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2017 .05.27
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9.長篠の合戦








 善太夫と戦死した者たちの葬儀も無事に終わった。

 三郎は善太夫の跡を継いで湯本家のお屋形様となり、湯本三郎右衛門(幸綱)を名乗った。三郎右衛門という名は、箕輪攻めで戦死した実の父親の名で、元服した時から名乗っていたが、三郎右衛門と呼ばれる事はなく、ただの三郎で通っていた。お屋形様となり、改めて、三郎右衛門という名を肝に銘じ、二人の父親のためにも、湯本家を守って行かなければならないと決心を新たにした。

 長篠の合戦の湯本家の被害は想像以上のものだった。出陣した六十人のうち、無事に故郷に戻った者はたったの十三人しかいなかった。家老だった湯本五郎左衛門、草津の町奉行だった湯本弥五右衛門、旗奉行の湯本新九郎、鉄砲奉行の山本小三郎、弓奉行の山本与左衛門、槍奉行の富沢孫次郎と坂上(さかうえ)武右衛門、小荷駄奉行の本多儀右衛門、馬廻(うままわり)衆の湯本助右衛門、黒岩忠右衛門、宮崎彦八郎、小林長四郎など主立った家臣が皆、戦死してしまった。湯本助右衛門は三郎右衛門の叔父で生須(なます)湯本家を継いでいた。

 鉄砲隊の中には、以前、共に鉄砲の稽古をした黒岩忠三郎もいた。鉄砲奉行になるんだと暇さえあれば稽古を積んでいたのに異国の地で戦死してしまった。幸い、鉄砲は小野屋の女将の手下によって回収され、無事に戻って来ていた。

 使番を勤めていた関作五郎、馬廻衆の湯本孫六郎と山本与次郎、弓隊にいた小林又七郎、槍隊にいた富沢孫太郎と中沢久次郎、小荷駄隊にいた市川藤八郎は一緒に白根明神で武術の修行を積んだ仲間だった。彼らも皆、死んでしまった。

 なんで、奴らが戦死しなければならないんだ。まだ、二十二、三の若さなのに、どうして死ななければならないんだ‥‥‥何のために奴らは死んで行ったんだ‥‥‥

 ふと、出陣する前、善太夫が言った言葉が脳裏によみがえった。

「新陰流の極意は『和』じゃ」

 人を殺すための武術の極意がどうして『和』なのか、よくわからなかった。

 流祖、愛洲移香斎はいつの日か、戦のない平和な世の中が来る事を願っていたのだろうか。移香斎の弟子だった北条幻庵は移香斎の弟子が各地にいて活躍していたと言っていた。移香斎は各地にいる弟子たちを使って、平和な世の中を作ろうとしていたのだろうか。

 京都で道場を開いている上泉伊勢守も移香斎の意志を継いで、『和』のために新陰流を教え広めているのだろうか。伊勢守の弟子には、敵である織田弾正の家臣たちもいる。共に修行を積んだ堀久太郎も長篠の合戦に参加したのだろうか。これから先、久太郎と敵味方に分かれて戦う事になるのだろうか。共に新陰流を学んだ者同士が戦ったら伊勢守は悲しむに違いない。

「新陰流の極意は『和』じゃ」と言った善太夫の最期の言葉を噛み締め、三郎右衛門は様々な思いを巡らせていた。
 東光坊が各地に放った忍びの活躍によって、詳しい状況が知らされると、驚きと共に悲しみは増えるばかりだった。なんと、吾妻衆を率いて行った真田のお屋形様、源太左衛門が戦死していた。弟の兵部丞も戦死し、矢沢薩摩守の三男、源三郎も戦死していた。そして、東光坊の父親で真田の忍び集団を作っていた円覚坊も壮絶な戦死を遂げていた。

 吾妻勢では鎌原城主の鎌原筑前守、三島城主の浦野下野守、岳山城の池田甚三郎、甚四郎の兄弟、沢渡の富沢治部少輔、岩下城主の富沢但馬守の長男、勘十郎らが戦死し、雁ケ沢城主の横谷左近、植栗城主の植栗河内守が重傷を負っていた。そして、彼らが率いて行った兵たちの半数以上が故郷に戻っては来なかった。

 さらに、武田軍においては勇名を馳せた名だたる武将が数多く戦死していた。お屋形様の叔父、武田兵庫助、信濃牧之島城主の馬場美濃守、上野箕輪城主の内藤修理亮、駿河江尻城主の山県三郎兵衛、陣場奉行の原隼人佑、侍大将の土屋右衛門尉、同じく甘利郷左衛門、足軽大将の横田十郎兵衛、同じく三枝勘解由左衛門と錚々たる顔触れが亡くなっていた。今後、武田家が立ち直るのは容易な事ではないだろうと誰もが思った。

 お屋形様となった三郎右衛門は善太夫や亡くなった者たちの死を悲しむ暇もなかった。湯本家を再編成しなければならず、また、負傷して草津に押し寄せて来た武田家の武将たちの世話もしなければならなかった。改めて、従兄の雅楽助を草津の町奉行に任命し、草津の事は任せていたが、休む間もない程に忙しかった。

 梅雨もようやく上がった六月の半ば、武藤喜兵衛が草津に来たとの知らせが長野原に届き、三郎右衛門は直ちに草津に向かった。喜兵衛は風呂上がりのさっぱりした格好で待っていた。一緒に喜兵衛の叔父である矢沢薩摩守がいた。

 お互いにお悔やみの挨拶をした後、「まさか、俺が真田家を継ぐ事になるとは思ってもいなかった」と喜兵衛は苦笑した。

「やはり、喜兵衛殿が真田家を継いだのですね」

「ああ。二人の兄貴が一遍に死んじまったからな。まったく、こんな事が起こるとは‥‥‥今になっても信じられん事だ。上の兄貴には九つになる娘が一人いるだけで跡継ぎはいなかった。下の兄貴にはいるが、まだ二歳なんだ。お屋形様の命で、俺が真田家に戻る事に決まったよ。おぬしも湯本家の跡を継いだそうだな。これから、さらに戦乱の日々が続く事になろう。よろしく頼むぞ」

 三郎右衛門は真田家のお屋形様となった喜兵衛に頼むぞと言われ、姿勢を改め、かしこまって頭を下げた。

「なに、そんなに堅くならなくてもいい。お互いに武田家の家臣という立場は同じだ。真田家は吾妻衆の寄親という立場にいるが、寄子たちの助けがなければ何もできんのだ。これからも一致団結して、上杉勢と戦おうではないか」

「かしこまりましてございます」

「こんな時に何なんじゃが、松の事なんじゃがな」と薩摩守が言った。「この際、早いうちに祝言を挙げた方がいいじゃろう。武田のお屋形様には、すでに許しを得ている。そなたもお屋形様になったからには早いうちに跡継ぎを作らなければならんからのう。松はなりは小さいが体は至って丈夫じゃ。今まで病らしい病に罹った事もないからの」

「いや、恋の病とやらに罹ってるらしいな」と喜兵衛が楽しそうに笑った。

「まったくじゃ。真田におぬしの親父の供養塔があるんじゃが、松の奴、まるで、おぬしに会いに行くように、いそいそと花を持って毎日、通っておるわ。わしが言うのも何じゃが、あれはいい嫁になる。三郎右衛門殿、松の事をよろしく頼む。松の親父に代わってお願いする」

 薩摩守は三郎右衛門に頭を下げた。

 三郎右衛門はまたかしこまって、「こちらこそ、よろしくお願いいたします」と丁寧に頭を下げた。

「四十九日が済んだら、盛大にやろうじゃないか。伜の奴、無事に戻って来たんじゃがのう、源太左衛門殿と兵部丞殿を助けられなかったと嘆いておるわ。一時は殉死をすると騒いでいたんじゃが、ようやく落ち着いた。娘の花嫁姿を見たら、少しは気も紛れるじゃろう」

 その夜、喜兵衛と薩摩守は草津に泊まった。薩摩守は草津に来たのは久し振りだと温泉に浸かり過ぎ、湯疲れして先に休んでしまった。三郎右衛門は喜兵衛と酒を酌み交わしながら、長篠の合戦の模様を詳しく聞いた。当時、喜兵衛はお屋形様の側近くにいたので状況をすべて把握していた。

「織田と徳川の連合軍が設楽ケ原に現れたのは五月十八日だった。翌日、我が武田軍は決戦するべく、長篠城攻撃を小山田備中守殿に任せ、鳶ケ巣山の砦を兵庫助殿に任せて、設楽ケ原に進軍したんだ。ところが、敵はまったく攻めては来ないで、陣地を固めるのに必死になっていた。お屋形様は重臣たちを集め、軍議を重ねた。敵が攻めて来ないなら、長篠城を落として、今回は引き上げた方がいいと言う者と、敵を目前にして背を見せて逃げたら武田の恥になる。攻めて来ないのなら、こちらから攻めて、追い散らせてやれと言う者が対立した。お屋形様は忍びを放って敵情を調べ、敵が築いている陣地が半里にも及ぶ長さがあるという事を知ったんだ。半里もの長さで陣を展開すれば、当然、敵陣の厚みは薄くなる。一ケ所が破れ、敵の後方に回る事ができれば、敵は混乱に陥り壊滅するに違いない。そう結論を出し、決戦に踏み切ったんだよ。誰もが勝てると確信して、決戦に及んだんだ。二十一日の早朝より決戦は始まった。敵の鉄砲にやられ、味方の損害はひどかったが、昼近くになると第一、第二の土塁を崩し」

「えっ」と三郎右衛門は驚き、「敵はそんなに幾重にも土塁を築いたのですか」と聞き返した。

「そうなんだ。真田隊が最初の土塁を確保した時、俺は金(かね)掘り衆を連れて、そこまで行って土塁に上がって見た。第二の土塁が見えたよ。当然、土塁の前には空堀があった。第二の土塁を確保した時、俺はお屋形様の側にいて、知らせを聞いて、さらに第三の土塁がある事を知ったんだ。織田弾正は武田の騎馬隊を相当に恐れていたようだ。真田隊が第二の土塁を確保した頃になると、あちこちで第一の土塁を壊し始めていた。お屋形様は一番早く第二の土塁を確保した真田隊の所に穴山玄審頭殿の隊を送ったんだ。第三の土塁を壊せば敵の背後に出られ、勝利は目に見えていた。しかし、真田隊が第二の土塁を壊し始めようとした時、敵の鉄砲隊が左右から攻撃して来て真田隊はやられた。一旦、兵を引き、陣を立て直して攻撃に移れば、被害は真田隊だけで済んだんだ。ところが、真田隊を救援に行った穴山殿が敵の攻撃に反撃する事もなく、さっさと退却してしまった。穴山殿を追って敵が勢いよく追撃して来た。敵の陣を突破するはずが、逆に味方の陣が敵に突破されてしまったんだ。味方は混乱に陥り、陣を立て直す事もできず、逃げるしかなかった」

「穴山殿というのは武田の一族だと聞いておりますが」

「そうだ」と言って喜兵衛は舌打ちした。「玄審頭殿の母親は先代のお屋形様の姉上殿なんだ。そして、玄審頭殿の奥方は今のお屋形様の姉上殿だ。お屋形様から見れば従兄であり義理の兄上でもあられるお人なんだよ」

 喜兵衛は一息に酒を飲み干すと、口を歪めた。

 三郎右衛門は喜兵衛の酒盃に酒をつぎながら、「そのお人が負け戦の原因を作ったのですか」と聞いた。

 喜兵衛は驚いたような顔をして三郎右衛門を見て、首を振った。

「敗因はそれだけではないんだが、玄審頭殿が退却せずに、踏み留まっていてくれたなら、あんなに惨めな負け戦にはならなかっただろう。もう一つの敗因は鳶ケ巣山の奇襲だったんだよ」

「鳶ケ巣山の奇襲? そんなのがあったのですか」

 三郎右衛門は円実坊の絵図を思い出した。鳶ケ巣山というのは長篠城の東を流れる大野川の対岸の山だった。

「その事に誰も気づかなかった。織田弾正は武田軍を恐れて陣地を構えていると見せながら、密かに別動隊を鳶ケ巣山に向け、決戦のあった二十一日の早朝、鳶ケ巣山を占領してしまった。敵は鳶ケ巣山から長篠城に入り、武田軍を挟み打ちにしたんだよ。その知らせが届いたのは決戦が始まって一時(二時間)ほど経った頃だった。織田軍が長篠城に入ってしまえば退却する事もできん。しかも、鳶ケ巣山にあった兵糧もすべて奪われてしまった。残る手段は敵の陣地を突破して、敵を追い散らすしかなくなってしまったんだ」

「敵が鳶ケ巣山を攻めるかもしれないとは考えなかったのですか」

 喜兵衛はくやしそうな顔をして酒を飲んだ。

「残念ながら誰も考えなかった。鳶ケ巣山というのは敵から見ると、長篠城よりも向こうに見える山なんだ。しかも、決戦の行なわれた設楽ケ原の東には険しい豊川が流れ、その川を越えて、道なき山中を通らなければならない。まして、決戦の前日には雨が勢いよく降っていた。まさか、あの雨の中、道なき山中を通って鳶ケ巣山を攻めて来るとは‥‥‥」

 喜兵衛はそこで言葉を切り、首を振ると月明かりに照らされた庭を眺め、「草津は涼しくていいな」と言って、力なく笑った。

 喜兵衛はしばらく庭の方をじっと見つめていた。時々、頬の肉がピクピクと動いていた。

「織田弾正という男、やはり、恐ろしい男ですね」と三郎右衛門は喜兵衛の横顔に言った。

「ああ、実に恐ろしい男だ」

 喜兵衛は低い声でそう言ってから、三郎右衛門を見ると、「そういえば、おぬし、以前、京都で織田弾正と会ったとか言っていたな」と聞いた。

「いえ、会ったわけではなく、ただ、遠くから見ただけです」

「それでも、人となりはわかろう」喜兵衛は興味深そうな目を向けた。

 三郎右衛門はうなづいた。「織田弾正が初めて将軍様をお連れして京都に入って来られた時、京の人々は大騒ぎでした。織田の兵に略奪させれると心配したのですが、織田の軍勢は規律正しく、決して略奪などしませんでした。将軍様のために立派な御殿も建て、誰もが弾正の事を褒め、評判のいい殿様だったのです。ところが、比叡山の僧侶を皆殺しにした頃より、何をしでかすかわからない恐ろしい殿様だ。決して、逆らわない方がいいと誰もが思うようになりました」

「比叡山の焼き打ちか。噂に聞いておる。亡くなられたお屋形様もひどい事をするものじゃと嘆いておられた。去年の秋には本願寺の門徒を二万人余りも焼き殺したそうだな」

「はい、そのようです」

「確かに恐ろしい男だが、この先、何度も戦わなくてはなるまい。そして、いつの日か、倒さなくてはなるまいな」

 織田弾正を倒すのは難しい事だと思った。しかし、すでに織田弾正は遠い存在ではなく、武田の目の前に立ち塞がる敵になっていた。喜兵衛の言うように、いつかは倒さなくてはならなかった。

「まあ、しばらくのうちは態勢を立て直さなければならない。勿論、吾妻衆もだ」

 翌日、三郎右衛門は真田喜兵衛の供をして岩櫃城へ向かった。

 岩櫃城は険しい岩山の中腹にある堅城で、政治的にも吾妻郡の中心となっていた。城代として城を守っているのは海野長門守と能登守の兄弟で、二人とも、すでに六十を過ぎた老将だった。長門守には三人の男子がいたが、長男と次男は二十四年前に戦死し、三男は夭折(ようせつ)し、その後、男子に恵まれず跡継ぎはいなかった。能登守には二人の男子がいて、長男の中務少輔は岩櫃城にいて、跡継ぎとして戦でも活躍していた。次男の彦次郎は人質として甲府に行き、その後、駿河の江尻城主となった山県三郎兵衛の家臣になっていた。

 長門守、能登守、中務少輔の三人に迎えられ、喜兵衛、矢沢薩摩守、そして、三郎右衛門は城内へと入った。前以て知らせてあったのか、吾妻郡の主立った武将たちが本丸の広間に集まっていた。鎌原氏、西窪氏、横谷氏、植栗氏、大戸(おおど)氏、池田氏の六人で、湯本氏を含めて吾妻七騎と呼ばれていた。海野兄弟と吾妻七騎が武田家の家臣になっていて、真田氏の指揮下にあった。

 鎌原氏は当主だった筑前守が長篠で戦死し、跡継ぎの孫次郎はまだ十二歳だった。仕方なく、隠居していた祖父の宮内少輔(くないしょうゆう)が老体に鞭打ち、やって来ていた。

 西窪氏の当主は治部少輔で二十歳、父親は十年前の岳山合戦で戦死し、蔵千代と呼ばれていた十歳の時、家督を相続した。長篠に出陣したが、家臣たちに守られ運よく生き延びて戻っていた。

 横谷氏は当主の左近が長篠で重傷を負い、跡を継いだ信濃守が来ていた。

 植栗氏も当主の河内守が長篠で重傷を負っていて動けず、十九歳の嫡男、彦五郎が来ている。

 大戸氏は留守を守っていて長篠に行かなかった丹後守が来ていた。丹後守の名代として出陣した同族の三島城主、浦野下野守が戦死していた。

 池田氏は当主の佐渡守が去年の合戦で片足を失い馬に乗る事ができず、長男の甚次郎が来ていた。甚次郎は二人の弟と共に長篠に出陣した。甚次郎は無事だったが、甚三郎、甚四郎の二人の弟は帰って来なかった。

 居並ぶ十人の武将を前に、喜兵衛は真田家のお屋形様として挨拶をし、今後の事を相談した。

「亡くなった者たちの所領を安堵し、跡継ぎを速やかに決め、また、才能ある者をどしどし採用して適所に配置するようにしてほしい」と喜兵衛は言ってから、しばらく間を置き、「これは真田の事なのだが、屋形を移す事にした。これからは戸石城を本拠地にして、麓の伊勢山の地に新しい屋形を作る事に決めた。もうすでに普請も始まっている。今年中には完成させようと思っている。完成したら、そなたたちも招待しようと思っているので、是非、来てほしい」

 その後、喜兵衛は長門守より敵の状況を詳しく聞き、味方の将の配置を確認した。

 岩櫃城は城代として海野長門守、能登守兄弟が守り、前線の柏原城は植栗彦五郎、湯本左京進、海野の家臣である荒牧宮内少輔が守っている。同じく前線の岩井堂城は海野の家臣、富沢伊予守、富沢豊前守、唐沢玄審助、割田下総守、佐藤将監(しょうげん)、塩谷掃部助(かもんのすけ)らが守っている。大戸の手古丸城は大戸丹後守が守り、三島城は丹後守の家臣、浦野中務大輔と海野の家臣、一場太郎左衛門が守っている。岳山城は池田甚次郎と海野の家臣、桑原大蔵、鹿野(かの)新左衛門が守り、蟻川岳の要害は海野の家臣、蟻川入道と植栗彦五郎の伯父、神保佐左衛門が守っていた。

 絵地図を眺めながら喜兵衛はうなづいた。

「うむ、とりあえずはそれでいいだろう。ただ、戦力の補充は成るべく早く、行なってほしい。今回の負け戦で武田方が弱っていると見て、近い内に上杉勢が攻めて来る事となろう。決して、敵に弱みを見せてはならん。敵に付け入らせてはならんのだ」

「喜兵衛殿に言われるまでもござらん。そなたのお父上、一徳斎殿に頼まれ、吾妻の地を任されてから、わしらはこの吾妻郡を守り通して来た。これからも見事に守り通して見せますぞ」と海野長門守が言って、能登守と顔を見合わせると力強くうなづいた。

 喜兵衛もうなづき、皆の顔を見回した。

「今回はこれで引き上げる事にする。真田の方も大変でな、色々と忙しい。また、甲府へも行かなければならん。腰が落ち着いたら、改めて来る事になろう。それまで吾妻の事、よろしくお頼み申す」

 喜兵衛はそう言って、矢沢薩摩守を連れて岩櫃城を後にした。三郎右衛門も一緒に帰ろうとしたら、能登守に引き留められた。今後の事を相談したいと言う。

 喜兵衛の一行を見送った後、残った者たちは再び、本丸の広間に集まって車座になった。

「まず、湯本殿に聞きたい事がある」と長門守が怒ったような顔をして言った。「そなた、どうして喜兵衛殿と一緒に来たのじゃ」

「一緒に来いと言われたからですが」と三郎右衛門は素直に答えた。何となく、皆の雰囲気がおかしかった。不審の目で三郎右衛門を見ているようだった。

「ほう。長野原で喜兵衛殿を迎え、一緒に来たと申すのか」

「いえ。草津に喜兵衛殿が来られたとの知らせが長野原に参り、慌てて、草津に向かったのでございます」

「喜兵衛殿が来る事を知らなかったのか」

「はい。知りません」

「そいつはおかしいぞ。わしらは皆、喜兵衛殿から知らせを受け、ここに集まって来たのじゃ。そなただけ、その事を知らなかったとはおかしな事じゃ」

「本当でございます。わたしは知りませんでした。ここに来て、皆が揃っているので驚いた程でございます」

「ふーむ。一体、どういう事じゃ」長門守は信じられんという顔をして能登守を見た。

 能登守はじっと三郎右衛門を見つめていた。

 三郎右衛門は皆の顔を見回してから、長門守に視線を戻して説明をした。

「喜兵衛殿は以前から、ここに来られる時は必ず、草津に寄っておりました。それで、今回も草津の湯に浸かってから行くつもりだったのではないでしょうか。それで前以て、知らせをよこさなかったのだと思いますが」

「成程な。そなたは喜兵衛殿と随分と仲がいいと見える。それで、喜兵衛殿は昨夜、草津に泊まったのか」

「はい」

「そなた、草津で喜兵衛殿と何を話したのじゃ」

「長篠の合戦の事を聞きました」

「それだけか」

「それだけです」

「そうか」と言ったが、長門守は三郎右衛門が何かを隠しているのではないかと疑っているようだった。

「兄上、その事はもういい」と能登守が口を挟んだ。「それより、今後の事を決めなくてはならん」

 わかったというように長門守が渋々とうなづくと、能登守は話を続けた。

「わしらは今まで、一徳斎殿に従って武田方として戦って来た。しかし、一徳斎殿はすでにいない。一徳斎殿の跡を継がれた源太左衛門殿も長篠でお亡くなりになられた。そして、先程、挨拶があったように喜兵衛殿が真田家のお屋形様となられた。長篠の合戦では武田勢は織田徳川の連合軍に敗れ、多大な損害を被った。もし、今、上杉の大軍が攻めて来たら、援軍を期待するのは難しいじゃろう。この吾妻の地を守り抜くために、吾妻衆として今後どうしたらいいか、その対策を練ってみたいと思って、皆に残ってもらったんじゃ」

「今後の対策じゃと?」と鎌原宮内少輔が言った。「そんな事は、今のまま武田方として、上杉と戦うのに決まっておろうが」

 宮内少輔は目を吊り上げて怒鳴った。能登守は不敵に笑いながら宮内少輔を見ていた。

「鎌原殿の領地は信濃に近いからのう、もっとも安全じゃ。武田方に着くのは当然じゃな。しかし、もし、この城を敵に取られてしまえば安全とは言えんじゃろう」

「能登守殿、もしや、裏切る気ではあるまいのう」宮内少輔が言うと、皆の視線が一斉に能登守に集まった。

「そうではない。わしが言いたいのは、今後、吾妻衆は以前より増して一致団結せねばならんと言う事じゃ。上杉勢が東から攻めて来れば、柏原城と岩井堂城が前線となる。しかし、大軍に攻められたら、その二つの城は一溜まりもない。やはり、この岩櫃で敵を食い止めるしかあるまい。敵が北から攻めて来れば蟻川城と岳山城で食い止めなければならない。岳山と岩櫃が敵の手に落ちれば吾妻は全滅となろう。また、今は味方ではある北条も以前のように敵となる事も考えられる。北条が敵となり南から攻めて来れば、大戸の手古丸城が前線となる。今回の長篠の負け戦で様々な噂が飛び交っている。信玄殿の死は未だに公表されてはいないが、敵は皆、知っている。今後、敵から寝返りの誘いが来るかもしれんが、決して、そんな誘いには乗らず、一致団結して、この吾妻の地を守り抜こうではないか。武田の家臣である以前にわしらは吾妻衆である。その事を肝に銘じてほしい。わしの言いたいのはそれだけじゃ」

「意見のある者はおるかな」と長門守が皆の顔を見回した。

「今更、改めて言う程の事でもあるまい。吾妻衆が一致団結するのは当然の事じゃ」

「まあ、鎌原殿の言う通り、一徳斎殿と共に戦って来た、わしらとしては当然の事なのじゃが、若い者たちにはわからんと思ってな、この場をもって改めて言ってみたんじゃよ」

「成程、そういう事か」と鎌原宮内少輔は改めて、一同の顔を眺めた。

 湯本三郎右衛門を初めとして、西窪治部少輔、植栗彦五郎と一徳斎を直接に知らない者がいた。

「意義のある者もいないので、改めて、吾妻衆は武田の先鋒として真田喜兵衛殿と共に上杉と戦う事に決めた。それでよろしいな」と能登守は皆の顔を見回した。

 皆、厳しい顔付きでうなづいた。その後、それぞれが長篠での被害状況を説明し、具体的に今後の事を話し合った。評定が終わったのは日暮れ間近になっていた。集まった者たちはそれぞれ、城内にある屋敷に引き上げた。

 岩櫃城の城内には吾妻七騎の屋敷と海野氏の重臣たちの屋敷があった。城代の海野長門守は本丸にある屋敷に住み、能登守は二の丸にある屋敷に住んでいる。能登守の嫡男、中務少輔の屋敷は二の丸の南側にあった。中城(なかじろ)と呼ばれている広い曲輪には奉行所と八幡社があり、一徳斎が使用していた真田屋敷もあった。海野氏や海野家の重臣たちは家族と共に城内の屋敷で暮らしているが、真田氏や吾妻七騎の武将たちは非常時以外は本拠地にいるので、留守を守る者が数人残っているだけだった。

 湯本家の屋敷は中城と天狗の丸の中程にあり、平川戸の城下町の近くにあった。一徳斎に滅ぼされた斎藤越前守が岩櫃城主だった頃は斎藤家の重臣だった海野能登守の屋敷だった。能登守が造ったという立派な庭園があり、庭園内には茶室も建っている。屋敷の床の間には能登守が描いた見事な山水画も飾ってあり、お茶道具や様々な書物も能登守から譲られた物だという。三郎右衛門が能登守と話をしたのは今日が初めてだった。ギョロッとした鋭い目付きをしていて近づき難い感じを受けるが、風流も充分に理解している立派な武将のようだった。

 三郎右衛門が共に連れて来た家臣たちと一緒に飯を食べていると海野能登守が何の前触れもなく、のそっと庭に入って来た。三郎右衛門が慌てて、そこらを片付けようとすると手を振って、「そのままでいい。少し付き合ってくれんか」と縁側に腰を下ろし、持って来た瓢箪(ひょうたん)を捧げた。

 三郎右衛門はすぐにお椀と適当な肴を用意して縁側に行った。

「善太夫殿も戦死したそうじゃな。あれ程の腕を持ちながら惜しい事をした」

 以前、善太夫から能登守が武術の達人で岩櫃城内で武術を教えていると聞いた事があったのを三郎右衛門は思い出した。

「善太夫殿とは何度か、武芸の話をしながら飲んだものじゃ」

「そうだったのですか」

「うむ。まあ飲め」

 三郎右衛門は能登守と酒を酌み交わした。東の空に満月が出ていた。

「いい面構えをしておる。京都まで行き、上泉伊勢守殿の道場で修行を積んだそうじゃのう。善太夫殿もいい跡継ぎに恵まれたものじゃ。湯本家も安泰じゃな」

「いえ、そんな‥‥‥」三郎右衛門は照れながら、能登守に酒を注いだ。

「わしも昔、京都に行った事があるんじゃよ。今は亡き将軍様に武芸を教えた事もあった」

「えっ、将軍様にですか」

 強いとは聞いていたが、将軍様に教える程の腕前とは知らなかった。三郎右衛門は改めて能登守を見直した。能登守は静かな顔をして月を眺めていた。

「わしの師匠はな、やはり亡くなってしまわれたが、塚原卜伝(ぼくでん)殿というお方なんじゃ。卜伝殿と一緒に若い将軍様に武芸を教えたんじゃよ。残念な事に、その将軍様は松永弾正とかいう男に殺されてしまった‥‥‥わしはな、十八の時、武芸の修行を積むために旅に出たんじゃ。師匠に連れられて、あちこち旅をした。信玄殿と出会い、甲府に留まったのは三十三の時じゃった。甲府で妻を迎え、戦にも参戦したが、やはり、一ケ所には留まる事ができないのか、妻子を甲府に残して、また旅に出た。京都に行ったのはその時じゃ。師匠と偶然に出会い、将軍様に武芸の指導をしたんじゃよ。故郷の羽尾(はねお)に帰って来た時には四十六になっていた。わしは兄貴の勧めもあって斎藤越前守に仕え、ここに道場を開いた。一徳斎殿が攻めて来るまでの八年間、わしは若い者を鍛えた。しかし、その若い者たちはほとんど戦死してしまった。一徳斎殿によって斎藤氏は滅ぼされ、わしは兄貴と共に領地を奪われて信濃に行き、一徳斎殿に身柄を預けられる事になった。三年後、一徳斎殿によって岩櫃の城代に選ばれ、再び、吾妻に戻る事ができた。わしが生まれた羽尾の土地は湯本氏のものとなっていたが、その代わりに斎藤氏の遺領を与えられた。わしは再び道場を開いて、若い者たちに武芸を教えたんじゃ。わしが岩櫃に戻って来てから、もう九年になる。数多くの者たちに、わしは武芸を教えた。その内の半数以上の者たちが戦で死んで行ったんじゃよ。今回の戦でも、わしの弟子たちが多く亡くなってしまった。戦がある度に、教え子が死ぬんじゃよ。まったく、やりきれんわ」

 能登守は酒を飲みながら、ぼそぼそと話を続けた。

 三郎右衛門は能登守の話を黙って聞いていた。能登守は半時(一時間)近く、教え子の事を話し続けた。

「愚痴を聞かせてしまって、すまなかった。武芸者の事は武芸者にしかわからんと思ってな。そなたなら、わしの気持ちもわかってくれるじゃろうと思ったんじゃよ。善太夫殿にも言ったんじゃが、人を殺すための武芸ではなく、人を生かすための武芸をこれからも教えて行くつもりじゃ」

「人を生かすための武芸ですか」

「そうじゃ。新陰流の極意である『和』と同じじゃよ」

 能登守は笑うと機嫌よく帰って行った。
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