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2024 .03.19
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12.岩櫃城




 信州落ちした羽尾道雲が信州高井郷の武士を引き連れて、鎌原を攻めて来たのは九月に入ってからだった。

 鎌原宮内少輔はあらかじめ攻撃を察し、伜の筑前守(ちくぜんのかみ)に待ち伏せをさせた。道雲と筑前守は合戦に及び、筑前守は信州勢に押されて散り散りに逃げて行った。

 道雲は勢いに乗って攻め込んだが、それが罠(わな)だった。

 狭い谷間を抜けた時、突然、左右から襲われた。左からは西窪佐渡守(さいくぼさどのかみ)の長男、治部左衛門(じぶざえもん)の兵、右からは湯本善太夫の兵が襲いかかり、さらに後方からは筑前守の兵が攻めて来る。前方には宮内少輔が陣を敷いて待ち構えている。

 道雲の兵は総崩れとなり、四散して山中へと逃げ込んだ。

 善太夫は黒岩忠右衛門率いる鉄砲隊に道雲を狙わせたが、撃ち落とす事はできなかった。

 その後、道雲は岩櫃城下に逃げ込んだという情報が届いた。

 同じ頃、武田信玄は再び、上野(こうづけ)に進攻して来た。箕輪城、蒼海(おうみ)城(前橋市元総社町)、倉賀野城(高崎市)と攻め、北条軍と合流して武蔵の松山城(埼玉県比企郡吉見町)を包囲した。

 松山城が危ないと聞いて、上杉政虎は雪の降り積もった三国峠を越えて、十二月の初め沼田の倉内城に着陣した。

 政虎は沼田に集合せよとの出陣命令を下すと、直属の兵だけを引き連れて沼田にやって来た。突然の出陣命令だったため、兵がなかなか集まらなかった。仕方なく政虎は沼田にて越年し、関東の諸将には廐橋(うまやばし)城に集合させた。

 この時、政虎は将軍足利義輝(よしてる)から『輝』の一字を賜(たまわ)って、上杉輝虎(てるとら)と改名していた。

 年が明けて、永禄六年(1563年)となり、廐橋城には輝虎に新年の挨拶に訪れた武将たちで溢れた。しかし、輝虎はまだ、沼田にいた。輝虎が兵を引き連れて、廐橋城に入ったのは二月に入ってからだった。

 善太夫、鎌原宮内少輔、西窪治部左衛門の三人は病と称して、廐橋には出向かなかった。

 はっきりと武田方であると宣言したようなものだった。輝虎の大軍に攻められる可能性もあるわけだが、まだ、輝虎が出て来るのは早い。まず、岩下衆の旗頭である岩櫃城の斎藤一岩斎が、面目(めんぼく)を潰されたと攻めて来るに違いなかった。

 善太夫は長野原城に入り、襲撃に備えて守りを固めた。
 輝虎は廐橋城に入ると新年の挨拶を受ける事もなく、集まった武将を引き連れて松山城の救援に向かった。しかし、すでに遅く、松山城は落城していた。

 輝虎は北条万松軒(ばんしょうけん、氏康)に奪われた松山城を横に睨(にら)みながら、東方にある騎西(きさい)城を攻め落とした。さらに北上して、北条方に寝返った小山(おやま)氏、佐野氏を攻め、一旦、廐橋に戻り、北条、武田に対する守りを固めると、六月に越後に帰って行った。

 松山城を落とした後、信玄は信濃の国を北上して、信州における輝虎の前線基地である飯山城(飯山市)を攻撃すると、ひとまず、甲府に戻った。そして、吾妻郡攻略のための作戦を立て、兵糧(ひょうろう)及び武器、弾薬を真田一徳斎のもとに送った。

 輝虎が廐橋にて兵を休めている隙に、岩櫃城攻撃のための準備が着々と進められていた。

 善太夫が長野原城に詰めていた五月の末、上泉伊勢守(かみいずみいせのかみ)が草津に来たと円覚坊が知らせてくれた。

 伊勢守は三年前、上杉輝虎が関東に出陣して来た時、上野の国から消えてしまった。後になって円覚坊から、伊勢守が小田原にいると聞いたが、善太夫には伊勢守があっさりと城を捨てて、北条氏のもとに行ってしまった事が理解できなかった。

 善太夫が上泉城で修行していた頃、伊勢守は管領上杉氏に属していた。管領が平井城にいた頃は上泉城も無事だった。ところが、天文(てんぶん)二十一年(1552年)に管領が北条氏に倒されると状況が変わった。南上州はほとんどが北条方となり、西上州は箕輪の長野信濃守を中心に北条氏に抵抗した。伊勢守も長野氏に属して、反北条方だったが、天文二十四年に北条氏が廐橋から沼田まで攻めて来ると、上州は利根川を境に二つに分けられ、東側にある上泉城は北条方にならざるを得なかった。伊勢守としては厳しい立場に立たされる事になった。

 愛洲移香斎は北条氏とつながりがあった。当然、弟子である伊勢守も移香斎に連れられて小田原にも行き、陰流(かげりゅう)の忍び集団である風摩(ふうま)党とも会っていた。三代目の風摩小太郎は移香斎の孫であり、伊勢守はその妹を妻としていた。

 伊勢守が移香斎の孫娘を妻とした当時、北条氏は相模の国をまとめ、ようやく、武蔵の国に進攻して江戸城を攻略した頃だった。まさか、北条氏が上野まで攻め込んで来るとは、伊勢守だけでなく、誰もが考えもしない事だった。伊勢守が北条方の妻を貰おうと何の問題もなかった。ところが、それから二十七年後、北条氏は上野に攻めて来た。

 伊勢守の妻はすでに亡くなってはいたが、移香斎の孫たちのいる北条氏を敵にして戦いたくはなかった。

 北条氏は廐橋城と沼田の倉内城を落とし、利根川以東を支配下にした。上州は二つに分けられ、伊勢守の弟子たちも二つに分かれて争う事となった。

 利根川以西の中心となっている長野信濃守は伊勢守の父親の弟子であり、信濃守の子供たちは伊勢守の弟子だった。城主が上泉家の弟子であるので、長野家の家臣たちも多く、伊勢守の弟子になっている。また、若い頃、小田原にいた事のある伊勢守は玉縄(たまなわ)城主の北条綱成(つなしげ)とも親しかった。綱成は北条氏の先鋒として上州に攻めて来ていた。

 伊勢守は北条氏と長野氏の板挟みとなって苦しんだ。伊勢守としては、信濃守の敵になりたくはなかったが、それ以上に、移香斎以来の付き合いである北条氏を裏切る事はできなかった。伊勢守は廐橋城に入った北条幻庵(げんあん)に従った。

 幻庵は北条氏初代早雲(そううん)の晩年の子であり、移香斎の弟子だった。陰流の忍び集団、風摩党の総元締(もとじめ)でもあった。伊勢守は兄弟子である幻庵に逆らう事はできなかった。

 伊勢守が北条氏に従ったため、弟子であった長野家の武士たちは裏切られたと言って、伊勢守のもとを離れて行った。長野信濃守も考え直してくれと何度も使いの者を送って来たが、伊勢守は考えを変えなかった。変えなかったというよりは変える事ができなかった。

 北条氏がその後、上州に攻めて来なかったため、長野家を相手に大きな戦がなかったのが、せめてもの救いだった。

 それから五年後、今度は越後から長尾景虎が大軍を率いて攻めて来た。北条氏は追い出され、上州はあっと言う間に、景虎一色となった。

 伊勢守は白井(しろい)の長尾氏の被官となっていた弟に家督を譲り、武将をやめる決心をして、家族を連れ小田原に移った。

 伊勢守の高弟のうち疋田豊五郎と神後藤三郎は伊勢守と共に小田原に移った。奥平孫次郎は故郷の三河(愛知県)に帰り、他の者たちは、伊勢守の教えを守って、武士を捨てて農民となった。善太夫のよき好敵手だった原沢佐右衛門(すけうえもん)も野田村(吉岡村)に帰って農民となっていた。

 小田原に移った伊勢守は北条万松軒に歓迎され、子供たちを北条家に仕えさせた。そして、今回、京へと旅立つ前に、移香斎の墓参りをするために草津に来たのだった。

 伊勢守は山伏姿で上泉坊(じょうせんぼう)と名乗り、同じく山伏姿の疋田豊五郎と神後藤三郎を連れていたという。

「どうして、城を捨て、上野の国も捨て、北条氏の小田原に行ったのですか」と円覚坊が聞くと、伊勢守は、「成り行きじゃ」と一言だけ言ったという。




 稲刈りのほぼ終わった九月の始め、武田信玄は甲府から援軍として、一徳斎の三男、武藤喜兵衛(むとうきへえ、後の真田昌幸)と三枝土佐守(さえぐさとさのかみ)を一徳斎のもとに送った。

 鎌原宮内少輔から知らせが届くと、善太夫は長野原城を守っている常田伊予守(ときたいよのかみ)、丸子藤八郎、依田(よだ)彦太郎、小泉左衛門らと、一徳斎を迎える準備を始めた。

 城下の諏訪明神の別当(べっとう)、大学坊(だいがくぼう)に会い、諏訪明神に本陣を置く事の許可を得、協力するように頼んだ。さらに城下の者たちに頼んで、水を用意させたり、飯を炊かせたり、飼葉(かいば)を用意させた。土地の事に詳しいというので、それらの事は善太夫が中心になってやらなければならなかった。

 一徳斎を迎える準備だけでなく、敵の状況を探る事も忘れてはいなかった。円覚坊を岩櫃(いわびつ)城に送り、向こうの状況は何かある毎に善太夫のもとに知らされた。

 岩櫃城では武田軍を迎え撃つため、沼田及び白井から援軍を頼み、こちらが攻めて来るのを待ち構えているという。

 九月十日の昼近く、一徳斎が三千近くの兵を引き連れて、長野原城下に到着した。

 善太夫は一徳斎を本陣とすべき宿坊(しゅくぼう)に案内し、円覚坊から得た情報を告げた。

 一徳斎は満足そうにうなづくと、善太夫、鎌原宮内少輔から、この辺りの地形と敵の兵力を詳しく聞いた。昼食後、重臣たちが集められ、今後の作戦が立てられた。

 翌日の早朝、腹ごしらえを済ますと、四隊に分かれて岩櫃城を目指した。

 一徳斎の長男、源太左衛門信綱(げんたざえもんのぶつな)は三枝土佐守と共に五百人の兵を率いて、須川(白砂川)を渡り、山中を通って高間山を越え、松尾(松谷)に向かった。

 一徳斎の次男、兵部丞昌輝(ひょうぶのじょうまさてる)と三男、武藤喜兵衛昌幸は西窪治部左衛門と共に五百の兵を率いて、赤岩から暮坂峠を越え、岩櫃城の背後に向かった。

 一徳斎の弟、矢沢薩摩守(さつまのかみ)と常田伊予守は、祢津松鷂軒(ねづしょうようけん)、丸子藤八郎、芦田下野守(あしだしもつけのかみ)と共に六百の兵を率いて、須賀尾(すがお)峠を越え大戸へ向かった。

 善太夫らは小草野若狭守(こぐさのわかさのかみ)、鎌原宮内少輔と共に五百の兵を引き連れて、吾妻川沿いに道陸神(どうろくじん)峠に向かった。

 道陸神峠は川原湯と松谷の中程にあり、切り立った岩場の続く険しい峠だった。

 吾妻渓谷沿いに道のなかった当時、道陸神峠は命懸けの難所で、土地の者以外、旅人も余り利用しなかった。当時、草津に行くには、中之条から暮坂峠を越えて行くか、大戸から須賀尾峠を越えて長野原に出る街道が利用されていた。

 善太夫が先頭になって道陸神峠を無事に越え、一軍は雁(がん)ケ沢城に入った。

 雁ケ沢城は善太夫と同族の横谷左近(よこやさこん)の居城(きょじょう)であった。須川を境に、武田方と上杉方と分けられた時、左近は上杉方の斎藤一岩斎に従わざるを得なかったが、今回、善太夫の誘いに乗って寝返っていた。

 左近は一岩斎の出陣命令を無視し、城に立て籠もって、武田軍が来るのを首を長くして待っていた。

 善太夫は左近を小草野若狭守に紹介した。

 若狭守は左近が敵の大軍を前に城を守ってくれた事を誉め、さっそく、作戦会議に加えた。

 左近は現在の状況を説明した。

 雁ケ沢の川向こうに、斎藤弥三郎を大将として、富沢新十郎、中山安芸守(あきのかみ)、塩谷源三郎、蟻川(ありかわ)入道、そして、沼田勢ら、総勢八百人余りが固めている。さらに、吾妻川の右岸には、三島城主の浦野下野守(しもつけのかみ)を大将として、尻高左馬助(しったかさまのすけ)、荒牧宮内右衛門(あらまきくないえもん)ら二百人余りが固めているという。

「敵の大将は弥三郎じゃな」と宮内少輔が確認した。

「さよう」と左近はうなづいた。

「奴なら大丈夫じゃ」と宮内少輔はニヤッと笑った。

 宮内少輔は家臣の黒岩伊賀守(いがのかみ)を呼ぶと、ひそかに敵の陣地に送った。

 敵は一千、味方は六百、正面から攻めても不利だった。暮坂峠を越えて、横谷の奥の松尾に向かっている真田源太左衛門の一軍が到着するのを待つ事にした。

 弥三郎に対する守りを固めている時、源太左衛門から使者が来た。

 源太左衛門率いる五百人は、すでに松尾に到着し、雁ケ沢を渡って敵陣を目指して進んでいる。明日の夜明けと共に敵の側面を攻めるから、正面から攻撃せよとの事だった。

 夕暮れに紛(まぎ)れて黒岩伊賀守は戻って来た。敵陣に行って、ひそかに弥三郎と会って来たが、宮内少輔の思惑通りにはいかなかった。

 弥三郎は形の上では大将だが、自分で思い通りに動かせる兵は、富沢新十郎の兵を合わせても二百人程度で、後の六百人は一岩斎より付けられた兵である。特に沼田からの援軍が五百人もいて、武田の兵は一兵たりとも先へは通さないと意気込んでいる。今の状況では撤退する事は不可能との事だった。

 宮内少輔は合戦をしなくても進めるだろうと考えていたが、それ程甘くはなかった。

 次の朝、雁ケ沢を挟んで矢と鉄砲の応戦が始まった。上流の方でも合戦は始まっている。

 善太夫は何とかして川を渡って敵陣に突っ込もうと思ったが、雁ケ沢は深い渓谷になっていて、普段でも渡るのが難しいのに、敵の攻撃が激しく、川に下りる事さえできなかった。

 一日中、前と横から攻め続けたが、敵陣が崩れる事はなく、はかばかしい戦果は得られなかった。

 一方、暮坂峠を越えて行った武藤喜兵衛の軍は佐藤将監(しょうげん)の守る折田(おりた)の仙蔵(せんぞう)城を攻め取っていた。

 仙蔵城は岩櫃城の北を守る重要な支城だった。この城を奪った事により、かなり有利になったと言えた。岩櫃城の支城である岳山(たけやま)城(嵩山城)との連絡を断って、背後を脅(おびや)かす事ができた。

 須賀尾峠を越えて行った矢沢、常田の軍は大戸城の大戸真楽斎を降ろしていた。真楽斎は弟の浦野但馬守を人質として渡し、武田方に寝返った。

 総大将の一徳斎は本陣を長野原の諏訪明神から林の大乗院まで進めて、戦況を見つめていた。

 雁ケ沢の攻防は次の日も変わらなかった。

 吾妻川の対岸の浦野下野守の方も攻めてみたが、吾妻川を越える事はできなかった。

 吾妻川は雁ケ沢よりも川幅があって対岸は切り立った断崖となっている。ただ、むやみに負傷者が増えるばかりで、何の進展もなかった。

 その日の午後、善太夫は自分の陣所に円覚坊を呼び、敵を撃ち破るいい方法はないものかと相談した。

「吾嬬(かづま)山に登って敵の背面を襲えば、敵は混乱して逃げ出すじゃろう」と円覚坊は何でもない事のように言った。

「それしかないじゃろうのう」と善太夫もうなづいた。

「源太左衛門殿の一隊が、山に登ってくれればいいんじゃが、あそこには地理に明るい者がおらん。わしが向こうに行けばよかった」

「わしが行って来るか」と円覚坊は言った。

「難しいのう。源太左衛門殿がそなたの言う事など聞くまい」

「じゃろうな。となると、お屋形が一徳斎殿にその作戦を告げ、一徳斎殿の伝令として、わしが行くかのう」

「うむ。あるいは、わし自身が山に登るかじゃな」

「お屋形がか‥‥‥何人連れて行く?」

「五十、いや、三十人でいいじゃろう」

「三十か‥‥‥夜襲をかけるつもりじゃな」

 善太夫はうなづいた。

「全滅するかもしれんぞ」

「ここでやらなければな」と善太夫は笑った。

 善太夫が吾嬬山を登って、敵を裏から攻めようと決心を固めていた時、小草野若狭守から使いが来た。

 善太夫が若狭守の陣所に行くと宮内少輔も呼ばれていた。

 本陣から使いがあって、二人を呼んでいるという。

 善太夫と宮内少輔はただちに本陣の大乗院に向かった。

 一徳斎と真田家の重臣、河原丹波守(たんばのかみ)、丸山土佐守、そして、室賀兵部大輔(むろがひょうぶだゆう)が吾妻郡の絵地図を睨みながら、二人の来るのを待っていた。

「御苦労じゃったのう」と一徳斎は二人を迎えると、今の戦況を説明した。

 仙蔵城を落とした武藤喜兵衛は仙蔵城に西窪治部左衛門と河原左京を入れて岳山城の押えとし、自らは三百の兵を率いて岩櫃城の真北にある四阿山(あづまやさん)に登り、山頂にある高野平(こうやひら)城を落とした。今は、そこから、岩櫃城を見下ろしている。

 大戸(おおど)口を押さえた矢沢、常田の軍は斎藤一岩斎の次男、弾正左衛門(だんじょうざえもん)の率いる八百の兵とぶつかったが、敵を吾妻川まで押し戻している。

 大勢はやや味方が有利と言えるが、もし、敵が籠城(ろうじょう)した場合、絶対に勝てるという見込みはない。岩櫃城には少なくとも、半年は持ちこたえられるだけの兵糧がある。あと二ケ月もすれば、例のごとく、越後から上杉輝虎が来るだろう。そうなると、今の兵力だけでは負けるのは目に見えている。輝虎が出て来れば、信玄も出て来るだろうが、そうなると必要以上の死傷者が出るだろう。まして、民衆たちが困る事になる。できれば、最小限の犠牲だけで、吾妻郡を平定したいと一徳斎は言った。

 善太夫は円覚坊と語った作戦を一徳斎に言おうと思ったがやめる事にした。もし、雁ケ沢を越える事ができても、一徳斎の言った通り、敵が籠城してしまえば勝ち目はなかった。敵を籠城させないで勝たなくてはならないと善太夫も思った。

「和睦する」と一徳斎は善太夫と宮内少輔の顔を見比べながら言った。

「また、和睦ですか」と宮内少輔は不満そうに聞いた。

 一徳斎はうなづいた。「二年前は時期が早すぎたため、敵の和睦に応じた。今回はこちらから和睦を申し込んで、敵を安心させ、その隙に、敵を内部から崩す。岩櫃城は関東でも屈指の名城じゃ。まともに攻めても落とす事は不可能じゃ」

 今度は、宮内少輔がうなづいた。「畏(かしこ)まりました。やってみましょう」

「うむ。ところで、和議の使者じゃが、誰に頼んだらいい」

「それでしたら、長野原の諏訪明神の別当、大学坊が最適かと思いますが」と善太夫は答えた。

「大学坊か‥‥‥ここの大乗院はどうじゃ」

「大乗院は横谷左近の一族です。左近は今回、一岩斎を裏切りましたから、ふさわしくはないかと」

「うむ、そうか‥‥‥それじゃあ、大学坊に頼むか」

「それと、雲林寺の住職も遣わした方がいいと思いますが」と宮内少輔は言った。「雲林寺は羽尾道雲の弟、海野長門守が四年程前に開基した寺です。あの和尚はなかなかの人物で、和睦の使者には絶好かと」

「よし、その二人に頼もう。そなたたち二人にお願いしようか」

 善太夫と宮内少輔はさっそく、長野原に向かった。

 夜空には十三夜の月が出ていた。




 次の日、大学坊と雲林寺の住職は、岩櫃城下の善導寺の住職のもとに使者として赴(おもむ)いた。

 一岩斎は前回と同じく、武田信玄には何の恨みもない、今回、裏切った鎌原氏、西窪氏、湯本氏、横谷氏、大戸氏、浦野氏らが人質を出し、高野平城と仙蔵城を返してくれるなら和睦に応じようと言って来た。

 一徳斎は、白井と沼田の援軍が撤退するなら、一岩斎の条件を飲もうと答えた。

 和睦は成立した。

 一岩斎の要求通り、それぞれが人質を岩櫃城に送った。

 善太夫には子供が二人いた。二人共、側室の小茶が産んだ女の子だった。長女のナツは一徳斎のもとに人質として行っている。次女のアキはまだ四つだった。体が弱く、人質にするには可哀想だった。仕方なく、善太夫は亡き兄の一人娘、ヤエを養女として岩櫃城に送る事にした。ヤエは十四歳になり、もうすぐ、嫁にやる年頃だった。人質にするのはやはり可哀想だったが、ヤエは羽尾道雲の孫だった。道雲に頼めば、粗略にはするまいと思った。

 人質の受け渡しが済み、一岩斎が約束通り、白井と沼田の援軍を帰らせると、一徳斎は全軍を鎌原まで引き上げさせた。

 善太夫、鎌原宮内少輔、海野左馬助(うんのさまのすけ)の三人は内部を撹乱(かくらん)させるため岩櫃城下に残っていた。

 海野左馬助は一徳斎の家臣で、羽尾氏と同族だった。羽尾道雲、海野長門守、海野能登守の三兄弟を寝返らせるために残ったのだった。

 残った三人は一岩斎の機嫌を取りながら、城下に滞在していた。

 善太夫と海野左馬助は海野長門守の屋敷に滞在し、宮内少輔は富沢新十郎の屋敷に滞在していた。

 三人の工作は着々と進んでいた。

 一岩斎の甥である斎藤弥三郎、一岩斎の元家老、富沢但馬守(たじまのかみ)の長男新十郎、海野長門守、能登守の兄弟、一岩斎の一族である植栗安房守(うえぐりあわのかみ)、その他、沢渡(さわたり)の唐沢杢之助(からさわもくのすけ)と富沢加賀守、折田の佐藤将監、山田の蜂須賀伊賀守、三島の浦野下野守、中務大輔(なかつかさだゆう)兄弟らがひそかに寝返りの約束をした。さらに、都合のいい事に一岩斎に引き渡した人質は弥三郎が預かっているという。弥三郎は人質たちを無事に逃がす約束までもした。

 善太夫と宮内少輔は作戦がうまく行って喜んでいたが、裏工作をしていたのは真田方だけではなかった。一岩斎もひそかに何かをたくらんでいると円覚坊が知らせて来た。

「白井と沼田の兵は引き上げてはおらんぞ」と円覚坊は言った。「尻高(しったか)と中山に分散して待機しておるわ。さらに、一岩斎は越後に早馬を飛ばしたぞ」

「上杉輝虎が出て来るまでの時間稼ぎのために、和議に応じたという事か」

「じゃろうな。早いうちに片を付けた方がよさそうじゃな」

 善太夫と円覚坊が長門守の屋敷の庭で話していた時、円覚坊の配下の永泉坊(えいせんぼう)という山伏が塀を乗り越えて忍んで来た。

 永泉坊は辺りを見回し、誰もいない事を確かめると二人の前にひざまずいた。

「大変な事が起こりました」と永泉坊は言った。

 永泉坊の衣はあちこちが破れ、処々に血が付いていた。

「何事じゃ?」と円覚坊が聞いた。

「長野原城が乗っ取られました」と永泉坊は言った。

「何じゃと」と言ったのは善太夫だった。長野原城が奪われるなんて信じられない事だった。

「詳しく申せ」と円覚坊が言った。

「羽尾道雲殿の軍勢が突然、攻めて参りました」

「道雲殿が‥‥‥」

 長野原城は一徳斎の弟、常田伊予守を大将として、丸子藤八郎、依田彦太郎、小泉左衛門、そして、善太夫の義兄、次郎右衛門が守っていた。しかし、講和の後、まさか、敵が攻めては来ないだろうと依田彦太郎、小泉左衛門らは本隊と合流したまま鎌原まで引き上げ、次郎右衛門は今回の戦の負傷者をつれて草津に帰っていた。

 常田伊予守と丸子藤八郎は残っていたが、二人とも大戸口の合戦に参加したため、部下の負傷者が多かった。戦えない程、重傷の者はいなかったが、軽傷の者たちも早く治した方がいいと草津に向かったため、長野原城に残っていたのは百人足らずの兵だった。

 羽尾道雲は今回の和議に反対だった。

 和議が成立したとしても、敵に奪われた領地は戻って来ない。一岩斎は上杉輝虎が越後から来るまで我慢しろと言ったが、敵も武田信玄が出て来れば、吾妻郡は雁ケ沢から二つに分けられ、道雲の領地は永遠に敵のものになってしまう。道雲は敵が油断している隙に、領地を取り戻そうと、ひそかに兵を集めて長野原を襲撃したのだった。

 道雲は尻高左馬助、中山安芸守、荒牧宮内右衛門、中沢越後守、蟻川入道、それと白井勢も率い、二手に分かれて長野原を襲撃した。

 常田伊予守は須川に架かる須川橋と吾妻川に架かる琴橋を落として防戦に努めたが、道雲は王城山から木を伐採(ばっさい)して須川を埋め、一気に攻め込んで来た。

 長野原城にあった兵糧は前回の戦で使い果たしてしまい、ほとんど残っていなかったので籠城する事もできず、伊予守は諏訪明神まで打って出たが、敵の勢いには勝てず、とうとう討ち死にしてしまった。大将を失った長野原勢は城を捨てて逃げるより他なかった。

 道雲は長野原城を取り戻すと中沢越後守に守らせ、さらに、羽尾城も取り戻すために羽尾に向かった。

「孫左衛門殿も伊予守殿と共に戦死なさいました」と永泉坊は付け足した。

 孫左衛門は草津に帰った次郎右衛門の代わりとして長野原を守っていた。湯本家の家老、湯本伝左衛門の次男だった。

「そうか‥‥‥」と善太夫は空を見上げた。

「迂闊(うかつ)じゃった」と円覚坊は言った。「まさか、和議のなった後、道雲が長野原を襲うとはのう。考えてもみなかったわ」

「伊予守殿が亡くなられたか‥‥‥」と善太夫はつぶやいた。

「弔(とむら)い合戦となるじゃろう」と円覚坊は言った。「道雲殿も無茶な事をやったもんじゃ」

「ちょっと見て来るわ」と円覚坊は永泉坊を連れて、庭から消えて行った。

 羽尾に向かった道雲は本拠地の羽尾城も取り戻す事に成功していた。

 羽尾城は祢津松鷂軒が守っていたが、長野原落城の知らせを聞くと戦わずに鎌原に引き上げて行った。

 一年振りに羽尾の城に戻った道雲は、鎌原にいる一徳斎のもとに使者を送った。

 武田信玄には何の恨みもない、鎌原宮内少輔に奪われていた領地を取り戻す事ができたので喜んで講和に応じる、と使者の持って来た書状には書いてあった。

 一徳斎はそれを見て、苦(にが)笑いをした。
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