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2024 .03.29
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第二部 湯本三郎右衛門





1.小野屋








 雪の積もった山の中を錫杖(しゃくじょう)を鳴らしながら、二人の山伏が歩いていた。

 獣の足跡が所々にあるだけで、人の足跡など、どこにもない。そんな道なき道を二人は歩いている。先を行くのは貫録のある山伏で、その後を追っている山伏の顔には、まだ子供らしさが残っている。白い息を切らせて、ハアハア言いながら必死に歩いていた。

「師匠、ちょっと待って下さい」と若い山伏は雪の中に倒れ込んだ。

「もうすぐじゃ」と言ったきり、師匠と呼ばれた山伏はさっさと行ってしまった。

「くそっ」若い山伏は雪をつかんで口の中に放り込むと歯を食いしばって後を追った。

 しばらく行くと視界が開け、眩しい青空が見えた。師匠が岩に腰掛け、早く来いと手招きした。若い山伏は白い息を吐きながら、這うようにして、やっとの思いで、師匠のもとにたどり着いた。

 そこからの眺めは最高だった。広々とした関東平野が視界いっぱいに広がっていた。

「すごい!」と若い山伏は思わず叫んだ。疲れがいっぺんに吹き飛ぶくらい、いい眺めだった。こんなに広々とした土地を今まで見た事がなかった。

「よく見ておけ」と師匠は言った。「この広い土地を手に入れるために、越後(えちご)(新潟県)の上杉、相模(さがみ)(神奈川県)の北条(ほうじょう)、甲斐(かい)(山梨県)の武田が戦を繰り返しているんじゃ」

「へえ」と言いながら、若い山伏は好奇心のあふれる目をして遠くの方を眺めていた。平野の向こうに大きな川が流れ、その向こうには山々が連なっていた。

「今、武田と北条は同盟を結んでいる。利根川を境に西が武田、東が北条というふうに上野(こうづけ)の国(群馬県)を二つに分けている。武田と北条に勝手に分けられてたまるかと、そこに越後の上杉が北から攻めて来る。上杉は沼田を拠点として毎年、冬になるとやって来て、武田と北条の城を攻めるんじゃ」

「あの川が利根川なんですね」と若い山伏は川の方を指さした。

 師匠はうなづき、「利根川の向こうに見えるのは赤城山じゃ」と言った。

 赤城山は裾野の長い山だった。若い山伏は赤城山の裾野に沿って視線を南の方へと動かした。利根川の流れが輝きながら、広い平野を横切って、ずっと向こうまで続いていた。

「今もどこかで戦をしてるのですか」と若い山伏は師匠の顔を見た。

「いや」と師匠は首を振った。「いつもなら上杉勢は雪解けまで上野にいて、戦をしてるんじゃが、どうしたわけか去年のうちに帰ってしまった。どうやら、越中の方に行ってるらしい」

「越中ですか‥‥‥」

 越中(富山県)と言われても若い山伏には、どこだかわからないようだった。

「武田と北条が同盟を結んでいる限り、上杉の進出は難しいな。一昨年、上杉方の箕輪城(みのわじょう)(箕郷町)が武田に落とされてから、上杉方だった廐橋城(うまやばしじょう)(前橋市)は北条に寝返ってしまった。上杉は上野を諦めて越中方面を攻め取るつもりなのかもしれん。三郎、あそこに見えるのが箕輪城じゃ」

 三郎と呼ばれた若い山伏は師匠の指さす方を見た。山の裾野に城らしい建物が小さく見えた。

「あれが箕輪城‥‥‥」三郎は顔を曇らせて城を見つめた。

「あそこで父上は戦死したのですか」

「いや、お前の父上が戦死したのは、この上じゃ」と師匠は山頂の方を示した。

 三郎は見上げてみたが、どこも雪でおおわれ、どこなのかわからなかった。

「この山は榛名山といってな、山の上に綺麗な沼がある。その沼の近くにある砦で、お前の父親は殿軍(しんがり)として上杉の兵と戦い、全滅したんじゃ。立派な武将じゃった」

 三郎は山の上をしばらく見つめていたが、箕輪城へと視線を移すと、「今、あの城は武田の武将が守っているのですか」と聞いた。

「そうじゃ。内藤修理亮(しゅりのすけ)(昌豊)殿が守っておられる。さあ、行くぞ」

 師匠は山を下り始めた。

「どこに行くのです」

「あそこじゃ」と師匠は箕輪城を顎で示した。

 三郎は錫杖を突きながら師匠の後を追った。
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2.上泉伊勢守








 船が伊豆半島を越えると、目の前に富士の山が見えて来た。

 雪をかぶった富士山は神々しい程に眩しかった。三郎はしばし、その美しさに見とれた。

「三郎、あそこに登ってみるか」と東光坊が横に来て聞いた。

「えっ、登れるんですか」

「登れん山はない。だが、今の時期は難しい。頂上は大雪じゃからな、夏まで待つしかない」

「登ってみたいです」

「うむ。だがな、富士山は登るよりも遠くから眺めていた方がいいかもしれん。山の中に入ってしまうとあの美しさはわからなくなる」

 三郎は富士山の華麗な姿を見つめながらも、浅香の事を思っていた。浅香にも富士山を見せてやりたいと思っていた。

 予定では江尻津(清水港)まで船で行くつもりだったが、沼津で降りる事にした。一気に船で行くよりも、富士山を眺めながら歩きたかった。

 駿河の国(静岡県中東部)は今川家の領国で、今、今川と北条と甲斐(山梨県)の武田は同盟を結んでいた。草津の湯本家は武田に属しているので、ここも味方の国だった。

 右手に富士山、左手に海を眺めながら、二人は駿河の都、駿府(静岡市)へと向かった。

 今川家のお屋形様(氏真)がいる駿府も小田原に負けない程、賑やかな都だった。小田原の城下ではあまり見られないお公家さんたちも多く住み、何となく雅な雰囲気があった。

「どうじゃ、琴音殿の事は忘れられたか」

 浅間(せんげん)様の門前にある宿坊に着いた時、東光坊はそう聞いた。

「琴音?」

 浅香に会ってから、琴音の事はすっかり忘れていた。

「忘れたらしいな、よかった、よかった」

「でも、浅香の事は忘れられません」

「ほう、今度は浅香か。お前も結構、浮気者じゃな」

「そんな、違いますよ」三郎はむきになって否定した。

 東光坊は笑いながら、「どうじゃ、浅香を忘れるために、今度は駿河の女子でも抱いてみるか」とからかった。

「浅香のような女は滅多にいません」

「まあ、そうじゃろうの。あれだけ高級な遊女は滅多におらん。お前、揚げ代がいくらだったか知ってるか」

「そんなの知りません」

「わしらにはとても払えん程、高価じゃ。わしがお屋形様から預かって来た一年分の銭でも足らんのじゃ。小野屋の女将さんに感謝して、浅香の事は夢だったと諦める事じゃ」

「いやだ、俺は諦めない。琴音を諦めて、浅香まで諦めろと言うのか」

「しょうがないんじゃ。どうしても諦めきれなかったら、お前がお屋形様になった時、迎えに行ってやる事じゃな。身請けするにも莫大な銭が掛かるが、お屋形様になればできない事もあるまい」

「俺は諦めない。浅香を絶対に草津に呼んでやる」

「呼んでどうする?」

「妻にする」

「ほう、それもいいじゃろう。まあ、頑張れ」東光坊は三郎を見ながら鼻で笑った。

 三郎はブスッとした顔をして、東光坊を睨んでいた。
3.真田郷








 三郎が京都で武術の修行に励んでいる時、関東では、武田と北条の合戦が繰り返されていた。

 永禄十二年(一五六九年)正月から四月まで、駿河の国で北条軍と睨み合っていた武田軍は、一旦、甲府に引き上げると今度は碓氷(うすい)峠を越えて、上野の国にやって来た。

 草津のお屋形、湯本善太夫は真田源太左衛門、兵部丞(ひょうぶのじょう)の兄弟と共に箕輪城で武田信玄を迎えた。上野の兵も加わって、大軍を率いた信玄は武蔵へと進撃した。北条方の城を攻めながら南下して行き、十月には小田原に迫り、城下を焼き払って小田原城を包囲した。

 簡単には落とせないと見極めた信玄は、四日間だけ包囲して甲府へと引き上げたが、引き上げる途中、北条軍とぶつかり、三増(みませ)峠において激しい合戦が行なわれた。

 勝負は武田軍の圧勝に終わった。しかし、味方の損害もひどく、東光坊の父親、円覚坊(えんがくぼう)は右腕を失う程の大怪我を負ってしまった。幸い、湯本家の者たちは内藤修理亮(しゅりのすけ)の指揮のもと小荷駄隊を守っていたので戦死者はいなかった。

 小田原から引き上げると信玄は休む間もなく、駿河へと出陣した。湯本家は駿河進攻には従わず、北から攻めて来る上杉軍に備えて、岩櫃(いわびつ)城(吾妻町)の守りを固めると共に、上杉方の白井(しろい)城(子持村)を攻撃した。

 三郎は迎えに来た東光坊から話を聞きながら、武田と北条の溝は深くなるばかりだと嘆いた。今の状況では三郎が北条の娘を嫁に貰う事など、とてもじゃないができなかった。その事を信玄に知られたら、間違いなく湯本家は潰される。死ぬ気で修行を積んで来たのに、世の中は三郎が望むようには動かなかった。

 長野原城に帰ると義父、善太夫はいなかった。上杉輝虎(てるとら)(後の謙信)が沼田にいるので、岩櫃城から離れる事はできず、来年の正月を家族で祝う事はできないだろうとの事だった。

 義母たちに挨拶を済ませて、小雨村に帰ろうとした時、三郎を訪ねて来た者があった。

 会ってみると旅の商人で、三郎の知らない男だった。商人は小声で小野屋の女将から頼まれたと言って、手紙を渡すと帰って行った。

 わざわざ、手紙をよこすなんて何事だろう。もしかしたら、琴音が来年、草津に来るのだろうかと浮き浮きしながら読んでみると、手紙の内容は三郎を谷底に突き落とすような残酷なものだった。

 十二月六日、駿河の蒲原城を守っていた幻庵の次男、新三郎と三男の箱根少将長順が武田軍に攻められ、守備兵共々全滅した。

 幻庵には三人の息子がいて、長男の三郎は九年前に戦死し、三郎の長男も五年前に戦死している。次男の新三郎が三郎の跡を継いでいたのに戦死してしまった。跡継ぎを失った幻庵は、琴音に婿を取って跡を継がせるしか道はなくなった。北条のお屋形様、万松軒(ばんしょうけん)と相談し、出家して早雲寺にいた万松軒の八男、西堂を婿に迎える事に決まった。

 十二月十五日、還俗(げんぞく)して北条三郎を名乗った西堂は、琴音と祝言を挙げ、新三郎の跡を継いで小机城主となった。

 琴音は二人の兄の戦死を悲しむ間もなく、祝言を挙げなればならなかった。兄たちが戦死するまでの琴音は来年の正月、三郎が小田原に来るのを首を長くして楽しみにしていた。しかし、兄たちの戦死によって自分の立場に気づいたのか、幻庵の言われるままに従った。琴音は幻庵の屋敷を出て、小机城に移って行った。申し訳ないが、琴音の事は諦めて、早く忘れてほしい。

 手紙にはそう書いてあった。
4.草津








 京都で修行中の三郎のもとに、小野屋からの使いが来たのは菊の花があちこちに飾られていた九月十日の朝だった。

 小野屋は下京の四条通りに出店があり、時々、草津からの便りを持って来てくれた。また、母親が心配して、便りをよこしたのだろうと会ってみると、京都の店では見た事もない行商人だった。

「琴音様が今、草津に向かっております」と行商人は三郎の耳元で囁いた。

 三郎は耳を疑い、もう一度、聞き直した。

「琴音様は祝言を挙げる前に、どうしても、草津に行きたいと幻庵様に申され、幻庵様もお許しになられました。わたくしどもの女将に連れられて、本日、小田原を発つ予定でございます」

「琴音殿が草津に‥‥‥」

 思ってもいない事だった。三郎は一瞬、ぼうっとなっていた。

「三郎様に会いに参るのでございます」と行商人は言った。

「本当ですか」と三郎は行商人の顔を見つめながら聞いた。梅干しのような顔をした行商人が草津温泉の守り本尊、薬師如来様の化身のように思えて来た。

「本当です。すぐに行かれますか」

「はい。お師匠様にお許しを得て、すぐに」

「お供いたします」と行商人は当然の事のように言った。

「えっ、一緒に草津まで?」と三郎は聞いた。

「はい。三郎様にもしもの事がございますれば、わたしとしても責任を取らなければなりません」

「責任を取るって‥‥‥もしかしたら、そなたは風摩ですか」

 行商人は笑っているだけで答えなかった。しかし、ただの行商人ではない事は確実だった。三郎は浮かれている自分を戒めた。もし、行商人が風摩だったら、自分の命を奪いに来たのかもしれない。そんな事はあり得ないとは思うが、今の世の中、何が起こるかわからなかった。

「そなたを信じないわけではないが、小野屋の女将さんの使いだという証拠を見せていただけませんか」と三郎は行商人に言った。

 行商人は笑った。そして、懐から袱紗(ふくさ)のような物を出して三郎に渡した。三郎は受け取ると袱紗を開いて見た。中には櫛が入っていた。秋の草花に赤とんぼが飛んでいる図柄は見覚えがあった。一昨年、初めて京都に来た時、琴音のために買った櫛で、去年の正月、琴音に贈った物だった。琴音も気に入ってくれて、大事にすると言ってくれた。北条三郎に嫁いだ後も大事に持っていてくれたのかと三郎はジーンと胸が熱くなって来ていた。

「琴音様は十六日には草津に着く予定でございます。急がなければなりません」

「わかりました」

 三郎は琴音の櫛を大切にしまうと上泉伊勢守の許しを得て、行商人と共に直ちに草津へと向かった。
5.草津








 琴音と別れてから一年余りが過ぎた。

 元亀三年(一五七二年)正月、三郎は小雨村のお屋形から長野原城へと向かった。四年間の旅も終わり、いよいよ、今年から善太夫のもとでお屋形様になるための修行を積まなければならなかった。

 今、謙信と名を改めた上杉輝虎が越後から廐橋城に出陣しているため、善太夫は家臣を引き連れて岩櫃城に詰めていた。謙信は毎年、冬になると上野にやって来た。お陰で、善太夫を初めとした吾妻郡の武将たちは地元で家族と共に正月を祝えなかった。今年の正月も留守を守る女子供年寄りだけの正月だった。

 琴音と別れた後、三郎はすぐに京都へと向かった。例の小野屋の行商人が女将に頼まれたと言って付いて来てくれた。琴音との楽しかった日々を胸の奥に仕舞って、三郎は京都で厳しい修行を積んだ。その年の暮れには故郷にも帰らず、一年余り、武術修行に熱中した。以前は剣術ばかりをやっていたが、去年は棒術、槍術、弓術の修行にも励み、戦の戦法も学んだ。後は実戦だった。実際に戦を経験して、今までの修行の成果を生かさなければならなかった。

 琴音から貰った尺八の稽古にも励んだ。貴重な尺八を貰ったのだから使いこなせなければ勿体ない。琴音と会う事はもう二度とないだろうが、幻庵とはまた会えるかもしれない。会った時、吹いてみろと言われて恥をかきたくなかった。

 三郎が道場の片隅で下手な尺八を吹いていると、

「それはもしや、幻庵殿の一節切か」と上泉伊勢守が通りがかって聞いて来た。

 そうですと答えると伊勢守はうなづき、

「わしもいただいた」と言って、吹き方を教えてくれた。

「大事にするがいい。この一節切は京都のお公家さんたちも欲しがっている。幻庵殿の手作りじゃから、そう数がある物ではないのでな」

「えっ」と三郎は驚き、「京都でも幻庵殿の一節切は有名なのですか」と聞いた。

「有名じゃよ。音がいいからのう。そんな音を出していたら幻庵殿に申し訳ないぞ」

 若い頃、幻庵が僧侶として京都で修行していたと聞き、三郎は驚いた。京都での修行の後、幻庵は箱根権現の別当職に就き、多くの僧兵や山伏を抱えていた箱根権現を北条家の支配下に組み入れる事に成功した。幻庵が別当職を勤めたのは十年余りで、在職中も辞めた後も京都には何度も来ていて知人は多かった。その交際範囲は広く、有名な高僧、位の高い公家衆、幕府の重臣、連歌師、茶の湯者、果ては遊女から四条河原の芸人たちまで親しく付き合っていた。武芸は勿論の事、鞍作りと尺八作りの名人だという事は三郎も知っていたが、その他に、鼓(つづみ)打ちや幸若舞(こうわかまい)にも堪能で、古典に詳しく、和歌や連歌はお公家さんたちが教えを請う程の技量を持っている。お茶道具の目利きは完璧、お茶を点てれば、うっとり見とれてしまう程の腕前で、絵を描けば狩野派の絵師が唸り、庭園を造れば幕府お抱えの庭師が目を見張り、何をやらせても見事にこなしてしまう芸達者だという。

「すごいお人じゃ」と伊勢守はとてもかなわないという顔をした。

 三郎もすごい人だと思った。改めて、幻庵の偉大さを知り、そんな人と知り合えた事を天に感謝した。
6.里々








 善太夫が故郷で正月を祝うのは久し振りだった。いつもはお屋形様が戦をしているのに浮かれて騒ぐわけにも行かず、自粛気味だったが、今年の正月は白井攻めに成功した事もあって、長野原の城下も小雨村も賑やかな正月になった。しかし、湯本家の者、全員が故郷に帰って来たわけではなかった。小次郎改め左京進に率いられた三十人余りの者が上杉勢に備えて、奪い取った柏原城に詰めていた。それでも、白井城が味方の手に落ちたので、敵がすぐに攻めて来る事はなく、危険な任務ではない。向こうでも故郷の事を思いながら、正月を祝っているに違いなかった。

 年が改まってすぐ、三郎は小野屋の女将から手紙を貰った。琴音が去年、無事に男の子を産み、幻庵は跡継ぎができたと大喜びしている。母親になった琴音は小机城の奥方として家臣たちともうまくやっていると書いてあった。夫となった四郎が人質として甲府に行った事は一言も書いてなかった。心配させまいとの女将の配慮だろう。三郎は琴音の出産を素直に喜び、遠い存在となってしまった琴音の事は思い出として胸の奥にしまって置く事にした。

 十日になると、雪の降る中、三郎は家臣たちを引き連れて柏原城に向かった。三郎たちは左京進たちと交替して柏原城の守備に当たった。

 柏原城は吾妻川と沼尾川の合流する断崖の上に建つ要害だった。沼尾川の西にあるので、吾妻側から攻めるよりも白井側から攻める方が困難で、余程の大軍に囲まれない限り、落とす事は不可能だと思えた。正式な城主が決まるまで、浦野下野守、植栗(うえぐり)河内守、荒巻(あらまき)宮内少輔、そして、湯本家の兵が守っていた。

 二月になって、箕輪城の真田一徳斎から出陣命令が届いた。武田のお屋形様は遠江の二俣城を落とし、三方ケ原で徳川三河守に大勝し、今、三河の国を進撃中だという。織田弾正を倒して一気に上洛する日も近い。上洛軍に負けてはいられない。こっちも一気に沼田の倉内城を落としてしまえという事となった。

 左京進が柏原城にやって来て、湯本家の兵はそのままで、三郎だけが岩櫃城にいる善太夫のもとに向かった。善太夫と共に白井城に行き、真田兵部丞と甘利郷左衛門を大将として沼田攻撃は始まった。

 沼田の倉内城は越後から来た援軍も加わって守りを固め、籠城態勢に入り、城から出ては来なかった。一徳斎は箕輪からも援軍を送ったが、籠城した敵を倒すには兵力が足らなかった。同盟した北条氏は下総方面で戦をやっていて、大軍を上野に向ける事はできそうもない。まごまごしていると越中に出陣している上杉謙信が沼田にやって来る。謙信が出て来たら勝ち目はまったくなかった。

 倉内城を囲んだまま膠着状態が続いた。四月になり、三郎は善太夫より草津に帰るように命じられた。山開きをして、そのまま草津を守れという。三郎は不満だったが仕方がなかった。今まで草津を守っていた左京進は柏原城の城将を務め、草津に帰る事はできない。三郎がやるしかなかった。

 山開きを無事に済ませた三郎はお屋形に入り、草津の家老、宮崎十郎右衛門に助けられながら草津を守った。
7.里々








 二月になると雪山を越えて、上杉謙信が上野に攻めて来た。善太夫は長野原の留守を三郎に頼み、岩櫃城に出陣して行った。三郎も出陣したかったが仕方がなかった。左京進が前線の柏原城を守っているため、留守を守るのは三郎しかいなかった。

 勢いに乗って白井勢がまた、柏原城を攻めるかと思われたが、攻める事はなく、謙信と共に東上野へと向かった。謙信は北条方の城を次々と攻め落とし、太田の金山(かなやま)城を包囲した。金山城を助けるため、小田原から北条相模守(氏政)が大軍を率いてやって来た。利根川を挟んで、上杉軍と北条軍は睨み合った。

 真田一徳斎は相模守に頼まれ、上杉軍の後方を撹乱するため、廐橋城、大胡城、白井城を攻めた。兵站(へいたん)基地である大胡城を攻められ、謙信は陣を引いた。謙信が大胡に向かって来るとの報を聞くと一徳斎は全軍を引かせ、それぞれの城に戻らせた。謙信が引き上げると相模守は金山城に入って情勢を見守った。

 その頃、信玄の跡を継いだ武田四郎(勝頼)は、お屋形様となって初めての戦を見事、勝ち戦で飾っていた。四郎が最初に落とした城は織田方の美濃の明智城だった。父親の意志を継いで、織田弾正(信長)を倒してやると宣戦布告をしたのだった。

 三郎は長野原城で東光坊の配下の者たちが知らせてくれる情報を聞きながら、絵地図の上で合戦を再現し、兵の動かし方を学んでいた。

 十八歳になった弟の小四郎が善太夫に従って出陣していた。信濃の飯縄山で武術の修行を積んだ小四郎は張り切って出掛けて行った。今回の戦は北条氏の依頼に答えての出陣だったため、一徳斎は無理な攻撃はさせなかった。残念ながら小四郎の活躍の場はなかったが、戦の雰囲気に慣れただけでも今後のためになるだろうと思った。

 四月八日、草津の山開きを済ますと三郎は草津に移った。去年、信玄が亡くなってしまったせいか、武田家の家臣たちの湯治は少なかった。それでも、山開きを待ちわびていたかのように湯治客は続々とやって来た。三郎はお屋形に落ち着く事なく、湯治客のために働き続けた。

 里々の行方は依然としてわからなかった。東光坊の配下の山伏は勿論の事、各地を旅している白根明神の山伏たちにも捜すように頼んだが、何の手掛かりも得られなかった。

 里々は信濃の小諸近在の貧しい農家の娘に生まれた。六歳の時、父親は徴兵されて川中島で戦死し、十一歳の時には母親が病死してしまう。里々は二人の弟と共に叔父夫婦に引き取られ、朝から晩までこき使われた。十五歳の時、叔父が大怪我をして働けなくなると口減らしのため人買いに売られ、草津にやって来たという。当然、叔父夫婦の家も捜させたが、何も知らなかった。どこに行ってしまったのか、とにかく無事でいてくれと三郎は朝晩、祈っていた。
8.長篠の合戦








 天正三年(一五七五年)の草津の山開きが近い頃、武田四郎(勝頼)は父、信玄の遺志を継いで、上洛のための出陣命令を領国内に下した。

 去年、高天神城を落として武田軍の健在振りを天下に示したので、いよいよ、織田弾正(信長)を倒し、弾正に追い出された将軍足利義昭を京都に迎えなければならない。武田の家中は一丸となって、打倒織田に燃えていた。

 三郎は善太夫より留守を任された。京都まで行きたかったが、もし、善太夫が戦死した場合、跡を継ぐ者が残っていなければならないと言われ、返す言葉はなかった。

 従兄の左京進は武田軍が上洛した留守を狙ってやって来るに違いない上杉軍に備えて、前線の柏原城を守っていた。草津の町奉行を勤めていた弥五右衛門は目付役として出陣する事になり、左京進の弟、雅楽助が草津町奉行に任命された。今まで善太夫の馬廻衆として活躍していた雅楽助は戦場から離れたくないと善太夫に懇願した。

「今回の出陣は長引く事となろう。徳川を倒し、織田を倒し、京都まで行くとなると、いつ帰って来られるかわからん。その間、留守をしっかりと守ってもらわなくてはならんのじゃ。おぬしと左京進の兄弟には、これから先も三郎の両腕として、湯本家のために働いてもらわなくてはならない。今回は三郎を助けて留守を守ってくれ」

 善太夫にそう言われ、雅楽助はうなづいた。草津の町奉行に任命された雅楽助だったが、草津の事はほとんど知らなかった。三郎は雅楽助に草津の事を色々と教えなければならなかった。

 東光坊は去年の夏より、忍び集団を作るため、白根山中で若い者を鍛えていた。見込みのありそうな男六人、女四人を領内から選び、一年間の厳しい修行の後、残った男三人と女二人をお屋形に連れて来た。

 善太夫は縁側まで出て来て、鍛え抜かれた五人の若者たちを眺めながら、「ものになりそうか」と聞いた。

「何とか、死ぬ覚悟だけはできております」

 東光坊は後ろで控えている若者たちを振り返り、善太夫に紹介しようとしたが、

「一年足らずの修行では、まだ無理じゃろう」と善太夫は言った。

 確かにその通りだと東光坊も思っていた。

「もう一年、みっちりと仕込むつもりでございます。ただ、今回の大戦に連れて行けば何かの役に立つだろうと連れて参りました」

「今回は忍びは連れてはいかん」と善太夫は意外な事を言った。

「えっ」と東光坊は善太夫を見上げた。

「戦が大きすぎるんじゃ。敵も味方も多くの忍びが暗躍する事になろう。源太左衛門殿は当然、円覚坊殿が作った忍び集団を活躍させる。真田氏だけでなく、武田の武将たちが皆、一流の忍びを使うに違いない。わしが忍びを連れて行っても、返って邪魔になるだけじゃ。敵の間者と間違われ、殺されてしまうかもしれん。急ぐ事はない。立派な忍び集団を作ってくれ」

「かしこまりました」と東光坊は重々しくうなづき、若い者たちを雪山の中に帰した。
9.長篠の合戦








 善太夫と戦死した者たちの葬儀も無事に終わった。

 三郎は善太夫の跡を継いで湯本家のお屋形様となり、湯本三郎右衛門(幸綱)を名乗った。三郎右衛門という名は、箕輪攻めで戦死した実の父親の名で、元服した時から名乗っていたが、三郎右衛門と呼ばれる事はなく、ただの三郎で通っていた。お屋形様となり、改めて、三郎右衛門という名を肝に銘じ、二人の父親のためにも、湯本家を守って行かなければならないと決心を新たにした。

 長篠の合戦の湯本家の被害は想像以上のものだった。出陣した六十人のうち、無事に故郷に戻った者はたったの十三人しかいなかった。家老だった湯本五郎左衛門、草津の町奉行だった湯本弥五右衛門、旗奉行の湯本新九郎、鉄砲奉行の山本小三郎、弓奉行の山本与左衛門、槍奉行の富沢孫次郎と坂上(さかうえ)武右衛門、小荷駄奉行の本多儀右衛門、馬廻(うままわり)衆の湯本助右衛門、黒岩忠右衛門、宮崎彦八郎、小林長四郎など主立った家臣が皆、戦死してしまった。湯本助右衛門は三郎右衛門の叔父で生須(なます)湯本家を継いでいた。

 鉄砲隊の中には、以前、共に鉄砲の稽古をした黒岩忠三郎もいた。鉄砲奉行になるんだと暇さえあれば稽古を積んでいたのに異国の地で戦死してしまった。幸い、鉄砲は小野屋の女将の手下によって回収され、無事に戻って来ていた。

 使番を勤めていた関作五郎、馬廻衆の湯本孫六郎と山本与次郎、弓隊にいた小林又七郎、槍隊にいた富沢孫太郎と中沢久次郎、小荷駄隊にいた市川藤八郎は一緒に白根明神で武術の修行を積んだ仲間だった。彼らも皆、死んでしまった。

 なんで、奴らが戦死しなければならないんだ。まだ、二十二、三の若さなのに、どうして死ななければならないんだ‥‥‥何のために奴らは死んで行ったんだ‥‥‥

 ふと、出陣する前、善太夫が言った言葉が脳裏によみがえった。

「新陰流の極意は『和』じゃ」

 人を殺すための武術の極意がどうして『和』なのか、よくわからなかった。

 流祖、愛洲移香斎はいつの日か、戦のない平和な世の中が来る事を願っていたのだろうか。移香斎の弟子だった北条幻庵は移香斎の弟子が各地にいて活躍していたと言っていた。移香斎は各地にいる弟子たちを使って、平和な世の中を作ろうとしていたのだろうか。

 京都で道場を開いている上泉伊勢守も移香斎の意志を継いで、『和』のために新陰流を教え広めているのだろうか。伊勢守の弟子には、敵である織田弾正の家臣たちもいる。共に修行を積んだ堀久太郎も長篠の合戦に参加したのだろうか。これから先、久太郎と敵味方に分かれて戦う事になるのだろうか。共に新陰流を学んだ者同士が戦ったら伊勢守は悲しむに違いない。

「新陰流の極意は『和』じゃ」と言った善太夫の最期の言葉を噛み締め、三郎右衛門は様々な思いを巡らせていた。
10.毘沙門天








 長篠で戦死した者たちの四十九日の法要も無事に済んだ八月の吉日、秋晴れの穏やかな日に、お松が真田から草津に嫁いで来た。付き添って来たのはお松の祖父、矢沢薩摩守と小草野新五郎だった。新五郎は人質になって真田にいた善太夫の長女、おナツと祝言を挙げていて、一つ年上だったが三郎右衛門の義弟という関係になってた。

 婚礼の儀は草津のお屋形で行なわれ、披露宴は善太夫の湯宿で行なわれた。花嫁姿のお松は緊張しているのか、人形のようにずっと黙っていた。化粧のせいか、去年、会った時よりずっと大人っぽくなり、美しい女になっていた。

 夜も更けて披露宴もお開きになり、お屋形に帰って、ようやく、二人きりになるとお松は笑って、「やっと、草津に参りました」と言った。

「ようこそ」と言って、三郎右衛門はお松の手を取った。

 お松は恥ずかしそうに三郎右衛門に手を預けたまま、うつむいた。

「初めて、そなたに会った時、そなたはまだ子供だった。あれから何年が経ったのだろう」

「五年余りが経ちました」とお松はすぐに答えた。「あの時、十一だったわたしも十六になりました」

「そうか、五年にもなるのか」

 あっと言う間の五年間だった。しかし、様々な事が変わってしまった。あの時、右腕を失って真田で療養していた円覚坊はいない。武田信玄が亡くなり、一徳斎が亡くなり、源太左衛門、兵部丞が戦死し、善太夫も戦死した。あの時、わずか五年後に自分が湯本家のお屋形様になるなんて夢にも思っていなかった。

「三郎様がわたしの事をいつも、子供扱いするのが憎らしゅうございました」

「憎らしかったのか。そいつはすまなかった。でもな、そなたと同じ位の妹がいるんだ」

「おアキ様とおしの様でございますね」

「うん、そうだ。アキはお亡くなりになったお屋形様の娘で、義理の妹なんだ。しのの方は実の妹でな、そなたも妹のような感じだったんだよ」

 お松は顔を上げて三郎右衛門を見た。お屋形様になった三郎右衛門は去年会った時よりも大人びて見えた。口髭を蓄えたせいかも知れなかった。

「今でもそう思っていらっしゃるのですか」

「いや、そんな事はない。お松は俺の妻だ。まだ草津の事を何も知らないそなたにとって、色々と大変だろうが、お松ならできる。湯本家のお屋形の妻として、末長く、よろしく頼むよ」

「はい」とお松は大きな目でじっと三郎右衛門を見つめてうなづいた。

 お松の目には強い決心の気持ちが現れていた。五年前、真田にいた時、ちょこまかと三郎右衛門の世話をしてくれたお松を思い出し、あの時からずっと、自分の事を思っていてくれたのかと、いじらしくなり、お松を嫁に迎えて本当によかったと思った。三郎右衛門はお松を引き寄せると優しく抱き締めた。

「三郎様‥‥‥」とお松はつぶやき、大きな目から涙をこぼした。

「どうした、怖いのか」

 お松は首を振り、「やっと、三郎様のもとに来られたのでございますね」と泣きながら言って、「夢みたい」とつぶやいた。
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