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2017 .09.23
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20.信玄と輝虎と万松軒




 毎年、年末になると大軍を率いてやって来た上杉輝虎も永禄十一年(1568年)はやって来なかった。やって来なくて助かったのだが、毎年、恒例のようにやって来たものがやって来ないと、何となく拍子(ひょうし)抜けしたような感じだった。

 善太夫らは十一月に入ると、輝虎に備えて、武器、弾薬、兵糧を揃え、岩櫃城にて待機していた。

 越後からもたらされる情報では、輝虎は今、信玄と通じて反乱を起こした本庄越前守(ほんじょうえちぜんのかみ)を退治するために、揚北(あがきた、阿賀野川以北)の本庄城(村上市)を包囲しているという。今年は多分、上野には出て来ないだろうと言うが、大雪の三国峠を平気で越えて来る輝虎の事だから分からなかった。

 十二月に入り、すぐには来られないだろうから、出陣命令が出たら、すぐにでも集まるようにと解散する事となった。

 善太夫は長野原城に帰ってからも、越後からの情報を集めていたが、結局、輝虎はやって来なかった。

 養子にした三郎右衛門が東光坊と共に旅から帰って来たのは、そんな時だった。

 およそ一年間見ない間に、三郎右衛門は驚く程、成長していた。山伏の衣は薄汚れてぼろぼろになり、顔は真っ黒に日に焼けして、目は異様に輝いていた。

「いい旅じゃったか」と善太夫が聞いた。

 三郎右衛門は大きくうなづいて、「世の中というものが、これ程までに広いという事をはっきりと知る事ができました」と力強く言った。

 善太夫は満足そうにうなづいた。「そうか、世の中は広かったか」

「はい。草津なんて、いや、この吾妻郡なんて、ほんのちっぽけな所だという事を思い知らされました。世の中は広いです」

「うむ。海は見たか」

「はい、海はでっかいです。実際に目にした時はもう、飛び上がらんばかりに驚きました。大きな船にも乗りました。小田原には水軍というものがありまして、海の上で戦をするそうです」

「ほう、小田原に行ったのか、小田原の都も凄かったじゃろう」

「凄かったです。あれが都だと初めて知りました。市場には、ない物はないという程、色々な物がありました。それに、女の人たちがやけに綺麗でした」

「ほう、小田原の女子(おなご)が綺麗じゃったか。小田原で遊んだのか」

「はい、少しだけ‥‥‥そういえば、小田原で小野屋の女将(おかみ)さんに会いました」

「なに、ナツメに会ったのか」

「はい。宿坊に泊まっていたら、使いの人が来て、小野屋の立派な屋敷に呼ばれて御馳走になりました」

「そうか‥‥‥女将は元気じゃったか」

「ええ‥‥‥母の事を懐かしそうに話してくれました。女将さんとは古くからのお知り合いだったのですね」

「ああ」

「急に母の事を話すので、びっくりしました」

「そうか‥‥‥」
 草津が焼けて、ナツメが銭を持って来た時、善太夫はナツメに三郎右衛門を跡継ぎとして紹介したが、まさか、三郎右衛門が小田原で御馳走になるとは驚きだった。またもや、借りを作ってしまった。借りばかり増えて、いつか、お返しをしなければと思うが、何もできないのが辛かった。今度、草津に来た時、大いに持て成す事しかできなかった。

「それで、小田原からどこに行ったんじゃ」

「小田原から駿河に行って富士山を見ました。あんな綺麗な山がこの世にあったとは驚きです。ほんとに神々(こうごう)しい山でした」

「富士山には登ったか」

「いえ、登りたかったのですけど、師匠(東光坊)が富士山は登る山ではない、遠くから見ていればいいと言って登りませんでした」

「そうか、富士山は登る山ではないか‥‥‥確かにな」

「お屋形様、いえ、父上は富士山に登ったのですか」

「いや、登らん。わしが旅をしたのは、いつも冬住みになってからじゃったからな。富士山は雪で真っ白じゃったわ。登ってみたかったがのう」

「そうだったのですか‥‥‥」

「富士山からどこに行った」

「富士山から遠江(とおとうみ)、三河、尾張を通ってお伊勢様に行きました。お伊勢様は凄い人で賑わっていました。それから吉野に行って大峯(おおみね)山を越えました」

「奥駈けじゃな」

「はい。大峯山は凄い山でした。山上(さんじょう)ケ岳という山の頂上に大きな蔵王堂(ざおうどう)が建っていたのには、ほんとに驚きました。よじ登るようにして、やっと登った山の頂上に蔵王堂があるんです。蔵王堂だけじゃなく、宿坊(しゅくぼう)もいっぱいあって、大勢の山伏が修行していました」

「ほう、話には聞いているが、そんなに凄かったか」

「ええ。凄い所でした」

「熊野まで行ったんじゃな」

「険しい山の中を歩いて、熊野の本宮に出ました。本宮から那智の滝まで行って、今度は海沿いに熊野街道を通って石山本願寺(大阪市)に行きました」

「本願寺にも行ったか」

「賑やかな所でした。それに、本願寺の大きさにも驚きました。お寺というよりも大きな城のようでした」

「うむ。確かに、あれは城じゃな。その後、京に入ったのか」

「はい。京の都でも驚く事がありました」

「ほう、驚き通しじゃのう」と善太夫は笑った。

「はい。驚いてばかりいました。京に入った時、丁度、美濃(みの)の織田弾正(だんじょう、信長)というお方が新しい将軍様(義昭)をお連れになって京の都に入って来ました」

「織田弾正が新しい将軍様をか」

「はい、それは見事な行列でございました」

 将軍が松永久秀に殺されたというのは善太夫も知っていた。三年前の事である。

 それ以来、京には将軍様はいなかったのだろうかと善太夫は不思議に思った。

 関東の武士たちから見れば、将軍というのはまだ権威の象徴だった。しかし、実際の将軍は、関東における古河公方と同じように、実力のある者が政権を手に入れるために頭に掲(かか)げる飾り物に過ぎない存在となっていた。

 将軍義輝を殺した後、松永久秀は新しい将軍として、義輝の従弟(いとこ)にあたる義栄(よしひで)を立てた。義栄は正式に将軍に任命されたが、久秀と三好三人衆が対立したため、京に入る事はできなかった。義栄の他にも将軍になりたいと思っている者がいた。殺された義輝の弟である義昭だった。義昭は義栄よりも先に京に入ろうと画策(かくさく)して、尾張から美濃に進出した織田信長を頼って成功したのだった。

「将軍様をお連れになった織田弾正というのは、桶狭間(おけはざま)の合戦で今川治部大輔(じぶだゆう、義元)の首を取ったというあの男か」と善太夫は聞いた。

「はい、そうらしいです」

「ほう、織田弾正がのう‥‥‥」

 織田信長の名前が関東にまで聞こえるようになったのは、桶狭間の合戦以降である。名門である今川義元が、名もない武将に敗れた事件として桶狭間の合戦は信長の名と共に関東中に広まって行った。もう八年も前の事であった。

 その時、信長の名は関東でも有名になったが、その後、信長がどうなったのかを知っている者はあまりいなかった。信玄を初めとして、関東の武士にとって、信長という男はそれ程重要な人物には見えていなかった。その信長が将軍様を伴(ともな)って入京したという。

 善太夫は改めて、信長という男に注目しなければならないと思った。

「不思議な事に、その織田弾正というお人は管領職(かんれいしき)に就かないで、さっさと美濃に帰ってしまいました。今までも、新しい将軍様をお連れして京に入って来た武将が何人もいたそうですが、そういう武将は皆、管領職に就いて、京に残ったそうです。ところが、織田弾正は将軍様から管領職を薦められても、それを断って帰ってしまったそうです。京の人たちは皆、不思議に思っておりました」

「ほう‥‥‥」

 管領職というのは将軍の執事(しつじ)であり、幕府内で将軍に次ぐ地位である。関東における関東管領よりも高い地位と言える。

 上杉輝虎は大軍を率いて鎌倉に入り、鶴岡八幡宮にて関東管領に就任した。関東管領にはなったが、輝虎は関東を平定する事はできなかった。すでに、管領という肩書だけでは武士たちは従わなくなって来ていた。信長はそれを知っているのかもしれない。

 善太夫は管領職を断った信長という男に新しい時代がやって来る事を感じていた。




 年が明けた早々に、善太夫は岩櫃城に呼ばれた。

 真田一徳斎より伝令が来て、上杉氏に対して守りを固めるようにとの事だった。

 今、武田軍は駿河にて北条軍と対峙(たいじ)している。その隙を狙って、上杉輝虎が関東に出陣するかもしれないという。

 去年の末、信玄は駿河に進攻して駿府(すんぷ、静岡市)を占領した。駿府屋形は焼け落ち、今川氏真(うじざね)は掛川城に逃げ込んだ。その時、氏真の奥方は乗物にも乗らずに素足で逃げ惑っていたと言う。氏真の奥方は北条万松軒の娘だった。万松軒はその事を聞くと怒り、たちまち、今川氏を助けるために兵を駿河に向けた。武田軍と北条軍は駿河の興津で対陣しているという。

 とうとう、武田、北条、今川の三者同盟は崩れ去った。

 武田と北条が戦を始めたという事は、上野の国でも戦が始まるという事だった。越後の上杉だけでなく、上野の国内の北条方の者たちも警戒しなければならなかった。

 この頃、善太夫は知らなかったが、金山(かなやま)城(太田市)の由良(ゆら)信濃守と廐橋(うまやばし)城の北条(きたじょう)丹後守らによって、北条と上杉の講和の話がひそかに進められていた。

 掛川城に逃げ込んだ今川氏真は、今度は徳川家康に攻められて、北条万松軒を頼って小田原に逃げ込んだ。永禄十二年(1569年)五月の事だった。

 信玄は興津にて北条軍と対峙していたが、決着が着かず、四月に陣を引き払って甲府に帰った。六月にはまた駿河に進撃し、大宮城(富士宮市)を攻め落とし、八月の末には碓氷(うすい)峠を越えて上野に進攻して来た。

 善太夫は、兵を率いて岩櫃城に来た真田兄弟に従って箕輪城に向かい、信玄を迎えた。

 岩櫃城は海野兄弟を中心に守りを固め、鎌原筑前守、浦野下野守、横谷信濃守らも善太夫と共に真田兄弟に従っていた。

 箕輪城にて上野衆と合流した武田軍は二万近くもの大軍となって武蔵の国に向かい、九月の初め、北条万松軒の三男、新太郎氏邦(うじくに)の守る鉢形(はちがた)城(寄居町)を攻め、さらに前進し、万松軒の次男、源三郎氏照(うじてる)の守る滝山城(八王子市)を攻めた。

 十月には小田原まで進攻し、城下を放火すると共に城を包囲して攻撃を続けた。

 善太夫らが小田原城を包囲したのは二度目だった。

 前回は上杉輝虎に率いられて来て、今回は武田信玄に率いられて来た。ナツメのいる小田原を攻めるのは辛かったがどうする事もできなかった。

 前回と同じく、万松軒は城を堅く閉ざしたまま、打って出ては来なかった。そして、闇に紛れて、あちこちに風摩党が出没したが、善太夫らの陣地には来なかった。

 信玄もやはり、長期戦になる事の不利を感じて、四日間だけ包囲して甲府に引き上げる事にした。

 武田軍は相模川に沿って北上して三増(みませ)峠へと向かった。三増峠を越えて津久井から甲斐の国に帰るのが最も近い道だった。最も近い道だったが危険もあった。まごまごしていると、滝山城の源三郎氏照と小田原から攻めて来る万松軒の軍に挟み撃ちにされてしまう。

 信玄は小幡尾張守を先行させて三増峠の北方にある津久井城を攻略させ、南下して来る源三郎に備えさせた。

 善太夫ら吾妻衆は箕輪城代の内藤修理亮(しゅりのすけ)の指揮下に入って、小荷駄(こにだ)隊を守る事となった。兵糧(ひょうろう)を積んだ小荷駄を敵に奪われてしまえば、戦は完全に負けとなる。小荷駄を守るのは重要な任務だったが、北条軍を相手に戦う機会は得られなかった。善太夫らは小荷駄隊を守りながら一足先に三増峠を越えて津久井城に入った。

 滝山城から出撃した源三郎は津久井城のそばを通ったが、攻める事もなく、三増峠へと向かい、峠の西南にある山の上に本陣を敷いて武田軍を待ち構えた。

 十月八日の未明より峠の南、田代辺りで両軍はぶつかり合戦は始まった。午前中は武田軍が有利に展開し、北条軍を押し崩したが、午後になると北条軍が盛り返した。しかし、山県三郎兵衛尉(やまがたさぶろうひょうえのじょう)率いる三千の兵が北条軍の側面を突くと北条軍は総崩れとなって、武田軍の圧勝に終わった。

 武田軍は四千近くもの敵の首を討ち取り、源三郎は敗走した。源三郎の敗走を知ると近くまで来ていた万松軒は総攻撃をやめて、小田原へと引き上げて行った。

 三増峠の合戦は武田軍の勝利となったが、円覚坊は風摩党を相手に苦戦して右腕を失っていた。円覚坊は飯縄(いいづな)山と四阿(あづまや)山の山伏を率いて戦の裏で活躍していた。円覚坊らの活躍によって、万松軒は風摩党からの正確な情報を得られず、武田軍を挟み撃ちにする事ができなかったのだった。お陰で、戦には勝つ事ができたが、円覚坊は自ら傷付き、ほとんどの手下の者を失っていた。

 信玄は甲府に戻ると休む間もなく、駿河進攻の準備を始めた。

 善太夫らは駿河進攻には加わらず、内藤修理亮、真田兄弟と共に上野に帰った。上杉輝虎が関東に向かっているとの情報が入ったからだった。

 途中、真田に寄った時、善太夫は久し振りに一徳斎と会った。去年の冬、病気になって寝込んでいたと聞いていたが、元気そうだったので安心した。

「まだまだ、死ねんわい。上野の国がまだ半分残っておるからのう」と一徳斎は笑いながら言った。笑いながら言ってはいても、一徳斎が本気で言っている事は善太夫には分かっていた。

 甲府で聞いた情報通り、輝虎は十一月に沼田の倉内城に入った。

 善太夫らは真田兄弟に従って上杉方の白井城を攻撃した。吾妻衆の白井攻撃と同時に箕輪城に帰った内藤修理亮は箕輪衆を率いて、北条方の廐橋城を攻撃した。

 輝虎は両城に援軍を送ったが、自らは動かなかった。

 善太夫らは白井の城下を焼き払って、十二月には岩櫃城に引き上げた。

 年が明けると輝虎は下野の国に進撃し、佐野氏の守る唐沢山城を攻め落とした。輝虎は下野に行ったが、安心する間もなく、鉢形城の北条新太郎が西上州に攻めて来た。

 善太夫らは援軍として箕輪城まで出陣した。新太郎は箕輪城を包囲して城下を焼き払うだけで引き上げて行った。

 上杉輝虎は四月になると越後に帰って行ったが、その時、北条万松軒の七男、三郎を同盟を結ぶための人質として伴っていた。跡継ぎのなかった輝虎は北条三郎を養子として景虎を名乗らせ、自分の姪を嫁がせた。

 輝虎のいる倉内城に入る前に北条三郎を奪い取れと、一徳斎は手下の山伏たちに命じたが、風摩党にやられて失敗に終わっていた。円覚坊の傷が治らず、参戦できなかったのが悔やまれた。
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