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2017 .04.26
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18.入湯停止令




 箕輪の合戦にて、善太夫は義弟の三郎右衛門を失ったが、その悲しみに浸っている暇はなかった。

 三郎右衛門と共に戦死した五十人の兵は皆、善太夫の家臣だった。善太夫は残された家族たちを見舞って慰め、活躍を誉めて、跡を継ぐべき者に所領(しょりょう)や扶持(ふち)を安堵(あんど)しなければならなかった。善太夫が合戦に参加せず、岳山城にいた事に苦情を言う者が多かった。善太夫は何を言われても、ただ頭を下げる事しかできなかった。

 当時の武士は江戸時代の平和な時代を生きている武士と違って、主人と家臣の間は強い信頼関係によって結ばれていた。家臣は主人が気に入らなければ、さっさとやめてしまい、新しい主人を捜すのは当たり前の事だった。主人はただ威張ってばかりいたのでは駄目で、家臣たちの面倒をよく見なければならなかった。この主人だったら、命を預けられると思わなければ、家臣たちは付いては来ない。家臣だけでなく、領内に住む農民、職人、商人たちの場合も同じだった。彼らを保護して面倒を見なければ、皆、他所(よそ)のもっといい所に行ってしまう。

 主人と家臣あるいは住民たちは人間同士のつながりで結ばれていた。人間同士のつながりであるため、主人が亡くなって跡を継ぐ者が前の主人より劣った場合、その主人を見捨ててしまう者が多く出て、箕輪城の長野氏のように滅び去ってしまう場合が多かった。

 善太夫は四十九日に小雨村の光泉寺にて戦死した者たち全員の慰霊祭(いれいさい)を行なった。その日は雪の散らつく寒い日だったが、家臣たちは全員集まり、死んで行った者たちの霊を慰めた。

 箕輪城が落ちて西上州の攻略も一段落し、一徳斎は甲府に行かなければならなくなった。

 武田信玄が次に狙っていたのは駿河の国(静岡県)だった。

 駿河の今川義元(よしもと)と信玄は同盟を結んでいた。ところが、六年前の永禄三年(1560年)、今川義元は尾張(おわり)の織田信長に攻められ、桶狭間(おけはざま)にて戦死してしまった。信玄は駿河の情報を集めて、いつの日か、海のある駿河の国を奪い取ろうとたくらんでいた。信濃と西上州を平定した今こそ、駿河攻略を実行に移す時だと言えた。

 信玄は上野の国に真田一徳斎と内藤修理亮(しゅりのすけ)、二人の重臣を置いておくのは勿体ないと思った。上野の事は箕輪の修理亮に任せて、一徳斎を呼び戻す事にした。駿河進攻、そして、その後の上洛作戦を実行するためにも一徳斎の頭脳を信玄は必要としていた。

 一徳斎が岩櫃城を退くにあたって、一徳斎の推薦によって、岩櫃城の城代に選ばれたのが、海野長門守と能登守の兄弟だった。二人は斎藤一岩斎の旧領を与えられて、岩櫃城に戻って来た。

 永禄九年(1566年)の十一月の事で、二人が岩櫃城を去ってから三年の月日が過ぎていた。

 海野兄弟は岩櫃城代として吾妻郡を支配する事となったが、長野原城主の湯本善太夫、鎌原城主の鎌原宮内少輔、西窪(さいくぼ)城主の西窪佐渡守、雁(がん)ケ沢城主の横谷左近、三島城主の浦野下野守、植栗(うえぐり)城主の植栗安房守、岳山城主の池田佐渡守の七人だけは、海野兄弟の支配外として真田氏直属の部下となった。

 海野兄弟が岩櫃城に戻って来た事によって、善太夫は岩櫃城の城代でも岳山城の城代でもなくなり、岩櫃城内の屋敷はそのまま与えられたが、常に岩櫃城にいなくてもよくなった。
 善太夫は長野原城に移って新年を迎えた。

 今年の新年は忙しかった。家臣たちの挨拶を受け、その後、岩櫃城に挨拶に行くのは例年と変わりなかったが、今年は信州真田の一徳斎のもとまで挨拶に行かなければならなかった。善太夫は海野能登守の長男、中務少輔(なかつかさしょうゆう)、鎌原宮内少輔の長男、筑前守(ちくぜんのかみ)、横谷左近の長男、信濃守らと一緒に雪の鳥居峠を越えて真田へと向かった。

 善太夫の足はほとんど完治していた。

 真田にて一徳斎らの歓迎を受けた一行は三日間、滞在して帰って来た。

 真田から帰ると善太夫は生須(なます)村に行って、妹のしづを訪ねた。当主の三郎右衛門を亡くして、屋敷はどことなくひっそりとしていた。

 喪服(もふく)を着たしづはわざと陽気な態度で善太夫を迎えた。

「大丈夫か。すまんのう」

 善太夫にはしづを慰める言葉が見つからなかった。

「兄上様、もう御自分を責めるのはおやめ下さい。主人は湯本家の武将として立派に戦死したのです。わたしも子供たちも、あの人を誇りに思っております」

「そうか、そう思ってくれるか‥‥‥すまんのう」

「もう、その、すまんのうはやめて下さい」

「うむ、そうじゃな‥‥‥子供たちは元気か」

「はい。父親が亡くなってから、小三郎がしっかりして来て、みんなの面倒をよく見てくれます。小三郎なりに、父親の跡を継がなければならないと考えているようです」

「そうか、小三郎がのう‥‥‥その小三郎の事で、今日は来たんじゃが」

「元服(げんぶく)の事ですね」としづは聞いた。

「うむ。元服の事もそうじゃが、小三郎をわしの跡取りにしたいと思っているんじゃ」

「小三郎が? 小三郎が湯本家のお屋形様に?」

 善太夫はうないた。

「どうじゃ? わしの養子にくれんか」

「でも‥‥‥」

「わしには娘しかおらん。そのうちにできるだろうと気楽に考えていたが、三郎右衛門のように急に戦死してしまったら、残された者が困るじゃろう。それに、わしの見た所、小三郎は父親に似て面倒見がいい。立派なお屋形になるじゃろう」

「でも、沼尾の小次郎様の方が小三郎より年上ですし、戦の経験もおありになるし、小次郎様の方がいいように思いますが‥‥‥」

「その事も考えた。小次郎はよくやってくれる。わしはのう、そなたも知っている通り、十五の時から家督を継ぐまで、毎年、冬になると旅に出て、様々な経験をした。各地を旅して、世間の広さを思い知ったんじゃ。わしは小三郎にも旅をしてもらい、広い視野に立って物事を考えられるようになってもらいたいんじゃ。小次郎はもう二十三じゃ。すでに、わしの片腕として働いている。今から旅に出すわけにはいかんのじゃよ」

「小三郎がお屋形様になるなんて‥‥‥」

「小三郎なら、いいお屋形になるはずじゃ。ここ、生須村の湯本家は小四郎に継いで貰えばいい。どうじゃ? この話に乗ってくれんか」

 三郎右衛門としづの間には五人の子供がいた。長男の小三郎は十四歳、次男の小四郎は十一歳、三男の小五郎は七歳、長女のしのは九歳、次女のしほは三歳だった。

 善太夫はしづの了解を得て、小三郎と小五郎を養子に迎え、小三郎に湯本家のお屋形を継がせ、小五郎に善太夫の湯宿を継がせる事に決めた。

 話が決まるとさっそく、小三郎を小雨村に連れて帰り、吉日を選んで元服させた。父親と同じ三郎右衛門を名乗らせて、しばらくの間、東光坊に預けて修行させる事にした。善太夫が円覚坊から様々な事を教わったように、三郎右衛門にも旅をさせて陰流の武芸を身に付けさせようと思っていた。

 小五郎の方は十歳になるまでは母親のもとに置き、その後、白根明神にて修行をさせるつもりだった。

 上杉輝虎は去年も十二月に三国峠を越えてやって来ていた。しかし、例年のように廐橋城には入れなかった。箕輪城が落城してから、廐橋城を守っていた輝虎の重臣、北条(きたじょう)丹後守が越後に残している妻子を捨てて、北条(ほうじょう)万松軒に降伏していた。

 輝虎は信頼していた丹後守に裏切られ、廐橋城に入る事ができず、大胡(おおご)城に入って、やけ酒を思う存分、飲んだ後、廐橋城を攻めると共に下野(しもつけ)方面を攻撃した。

 丹後守は城を固めて閉じ籠もり、上杉勢が攻撃して来ても一切応じなかった。廐橋城の包囲は四ケ月にも及んだが、丹後守は必死に守り通した。五月になると、輝虎も諦めて越後に帰って行った。

 四月の八日、草津の山開きが行なわれると、この日を待っていたかのように、続々と客が草津に登って来た。十日も経たないうちに宿屋はどこも一杯になってしまう程の盛況振りだった。

 宿屋が一杯になっても、次から次へと客はやって来た。吾妻郡は勿論の事、信濃の国、甲斐の国からもやって来た。箕輪城が武田方となったため、武蔵方面からの交通もつながり、久し振りに武蔵の国からやって来る客も多かった。時節柄、一般客よりも武士が多く、去年の箕輪合戦にて負傷した者が半分以上もしめていた。

 宿屋が一杯でも、遠くから旅して来た者は帰るわけにもいかず、広小路や鬼ケ泉水など、空き地に掘っ立て小屋を立てて宿屋が空くのを待っていた。

 四月の末に騒ぎが起こった。

 騒ぎを起こしたのは武田家の家臣だった。宿屋が空くのを待っていたのに、宿屋が約束を破って他の客を入れてしまったため腹を立てて、その宿屋に無理やり押し入り、打ち壊してしまった。それだけで済めばよかったのだが、その騒ぎに、鳴りを潜めていた食いつめ浪人共が加わったので、大騒ぎとなってしまった。

 湯治客たちも、客が多すぎて、ゆっくり湯にもつかれないために鬱憤(うっぷん)が溜まっていた。はけ口のない鬱憤が、この騒ぎをあおる結果となって、あちこちで打ち壊しが始まった。

 善太夫はその時、長野原城にいた。知らせを受けて駈け付けた時には、光泉寺の山伏と家老の宮崎十郎右衛門らによって暴動は治まっていたが、草津は無残な姿となっていた。

「これは一体、どうした事じゃ」

 善太夫は薬師堂の境内から広小路を見下ろしながら言った。

 一緒に来た浦野佐左衛門(すけざえもん)は首を振りながら、「ひどいもんじゃ」と顔をしかめた。

 広小路のほぼ右半分は焼け落ちていた。その中には善太夫の宿屋も入っている。左半分は何とか残っているが、めちゃめちゃに破壊されている。

 御座の湯、綿の湯、脚気(かっけ)の湯の湯小屋も勿論、壊されていた。湯池の向こうの滝の湯は見えなかったが、無事であるとは思えなかった。

 湯本家の屋形は高台の上にあるので無事だった。

 善太夫は宮崎十郎右衛門から事の成り行きを聞いた。

 騒ぎの張本人の武士とそれに同調した浪人共は、火事を消しているうちに逃げられてしまった。問題を起こした宿屋の主人にその武士の名を尋ねると、武田家に仕える原尾張守という立派な名を名乗っていたが、人柄と身なりから、どうも怪しいと思って断ったのだという。もしかしたら、その武士も浪人たちの仲間だったのかもしれないと十郎右衛門は言った。

 浪人対策に関しては改めて考えなければならない。それよりも、村を立て直すために、次々にやって来る湯治客を止める事が先決だった。

「信玄殿にお願いするしかありませんな」と家老の湯本伝左衛門が言った。

「禁制(きんぜい)を出してもらうのか」と善太夫は聞いた。

「さよう。武士たちを止めるには信玄殿に頼むよりほかありません」

「うむ、それしかないのう‥‥‥一徳斎殿を通してお願いするか」

「はい。ただ、浪人共の事は隠しておいた方がよろしいかと思います。領内の浪人も取り締まれないのかと見くびられます。出火不明の火災にやられて、湯治客を泊める事ができなくなったとだけ言った方がよろしいかと」

 善太夫はうなづいた。そして、浦野佐左衛門に書状を持たせて、すぐに真田に向かってもらった。

 佐左衛門が信玄の朱印(しゅいん)状を持って帰って来たのは五月の半ばだった。

 朱印状には、『六月一日より九月一日まで、貴賎を問わず、草津の湯治は一切停止する』と書かれてあった。

 この禁制は、戦の最中に出す『乱暴狼藉(ろうぜき)を禁止する』といった禁制とは違い、草津の入り口に制札(せいさつ)として出すべきものではなかった。草津の入り口にこれを書いて立てておいてもしょうがない。わざわざ遠くから来た者が、この禁制を読んで、はい、そうですかと帰れるものではない。この禁制は信玄の名で、武田家中の武士たちに配られたのであった。勿論、それ相当の費用はかかったが仕方がなかった。この禁制のお陰で、武田の家中の者は三ケ月間は来ないだろう。もし、武田の家中の者だと言って来た者は偽者だと言える。食いつめ浪人を取り締まるためにも都合のいいものだった。

 火事騒ぎの後、ほとんどの者が去って行ったが、何の被害も被らなかった宿屋も何軒かあって、そこに滞在している客は残っていた。その中には武田家に属している武士もいたが、五月の末には帰って行った。

 六月になってからは誰も来なくなったのかというとそうでもなかった。武田家の武士たちには禁制が回っているが、一般の者たちはそんな事は知らない。知らないでやって来た者を帰すわけにもいかなかった。入湯停止の禁制が出ているとはいえ、元々、信玄が出した命令ではなく、草津村が信玄に頼んで出して貰った禁制だった。信玄方から見張りの者が来ているわけでもなく、草津村が訴えない限り問題はなかった。

 善太夫は岩櫃城の海野兄弟に頼んで、吾妻郡中の職人を集めて草津の復興に努めた。

 山本与左衛門を普請奉行(ふしんぶぎょう)に、坂上武右衛門(さかうえたけうえもん)を作事(さくじ)奉行に、富沢孫次郎を材木奉行に命じ、各宿屋の部屋数をなるべく多くする事と湯小屋の拡張を命じた。それと、善太夫の宿屋は武田信玄が泊まっても恥ずかしくないような立派な作りにするように、甲府から宮大工を呼んで特別に作らせる事にした。

 普請の最中、珍しく小野屋のナツメがやって来た。

 ナツメは御足(おあし)を持って来たと言って、善太夫に莫大な銭を渡した。

「どういう意味じゃ」と善太夫が聞くと、ナツメは笑って、「惚れた男のためよ」ととぼけていた。

「何を言ってるんじゃ」

「女心が分からない人ね、まったく」

「そんなものは分からん」そう言ってから善太夫はナツメから視線をはずして、「しかし、わしはナツメの事を妻じゃと思っている。ナツメがどう思おうとな」とぼそっと言った。

「ほんと?」とナツメは嬉しそうに笑った。

 善太夫はうなづいた。「はるか昔の事じゃが、わしはナツメを側室にすると約束した」

「そうね、そうだったわね‥‥‥それじゃ、妻のへそくりだと思って受け取って」

「馬鹿言うな。へそくりにしちゃ多すぎるわ」

「仕方ないわね。それじゃ、これで白根山の硫黄の権利を売ってよ」

 硫黄の権利を持っているのは白根明神だった。領主といえども権利を売る事はできなかった。

「駄目じゃ」と言うと、ナツメはまた笑って、「いいのよ」と言った。

 善太夫には何がいいのか分からなかった。

「権利はいいの。今まで通りに取り引きしてくれればいいの。これは前金よ」

「前金か‥‥‥」

 善太夫はナツメの好意を素直に受ける事にした。善太夫が断っても、ナツメは引き下がるような女ではない事は分かっている。今、銭はあってもあっても足りない程、必要な時だ。職人たちに払うだけでも、毎日、飛ぶように銭が出て行った。ナツメはその事を知っていて、わざわざ、銭を持って来てくれたのだった。

 善太夫は心の中でナツメに感謝していた。

「それにしても大変だわね。稼(かせ)ぎ時に火事に見舞われるなんて」

「ああ。まったくだ。しかし、建て直すのに丁度いい機会だったのかもしれん。今までの建物は古すぎる。草津は田舎かもしれんが、各地から旅人が来る。身分の高い武将たちを泊めるのに、今までの部屋では恥ずかしい。今、床の間の付いた書院作りは武士の間では当たり前となっている。しかし、草津にはまだ、そんな洒落(しゃれ)た部屋などない。今年の正月、一徳斎殿を訪ねた時、わしらは素晴らしい客間に通された。わしらが驚いていると、そんなのは普通じゃと言って、信玄殿が来た時に使う部屋というのを見せてもらった。それは物凄く豪華な部屋じゃった。本当に客を持て成すには、ああいう部屋でなくてはいかんと思った。わしも素晴らしい部屋を作るつもりじゃ。十月頃にはできるじゃろう。その時は見に来てくれ」

「そのお部屋に泊めてくれるの」とナツメは聞いた。

「ああ、泊めてやるとも。貸し切りでな」

「あなたと二人っきりで?」

「おう、勿論じゃ」

「楽しみにしてるわ」

「ナツメの楽しみにしてるは当てにはできん。わしが楽しみに待っていて、来た試しがない」

「じゃあ、当てにしないで待っててよ」

「ああ、そうしよう」

 結局、ナツメは来なかったが、冬住みの始まる前に、善太夫の新しい宿屋は完成した。
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