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2017 .06.24
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12.二人の女








 天正五年(一五七七年)の元旦、二十四歳になった三郎右衛門は去年の十一月に生まれた長女の小松を抱きながら、静かな新年を迎えていた。越後の上杉謙信は越中に出陣中で関東に出て来る心配はなく、湯本家では柏原城に詰めている者たち以外は家族と共に新年を迎えていた。

 翌日は例年のごとく海野兄弟に新年の挨拶をするため岩櫃城に向かった。去年の柏原城の無血開城以来、三郎右衛門の名は有名になっていた。今まで、善太夫の跡継ぎに過ぎなかった三郎右衛門はようやく、草津の領主として皆に認められた。何となく三郎右衛門に辛く当たっていたような長門守でさえ、ニコニコしながら善太夫殿はいい跡継ぎを迎えなさったと始終、機嫌がよかった。

「兄上はな、善太夫殿の奥方、お鈴殿をそなたが追い出したものと勘違いしていたんじゃよ」と能登守は長門守が席をはずすと、三郎右衛門にそっと言った。「それに、兄上はわしの娘婿の左京進が湯本家を継ぐべきじゃとずっと思っていたんじゃ」

「そうだったのですか」

「わしもそう思っておった。しかし、そなたが各地を旅をし、京都で上泉殿の道場で修行していると聞いて気が変わった。さすが、善太夫殿じゃと思ったわ。わしも長い間、旅をしていたからわかる。お屋形様となる者はしっかりと世間の動きというものを知らなくてはならん。この吾妻の山の中から世間を見ていただけでは世の中に遅れてしまう。これからは益々、世の中の流れは速くなるじゃろう。そなた、忍びを使って各地の情報を手に入れているそうじゃの。いい事じゃ。お互いに、この吾妻郡を敵から守り通そうではないか」

「はい」と三郎右衛門は力強くうなづいた。

「それにしても、柏原城の事は見事じゃった。白井では、あの城の事を狐火城と呼んで恐れているそうじゃ。雨の降る夜は未だに、狐火が飛び回っているそうじゃの」

 あの時、三郎右衛門は何もしなかった。ただ松明をかついで城に近づいて行っただけだった。命懸けで活躍したのは月陰党の者たちなのに、彼らの存在はまったく消え、すべてが三郎右衛門の手柄になっていた。城攻めの前、東光坊が彼らの手柄を褒めてやってくれと言った意味が、ようやく三郎右衛門にもわかって来た。武士ならば戦死したとしても、それなりに丁重に扱われるが、彼らが亡くなっても公表される事はなく、闇に葬られてしまう。お屋形様である三郎右衛門が彼らの活躍をちゃんと認めてやらなければならないのだった。

「武田のお屋形様じゃがの」と能登守は言っていた。

「武田のお屋形様がどうかなさいましたか」と三郎右衛門は我に返って聞き直した。

「近いうちに祝言を挙げなさるらしい」

「えっ、武田のお屋形様には奥方様がいらっしゃらなかったのですか」

 お屋形様の事は以前、真田喜兵衛から聞いた事はあったが、奥方様の事まで詳しく聞いてはいない。長男がいると聞いて、てっきり奥方様がいるものと思い込んでいた。

「以前、織田弾正(信長)の姪を迎えたんじゃが、その奥方様は御長男の武王丸殿を産むとすぐに亡くなわれてしまった。その後、お屋形様は正式な奥方様をお迎えになってはおらんのじゃよ」

「そうだったのですか。まったく知りませんでした」

「織田弾正は信玄殿をもっとも恐れておったんじゃ。信玄殿の機嫌を取るために様々な贈り物もした。そして、今のお屋形様、四郎殿に是非に自分の姪を嫁に貰ってくれと言って来たんじゃ。当時、四郎殿は諏訪四郎と名乗っていて武田家の総領ではなかった。信玄殿もいいじゃろうと承諾したんじゃよ。ところが、信玄殿が駿河進攻を決めると総領だった太郎(義信)殿と対立した。太郎殿の奥方様は駿河の今川殿の娘だったんじゃ。武田家は信玄派と太郎派に分裂しそうになったんじゃが、信玄殿はすばやく対処して、太郎派の者たちを捕らえて殺し、太郎殿は幽閉された揚げ句に自害なされたんじゃ」

「はい。その事は真田喜兵衛殿より聞きました」

「うむ。仕方なかったんじゃよ。治部大輔(義元)殿が織田弾正に討たれた後の今川家はかつての勢いを失い、放って置けば徳川に攻め滅ぼされてしまうかもしれなかった。徳川に奪われるなら、武田の領土にしようと信玄殿は決心なされたのじゃろう。たとえ、総領の太郎殿を犠牲にしてもな‥‥‥織田弾正は四郎殿に嫁いだ姪が亡くなってしまうと、今度は自分の長男、奇妙丸(信忠)に信玄殿の娘を嫁に貰いたいと言って来た。信玄殿はまあいいじゃろうと、それも承諾したんじゃよ」

「織田弾正の長男の嫁は武田家の娘だったのですか」

「いや。約束はしたが実現はしなかった。奇妙丸と婚約したのは信玄殿の五女でお松殿というんじゃが、当時、奇妙丸は十一歳、お松殿は七歳じゃった。順調に行けば五、六年後には祝言を挙げたじゃろうが、武田家と織田家の間が不仲になり、婚約は自然解消という形になってしまったんじゃよ」

 三郎右衛門の知らない事がまだまだ多かった。敵対している武田家と織田家が婚姻で結ばれていたなんて考えられない事だった。お屋形様の跡継ぎの武王丸殿には武田家と織田家と武田に滅ぼされた諏訪家の血が流れていた。何となく恐ろしく、何となく哀れだった。

「奇妙丸というのは、秋山殿がおられた美濃の岩村城を攻めた時の大将だった織田勘九郎ではありませんか」

「おお、そうじゃよ」と能登守はうなづいた。

 やはり、そうだった。武田家の娘と婚約していたのは上泉伊勢守の高弟、疋田豊五郎に新陰流を教わっている岐阜城主となった勘九郎だった。

「という事はお松殿というお方ももう年頃になってるのではありませんか」

「うむ。もう十六、七じゃろうのう」

「その後、嫁に行かないのですか」

「嫁に行ったという話は聞かんからのう。甲府におられるんじゃろうな。いや、随分と話がそれてしまった。今度、武田のお屋形様が迎える奥方様は北条家の娘なんじゃよ」

「えっ、北条家ですか。でも、北条家と武田家は同盟を結んでいるのでしょう」

「結んではいるが、織田と徳川に対抗するために結び付きを強化しなければならんのじゃろう。その事もあって喜兵衛殿も今年の正月は甲府から帰って来られないのじゃ」

 喜兵衛が帰って来られないのは三郎右衛門も知っていた。今年は帰れないので真田へは挨拶に来なくてもいいと喜兵衛から知らせが届いていた。

「そこでじゃ。吾妻衆からも誰かを送らなければならん。わしの伜が行く事になっておるんじゃが、そなたも一緒に行ってくれんか。そなたは以前、甲府に行った事もあろう。お互いに真田家の一族でもあるしな」

「はい、それは構いませんが」

「そうか。行ってくれるか。伜の奴も喜ぶじゃろう。伜の奴、甲府で生まれ、十二歳まで向こうにいたんじゃが、その後、甲府には行ってはおらん。武田家の家臣たちが居並ぶ中に出て行くのは心細いと怖じけづいておるんじゃ。そなたが一緒なら大丈夫じゃ。伜をよろしく頼むぞ」

「はい‥‥‥」

 伜を頼むと言われても三郎右衛門は困った。能登守の伜、中務少輔は三郎右衛門よりも十歳も年上だった。それでも、能登守から見ると頼りなく見えるのか、三郎右衛門が一緒なら大丈夫だとすっかり安心していた。
 長野原城に戻ると三郎右衛門は東光坊を呼んだ。甲府に行かなければならなくなった事を告げ、出掛ける前に、月陰党の若い者たちに改めて、お礼を言いたいので呼んでくれと頼んだ。

「女たちはすぐにでも呼べるが、男たちは無理じゃな」と東光坊は首を振った。

「男たちはどこかに行ったのか」

「奴らは修行する前はただの村人じゃ。戦の事など何も知らん。今、どこに誰がいて、誰と誰が戦っているのか、ちゃんと知ってもらわん事には仕事にならんからの。柏原城の落城後、すぐに旅に出した。まあ、一年間は旅をしてもらう事になろう」

「そうか‥‥‥女の方は旅には出さないのか」

「女には必要あるまい。返って、戦の事など知らない方がいい。時には敵方に下女や女中になって出向く場合もある。その時、何も知らない方がうまく行くじゃろう」

「成程。それで、あの二人は今、どこで何をしてるんだ」

「あれ、ご存じないのか」と東光坊は笑った。「ここにいる。お屋形の台所で働いているはずじゃ」

「えっ、そんなの見た事ないぞ」

「去年の暮れからいるはずじゃ」

「そうなのか‥‥‥」

 元旦の朝、三郎右衛門はお屋形で働く女たちを集めて新年の挨拶をしたが、ムツキとキサラギの二人を見た覚えはなかった。

「柏原城の後、あの二人は小田原に行った」と東光坊は意外な事を言った。

「えっ、小田原に?」

「ああ、正直言って扱いに困っていたんじゃよ。女の忍びを作ったのはいいが、どうやって使ったらいいのかよくわからなかった。そこで、この前、小野屋の女将さんが草津に来た時、女将さんに頼んでみたんじゃ。そしたら、引き受けてくれた。女将さんは忍びの事はよく知らないが、女としての躾なら教えてあげられると言ってくれたんじゃ。何でも経験してみるのがいいじゃろうと思ってな、伊勢屋の者に頼んで小田原に送ったんじゃよ」

「そうだったのか」

 自分の生まれた村から出た事もない二人の娘が小田原に行って、驚いている様が目に浮かぶようだった。田舎娘も都と呼べる小田原で小野屋の女将に厳しく躾られれば、元々が美人なのだから見違えるような女になったに違いない。三郎右衛門は二人に会うのが楽しみだった。

「そして、去年の暮れ、戻って来た。なんと汚い尼僧になって現れたわ。わしの家の門前に立ち、お経を読み続け、うるさいから小銭をやって追い返そうとしたら、二人とも大笑いしやがったよ」

「師匠にもわからなかったのか」

「ああ、うまく化けおった」

「それで、今度は女中に化けているというのか」

「とりあえずは、ここに置き、陰ながらお屋形様を守ってもらおうと思ってな」

「俺を守る? 俺はまだ、命を狙われる程の大物じゃない」

「命は狙われる事はないかもしれんが、敵の忍びが草津にいる事は確かじゃ。気をつけるに越した事はない」

「そうか。とにかく、二人を呼んでもらおうか」

「それはやめた方がいい。あの二人は近在の娘で生活に困って奉公に来た事になっている。お屋形様が直々に声を掛けたら、他の者たちが変に思い、二人もいづらくなってしまうじゃろう」

「声を掛ける事もできんのか」

 三郎右衛門はがっかりした。すぐに会えるものと思っていたのに、そう簡単には行かなかった。

「みんなの前ではな」と言ってから東光坊は三郎右衛門の顔付きを見て、「夜になったら密かに、この部屋に来るように言っておく」と付け足した。

「頼む。是非、もう一度、お礼を言っておきたいのだ」

「うむ」とうなづくと東光坊は、「甲府の事じゃがな」と話題を変えた。

「向こうにいる多門坊より知らせが入ったんじゃが、輿入れは今月の二十二日らしい。花嫁御寮は北条のお屋形様の妹で、まだ十四じゃという。武田のお屋形様は三十二じゃ。親子とまでは言わんが、随分と年の離れた夫婦じゃな。花嫁と一緒に護衛の兵も甲府に残る事になり、今まで人質として上野原城(北都留郡)にいた琴音殿の御亭主、四郎殿は小田原に返されるらしい」

「えっ、四郎殿が小田原に」

「いや、小田原じゃなくて小机の方かもしれんが、琴音殿のもとに帰るようじゃ」

「そうか‥‥‥それはよかった」

 素直に喜ぶべき事なのだろうが複雑な気持ちだった。琴音の幸せを祈る一方で、北条四郎に嫉妬していた。

「五年余りも離れ離れじゃった‥‥‥可哀想にのう」

 その夜、三郎右衛門が独りで書見していると音もなく二人の女が現れた。

「お呼びでございましょうか」とムツキに声を掛けられ、三郎右衛門は驚いて振り返った。

「ほう、見事なもんだな。まったく気づかなかったぞ」

 ムツキとキサラギは女中の姿のまま、両手をついて頭を深く下げていた。

「顔を上げてくれ」と言うと、二人は顔を上げ、三郎右衛門を見つめた。

 二人とも、何となく、やぼったいという感じがして、どう見ても下働きの女中だった。小田原に行って何をしていたのだろう。初めて会った時、二人とも美しいと思ったのは錯覚だったのだろうかと首を傾げた。

「お前たちを呼んだのは、改めて、この前の事のお礼を言いたかったからだ」

「その事は前回、充分なお礼をいただきました」とムツキが言った。着膨れしているのか、半年前より随分と太ってしまったように思えた。

「いや。あの時は東光坊に言われて、お礼をしたまでだ。お前たちの本当の価値がわからなかった。今はわかっている。心から、お礼を言う。ありがとう。そして、これからもよろしく頼むぞ」

「ありがたきお言葉、今後ともお屋形様のために命を懸けてお仕えいたします」

 ムツキが言って頭を下げるとキサラギも一緒に頭を下げた。太ってしまったムツキに比べて、キサラギの方は青白い顔した冴えない娘だった。初めて会った時、いい女だと思った自分が情けなく思えた。

「うむ、下がっていい」

「失礼いたします」と言って二人は去って行った。

 二人の後ろ姿を眺めながら、三郎右衛門はもう一度、首を傾げた。

 正月の十五日、三郎右衛門は海野中務少輔と共に甲府へと向かった。途中、雪山を越えなければならなかったが、四日目の十八日の晩には甲府の真田屋敷に入り、喜兵衛と再会した。

 甲府はまるで祭りのように賑やかだった。甲府の人々は北条との婚礼を心から喜んでいるようだった。武田と北条が共に組んで、織田徳川の連合軍と戦えば、必ず勝てるだろうと誰もが噂していた。

 三郎右衛門と中務少輔は喜兵衛と共に婚礼の準備を手伝った。躑躅ケ崎のお屋形内には、すでに花嫁が住む新御殿が完成していた。普請奉行を務めたのは喜兵衛だという。三郎右衛門たちは喜兵衛の案内で立派な御殿を見せてもらい、躑躅ケ崎のお屋形内も見せてもらった。そして、喜兵衛に紹介され、武田のお屋形様、四郎(勝頼)とも間近で会う事ができた。噂では何事も父信玄と比較され、能無しのように言われているが、実際に側で見ると立派な武将のように思えた。鼻筋の通った、なかなかの美男子で、頭もよさそうだった。会ったのが正式の場ではなく、新御殿だったので、お屋形様は気軽に声を掛けてくれた。

「上州からわざわざ祝いに来てくれたのか。御苦労じゃった。祝言が終わった後、府中の町を見物して行くがいい」

 お屋形様は喜兵衛と何やら相談をして去ろうとしたが、振り返って三郎右衛門を見た。

「草津の事はいつも喜兵衛より聞いている。いい温泉だそうじゃのう。わしものんびり温泉に浸かりたいものじゃ。そのうち、世話になるかもしれん。その時は頼むぞ」

「はい。かしこまりましてございます」

 突然、声を掛けられ、三郎右衛門は驚くと共に感激していた。このお屋形様なら命を預けても悔いはないと三郎右衛門はこの時、そう思った。

 北条家と武田家の婚礼は三郎右衛門が思っていた以上に華麗で盛大だった。きらびやかな花嫁行列は呆れる程、長々と続いた。護衛の軍勢も含め、総勢一万はいるだろうと町人たちは噂していた。その行列の中に小野屋の女将がいた。北条家の婚礼となれば当然、来るだろうとは思っていたが、なぜか、尼僧姿ではなかった。

 五日間にも及ぶ婚礼も無事に終わり、後片付けも済み、北条の軍勢も引き上げた後、三郎右衛門は小野屋に顔を出した。以前、東光坊と来た時は知らなかったが、小野屋の行商人、梅吉と共に京都へ向かう時、世話になっているので場所は知っていた。行ってみると店はそのままだった。看板だけが『伊勢屋』から『小野屋』に変わっていた。

 女将はまだいるだろうかと、店にいた女に声を掛け、振り返った顔を見て三郎右衛門は驚いた。息が止まるかと思う程の驚きだった。

 女は笑いながら三郎右衛門を見つめ、「いらっしゃいませ」と頭を下げた。

「お前はもしかして‥‥‥」三郎右衛門は女を見つめた。

「お久し振りでございます」と女も三郎右衛門をじっと見つめた。

 襷掛けに前垂れ姿の商家の奉公人という格好だったが、女は数年前、三郎右衛門の前から突然、消えてしまった里々に違いなかった。

「どうして、お前がこんな所にいるんだ」

「きっと、三郎様がここに来られると思いましてお待ちしておりました」

 三郎右衛門を見つめている里々の目は涙で潤んでいた。その目を見ているうちに昔の事がつい昨日の事のように思い出された。

「お前、あれからずっとここにいたのか」

「いいえ。小田原におりました。ここへは女将さんと一緒に参りました」

「あの行列の中にいたのか」

「いいえ。行列とは別に」

「そうか。あれからずっと女将さんの所にいたのか」

「ずっとではありませんけど」

 もっと詳しい話を聞きたかったが、女将が現れたので、里々は引っ込んでしまった。

「いらっしゃい。やはり、会ってしまったのね」

「これは一体、どうなっているんです、まったく‥‥‥」と言って、三郎右衛門はまた唖然となった。

 女将の後ろに隠れて、クスクス笑っていたのはキサラギだった。甲府に発つ前に会った時とは違い、初めて会った時のように美しい顔をしていた。

「お前は‥‥‥どうして、お前がこんな所にいるんだ」

 三郎右衛門は女将に連れられて客間に通された。キサラギも里々も呼ばれ、もう一人、三郎右衛門の知らない娘が現れた。三人共、ここで働いているのか、同じような格好をしていた。

「狐にでもつままれたような顔付きね。まず、わたしの格好から説明するわ。善太夫様がお亡くなりになって、出家しようとしたのは事実よ。でも、できなかった。出家する前に、跡継ぎを見つけなければなかったのよ。跡継ぎは決まったわ。この娘よ」そう言って、女将は三郎右衛門の知らない娘を紹介した。

「お澪(みお)っていうの。わたしの姪なのよ。今、小田原のお店で修行中なの。この娘が一人前になるまでは出家できないわ。心の中では出家して善恵尼になっているんだけど、まだ無理なのよ。そのうち、この娘も草津に行くかもしれないからよろしくね」

「はい」と言いながら、三郎右衛門はお澪を見た。女将の姪だけあって、やはり美人だった。

「よろしくお願いします」とお澪はしおらしく頭を下げた。

 女らしいその姿を眺めながら、ふと風摩党の事が頭の中によぎった。この娘も忍びの術を心得ているに違いないと思った。

「キサラギはあなたの護衛として、あなたを追って来たのよ」と女将は言った。

「俺の護衛だって」と三郎右衛門はキサラギを見た。

 キサラギは古くからいる奉公人のような顔をして座り、三郎右衛門を見ていた。

「東光坊様に命じられました。玉川坊様と円実坊様と一緒に来ましたけど、女将さんがおられるのを見つけて、お店のお手伝いをしておりました」

「それにしても、お前、この前会った時と顔付きが全然違うじゃないか」

「あれは女将さんに教わって、お化粧していたのです。女将さんから変装の仕方を色々と教わりました。あの顔でお屋形様の前を通っても、お屋形様は全然、お気づきになりませんでした」

「成程な。師匠がわからなかったのも無理はない」

「えっ」

「何でもない。こっちの事だ」

「今度は里々の事ね」と女将は里々と三郎右衛門の顔を見比べながら言った。

 三郎右衛門はキサラギから里々へと視線を移した。里々は俯いていた。

「何となく、あなたがここに来るような気がして、連れて来たくはなかったんだけど、お澪と里々は仲良しでね、一緒に行くって聞かないのよ。あなたが来ない事を願ってたんだけど、やっぱり、会ってしまったわね。もともと縁があるのかしらねえ。後はあなた方の問題よ。二人でよく話し合いなさい」

 女将はお澪とキサラギを連れて出て行った。残された二人はしばらく黙り込んでいた。話したい事が色々あって何から話したらいいのかわからなかった。

「会いたかった」と言いながら里々は涙を流した。

 目の前にいるのは里々に間違いないのだが、何となく、以前と雰囲気が違った。遊女から足を洗って商家に奉公したというだけでなく、何かが以前とは違うような気がした。

「俺も会いたかった。別れも告げずに消えてしまうなんて」

「でも、会ってしまったら別れが辛くなるし‥‥‥もう二度と会えないと思っていたのに、こんな所で会うなんて」

「女将が言う通り、縁があったんだろう」

 里々は涙を拭うと、「お子さんが生まれたんですってね」と言って、微かに笑った。

「女将から聞いたのか」

 里々はうなづいた。そして、寂しそうな顔をして、「お嫁さんも可愛い人だって聞きました」と言った。

「そうか‥‥‥これからどうするつもりなんだ」

 里々は三郎右衛門から視線をはずして庭の方を眺めた。三郎右衛門は里々の横顔を見つめながら、別れてからどれくらい経ったのだろうかと考えていた。

 あれは年の暮れ、一徳斎殿が箕輪で倒れて、父上が見舞いに行って薩摩守殿と会い、お松との縁談を決めて来た時だった。年が明けると、お松の婚約が公表された。あれは正月の十日だった。里々に会いに行ったら、里々はいなかった。あの後、一徳斎殿が亡くなり、翌年、父上も亡くなった。もう三年も前の事だった。

「女将さんには恩があるし、もう少し、小田原のお店で働かないと」と里々は言った。

 あれから三年間、里々は何をして来たのだろう。ふと、不安がよぎった。三郎右衛門は改めて、里々を見た。以前よりも落ち着いたように感じられるのは気のせいだろうか。

「もしかしたら、お前、嫁に行ったのではないのか」と聞いてみた。

「いいえ」と里々は首を振った。

「そうか‥‥‥」

 里々の答えを聞いて心は決まった。もう離したくはなかった。

「草津に戻って来ないか」

「草津に行っても、あたしが遊女だった事はみんな知ってるし」

 そんな事、気にするなと言おうとして、三郎右衛門はお松の事を思った。お松が里々の事を知っているのを思い出した。薩摩守も知っている。子供が生まれたばかりなのに騒ぎの元を連れ帰るわけにはいかなかった。

「そうだな、小田原にいた方がいいかもしれない。あそこは賑やかな都だし、あそこに住み慣れたら、草津なんかでは暮らせまい」

「そんな事はありません。あの、三郎様はいつ草津に帰るのですか」

「明日帰る」と言ってから、一日ぐらいなら延ばせるかもしれないと思った。

「明日ですか‥‥‥あのキサラギって娘、忍びの者なんですってね」

「キサラギがそんな事を言ったのか」

「いいえ。女将さんがそう言っていました。草津の山奥で忍びの者を育てているらしいって」

「お前、お澪っていう娘と仲良しだそうだが、あの娘も忍びなのか」

「お澪ちゃんのお父さんは風摩党の組頭なの。当然、お澪ちゃんも武芸の達人らしいわよ」

「やはりな。ただの娘ではないと思っていた」

「でも、小野屋の女将さんを継ぐのは大変な事ですよ」

「だろうな。店もあちこちにあるようだし、女手一つでよくやりこなすと感心するよ」

「あたし、お澪ちゃんを助けて、小野屋のために働こうと決めていたの」

 里々の目が輝いた。すでに、新しい生き方を見つけたようだった。

「そうか。それもいいかもしれないな」

「縁があれば、また会えますね」そう言いながら里々は寂しそうに笑った。

「ああ、会えるさ。きっと、また会えるさ。今度、会ったら昔みたいに一緒に飲もう」

「はい。楽しみにしております」

 三郎右衛門は里々と別れて真田屋敷に帰った。供の者たちが帰り支度をしていた。三郎右衛門も荷物をまとめるのを手伝った。中務少輔は甲府最後の夜だからと遊びに出掛けたが、三郎右衛門はそんな気分になれなかった。一人でぼうっと庭に咲く梅の花を眺めながら、里々の事を思っていた。寂しそうな目で三郎右衛門を見つめた里々の顔が頭から離れず、無理やりにでも草津に連れて帰り、内緒でどこかに隠しておこうかと考えていた。小さな宿屋をやらせてもいいし、お茶屋をやらせてもいい。方法はいくらでもあるが、やはり、お松の気持ちを考えるとそれはできなかった。三郎右衛門を信じて尽くしてくれるお松を裏切る事はできなかった。

 悶々としながら夜が明けた。三郎右衛門は里々を諦め、草津へと向かった。中務少輔は馬を並べて、昨夜、遊女屋でいい思いをしたと得意になって三郎右衛門に語って聞かせた。三郎右衛門はうわの空で聞いていた。キサラギから里々がどうなったか聞きたかったが、キサラギが三郎右衛門の前に姿を現す事はなかった。
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歴史小説を書いています。
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