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2017 .11.23
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13.二人の女








 甲府から帰って来た三郎右衛門は二人の女に悩まされていた。一人はやっとの思いで忘れたのに、思いもしない場所で再会した里々、もう一人は陰ながら三郎右衛門を守って甲府まで行ったキサラギだった。

 二度と会う事はない、忘れようと思っても、再会した時の里々の顔が瞼から離れなかった。それに、顔付きも体つきも三年前と同じように見えたのに何かが違っていた。その何かがわからないのも気に掛かっていた。

 キサラギは甲府から帰るとやぼったい女中に戻って、何もなかったような顔をして台所で働いていた。生須村にいる父親が急に倒れたと言って半月間、休みを貰ったらしい。冬住みの間はキサラギもおとなしかった。三郎右衛門と出会っても、頭を下げるだけで言葉を交わす事もなかった。やがて、草津の山開きとなり、三郎右衛門はお松と子供を連れて草津のお屋形に移った。台所で働く女中たちも何人かは草津に移った。ムツキは草津に移ったが、キサラギは長野原に残ったらしい。

 その頃、上杉謙信が大軍を率いて関東に攻めて来るとの風聞が流れ、三郎右衛門は兵を率いて柏原城に詰めていた。草津の事は雅楽助に任せ、左京進と共に柏原城を取り返そうと攻めて来る白井勢と戦っていた。幸い、謙信の関東出陣は中止となり、白井勢も城攻めを諦めて引き上げて行った。三郎右衛門が長野原に戻って来たのは五月の初めだった。具足(甲冑)を脱ぎ、妻子のいる草津に行こうと思ったが、留守の間に起こった様々な事を片付けているうちに暗くなってしまい草津行きは諦めた。その夜、キサラギが三郎右衛門の部屋に突然、現れた。

「お屋形様、お話がございます」とキサラギは頭を下げたまま言った。

「何だ、何かあったのか」

 何か重要な情報を持って来たのかと思い、三郎右衛門はキサラギ見た。キサラギは顔を上げると真剣な顔付きをして三郎右衛門を見つめた。キサラギは素顔に戻っていた。女中の格好ではなく、少し着飾っているようだった。どこかに行って来たのかと思いながら、三郎右衛門はキサラギが話すのを待った。

 キサラギは何かを言いかけたか、何も言わずに俯いた。行灯(あんどん)の明かりのせいか、キサラギの仕草が色っぽく感じられた。

「どうしたんだ」と三郎右衛門は声を掛けた。

 キサラギは顔を上げると意を決したかのように口を開き、「あたし、お屋形様の事がずっと好きでした」と言った。

 突然の告白に三郎右衛門はうろたえた。

「お前、何を言ってるんだ」

「いいえ、聞いて下さい。お屋形様のために働きたいと思って、厳しい修行にも耐えて参りました。陰ながらお屋形様を助けようと決心いたしました。でも、毎日、お屋形様のお側にお仕えしているうちに、もう我慢ができなくなりました。お願いでございます。今宵、一夜だけ、お側に置いて下さいませ」

「お前、何を言っているんだ」

「お屋形様はあたしが嫌いなのでございますか」とキサラギは泣きそうな顔をして三郎右衛門ににじり寄って来た。

「嫌いではない。嫌いではないが、そんな事はできん」

「お願いでございます、お屋形様」

 キサラギは目に涙を溜めて、三郎右衛門に訴えていた。三郎右衛門はその涙に負けそうになったが、じっと堪えた。

「お前の気持ちは嬉しいが、それはできん」

「お松様のように名のある武将の娘でないと駄目なのでございますね」

「何を言う。そんな事はない」

「先代のお屋形様は側室をお二人もお持ちになられたと聞いております」

「お前を側室にしろというのか」

「いいえ、そんな事は言っておりません。たった一度、一度だけでいいのでございます。所詮、あたしは陰なのです。側室になれるとは思ってもおりません」

「陰か‥‥‥」

 思い詰めたようなキサラギに負け、その夜、三郎右衛門はキサラギを抱いた。鍛え抜かれたその体は、まるで鋼鉄のようにしなやかで、三郎右衛門が今まで知っている女とはまるで違っていた。そして、信じられなかったがキサラギは生娘だった。子供の頃から陰ながら三郎右衛門に憧れ、他の男には目もくれなかった。十六になった六月、東光坊の配下に声を掛けられ、三郎右衛門のために働けると喜んで山に入って修行を積んだ。その修行の中には遊女に化けるための手練手管もあったが、もと遊女だったという老女が師範だったため、実際に男に抱かれたわけではない。初めての仕事だった柏原城では敵の武将に抱かれそうになったが、最後の一線は守り通した。どうしても、最初の男は三郎右衛門以外にはいないと決めていたのだという。三郎右衛門に抱かれた後、これで思い残す事なく、どんな任務でもやり遂げられるとキサラギは寂しそうな顔をして言った。

 その後、キサラギはさえない女中に化けたまま、三郎右衛門に近づいて来る事はなかった。そのいじらしさが可愛く思え、キサラギの存在は三郎右衛門の心の中に深く入り込んだ。
 草津は賑やかだった。山開きの時、戦騒ぎがあって客の出足は悪かったが、五月になると続々、客がやって来た。天正二年(一五七四年)の暮れ以後、上杉謙信が攻めて来ないので関東の地では大戦がなく、人々は安心して旅をする事ができた。北条領の武蔵や武田領の信濃からの客が多く、時には小田原や甲府からはるばるやって来る者もいた。負傷兵の数も減り、湯治を兼ねた遊山旅の者も多くなって来た。

 当時、草津の事を宣伝していたのは白根明神に所属している山伏たちだった。彼らは先達(せんだつ)と呼ばれ、古くは各地にいる白根信仰の信者たちを白根山に連れて行き、その帰りに草津の温泉で精進(しょうじん)落としをしていたのが、いつの頃からか、白根信仰よりも草津の温泉に入る事を目的とした客が多くなり、宿屋の客引きのような存在になっていた。東光坊の配下の山伏たちも白根明神に所属していて、各地を旅して情報を集めるだけでなく、白根明神のお札を配って歩き、草津の宣伝もちゃんとしていたのだった。

 客が多く集まって来ると芸人たちも多く流れて来た。様々な商人たちもやって来て市を開き、草津は益々、賑やかになって行った。

 五月二十一日の善太夫の三年忌の二日前、小野屋の女将が草津に来たとの知らせが金太夫から長野原に届いた。去年の事もあるので岩櫃からの出陣令にすぐ対応ができるように準備をしてから、三郎右衛門は草津へと向かった。里々がその後、どうなったのか女将から聞きたかった。自然に心は逸り、三郎右衛門は馬を飛ばした。

 女将は金太夫の宿屋の最上級の部屋にいた。金太夫も去年に懲りて、今年はその部屋を女将のために確保していた。今年も北条家の名だたる武将を連れて来たのかと思ったが、そうではなかった。去年と同じく尼僧姿の女将は二人の女と一緒にいた。一人は幻庵の妻で琴音の母親だった。会うのは七年振りだった。琴音の事が心配なのか、白髪が増えて随分と老けてしまったように思えた。もう一人は琴音の母親と同年配の知らない女だった。

「いらっしゃいませ」と三郎右衛門は善恵尼に挨拶をし、「お久し振りです」と琴音の母親に頭を下げた。

「幻庵様から話を聞いて、是非、草津に行きたいとおっしゃるのでお連れしたのよ。今回はわたしも少しのんびりするつもりなの。よろしくお願いね」

「どうぞ、ごゆっくりしていって下さい」

「いつぞや、琴音もお世話になりまして、ずっとふさいでいたあの娘が、草津から帰って来てから、すっかり元気になって‥‥‥ありがとうございました」

 琴音の母親がそう言って頭を下げた。

「いつぞや、わたしもお世話になりました」ともう一人の女が言った。

「えっ」と三郎右衛門はその女を見た。顔に見覚えはなかった。しかし、その声には聞き覚えがあった。三郎右衛門は女の顔をじっと見つめた。顔付きはまったく違うが、その目には見覚えがあった。

「まさか、お前は‥‥‥」

「里々よ」と善恵尼が言った。「どうしても草津に帰るってきかなくてね、しょうがないから連れて来たのよ。あなたには会いたいけど、前の自分を知っている者には会いたくないってね。それで、あんな格好をして来たのよ」

「そうか、帰って来たのか」と言うと里々は三郎右衛門を見つめてうなづいた。

 何だか、変な気分だった。目の前にいるのは三郎右衛門の母親とも言える中年女だった。里々が化けているとわかっていても、中年女を必死になって口説いているような気分だった。それにしても、諦めていた里々が戻って来るとは夢を見ているようだった。

「まさか、その格好でずっといるつもりではあるまい」

「わたしが帰って来た事を誰にも知られたくはないのです」

「ずっと隠れて暮らすのか」

 里々は首を振った。

「その事は二人でゆっくりと話す事ね。わたしは若葉様と一緒にお湯に入って来るわ」

 善恵尼は三郎右衛門の後ろで控えていた金太夫も連れて出て行った。

 二人だけになると里々は三郎右衛門を見つめ、「わたしを月陰党に入れて下さい」と言った。

 思ってもいなかった事を言われ、三郎右衛門は戸惑った。里々の目は真剣そのものだった。確かに、月陰党に入れば誰の目に触れる事もない。しかし、遊女だった里々が厳しい修行に耐えられるとは思えなかった。

「やめた方がいい」と三郎右衛門は首を振った。

「お願いです。お屋形様のお役に立ちたいのです」

「気持ちはありがたいが、月陰党に入るには厳しい修行を積まなければならんのだ」

「修行は積みました」と里々は言った。

 三郎右衛門は驚いた顔をして里々を見た。キサラギたちと同じように変装する修行は積んだらしいが、他にも何かの修行を積んだのだろうか。

「草津を離れて小田原に行ってすぐに、わたしは風摩砦に入れらたのです」

「風摩砦だと? お前は風摩なのか」

 三郎右衛門は心の中で身構えた。里々は北条の忍びになって戻って来たのかと疑った。

 里々は落ち着いた顔をして首を振った。

「違います。風摩砦と言っても、風摩党とは関係ないのです。北条家の武術道場で、北条家の家臣の子息たちが修行を積んでいます。重臣たちの娘もいて、わたしも一緒に武術や芸事を習いました」

「風摩党とは関係ないのに風摩砦というのか」

「わたしも詳しい事は知りませんけど、初代の風摩小太郎様が、北条家の若い者を鍛えようと箱根の山中に道場を開いたそうです。いつしか風摩砦と呼ばれるようになったようですけど、風摩党とは関係ありません。そこで修行を積んで風摩党に入る人もいますけど、また別の所で修行するようです。その場所は誰も知りません。かなりの山奥のようです」

「ほう。すると風摩砦というのは別に秘密の場所でもないんだな」

「ええ、北条家の者たちなら皆、知っています。北条家の名だたる武将の方々は皆、若い頃、そこで修行を積んだそうです。でも、誰もが入れるわけではなくて、選ばれた者しか入れないと聞きました」

「お前は選ばれたのか」

「女将さんが推薦してくれたようです」

「素質があったんだな」

「そうかもしれません。武術なんて縁もなかったのに、自分でも不思議なくらい上達して行きました」

 三郎右衛門は膝の上に重ねられている里々の手を見た。見覚えのある手だった。手の甲を見ただけでは厳しい修行を積んだのかどうかはわからなかった。ただ、その手は顔のように老けてはいなかった。

「甲府でお前と再会した時、以前とどこかが違うと感じたのは、お前が武芸の達人だったからだな」

「武芸の達人だなんて、そんな」と里々は照れ臭そうに笑った。その時、右手を口元まで持って行った。

 三郎右衛門は自然な仕草で里々の右手をつかむと手のひらを眺めた。剣ダコができていた。里々は恥ずかしそうに手を引っ込めた。

「あたしなんかより、お澪ちゃんの方がずっと強いんですよ」

「お澪ちゃんというのは小野屋の跡継ぎだったな」

「そうです。わたし、お澪ちゃんと一緒に修行したんです。お澪ちゃんから風摩党に入れって言われたんですけど、わたし、断りました。風摩党に入ると決して抜け出せないと言われて、何となく恐ろしくなったのです。二年間、風摩砦で修行して、その後は小野屋さんで働いていました。女将さんにはお世話になりっぱなしだったし、少しくらいは恩返しをしようと思って。そして、甲府で三郎様と再会して、わたし、草津に戻ろうと決心しました。月陰党に入って、三郎様を陰ながら助けようと決めたのです。甲府から小田原に帰ったわたしは女将さんにその事を打ち明けました。女将さんは笑って、あなたがそういうのを待っていたのよと言って、お竹様というお婆さんを紹介してくれました。今は隠退しているけど、若い頃はくノ一と呼ばれる忍びの者として活躍したそうです。わたしはお竹様から忍びの術を習いました」

「お前が忍びの術を‥‥‥」三郎右衛門は唖然とした顔で、里々を見つめた。里々を見ているつもりでも、里々には見えなかった。

「忍びの術だけではありません。陰流の小太刀、薙刀、弓、吹矢、手裏剣、それに、笛や琴、歌や踊り、茶の湯などの芸事も身につけました」

「そいつはすごい」と思わず言ってから、三郎右衛門は里々の体を改めて眺めた。二年間もの厳しい修行を積んだのなら、キサラギのように引き締まった体をしているはずだったが、着物の上からはわからなかった。中年女に化けるため、腹の辺りに、かなりの布を巻き付けているようだった。

「女将さんは草津に帰って、娘さんたちを鍛えなさいって言いました」

「そうか。そいつはいい考えだ。お前が娘たちの師範になればいいんだ。東光坊も娘たちの扱いに困っていた。女のお前が師範になれば、すべてうまく行くだろう」

「はい、お願いします。わたしにやらせて下さい」

「うむ。俺の一存では決められないが、まず、大丈夫だろう」

 三郎右衛門はすぐに東光坊を呼んだ。もしかしたら、父円覚坊の三年忌のため真田に行ったかもしれないと思ったが、東光坊はまだ長野原にいて、すぐに飛んで来た。三郎右衛門が里々の事を話すと、

「そうか、戻って来たのか」と言いながらキョロキョロと辺りを見回した。

「お久し振りです。その節はお世話になりました」と里々は頭を下げた。

 東光坊はキョトンとした顔で、目の前にきちんと座っている中年女を見た。三郎右衛門は東光坊を見ながら面白そうに笑った。

「どういう事じゃ。浦島太郎の玉手箱でも開けたのか」

 東光坊に連れられて三郎右衛門と里々は草津の外れにある鬼ケ泉水へと向かった。里々は姿形だけでなく歩き方まですっかり中年女に成り切っていた。

 東光坊が何をするつもりか見守っていると、やがて、ムツキが小走りにやって来た。久し振りに見たムツキは相変わらずの田舎娘丸出しだったが、長野原にいた頃のように太ってはいなかった。やはり、あの時は着膨れしていたのだった。

 東光坊はムツキにその女を殺せと命じた。三郎右衛門は驚いてやめさせようとした。ムツキは東光坊と三郎右衛門を見ながら、どうしたらいいのか迷っていた。里々の方は驚いた風でもなく、平然とした顔で立っていた。

「お屋形様、月陰党は命懸けの忍び集団じゃ。ムツキに勝てないようなら月陰党に入る資格はない」

「しかし、何も真剣でやらなくても」

「師範になる程の腕があれば、ムツキの技など簡単にかわせるはずじゃ」

 里々は大丈夫というように三郎右衛門にうなづいてみせた。

 東光坊はやれとムツキに命じた。

 ムツキは厳しい顔付きでうなづくと、隠し持っていた匕首(アイクチ、鍔のない短刀)を抜き、里々に向かって斬りつけた。匕首が光を反射してきらめき、里々の首が斬られてしまうと三郎右衛門は顔をしかめた。里々は身軽に飛びのき、ムツキの匕首を避けた。二度三度とムツキは攻めるが里々は簡単にかわしていた。そして、匕首が宙に舞ったかと思うと、里々はムツキの腕を逆に取り、落ちて来た匕首を見事につかむとその刃をムツキの首に突き当てた。

「それまで」と東光坊が叫んだ。

 里々はムツキの腕を離し、匕首をムツキに返した。

「見事じゃ。それ程の腕になるには余程、厳しい修行に耐えて来たのじゃろう。今、山に、まもなく二年間の修行を終える娘が二人と一年間の修行を積んだ娘が四人いる。そして、来月、新たに五人の娘が入る。その娘たちに、そなたの技を仕込んでくれ」

 里々はひざまずくと、「かしこまりました」と東光坊と三郎右衛門に頭を下げた。

「この人、女の師範なのですか」とムツキが聞いた。

「そうじゃ。お前とキサラギも改めて、教えを請うがいい」

「はい、お願いいたします」

 里々はそのまま、ムツキと一緒に白根山中にある月陰砦へと入って行った。

 二人を見送りながら、「里々の強さがわからなかったのか」と東光坊が聞いた。

「あれ程に強いとは‥‥‥」三郎右衛門は呆然として、里々の後ろ姿を見つめていた。

「昔の里々に惑わされているんじゃよ。座っていた時も歩いている時もどこにも隙はない。初めて会った時、あれが里々だとはわからなかった。しかし、何者じゃろうと気になっていたんじゃ。ただ者ではない事はすぐにわかったぞ」

「そうだったんですか。俺もまだ修行が足りませんね」

「惚れた弱みじゃ。ところで、里々は何であんな姿で現れたんじゃ」

「遊女であった自分を恥じているようです」

「そうか‥‥‥ところで、お屋形様、未だに里々の事を思っているのか」

「忘れようと思っていたが、こんな身近にいるとなれば無理だろうな」

「昔から、女に惚れやすい性質(たち)だったからな。もう、わしは何も言わんよ」

 やれやれ、里々が戻って来るとは、と独り言を言いながら東光坊は帰って行った。

 三郎右衛門は振り返り、山の方を眺めた。すでに二人の姿は消えていた。

 善太夫の三年忌は生憎の雨降りだったが、法要も無事に済んだ。今年は白井勢も攻めては来なかった。三郎右衛門は善恵尼と琴音の母親を接待するため、法要が済んだ後も草津に残った。

 山に入った里々はその後、三郎右衛門の前には現れなかった。お屋形の女中に扮していたムツキもキサラギも改めて里々から武術を習うため山に入って行った。二人は小雨にあるお屋形の方に移されたという事になっていた。

 三年忌の日から毎日、冷たい雨が降り続いた。善恵尼たちは梅雨が上がるまで、草津にいようかしらと言っていた。そんな頃、甲府にいる真田喜兵衛より手紙が届いた。梅雨が明けた頃、武田のお屋形様の妹が二人、草津に行くので丁重に持て成してくれと書いてあった。そして、お屋形様自身の手で、よろしく頼むとも書いてあった。

 三郎右衛門は慌てた。武田のお屋形様の妹が来るなんて思ってもいない事だった。今まで、武田家の武将は来た事がある。武将たちの持て成し方はある程度、わかるが、武田一族の御寮人様の持て成し方はわからなかった。当然、二人だけではなく大勢の侍女たちも来るに違いない。三郎右衛門はどうしたらいいのかわからず、善恵尼に相談した。

「四郎様の妹二人というと松姫様と菊姫様かしら」と善恵尼はやはり知っていた。

「松姫様と菊姫様?」と三郎右衛門は聞いた。

「ええ、多分ね。もう一人、真里姫様がいらっしゃるけど、真里姫様は木曽様に嫁がれたはずよ。松姫様と菊姫様も婚約はしてらっしゃったんだけど、結局、お嫁にはいかなかったの」

 善恵尼は文机に座って何かを書いていた。尼僧になったので、写経をしているのかと思ったら、流麗な字で和歌が書いてあった。三郎右衛門が見ているのに気づくと恥ずかしそうに見ないでと言った。

「そのお姫様というのはおいくつなんですか」

「松姫様は十七歳位になるんじゃないかしら。菊姫様は十五歳位かしら」

「二人共、お嫁に行ってもいい年頃なんですね」

「そうよ。松姫様が婚約なさったお相手はね、織田様の御長男の勘九郎様だったのよ」

「ああ、思い出しましたよ。以前、岩櫃の海野能登守殿より松姫様の事は聞きました。何でも、織田弾正の方から信玄殿に頼んで婚約が決まったとか」

「そのようね。織田様は信玄様をもっとも恐れていましたからね。お二人が婚約なさったのはお二人共、まだ子供の頃だったのよ。婚約が決まると信玄様は松姫様のために新しい御殿をお建てになって、織田家の嫁として大切にお育てになられたの。でも、三方ケ原の合戦の時、徳川方に織田家の侍がいて、信玄様はお怒りになり、織田様と縁を切ってしまわれたの。でも、婚約は解消にはなさらなかった。松姫様はその後も新しい御殿に住んでいらっしゃった。菊姫様の方は信玄様が本願寺と手を結んだ時に伊勢の長島に嫁ぐ事が決まったの。でも、織田様に攻められて長島の本願寺門徒は全滅してしまった。菊姫様のお相手の方も戦死してしまったんじゃないかしら。信玄様がお亡くなりになると、お二人は兄上様がおられる信州の仁科郷(大町市)にお移りになったって聞いているわ」

 三郎右衛門は仁科郷というのがどこにあるのか知らなかった。後で調べればわかると思い、その事は善恵尼に尋ねなかった。

「今も仁科郷におられるのですか」

「多分ね。甲府にはおられないわね」

「仁科郷にいる兄上様というのは?」

「仁科五郎(盛信)様といって、松姫様、菊姫様と同じ母親なのよ。信玄様が仁科家を滅ぼして、五郎様にその名跡を継がせたの」

「という事はお二人の姫様は仁科郷から来られるのですね」

「多分、そうでしょう」

「どうしたらいいのでしょう。そんなお姫様が草津に来られた事はありません。どう持て成したらいいのかわかりません。申し訳ありませんが、金太夫やこの宿の者たちに色々と教えてもらえないでしょうか」

「そんな事はかまわないわよ。梅雨が明けたらいらっしゃるって書いてあったわね。それまで、草津にいてもいいわよ」

「えっ、本当ですか」

「わたしも跡継ぎができたしね。小田原の方はお澪がやってくれるでしょう。久し振りにのんびりしなくちゃね。それに、若葉様が草津を気に入ってしまって、なるべく長くいたいと言っているし。今もお湯に入りに行ったのよ」

「ありがとうございます。女将さんがいてくれたらもう何の心配もございません。よろしくお願いいたします」

「北条家と武田家は再び親戚になったんですものね」と善恵尼は笑った。「あなたはご存じかしら。武田四郎様の姉上様は北条家に嫁いだのよ。今のお屋形様(氏政)の奥方様は信玄様の長女だったの。でも、同盟が崩壊した時、奥方様は甲府に追い返されてしまったのよ。お屋形様と奥方様は仲睦まじかったのに可哀想だったわ。奥方様は無理やり子供とも別れさせられて、甲府に帰ると間もなく、悲しみのうちに亡くなられてしまったの。万松軒(氏康)様がお亡くなりになって同盟が復活すると、お屋形様はすぐに奥方様のお骨を分けていただいて、早雲寺内に黄梅院をお建てになられたのよ。その後、お屋形様は正室をお貰いになっていないわ」

「そんな事があったのですか」

「今の世は、武将の娘に生まれたら、なかなか幸せにはなれないのよ。松姫様と菊姫様も今後、どうなるかはわからない。せめて、草津に来た時くらいは楽しい思いをさせてやらなくちゃね」

「そうですね」と言いながら、三郎右衛門は琴音の事を思い出していた。

 五月の末、新たに三人の若者が二年間の修行を終えて山を下りて来た。雲月坊、残月坊、円月坊と名付けられた若者は砦で師範を務める行願坊に連れられて旅へと出て行った。ヤヨイ、ウヅキと名乗る娘は里々から武術を習うため砦に残っているという。

 去年、五人、今年も五人が月陰党に入った。このまま行けば、十年後には五十人に膨れ上がる。忍びの者が多くなるのはいいが、そう多くなると彼らを食わせて行く事ができなくなってしまう。三郎右衛門は心配になって東光坊を呼んで、その事を相談した。

「心配いらん」と東光坊は少しも気にしていなかった。

「山の砦で奴らは武術の修行だけをしているわけではない。炭焼きをしたり陶器を焼いたり、桧物(ひもの)や竹細工、薬を作ったり、弓の矢も作っている」

 職人に扮して敵地の乗り込む事もあるので、砦では武術だけでなく、様々な技術も身につけさせていた。

「しかし、それだけでは、奴らの修行中の食い扶持も出まい」

「うむ。はっきり言って、食い扶持はでない。この事はお屋形様には言いたくはなかったんじゃが、隠して置くわけにもいくまいな。忍び集団を作れと先代のお屋形様より命じられた時、わしは真っ先にその事を心配したんじゃ。わしの配下の山伏たちは霞場(カスミバ、縄張り)を持っていて、そこの信者たちを草津に連れて来たり、護摩(ごま)を焚いたりして、何とか食っては行ける。しかし、白根明神としても、毎年毎年、山伏を増やすわけには行かない。どうやって、奴らを食わせて行くかが問題じゃった」

「奴らも一応、白根明神に所属していると前に言わなかったか」

「あれは名目だけじゃよ。奴らの霞場は白根明神とは縁もない西国じゃ。山城(京都府)の国や播磨(兵庫県)の国を霞場に貰っても食っては行けまい」

「成程。それでどうする事にしたんだ」

「先代のお屋形様と相談して、敵地を撹乱する事で食い扶持を得る事に決めたんじゃよ」

 三郎右衛門がよくわからないという顔をしていると、

「早い話が略奪じゃよ」と東光坊は言った。

「食い扶持を盗むという事か」

「そういう事じゃ。戦になれば敵の兵糧を奪い取るのは当然の事じゃ。それを少し早めにやるという事じゃな」

「今までにどこを荒らしたんだ」

「主に白井城下じゃな。柏原城も敵に奪われた時、荒らした事がある」

「まるで、盗賊だな」

「そうかもしれんが、敵地を撹乱するのも戦じゃよ」

「そうか、わかった。ただ、盗賊働きをして、敵に捕まらないようにしろよ」

「その事は充分に心得ている」

 綺麗事だけでやって行けるとは思っていないが、まさか、月陰党が盗賊働きをしていたとは驚きだった。しかし、東光坊の言うように戦に略奪は付きものだった。負け戦になれば、金銀財宝は勿論の事、酒や食料は奪われ、女子供はさらわれた。信濃の佐久郡では武田家に反抗していた者たちが戦に敗れ、男たちは金山に送られて人足として死ぬまでこき使われ、女たちは遊女にさせられたと聞いている。敵から食料を奪い取る位は目をつぶらなければならない。この乱世を生き残るためには、その位の事はしなければならないのだと自分に言い聞かせた。

「話は変わるが里々はどうしているんだ」と三郎右衛門は何げなく聞いた。

 思っていた通り、東光坊はニヤニヤと笑った。「やはり、気になるようじゃな」

「あれ以来、姿を見ないからな」

「困ったもんじゃな」と言って、東光坊は積んである書物の上に載っていた絵地図を手に取って眺めた。善恵尼の話を聞いてから、仁科郷の位置を調べるために見ていた信濃の国の絵地図だった。

「あの後、里々は素顔を見せたよ。相変わらず、いい女子じゃった。ムツキの奴、素顔を見て跳びはねる程、驚いておった。中年女とばかり思っていたのが、自分と大して年が違わないんじゃからな。ビシビシと娘たちを鍛えておるよ。教えるのもなかなかうまい。そして、思った以上の強さじゃ。男たちも手玉に取っておる。もしかしたら、あそこにいる師範たちよりも強いかもしれんな」

「そんなにも強いのか」

 風摩砦と呼ばれる北条家の武術道場での二年間は、月陰砦の二年間よりずっと厳しかったに違いない。里々は何を思って、その厳しい修行に耐えて来たのだろうか。遊女から足を洗いたい一心だったのか。俺の事を忘れようと必死になっていたのだろうか。

「それにな、やはり女子じゃ。あの砦を住みやすいようにと次々に改良している。あの砦の近くに温泉の湧いている所があってな、今までは適当に穴を掘っては温泉に浸かっていたんじゃが、里々は石を組んで立派な露天風呂を作り、男たちに覗かれないように小屋掛けまでした。いい温泉じゃ。お屋形様も一度、来るがいい」

「あの近くにそんな所があったのか」

「なに、近くに温泉があって、水場もあるから、あそこを選んだんじゃよ」

「そうだったのか。そのうち、暇を見て行ってみよう」

「そうして下され。お屋形様が直々に顔を出せば奴らの励みにもなる」

「わかった」

 三郎右衛門は東光坊と共に長野原に移った。そろそろ、柏原城に詰めている兵を交替させなくてはならなかった。東光坊は白井の動きを探って来ると行って、そのまま出掛けて行った。もしかしたら、盗賊働きをするための下見に行ったのかと思ったが、三郎右衛門は何も言わなかった。

 六月の十日、東光坊が戻って来た。やけに早いなと思っていると後ろに水月坊、山月坊、新月坊と三人の若い者を従えていた。一年間の旅を終えて、少しは山伏らしくなっていた。

「白井城下でこいつらと会ってな、これから仁科郷に行って来ようと思っているんじゃ」

「仁科郷といえば」

「そうじゃ。御寮人様たちがいつこちらに向かうのかを知らせようと思ってな」

「それは助かる。お願いします」

 日が暮れるというのに、小雨の降る中、東光坊たちは出掛けて行った。彼らを見送ると三郎右衛門は自室に入り、武田家の姫たちの事を考えた。

 長女は同盟のために北条家に嫁ぎ、次女は親族の結束を固めるために穴山玄審頭に嫁ぎ、三女は木曽口を押さえるために木曽伊予守に嫁いだ。四女は早世、五女の松姫は敵となった織田勘九郎と婚約していて、六女の菊姫は本願寺の一族と婚約したが、相手は戦死してしまった。菊姫の場合、相手が亡くなってしまったので諦めもつくだろうが、松姫の場合はまだ生きている。幼い頃より織田家に嫁ぐと回りの者たちから言われ、本人もその気になっていたのだろう。ところが相手は武田家の最大の敵となってしまった。松姫は今、どんな気持ちでいるのだろうか。善恵尼が言ったように、草津にいる時は悲しい事は忘れて楽しい思いをしてもらいたい。草津に来た時の琴音のように、できるだけやりたいようにさせてやりたいと思った。

 ふと、人の気配を感じ、またキサラギが来たのかなと思って振り返ると、そこにいたのは里々だった。そこらにいる村娘という格好で、顔は素顔に戻っていた。三郎右衛門がポカンとしていると、

「御挨拶に参るのが遅くなって申し訳ございません」と頭を下げた。

「いや。お前の事は東光坊から聞いた。頑張っているようだな」

「はい。色々とやる事がございまして、ようやく、一段落いたしました」

「そうか。うまく行きそうか」

「はい、大丈夫です」と里々は微かに笑った。

 里々の笑顔を見たのは久し振りのような気がした。

「そうだ。一緒に酒を飲む約束だったな」

「覚えておいででしたか」と里々は嬉しそうに笑った。

「覚えているとも。楽しみにしていたんだ。すぐに用意をさせよう」

「お屋形様、それはうまくございません。こんな村娘と酒を飲むなどと言ったら家臣の者たちが怪しみます」

「うむ、それもそうだな」

 城下の飲み屋に行こうと思ったが、昔の里々を知っている者がいるかもしれなかった。

「いい所がございます」と里々が言った。「お誘いに参ったのでございます。今から出られますでしょうか」

「大丈夫だが、一体、どこに行くのだ」

「山の中でございます」

「なに、これから山の中に行くのか」

「雨もやみ、月が出ております」

「雨はやんだか。いいだろう。久し振りに山歩きをするか」

 三郎右衛門は家老の湯本弥左衛門に急用で草津に戻ると告げ、馬に跨がり里々を後ろに乗せて草津に向かった。草津の外れで馬を下り、月明かりの中、山中へと入って行った。

 里々は素早かった。三郎右衛門は必死になって後を追った。獣道のような細い道をどんどん山奥へと入って行く。道の下を沢が流れているのか、水の音が聞こえて来た。月陰砦に行くのだろうと思っていたが、どうも道が違うらしい。

 里々は少しも休まず、走るような速さで歩き続け、一度も三郎右衛門の方を振り返らなかった。半時(一時間)近くも歩き続けただろうか、やがて、湯煙りが立ちのぼるのが見え、河原のほとりに小屋が建っていた。里々の姿は見えない。

 小屋の中を覗くと囲炉裏の中で火が赤々と燃えていた。囲炉裏のある板の間には酒の用意がしてあり、片隅に着物が脱ぎ散らかしてある。その先に石で囲まれた湯船があり、里々の白い肌が火の光を浴びて輝いていた。

「さすが、お屋形様、見事について参りましたね」

 長い髪を頭の上にまとめて、里々は湯船の中で笑っていた。

「なに、あれ程の山歩きなど何でもない。若い頃には師匠に連れられて大和の大峯山も登ったんだ」

「東光坊様から聞きました。お二人であちこち歩き回ったそうでございますね。そんな所に立っていないで、どうぞ、お入りになって下さい。いい湯でございます」

「ここだったのか。お前が作った湯小屋というのは」三郎右衛門は小屋の中を見回してから草鞋を脱ぎ、板の間に上がり込んだ。

「修行者たちのために作りました。というのは口実で、実はお屋形様のために作りました」

「なに、俺のために」

「はい。お屋形様と二人だけになれる所が欲しかったのでございます」

「そうか。山中でなければ、お前と二人だけでは会えないのか」

「わたしはお屋形様の陰ですから、人前では会う事はできません」

「そうか、陰か‥‥‥」

 キサラギも前にそう言ったのを思い出していた。

「俺は甲府でお前に会ってから、お前を小田原から連れ戻して、側室に迎えようと思っていた。もう、それもできんのだな」

「お屋形様‥‥‥そう思っていただくだけで幸せでございます」

「陰か‥‥‥」と呟きながら三郎右衛門は着物を脱ぎ、湯船に入った。

「いい湯だな‥‥‥お前と一緒に湯に入るのも久し振りだ」

「もう遠い昔のような気がいたします。あの頃の里々はもう亡くなりました。そして、新しく生まれ変わったのでございます」

 まさしく、里々は生まれ変わっていた。遊女だった頃の寂しそうな面影や守ってやらなければならないと思うような頼りなさは微塵もなく、生き生きとした強い女になっていた。それでも、やはり、里々は里々で、あの頃と同じように愛しかった。いや、あの頃よりも、今の里々の方が愛しいかもしれなかった。

 三郎右衛門は里々の輝く瞳を見つめながら、引き締まった体を抱き寄せた。

 着替えもちゃんと用意してあった。雨露で濡れた着物を囲炉裏端に干し、乾いた着物に着替えると、二人は寄り添いながら酒を酌み交わした。
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