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2017 .11.23
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8.真田一徳斎




 善太夫の矢傷は一年近くかかったが、草津の湯のお陰で完全に治った。

 善太夫が湯本家を継いだ時は大勢の家臣を亡くした後で、湯本家の将来も思いやられたが、あれから十年近くが経ち、亡くなった者たちの息子が立派な武士に成長して、湯本家も安泰と言えた。ただ、嫁を貰って十年近く経つのに、跡継ぎに恵まれないのが、ただ一つの不安だった。

 善太夫の妻、鈴はすぐ亡くなってしまった男の子を産んだ後、今度は流産してしまい、その後、子供はできなかった。

 流産の後、善太夫は家臣たちの勧めもあって側室(そくしつ)を迎えた。妻の事を思うと気が進まなかったが、兄は二十五歳で亡くなって跡継ぎがなく、弟の善太夫が跡を継いだ。善太夫にもしもの事があったら、誰が跡を継ぐのだと言われ、善太夫も断れなかった。

 側室は家臣の娘たちから選ばれ、中沢杢右衛門(もくうえもん)の妹、小茶という十六歳の娘に決まった。小茶は勿論、美しい娘だったが、控えめでおとなしく、妻の鈴ともうまくやって行けそうだった。

 小茶は翌年の夏、元気な女の子を産んだ。今度こそ無事に育ってくれる事を祈りながら、善太夫は初めての娘にナツと名付けた。夏に生まれたからナツだと善太夫は言ったが、その名前の裏には、ナツメへの思いが隠されていた。ナツメのようないい女になれとの思いが込められていた。

 永禄(えいろく)三年(1560年)の山開きのすぐ後、珍しい男が善太夫を訪ねて来た。湯宿の準備がまだ整っていなかったので、湯宿の屋敷の方に彼らを案内した。

 頭を丸めて山伏の格好をしていたが、その男は紛れもなく真田幸隆だった。幸隆を連れて来たのは従兄(いとこ)の鎌原宮内少輔(かんばらくないしょうゆう)だった。

「久し振りに移香斎(いこうさい)殿の墓参りでもしようと思ってのう」と幸隆は笑った。屈託(くったく)のない笑いだった。

 幸隆は武田晴信の被官(ひかん)として先鋒(せんぽう)を務め、信濃の国を平定するために活躍していた。

 晴信でさえ落とす事のできなかった村上義清の戸石(といし)城を落とした活躍は吾妻郡にも聞こえ、さすが幸隆だと感心させたものだった。

 幸隆は去年、お屋形の晴信が法体(ほったい)になって信玄(しんげん)と号したのにならい、一徳斎(いっとくさい)と号していた。今、善太夫とは敵味方の関係にあったが、そんな事は少しも構わず、懐かしい友にでも会ったような態度だった。

 善太夫はさっそく、一徳斎を愛洲移香斎の墓に案内した。
 鬼ケ泉水(おにがせんすい)のさらに奥の天狗山と呼ばれる山の山頂近くに移香斎の墓はあった。まだ処々に雪が残る山道を登って行くと急に日当たりのいい場所に出る。そこに自然石を置いただけの移香斎の墓があった。

「いい眺めじゃのう」と一徳斎は言った。

 眼下に湯煙の昇る草津の村が見渡せた。

「ここだけは戦に巻き込みたくはないのう」

 墓前に花を供えて香(こう)を焚き、移香斎の冥福(めいふく)を祈った後、宮内少輔は遠くの山々を眺めながら、「善太夫、実は相談したい事があってのう」と言った。

 善太夫には宮内少輔が何を言いたいのか、薄々感づいていた。特別な日でもないのに、一徳斎を連れて、わざわざ墓参りだけに来るはずはなかった。

「善太夫殿」と今度は一徳斎が言った。「武田信玄殿は信州佐久平を平定して、いよいよ、上州に進攻しようとしておられる。先鋒として、このわしが命じられたんじゃ。この吾妻(あがつま)郡一帯には、わしらと先祖を同じくする同族が多い。できれば戦はしたくはないんじゃ‥‥‥信玄殿は北条氏と手を結び、共に上州を攻め取るつもりでいる。すでに、北条氏は廐橋(うまやばし)城を落とし、利根川以東を支配下に置いた。箕輪の長野信濃守殿は越後の長尾氏を後ろ盾として、上州を平定するつもりでいるが、北条と武田の両軍を相手に戦って勝てるはずはない。善太夫殿、よく考えて下され。すでに管領殿はいない。いつまでも、長野信濃守殿に付いて行く事もあるまい。今まで、信濃守殿の旗下(きか)にいて何の得があった? 多くの家臣を亡くしただけで、その見返りはあったかな。湯本家が、これからどう生きて行くべきか、もう一度、考え直した方がいいと思うがのう」

「わしはのう」と宮内少輔が言った。「一徳斎殿に付いて行く事に決めたわ。信玄殿はすでに、佐久平まで来ておられる。もし、信玄殿がわしらの領地に攻めて来たとして、箕輪の信濃守殿は助けてくれるかのう。わしには助けに来るとは思えんのじゃ。わしらは信濃守殿のもとで戦をやり、多くの家臣を失った。奴らは何のために戦をして、何のために死んで行ったんじゃ。我が子まで見捨てて越後に逃げて行った管領殿のためにじゃ。今はその管領殿もいない。管領殿のもとで、わしらは箕輪衆として信濃守殿の旗下に入った。管領殿がいない今、わしらが信濃守殿の旗下にいる理由はないはずじゃ。どうじゃ、善太夫殿、一度、わしと一緒に武田信玄殿に会ってみんか」

「信玄殿に会うのですか」と善太夫は聞いた。思ってもいない事だった。

 宮内少輔はうなづいた。

「わしが案内する」と一徳斎は言った。「どうじゃ」

「少し、考えさせて下さい」と善太夫は答えた。

「うむ、そうじゃのう。急に決めろといっても無理じゃ。よく考えてみてくれ」

 一徳斎は草津村を見下ろしながら、「ここは戦場にはしたくないのう」ともう一度言った。

 屋形に戻った善太夫は絵地図を見つめながら、宮内少輔の言った事を考えていた。

 武田軍が西から攻めて来た場合、真っ先にやられるのが西窪(さいくぼ)氏と鎌原氏だった。多分、西窪氏は鎌原氏と一緒に武田方となるだろう。

 問題は草津の入り口を押えている羽尾(はねお)氏だった。羽尾氏も武田方となれば、善太夫も文句なく武田方となれる。しかし、羽尾氏が武田方になるとは思えなかった。

 羽尾道雲の長男源六郎は岩櫃(いわびつ)城の斎藤越前守の婿(むこ)になっていて、次男の修理亮(しゅりのすけ、源七郎)は長野信濃守の婿になっていた。それに、普段から羽尾氏と鎌原氏は仲が悪い。鎌原氏が武田方となれば、これ幸いと羽尾氏は鎌原氏の領地に攻め込むだろうし、また、鎌原氏にしても羽尾氏を攻めるために武田方になったとも言える。

 善太夫は鎌原宮内少輔と従兄弟(いとこ)同士の関係にあり、羽尾道雲は伯父であり、道雲の弟、海野長門守は義父であった。善太夫が武田方となれば、羽尾氏を初めとして、岩櫃城の斎藤氏、箕輪の長野氏を敵に回す事となる。そればかりではなく、上州の馴染みの湯治客が草津に来なくなるのが最も痛手だった。

 関東管領の上杉氏が勢力のあった頃、湯本氏は管領の被官となっていた。草津を訪れる湯治客のほとんどは、管領の支配の及ぶ範囲内からやって来た。特に武士はそうだった。上野の国は勿論、武蔵(埼玉県、東京都)、相模(神奈川県)、下総(しもうさ)、上総(かずさ)、安房(あわ)(共に千葉県)、そして、越後の国からもやって来た。越後は管領の勢力下ではなかったが、同じ上杉氏が支配していたため、草津を訪れた武将も多かった。管領に敵対していた武士が草津にやって来る事はない。

 管領がいなくなって、利根川以東と南上州は北条氏の支配下となり、今では、湯治客のほとんどか、箕輪の長野氏の勢力範囲内だけに限られていた。以前から比べると湯治客の数は極端に減っている。長野信濃守は、越後の長尾景虎が上杉氏に代わる管領として、大軍を率いて北条氏を追い出して関東を平定すると言うが、いつになるやら分からない。

 どうするか‥‥‥

 もう少し、回りの状況を見ていた方がよさそうだと善太夫は答えを出した。

 真田一徳斎は一泊しただけで、「また来る」と言って、鎌原宮内少輔と共に帰って行った。
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