はそのつど、きっぱりと断って来た。もう絶対に嫁には行かないと決心を固め、出家したのだという。

「可哀想な奴だ」と五郎は酒を飲みながら首を振った。

 三郎右衛門は山奥の湯小屋でのお松御寮人様の楽しそうな笑顔を思い出していた。あの若さで、あの美しさで出家してしまうなんて、可哀想というよりは勿体ないと思った。

「あいつが婚約した時、織田信長は山のような贈り物を送ってよこした。それも一度や二度じゃない。あの頃の信長は父上の機嫌を取るのに必死だったんだ。贈り物が届く度に、勘九郎からの手紙も届いた。手紙や贈り物によって、幼いお松の心はすっかり、勘九郎のお嫁さんになるって思い込んでしまったんだ。あいつは本心を打ち明けた事など一度もないが、今でも勘九郎の事を思っているのかもしれん」

 五郎はそのうち、草津に行くかもしれない。その時は大いに飲もうと言って帰って行った。偉ぶった所はないが、大将という器を持った男のように思えた。信玄を知らない三郎右衛門は、もしかしたら信玄の若い頃は五郎のようだったのかもしれないと思った。

 沼田の倉内城に入った北条の先鋒、猪股能登守は倉内城代の河田伯耆守、廐橋城主の北条丹後守と共に三国峠を目指したが、猿ケ京の宮野城で猛反撃を受けた。宮野城には喜平次方の坂戸城(六日町)から救援に来ていた深沢刑部少輔が守りを固めて、北条軍を待ち受けていた。河田伯耆守は十日前にも越後に行こうとして猿ケ京で追い返されている。今回は北条勢と廐橋勢も加わったので、宮野城を落とせるだろうと思っていたができなかった。敵も兵力を増やし、あちこちに罠を仕掛けて待ち受けていた。狭く険しい山道で北条軍は不意を襲われ、多大な損害を被りながらも何とか城を包囲した。城攻めするには兵力が足らないと河田伯耆守は援軍を依頼するため、沼田に引き返した。ところが、猪股能登守と河田伯耆守が出陣した後、沼田の倉内城では反乱が起きていた。

 倉内城にはもう一人、越後から派遣されていた城代、上野中務少輔がいて、北条安房守の家臣、用土新左衛門と共に留守を守っていた。宮野城の深沢刑部少輔の誘いに乗って、上野中務少輔が寝返ってしまったのだった。倉内城は上田庄(南魚沼郡)の越後兵と地元の沼田衆が守っていた。上田庄にある坂戸城は喜平次景勝の本拠地ともいえる城で、深沢刑部少輔を初めとして皆、喜平次方だった。国元の者たちが喜平次方となって戦っているのに、三郎方に付いてしまったら国元に残して来た妻子が殺されてしまう事を恐れたのだった。人質を越後に取られている沼田衆も同じ思いだった。謙信が関東に来る予定だったため、兵糧も充分に蓄えてある。喜平次のために北条軍を何とか、ここで食い止めようという事に決まったのだった。

 用土新左衛門率いる北条勢は城から追い出されて白井へ逃げ去った。白井城にいた安房守は烈火のごとく怒り、新左衛門を鉢形に送り返して謹慎させた。用土新左衛門は安房守の義兄だった。

 倉内城が寝返ると川田城、名胡桃城、小川城、中山城、尻高城と越後に人質を取られている周辺の城が次々に寝返った。

 三郎右衛門たちはそんな事は知らず、飯山城でじっと待機していた。七日が過ぎても越後に進軍する事はなく、三郎右衛門たちには前線で何が行なわれているのか、まったくわからなかった。東光坊も三郎右衛門が岩櫃城を出てからは一度も連絡を入れて来ない。真田喜兵衛に聞いても、お屋形様の命で動くなと言われているだけで、小出雲に留まっている先鋒隊が何をしているのかわからないという。北条と武田が応援している三郎景虎が優位に立っているとは思うが、越後国内ではどうなっているのか見当もつかなかった。

 今回、三郎右衛門は忍びの者たちを連れては来なかった。越後に東光坊がいるし、真田の忍びや武田の忍びも動き回るに違いない。それに、北条の風摩党も暗躍するだろう。そんな中を湯本家の忍びが動いても邪魔になるだけだと思ったからだった。

 六月十三日、そろそろ梅雨も明けるかと思われる蒸し暑い日だった。喜兵衛が本陣に呼ばれて海津城に向かった。何事だろうと思っていると音沙汰のなかった東光坊が突然、現れた。三郎右衛門は逸る気持ちを押さえ、東光坊に誘われるまま千曲川の河原に行き、越後の様子を聞いた。

「春日山の城下はひどいものじゃ。あれだけ賑わっていた町があっと言う間に、焼け野原と化してしまった。家を失った者たちは雨の降る中、乞食のようにさまよい、ならず者たちがあちこちから集まって来て、徒党を組んで悪さをしている。真っ昼間から略奪、放火、かどわかしと好き勝手な事をしておる。お屋形様の謙信殿が亡くなった途端に越後は目茶苦茶じゃ。哀れなもんじゃな」

 東光坊は顔をしかめて連日の雨で水嵩が増している川の流れを見つめていた。

「そんなにもひどいのか」

 三郎右衛門は春日山の城下の賑わいを思い出していた。あの城下が焼け野原になってしまったなんて想像すらできなかった。

「ひどいなんてもんじゃない。まるで地獄絵じゃよ。城下が戦場になっているんじゃからな。戦に巻き込まれた民衆は哀れなもんじゃ。まあ、そんな事を一々言っていたら戦なんてできんがな。今回の戦は身内同士の戦いじゃ。親と子が敵対しているのもいれば、兄弟で争っているのもいる。春日山城内にいる主人が喜平次に付いたのに地元にいる家臣たちは三郎に付いたというのもある。謙信殿があの様子を見たら、さぞ悲しむじゃろうな」

 二人はしばらく、川の流れを見つめていた。キラキラと輝いていた川面が突然、輝きを失った。空を見上げると黒い雲が山の方から勢いよく流れて来ていた。また雨降りになるらしい。

「越後の国内ではどっちが有利なんだ」と三郎右衛門は東光坊に聞いた。

「あ」と言って東光坊は三郎右衛門の顔を見ると軽くうなづいた。「今の所はどっちとも言えん。だが、武田の先鋒が春日山の間近まで来た事を知ると、喜平次の方は余程、慌てたようじゃ。武田と北条が攻めて来るとなると当然、三郎の方が有利になるからな」

 その後、東光坊が言った事はとても信じられなかった。

 武田が喜平次景勝と同盟を結んだという。

「そんな馬鹿な‥‥‥」と三郎右衛門は思わず叫んだ。

「信じられんが本当の事じゃ。武田の先鋒が小出雲に陣を敷くと三郎側は勿論の事、喜平次側も使者を送った。三郎は早く攻め込んでくれと頼み、喜平次は手を引いてくれと頼んだんじゃろう。武田側は両方の使者と会って話を聞いたらしい。さては和睦させるつもりなのかと、わしは思った。越後の国を二つに分けるというのも一つの手じゃからな」

「どうしてそんな事をするんだ。三郎が勝てば、越後は北条のものになるのに」

「それが、武田としては不安なんじゃよ。越後が北条領になってしまうと、武田領は越後、東上野、武蔵、相模と回りを囲まれてしまう事になる。いや、それだけではない。謙信殿は亡くなる前に、越中、能登、北加賀も平定した。それらが皆、北条領となってしまうんじゃ。いくら、同盟した味方と言えども先の事はどうなるかはわからん。北条家は三郎を関東管領にして関東の地を治めると言い出すかもしれん。そうなると当然、西上野に攻め込むじゃろう。信濃も攻めるかもしれん。もし、北条が織田と結んだら、武田は挟み撃ちになって全滅する事も考えられる。そこで、喜平次と結んで、喜平次に勝たせ、北条の勢力が上杉領に伸びるのを阻止しなければならんのじゃ」

「しかし、武田が喜平次と組めば、北条を敵に回す事になる」

「上杉領が北条領になってしまってからでは遅い。今なら対等に戦えると思ったんじゃろうの」

「信じられん。一年前に北条の嫁を迎えたばかりじゃないか。武田のお屋形様もその事は承知なんだな」

「勿論じゃ。毎日のように小出雲と海津の間を使者が行き来しておったわ」

 三郎右衛門は腕組みをして千曲川の上流の方を眺めた。

「真田喜兵衛殿はその事を知っていたのか」

「いや、知らんじゃろう。今回の事を決めたのは前線にいる小諸の武田左馬助と海津の小山田備中守、そして、お屋形様と共に海津城にいる跡部大炊助(おおいのすけ)と長坂釣閑斎(ちょうかんさい)じゃ」

「もし、喜平次が勝ち、謙信の跡を継いだとしても、三郎を見殺しにした武田を北条は許すまい」

「そうじゃな。三郎が勝てば、上杉領はそっくり北条領となり、北条氏は裏切った武田を攻めるじゃろう」

「どっちが勝っても、北条と戦わなくてはならない」

「そういう事じゃな」

 東光坊は人事のように言って、遠くの空を眺めた。黒い雲の透き間から光が差し込んでいた。

「何という事だ。武田、上杉、北条が結べばうまく行くと思っていたのに‥‥‥」

「世の中、思ったようには行かんわ」

 もう少し様子を見て来ると言って東光坊は去って行った。

 喜兵衛が飯山に戻って来たのは雨が勢いよく降っていた十五日の昼過ぎだった。喜兵衛は直ちに真田家の重臣たちと吾妻衆の三人を集め、軍議を開いた。東光坊が言った通り、武田が喜平次と同盟した事が告げられた。皆、信じられないという顔付きで、喜兵衛の顔を見つめていた。

「まったく信じられない事だが、すでに決まってしまった事だ。もう後へは戻れない。春日弾正殿が生きておられたなら、こんな事にはならなかっただろうと思うが仕方がない」

 喜兵衛はそう言って目を閉じた。喜兵衛が同盟に反対している事は誰の目にもわかった。重臣たちはそんな喜兵衛を見つめながら、どうして、そうなったのかを聞きたがった。喜兵衛の説明は東光坊が言った事と同じだった。北条相模守が信じられないという。三郎の味方をして喜平次を倒したとしても、上杉領のほとんどは北条家のものとなり、武田家は奥信濃を手に入れるだけにとどまる。そして、やがては西上野を手に入れようと攻めて来るに違いない。今川領が武田と徳川に攻め取られたように、武田領も北条と織田に攻め取られてしまうかもしれない。それならば、喜平次と結び、奥信濃と東上野を貰った方がいいと結論を出したのだという。

 喜平次から出された同盟の条件には、奥信濃と東上野を武田家に進呈するという他に、武田のお屋形様の妹を喜平次の妻とし、その結納金として黄金一万両を納めるという事も含まれていた。信玄の上洛作戦以来、大軍を率いての遠征が続き、武田家の財政は逼迫していた。領内にある各地の金山も涸れて来ている。そんな時、苦労せずに一万両が手に入るのは魅力だった。

「まもなく、お屋形様自身が越後に入り、正式な交渉に取り掛かる。われらとしては、うまく事が運ぶのを願うほかはない。この事を知れば、北条は西上野に攻め込むかもしれん。吾妻の衆は取り敢えずは岩櫃に戻り、守りを固めてもらいたい。箕輪の内藤修理亮殿も引き上げる事になっている」

 三郎右衛門は身を引き締めた。これまで以上に厳しい戦になるのは確実だった。
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