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2024 .03.19
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23.長篠の合戦




 天正三年(1575年)三月の半ば、武田四郎勝頼は父、信玄の遺志を継いで、上洛のための出陣命令を領国内に下した。

 紀州(和歌山県)にいる将軍足利義昭と連絡を取り、本願寺顕如に門徒を蜂起させて上杉謙信を越中に釘付けにし、北条氏政に関東の事を頼み、浜松の徳川家康を一気に倒して、織田信長との決戦に勝利して、将軍義昭を京都に迎え入れるつもりでいた。しかし、三年前、信玄が上洛しようとしていた時とは状況がまったく変わっていた。

 越前(福井県)の朝倉氏、近江(滋賀県)の浅井氏は共に信長によって滅ぼされ、信長に敵対して、散々、信長を苦しめていた伊勢長島の本願寺一揆も倒されていた。今の信長は三年前、四方を敵に囲まれて四苦八苦していた信長とは違い、精神的にも兵力的にも充分な余裕を持っていた。

 勝頼がそれらの事を知らなかったわけではない。知らなかったわけではないが、高天神城を落とした自信が、信長など恐れるに足らずと思わせていた。また、父の生前、信長が武田軍を最も恐れていた事を知っている。信玄が亡くなったとはいえ、武田軍の武将たちは健在である。それらの武将たちも信長を倒せると確信を持っていた。

 善太夫は草津と長野原の事を嫡男(ちゃくなん)の三郎右衛門と家老の宮崎十郎右衛門に任せて真田に向かった。

 出陣の前、善太夫は三郎右衛門と木剣で立ち合った。打ち合う事なく、構えただけで終わったが、お互いに相手の腕が理解できた。

 善太夫は三郎右衛門の上達振りに目を見張り、三郎右衛門は義父の強さを改めて知り、まだまだ、修行を積まなければと思った。

 善太夫は木剣を下ろすと、「陰流の極意とは何じゃ」と聞いた。

 三郎右衛門は突然の質問に戸惑い、しばらく、義父を見つめていたが、「平常心(びょうじょうしん)だと思います」と答えた。

「うむ。平常心も必要じゃ。しかし、陰流の極意は『和』じゃ、という事をよく肝に銘じておけ」

「『和』ですか‥‥‥」と三郎右衛門は首をかしげたが、善太夫はうなづくと、「愛洲移香斎殿のお言葉じゃ」と言った。

「流祖様の‥‥‥」

「今は分からんかもしれんが、やがて、分かる日が来る」

 善太夫は三郎右衛門に愛洲移香斎と上泉伊勢守の事を話して聞かせた。三郎右衛門は興味深そうに聞いていたが、陰流の極意が『和』だという事は理解できないようだった。善太夫でさえ、その事を完全に理解したとは言えなかった。若い三郎右衛門が理解できないのは当然だが、その事を肝に銘じておけば、いつか必ず、理解できると信じていた。

 三郎右衛門は『和』という言葉を何度もかみしめていた。

 今回の戦に善太夫は東光坊ら忍びの者たちを連れては行かなかった。東光坊は去年の夏より、忍び集団を作るために、白根山中にて若い者たちを鍛えていた。忍び集団は、まだ完成していなかったが、東光坊は出陣するつもりで、若い者たちを引き連れて山を下りて来た。善太夫は東光坊に三郎右衛門と共に草津を守るように命じた。

 今回の戦は大きすぎ、敵も味方も多くの忍びを暗躍させる事となる。真田氏は当然、円覚坊が作り上げた忍び集団を活躍させる。真田氏だけでなく、武田の武将たちが皆、一流の忍びを使うに違いない。そうなると、善太夫が、まだ未完成の忍び集団を連れて行っても、何の役にも立ちそうもなかった。

 善太夫は東光坊に真田に負けない程の忍びを育ててくれと、改めて頼み、留守の守りを命じた。

 吾妻郡から善太夫と共に真田に向かったのは、鎌原筑前守、浦野下野守、横谷左近、植栗河内守、富沢勘十郎、富沢治部少輔、池田甚次郎らだった。彼らは一徳斎の墓参りをした後、真田源太左衛門、兵部丞に率いられて甲府へと向かった。岩櫃城は海野兄弟が、箕輪城は瀬下豊後守(せしもぶんごのかみ)が、上杉謙信に備えて守りを固めていた。

 甲府には各地から続々と兵が集まって来た。

 誰もが、武田の軍旗が京の都にひるがえる事を夢見ていた。

 勝頼が織田信長を倒し、信長に追い出された将軍を京に迎え入れて新しい幕府を開き、乱れた天下を一つにまとめて、戦のない太平の世を作る事を夢見ていた。
 四月の初め、勝頼は恵林寺(えりんじ、塩山市)にて、父信玄の法要を大々的に行ない、決心を新たに固めると、一万五千余りの大軍を率いて第一目標である三河の長篠(ながしの)城(鳳来町)へと向かった。

 二十一日に長篠城に到着し、勝頼は鳶(とび)ケ巣山に本陣を敷いて長篠城の様子を窺(うかが)った。

 長篠城は東から三輪川(大野川)、西から滝川(寒狭川)が流れ、城の南で二つの川が合流して豊川となって南へ流れている。三輪川も滝川も深く切れ込み断崖となっていて、攻めるとすれば丘陵続きの北方より他なかった。

 勝頼は三輪川を挟んだ東岸にある鳶ケ巣山から長篠城を眺めていたが、攻撃命令は出さず、鳶ケ巣山に大規模な砦を構築する事を叔父の兵庫助信実(ひょうごのすけのぶざね)に命じると、自らは一万の兵を引き連れて南下し、吉田城(豊橋市)まで攻め込んだ。

 その行為は徳川家康の領国を中央突破して、領地は貰ったと宣言したようなものであった。

 勝頼は豊川流域一帯を焼き払うと、長篠に戻って本格的に包囲網を敷いた。

 長篠城の北にある医王寺山を本陣として三千の兵を置き、その手前にある大通寺山に叔父の左馬助信豊(さまのすけのぶとよ)、馬場美濃守、真田兄弟らを大将として四千の兵を布陣させた。

 滝川を越えて、長篠城の南側には叔父の逍遙軒(しょうようけん)、義兄の穴山玄審頭(げんばのかみ)、山県三郎兵衛尉(やまがたさぶろうひょうえのじょう)らを大将として五千が布陣し、三輪川の東、兵站(へいたん)基地の鳶ケ巣山の砦には兵庫助信実に一千の兵を付けて守らせた。さらに本陣の後方に遊軍として小山田左兵衛尉(さひょうえのじょう)に二千の兵を待機させた。

 善太夫ら吾妻衆は真田兄弟と共に、大通寺山に布陣していた。そこからは長篠城がよく見え、それを包囲している武田の大軍が見渡せた。

 武田軍の包囲陣は完璧だった。

 善太夫は長篠城を見下ろしながら、助かる見込みは絶対にありえないと思った。

 対する長篠城を守っていたのは奥平(おくだいら)九八郎と援軍として来ていた家康の家臣、松平太郎左衛門で兵力はわずか五百人だった。

 奥平九八郎は以前、武田方に属していた。ところが、信玄が亡くなるとたちまち、父と共に裏切って徳川に寝返った。勝頼は奥平氏の裏切りを知ると人質として甲府にいた九八郎の妻と弟をはりつけにして処刑した。

 家康は二年前、長篠城を奪い取ると奥平九八郎を城主として入れた。勝頼に妻と弟を殺された恨みを持っている九八郎を城主にすれば、勝頼が攻めて来ても、簡単に降伏しないだろうと考えたからだった。事実、九八郎は武田の大軍に囲まれても、恐れる事なく、援軍が来るまでは絶対に城を守ると意気込んでいた。

 善太夫は知らなかったが、この九八郎は上泉伊勢守の孫弟子だった。善太夫が伊勢守のもとで修行していた当時、四天王と呼ばれていた高弟の一人に奥平孫次郎がいた。孫次郎は伊勢守が小田原に移った後、故郷の三河に帰り、同族である九八郎の父親に仕えた。九八郎は孫次郎より新陰流を学び、二十歳の若さだったが、武芸の腕には自信を持っていた。

 なお、孫次郎はこの合戦の後、家康の武術指南役として迎えられ、奥山休賀斎(きゅうがさい)と名乗っている。

 五月の八日より本格的な攻撃が始まった。

 定石(じょうせき)通り、北側から攻めたが、敵の守りは堅かった。少人数で守っているため、敵は絶対に城外には出て来ないで、近づいて行くと鉄砲を撃って来た。思っていた以上に、敵は鉄砲を持っているようだった。何度攻めても、味方の犠牲者が増えるばかりで、城内に攻め込む事はできなかった。

 真田隊に属している善太夫らも攻撃に加わり、戦死者こそ出なかったが、多数の負傷者を出していた。

 十一日には、滝川と三輪川を筏(いかだ)で下り、合流地点から断崖をよじ登って城に潜入しようとしたが、崖の上から攻撃されて失敗に終わった。十二日より金(かね)掘り人足を使って地下道を掘り、城内に侵入しようとしたが、敵に感づかれて穴から出た所を狙い撃ちに会い失敗に終わった。しかし、十三、十四日と休まず総攻撃をかけ、一千人近くもの死傷者を出してしまったが、三の丸と二の丸を落とし、敵を本丸内に追い詰める事に成功した。敵は二の丸内にあった兵糧を奪われて窮地に陥った。

 十六日には、鳥居強右衛門(すねうえもん)のはりつけ騒ぎがあった。

 奥平九八郎の家臣、強右衛門は武田軍の包囲網を見事にかい潜って長篠城を抜け出す事に成功した。山中を通って岡崎城まで行った強右衛門は信長と家康に会って、危機に瀕(ひん)している味方の状況を説明した。信長は強右衛門の労をねぎらい、直ちに援軍に向かう事を約束した。強右衛門は早く吉報を知らせようと、休む事なく、長篠城に戻って来た所を武田の兵に捕まってしまった。

『援軍は当分、来そうもないから降伏した方がいい』と嘘をつけば命は助けてやるし、武田の家臣にも取り立てようと言われ、強右衛門は承諾した。ところが、城のそばまで連れて行かれた強右衛門は、『援軍はすぐに来るから、もう少しの辛抱じゃ。二、三日中に援軍は必ず来るぞ!』と大声で叫んだ。

 長篠城内の兵は喜び、士気は上がった。

 騙された勝頼は怒り、長篠城からよく見える場所で強右衛門をはりつけにして殺した。

 善太夫もその光景を見ていた。敵でありながら立派な男だと感心した。武田の兵の中には、馬鹿な奴だと言う者もあったが、心の中では皆、強右衛門の忠義に対して感動しない者はいなかった。

 強右衛門の言った通り、十八日の朝、後詰(ごづ)めの大軍が長篠の西、あるみ原(設楽原)に到着した。

 織田信長と徳川家康の連合軍であった。

 後詰めの軍が来る事を勝頼は充分に予想していた。吉田城まで攻め込んで家康を挑発したのも、家康をおびき出すための手段だった。三方ケ原の合戦の時のように野戦に持ち込めば、たとえ、信長と家康の連合軍だろうと勝利する自信はあった。

 勝頼はあるみ原を決戦場と決め、長篠城を攻撃している間にも、あるみ原の地形を調べるため自ら歩いてもいた。

 連合軍は勝頼の考え通り、連子(れんご)川の西に布陣した。兵力はほぼ互角と勝頼は見ていた。

 勝頼は前もって打ち合わせした通りに、連合軍を迎え討つべく態勢に陣を移動させた。長篠城は小山田備中守に監視させ、鳶ケ巣山砦を叔父、兵庫助に守らせて、その他の兵はすべて、滝川を越えて、あるみ原に進軍させた。

 あるみ原にて、三方ケ原の合戦を再現してみせ、信長にも武田軍の恐ろしさを身をもって体験させてやろうと勝頼は得意になっていた。三方ケ原の時と同じように布陣して、いつでも攻めて来いと待ち構えた。

 ところが、予定通りに事が運んだのはそこまでだった。連合軍はいつまで経っても攻めては来なかった。

 十八日は、決戦場となるはずのあるみ原を挟んで対峙(たいじ)したまま、日が暮れた。

 何万もの兵が睨み合っているのに、あるみ原は不気味に静まり返っていた。

 物見の知らせによると、敵は連子川の向こうで大規模な土木工事を始めている。堀を掘って土塁(どるい)を築き、柵(さく)を立て、まるで城でも建てるかのように日が暮れてからも、まだ、働き続けているという。

 勝頼は敵の出方に戸惑った。

 長篠城を助けるためにやって来た後詰めの軍が、長篠城を放っておいて、陣地を固めるなんて聞いた事もなかった。敵を目の前にして、あんな所に砦を築くというのは、信長と家康は野戦をする意志がないという事だった。

 敵が攻めて来なければ、こちらから攻めて行くというわけにもいかない。たとえ不完全な砦だとしても、城攻めと同じになる。小さな長篠城でさえ落とす事は難しいのに、ほぼ同兵力の敵の守る砦を落とす事はかなり難しい。野戦に持ち込まなければ、勝頼に絶対的な勝利はあり得なかった。

 勝頼はその夜、重臣たちを集めて軍議を開いた。

 敵が野戦をする気がないのなら、一旦、陣を元に戻して長篠城を攻めたほうがいい。そして、敵が連子川を越えて出て来たら叩けばいい。出て来なければ、長篠城を落として引き上げた方がいい。長篠城が落ちれば、家康は長篠城を見捨てた事によって信用を無くし、三河及び遠江の豪族たちから見放されるだろう。

 いや、戦いもしないで、敵に背中を見せたら武田軍の恥となる。敵は武田軍を恐れている。恐れているから、後詰めに来ても攻めて来られないのだ。敵は陣地を固めているが突破できない事はない。敵は信長と家康の連合軍で、言うなれば寄せ集めの軍だ。一ケ所が破れれば、敵は混乱に陥って逃げ惑うに違いない。今回の戦は川中島の合戦と同じである。信玄と謙信が何度も戦ったように、勝頼と信長もこの先、何度も戦う事になるだろう。今、戦わずして逃げたら、二度と上洛は果せないかもしれない。

 この場はひとまず陣を引いた方がいいという者と、絶対に戦うべきだという者に分かれ、結論の出ないまま軍議は続いた。

 戦闘回避派は信玄と共に戦陣をくぐって来た老臣たちで、主戦派は勝頼を取り巻く旗本衆だった。

 勝頼はその晩は結論を出さなかった。

 十九日、勝頼は長篠城を監視している小山田備中守に長篠城の攻撃を再開させ、忍びの者を敵の陣地に送って砦の様子を探らせた。勝頼のいる本陣に老臣たちが何度も足を運んで来たが、勝頼は会おうとはしなかった。

 老臣たちの言う事は勝頼にも分かっている。力攻めをすれば確かに犠牲は大きい。長篠城だけを落として引き上げても、老臣たちの言う通り、家康を見捨てて武田に寝返る者が出て来るだろう。しかし、敵を目の前にして、戦わずして逃げたと思われたくはなかった。

 この現場にいる者たちは、信長と家康が武田軍を恐れて、攻めて来ないで砦をせっせと築いている事を知っているが、この場にいない者には分からない。戦わずして引き下がった場合、信長と家康が、武田軍は信長と家康を恐れて逃げて行ったと言い触らすに違いないと思うと、どうしても引き下がるわけには行かなかった。勝てないまでも、信長と家康に一泡吹かせてやらなければ退く事などできなかった。

 帰って来た忍びの者の知らせを聞きながら、勝頼はうまい作戦がないものかと考えた。

 敵は連子川の向う側にある丘に南北に細長い砦を構築している。その砦は半里(約二キロ)にも及び、敵の背後に回る事は不可能に近い。しかも、敵は数多くの鉄砲を用意して、こちらが攻めて来るのを待ち構えているという。

「半里か‥‥‥」と勝頼はうなづいた。

 半里にも及ぶ長い砦という事は当然、兵力を分散する事となり、それぞれの陣に厚みはないという事だった。突破しようと思えば、できない事はないと思った。忍びの者から敵陣の地形を詳しく聞いて、勝てると確信を持った勝頼は重臣たちを呼んで軍議を再開した。

 その頃、善太夫は真田兄弟と共に本陣の右前方に陣を敷いていた。勿論、善太夫は軍議に参加できない。参加はできないが、噂によって昨晩の軍議の様子は知っていた。さらに軍議の後、老臣たちが酒を飲みながら、勝頼の側近たちの悪口を言っていた事まで噂となっている。

 善太夫としては引き下がるよりも戦った方がいいと思っていた。敵は怖じけづいているのだから、早いうちに叩いた方がいいと大方の者たちが思っていた。

 家臣たちと一緒に、善太夫が鉄砲の玉よけの竹束(たけたば)を作っていると義弟の鎌原筑前守がやって来て、「どうなるんじゃろのう」と話しかけて来た。

「わしらには分からん」と善太夫は答えた。

「また、評定(ひょうじょう)が始まったらしい。お屋形様(真田源太左衛門)が本陣の方に出掛けて行ったわ」

「そうか‥‥‥始まったか」

「どうなると思う」と筑前守はまた聞いた。

「分からん」と善太夫は首を振った。

「お偉方は皆、戦に反対してるからのう。武田のお屋形様がその反対を押し切る事ができるかじゃ」

「難しいじゃろうのう。皆、歴戦(れきせん)ある方々じゃからのう」

「もし、引き上げる事となれば、こんな物をいくら作っても無駄となるわけじゃな」

「ああ、そうじゃのう」

「善太夫殿の所は何人やられたんじゃ」

「三人じゃ。戦死したのは三人じゃが、鉄砲にやられて鳶ケ巣山の砦で休んでるのは十四人もいるわ」

「そうか‥‥‥わしん所も二十人近くやられたわ」

「奴らのためにも、このままでは引き下がれんのう」

「そうじゃな」

 その日の軍議で、勝頼は何とか老臣たちを説得して、決戦を迎える事に決定した。

 半里にも及ぶ敵の陣地は厚さが薄いというのが、老臣たちにも勝てると思わせたのだった。ただし、兵力が互角と見ての計算だった。しかし、実際の連合軍の兵力は武田軍の倍以上もあった。信長は後方に兵を隠していたため、武田方は敵の兵力を把握する事ができなかった。真田兄弟でさえ、円覚坊から知らせを受けて、敵の兵力が武田よりも勝(まさ)るらしいとは知っていたが、倍以上もあるとは知らなかった。

 この頃、円覚坊は自ら鍛えた真田の忍び集団を率いて、敵陣の後方に向かっていた。後方から敵陣を撹乱(かくらん)し、隙あらば、信長の命を奪い取ろうと狙っていた。

 決戦に踏み切った武田軍は次の日、あるみ原のほぼ中央まで進出した。敵陣まで、ほぼ十町(約一キロ)の距離だった。

 武田軍の前方には五反田川が北から南へと流れ、その西に連子川が五反田川と平行するように流れ、その向こうの丘に土塁と柵で守られた敵陣があった。土塁は丘に沿って見事に半里も続いている。しかも、その土塁の内側にも土塁を築いているのが見える。敵は二重、三重の守りを固めているようだった。

 勝頼は陣馬奉行(じんばぶぎょう)の原隼人佐(はやとのすけ)を呼ぶと、戦に勝つため本陣にすべき場所を捜すよう命じた。

 一時(二時間)後、隼人佐が戻って来ると勝頼は五反田川を越え、連子川を挟んで、敵陣を見下ろせる丘の上に本陣を敷いた。その本陣を中心に連合軍に対して陣を横に展開した。山県三郎兵衛尉を最左翼に、小山田左兵衛尉、武田逍遙軒、小幡尾張守、内藤修理亮、武田左馬助と並び、本陣の右側には、穴山玄審頭、土屋右衛門尉、真田兄弟、そして最右翼に馬場美濃守が並んだ。

 善太夫ら吾妻衆は真田兄弟の隊に属し、右翼の丘の上に陣を敷いた。目の前に敵陣がよく見えた。

 南から続いている丘と北からの山裾が丁度、目の前で切れ、その谷間を連子川の支流が流れている。敵はその谷間をふさぐように土塁を築いて丘と山裾をつないでいた。土塁の上に柵を設け、その向こう側に鉄砲を構えた兵が並んでいるのが見える。

 言わば、そこは敵の弱点と言えた。そこを突破できれば、敵の後方に回る事ができる。しかし、そこを突破する事は難しかった。敵も弱点だという事を充分に承知して、それなりの守りを固めている事は確かだった。

 その日の昼過ぎから雨が降って来た。攻撃開始は明日の早朝と決められた。

 善太夫は源太左衛門に呼ばれ、河原左京亮(さきょうのすけ)らと共に源太左衛門に従い、武田軍と連合軍とのほぼ中央にある小高い丘まで進んだ。敵陣との距離は二町(ちょう)足らず(約二百メートル)の最前線だった。連子川を挟んで向こうの丘に土塁を築き、敵兵がうようよいるのが見える。さらにその丘の上に本陣らしいのも見える。

 善太夫は厳重な守りを敷いた敵陣を眺めながら、源太左衛門はあそこに突撃するつもりなのだろうかと思い、武者振るいをした。




 翌日の未明、雨は上がった。

 辺り一面、霧が立ち込め、敵陣がよく見えなかった。

 武田軍は皆、すでに起きて戦の前の腹ごしらえの準備をしていた。

 その時、後方より銃声が響き渡った。

 善太夫は小山田備中守が、今朝の総攻撃に合わせて長篠城の攻撃を始めたのだろうと思った。少し早すぎるような気もしたが、景気づけに朝っぱらから派手にやっているのだろうと別に気にも止めなかった。銃声のする方を振り向いても霧で何も見えない。もし、霧が晴れたとしても、ここからは見えないかもしれなかった。

 本陣の勝頼も後方の銃声は聞いていたが、善太夫と同じように小山田備中守の仕業だと思っていた。

『まさか、敵が迂回して山中を通り、後方を攻撃しているのでは?』などと思っている者は武田の家中には一人もいなかった。

 ところが、信長という男は、その、まさか、を平気でやる男だった。

 家康の家臣、酒井左衛門尉に四千の兵を率いさせて、雨の降りしきる中、豊川の南側の険しい山中を鳶ケ巣山に向かわせた。そして、今朝の未明に鳶ケ巣山の砦を背後から急襲したのだった。

 主将の武田兵庫助、副将の山県善右衛門を初めとして数百人が討ち取られ、砦は陥落した。武田軍は兵站基地を奪われて、退路まで断たれる結果となったが、勝頼はまだ気づいてはいない。

 霧が消え、日が昇り始めた頃、陣太鼓と法螺(ほら)貝が鳴り響き、攻撃命令が下された。

 さっそく、左翼の方から銃声が聞こえて来た。山県三郎兵衛尉が真っ先に徳川軍の陣地に突撃したらしい。負けずと右翼の馬場美濃守が織田軍に突撃して行った。

 美濃守が突撃した所は、丘と山裾をつないだ土塁の所だった。敵の弱点であったが、最も守りの堅い所だった。

 善太夫も真田源太左衛門の指揮のもと敵陣に近づいて行った。

 善太夫らは昨日、最前線にある丘の上に移動したが、そこからの攻撃は不利と判断して、また、兵部丞率いる本隊と合流していた。馬場美濃守の隣であった。

 馬場隊と真田隊、そして、土屋右衛門尉率いる隊の三隊で丘と山裾をつなぐ土塁を突き崩そうという事になっていた。

 まず、竹束を担いだ兵が次々と敵陣に近づいて行く。その後を鉄砲隊が続いた。

 敵も味方も射程距離に入るまで鉄砲は撃たない。味方が土塁まで、あと五十間(約九十メートル)位まで近づいた時、敵は一斉に撃って来た。

 竹束を担いだままだった兵が何人か鉄砲に撃たれて倒れた。

 味方の鉄砲隊も横に並んで、敵に向かって撃ち始めた。

 敵は一丈(約3メートル)程の高さのある土塁の上から撃って来る。

 味方は竹束に隠れて撃ち上げなければならないため、敵の方が圧倒的に有利だった。

 敵は続けざまに撃ち続けていた。敵の方が味方よりも多くの鉄砲を用意しているのは確かだった。二段、あるは三段構えで交替に撃っているに違いない。銃声は途切れる事なく続いていたが、ほとんどが竹束に当たって弾かれるため、損害はそれほど出なかった。

 銃撃戦の間、後方では弓組と槍組、そして、騎馬武者が待機している。

 善太夫は馬上で、湯本家の鉄砲隊を見ていた。鉄砲奉行の山本小三郎の指揮のもと、皆、敵を恐れず、手慣れた手付きで玉込めを繰り返しながら鉄砲を撃っている。善太夫は満足そうにうなづいた。

 敵の鉄砲が一瞬止まり、弓矢に変わった。

 源太左衛門は弓組に応戦させると共に、槍組と騎馬武者に突撃を命じた。

 楯を構えた兵を先頭に槍組が突撃した。

 善太夫ら騎馬武者も後に続く。善太夫は甥の左京進ら馬廻りの者たちと共に、太刀で矢を落としながら敵陣に突っ込んだ。

 後もう少しで槍組の槍が土塁上の敵まで届くという時、敵の鉄砲が一斉に火を吹いた。

 槍組はほとんどの者が撃たれ、騎馬武者も馬を撃たれて落馬した者が多かった。

 善太夫の左足に痛みが走った。

「引け、引け!」と源太左衛門の声がする。

 善太夫は馬を返して引き下がった。

 善太夫には何が起こったのか一瞬分からなかった。

 鉄砲の届かない距離まで引き下がって、後ろを振り返ると敵陣の土塁の前に味方の兵が何十人も倒れていた。

 自分の目を疑った。

 そんな馬鹿なと思った。あんなに早く、玉を込められるはずはないと思うと共に、敵の罠(わな)にはまってしまったのだと悟った。

 善太夫らのいる右翼だけではなかった。中央も左翼も皆、やられ、敵陣の前に死体の山を築いていた。

 当時の鉄砲は有効射程距離は百メートル前後だった。この距離内なら鎧(よろい)を貫通する程の威力があった。お互いに百メートル以内に近づいて竹束に隠れて射撃する。その後方にやはり竹束に隠れて弓組と槍組が待機している。騎馬武者がいるのは敵より二百メートル以上後方であった。威力は衰えるとはいえ、二百メートル以内に近づくのは危険だった。

 鉄砲の玉込めに掛かる時間は、慣れている者でも二十秒前後を要し、しかも、続けて撃てるのは五、六発が限度だった。五、六発も撃つと銃身の内部に火薬のカスが焼き付いて、玉が込められなくなってしまう。そのカスを取り除くのには一分以上の時間を要した。

 合戦では普通、二段構えに鉄砲隊を配し、交互に鉄砲を打ち、五、六発づつ撃つと引き下がって、弓組に矢を射させると共に、槍組、騎馬武者の突撃となる。二段構えにするのは、一段だけだと、玉込めをしている二十秒の間に、槍組と騎馬武者に突撃されてしまうからであった。

 源太左衛門は敵の鉄砲がやみ、弓矢に変わった時、あれだけ撃ち続けたのだから、鉄砲にカスが溜まって、しばらくは撃っては来ないだろうと判断して突撃命令を下した。ところが、土塁の後ろに、別の鉄砲隊が隠れていて、それに撃たれてしまったのだった。他の隊も同じような目に会っていた。

 連合軍は一度、鉄砲を連射してから間をあけ、鉄砲はすべて撃ち尽くしたと思わせて、武田軍が突撃して来ると隠しておいた鉄砲隊で狙い撃ちにしたのだった。

 左翼から右翼に至るまで、すべての隊が同じ戦法によって敗れていた。戦が始まって一時(二時間)も経っていないのに、武田軍は二百人余りの死傷者を出していた。

 そんな時、鳶ケ巣山の砦が落ちたとの知らせが勝頼のもとに届いた。

 勝頼にはそんな事が信じられず、知らせを持って来た兵を怒鳴り散らした。しかし、傷だらけで必死の面持ちの兵の姿は嘘ではない事を物語っていた。

 突然、現れた四千余りの敵兵は鳶ケ巣山の砦を落として、長篠城に入ったという。

 前後を敵に挟まれ、武田軍は窮地に陥ってしまった。

 勝頼は至急、重臣たちを集めて軍議を開いた。

 こうなったら、もう、敵陣を突破して前進するしかなかった。

 今更、退却はできない。退却をすれば、敵は追撃して来る。滝川を渡る地点で追い詰められ、さらに、長篠城からも打って出るだろう。

 全滅という事も考えられた。

 後方から攻めて来ないうちに、敵陣を突破しなければならなかった。

 重臣たちは覚悟を決めて、それぞれの陣地に帰って行った。

 善太夫は左足を撃たれたが、玉がかすっただけだった。気が張っているので、それ程、痛みは感じなかった。

 源太左衛門は本陣から戻ると、善太夫らに鳶ケ巣山砦が落ちた事を知らせた。

 鳶ケ巣山には負傷者がいたし、小荷駄隊の者たちがいた。副将だった湯本五郎左衛門を初めとして負傷者は皆、殺され、小荷駄奉行の本多儀右衛門も戦死し、兵糧は奪われたに違いなかった。兵糧を奪われたら、いつまでも、こんな所にはいられない。何としてでも、目の前の敵を倒さなくてはならなかった。

 再び、総攻撃が始まった。

 槍組は減ったが、鉄砲隊に被害はなかった。前回と同じく、竹束を先頭に鉄砲隊、弓組、槍組、騎馬武者と進んだ。

 敵は一斉に鉄砲を撃って来た。そして、前回と同じように撃つのを中止して弓矢を放って来たが、源太左衛門は突撃命令を出さなかった。竹束を構えたまま槍組を少しづつ前進させた。三十間まで近づくと、敵は我慢し切れずに、再び鉄砲を撃って来た。

 味方の鉄砲隊は槍組を進ませるために援護射撃を始めた。連子川を越える時、何人かが撃たれたて倒れたが、何とか土塁の側までたどり着く事ができた。

 土塁の手前には深い空堀が掘ってあり、槍組の兵は次々に空堀の中に入って行った。空堀の中まで入れば、上から撃たれる事はなかった。そこから土塁の上まで二丈はある。空堀から何本もの鉤(かぎ)付き縄が土塁の上に投げられた。

 柵に引っかかった縄を伝わって、兵たちが次々に土塁に登って行く。敵は柵からすぐに出られないため、土塁を登って行く兵を撃つ事ができなかった。

 味方の兵が土塁を登っている最中にも敵は鉄砲を撃ち続けていたが、味方の兵が土塁に登って、槍を突き入れると銃声はやんだ。

 源太左衛門は突撃命令を下した。

 真田隊、馬場隊、土屋隊の兵が一斉に土塁めがけて突進し、次々と土塁に登って行った。

 善太夫も馬から降りて土塁に取り付いた。

 善太夫がもう少しで土塁に登りきるという時、また、一斉に鉄砲を撃つ音が土塁の向こうから響き渡った。

 善太夫が何事かと顔を出すと、六十間程先に、もう一つ土塁があり、そこから鉄砲が連射され、中に入った味方が撃たれていた。敵は土塁と土塁に挟まれた中を逃げ惑っている味方を狙い撃ちにしている。逃げようにも逃げ道はなかった。

 善太夫は土塁に上がると敵が置いて行った竹束に身を隠して、味方の鉄砲隊を呼んだ。

 源太左衛門は鉄砲隊を土塁の上に並べて、敵に対抗した。

 この土塁は確保する事はできたが、先には進めない。とにかく、この土塁を壊さなければ、騎馬隊は入れなかった。

 源太左衛門は金掘り衆を呼んで土塁を壊させた。

 正面の敵はおとなしくなったが、右横から織田軍の佐久間右衛門尉が土塁を壊させまいと攻め寄せて来た。

 最右翼の馬場隊が佐久間隊とぶつかりあった。鉄砲のない野戦になれば、武田軍の方が圧倒的に有利だった。馬場隊の騎馬武者たちが佐久間隊をどんどん押しまくっていた。

 中央の方を見ると、味方の兵は相変わらず敵の鉄砲にやられていた。やはり、ここを攻めたのは正解だったらしい。

 各隊に分散していた金掘り衆が集まって来たため、思ったよりも速く、土塁は崩され、空堀が埋められた。

 すでに日は高く、昼近くになっていた。その頃のなると、あちこちで最初の土塁を占拠する事に成功していた。ただ、戦死した者も予想を遥かに上回っていた。

 六十人引き連れて来た善太夫の家臣たちも半数近くが鉄砲にやられて死傷していた。真田隊全体を見ても、三分の一近くはやられている。義弟の鎌原筑前守は戦死し、植栗河内守は重傷を負っていた。

 三回目の総攻撃が始まった。

 攻撃方法は前回と同じだった。敵の一斉射撃が終わった後、槍組が鉤縄を持って土塁によじ登り、その土塁を占拠して、金掘り衆によって壊すというものだった。

 第二の土塁は簡単に落ちた。

 善太夫は第二の土塁に登り、竹束に隠れながら第三の土塁を見た。

 土塁の上の柵の向こうに敵が鉄砲を構えているのが見えるが、それが最後の土塁だった。それを越えれば、敵の背後に出られる。敵の備えのない背後に回れば、武田の誇る騎馬隊が思う存分活躍でき、戦はほぼ勝ったと言える。

 あと、もう少しじゃ、と善太夫は思った。

 金掘り衆が集まって来て、兵部丞の指揮のもと土塁を壊し始めた。

 源太左衛門は騎馬隊を率いて、谷の入り口まで来ていた。

 ここを突破するため、穴山玄審頭の隊もこちらに移動している。玄審頭が加われば、第三の土塁は簡単に落ちるだろう。

 善太夫は勝利を確信した。が、ふと、左右の丘を見上げた。

 何となく嫌な予感がした。

 もし善太夫が敵の立場だったら、当然、左右から攻撃して来る。しかし、敵は左右から撃っては来なかった。

 静まり返って、敵の姿も見えない。

 敵はその事に気づかなかったに違いない。馬鹿な奴らだと思いたいが、信長という男がそんな失敗を犯すわけがなかった。

 善太夫は危険を感じて土塁から飛び降りると、次の攻撃に備えて、隊列を整えている槍奉行の坂上(さかうえ)武右衛門に、「左右からの攻撃に気を付けろ!」と怒鳴り、源太左衛門のもとに走った。

 しかし、遅かった。

 善太夫が源太左衛門のもとにたどり着く前に、左右からの一斉射撃が始まった。

 善太夫は肩を撃たれて、その場に倒れ、「危ない!」と叫んだが、馬上の源太左衛門は敵の恰好の的となり、何発もの玉を浴びて馬から崩れ落ちた。

 兵部丞の方を見ると、兵部丞も崩れかけた土塁の近くに倒れていた。

 湯本家の家臣たちも重なるようにして倒れている。旗奉行の湯本新九郎が鉄砲に撃たれながらも、三日月の家紋の描かれた旗が倒れないように、じっと耐えていた。

 善太夫は新九郎のもとに行きたかったが、鉄砲の玉が雨のように降り、動く事はできなかった。

 谷の中の兵をあらかた鉄砲で倒すと、敵はようやく得物(えもの)を手にして、第三の土塁から掛け声と共に飛び出して来た。

 善太夫は肩を撃たれた後、そのまま身を伏せていた。その後、足を撃たれたが、幸いにまだ生きていた。

 善太夫は全身の力を振り絞って、太刀を抜くと敵の中に突っ込んで行った。

 怪我をしているとはいえ、陰流の腕は冴えていた。

 新九郎の所まで行ったが、すでに、新九郎は旗をつかんだまま死んでいた。

 敵が、その旗を斬り落とした。三日月が真っ二つに割れた。

 善太夫はかっとなって、一刀のもとに、その敵を斬り殺した。

 向かって来る敵を次々に倒して行ったが、やがて、腕が上がらなくなった。

「引け!引け!退却じゃ!」と後方から誰かが叫んで、法螺貝が鳴っていた。

 善太夫は太刀を振り回しながら身を引いた。

 太刀を持つ手が血で真っ赤になっていた。

 善太夫は走っているつもりでも、足はいう事を聞かなかった。

 追いすがる敵を相手にしながら退却したが、横から槍を突かれて転んでしまった。

 敵が首を取ろうと近づいて来た。太刀を下から突き刺して、やっとの思いで起き上がった。

 敵は次から次へと向かって来た。

 太刀を振り回しながら敵を追い払い、ようやく、連子川までたどり着いた時、後ろから矢を射られ、そのまま、川の中に倒れ込んだ。

 倒れる瞬間、これで終わりか‥‥‥と思った。

 一瞬の間に、様々な光景が頭の中を駈け巡った。

 幼い頃、出会った愛洲移香斎の温和な顔が浮かび、「陰流の極意は『和』じゃぞ」と言って、善太夫の頭を撫でていた。

 それを見ながら、祖父の梅雲が笑っていた。

 遠い昔の事だった。

 今まで、すっかり忘れていたが、今、鮮明に思い出された。

 移香斎の言うように、『和』のために陰流を使う事はできなかった‥‥‥

 何人もの敵を殺してしまった‥‥‥

 しかし、善太夫は、武田勝頼が織田信長を倒して上洛し、新しい平和な時代を作る事を信じていた。勝頼の夢に賭け、戦のない平和な世の中が来る事を願って戦って来た。

 ただ、源太左衛門と兵部丞を助ける事ができなかったのが悔やまれた。死んで、あの世に行っても、一徳斎に会わせる顔がなかった。

 若き日の一徳斎の笑顔が浮かび、やがて、深い暗闇へと吸い込まれて行った。

 善太夫はまだ生きていた。

 目を覚ますとナツメがいた。

 まさか、と思い目をつむり、もう一度開けてみると、やはり、ナツメだった。

「よかった」とナツメは言った。

「どうして、ここに」と善太夫は言ったが、ほとんど声にならなかった。

「草津に行ったのよ。そしたら、あなたがこっちだって言われて‥‥‥何となく、嫌な予感がしたの‥‥‥でも、遅かったわ」

「そうか、草津に行ったのか‥‥‥」

 ナツメはうなづいた。

 善太夫を見つめる目が潤んでいた。

「わしの傷はどうじゃ」と善太夫は聞いた。

「大丈夫‥‥‥とは言えないわ」

「じゃろうのう‥‥‥戦は終わったのか」

「終わったわ。武田四郎(勝頼)様は無事に退却したみたい。でも、武田家の重臣たちのほとんどが戦死したわ。あなたの家臣たちも‥‥‥」

「そうか‥‥‥敵の鉄砲にやられたな」

「織田弾正様は二千挺の鉄砲を用意したそうよ」

「二千挺か‥‥‥武田の倍以上じゃな‥‥‥負けるわけじゃ‥‥‥」

「あまり、話さない方がいいわ」

「ナツメ‥‥‥そなたに助けられたのは、これで二度目じゃな‥‥‥わしはそなたのために何もしてやれなかった‥‥‥」

「いいのよ、そんな事‥‥‥」

「すまん‥‥‥」と言うと善太夫は目を閉じた。

 善太夫はナツメと初めて会った時の事を思い出していた。はるか昔の事だったが、少女時代のナツメの姿がはっきりと瞼(まぶた)の裏に焼き付いていた。ナツメとは夫婦になれなかったが、夫婦以上の付き合いだったような気がした。

 善太夫はナツメの思い出に浸っていたが、突然、養子の三郎右衛門の顔が浮かんで来た。

 善太夫は目をあけると、「ナツメ、三郎右衛門の事を頼む」と言った。

 ナツメはうなづいた。目から涙が流れていた。

「それと、年老いた母上の事もな‥‥‥」

 ナツメはうなづいた。

 善太夫はナツメに手を差し出して、「頼むぞ」と言った。

 ナツメは善太夫の手を両手で包み込み、何度もうなづいていた。

 善太夫はナツメに笑いかけようとしたが、力なく息を引き取った。

 ナツメの手下が、善太夫の家臣の浦野佐左衛門と宮崎陣介を連れて来たのは、その後だった。




 長篠の合戦で戦死した武田軍の武将は、真田源太左衛門と兵部丞の兄弟、山県三郎兵衛尉、原隼人佐、土屋右衛門尉、馬場美濃守、勝頼の叔父の武田兵庫助、勝頼の従兄(いとこ)の望月遠江守、山県善右衛門、横田十郎兵衛、芦田下野守、箕輪城の城代、内藤修理亮、安中城主の安中左近大夫、国峰城主の小幡尾張守などであった。それらの武将に従って死んで行った兵は数千人にも及んだ。

 吾妻衆では草津領主の湯本善太夫、鎌原城主の鎌原筑前守、岩下城主の富沢新十郎の長男、勘十郎、岩井堂城主の富沢治部少輔らが戦死し、横谷左近、植栗河内守らは重傷を負っていた。

 なお、敵陣の後方から、忍びを使って奇襲攻撃をしていた円覚坊は、負け戦と分かった後、忍び集団を真田に帰し、たった一人で信長の本陣に忍び込んだ。死を覚悟して信長の命を狙ったが、信長に近づく事もできず、敵の忍びに囲まれて壮絶な死をとげていた。

 善太夫の遺体は塩漬けにされて草津に運ばれ、愛洲移香斎の眠る天狗山の山頂に葬られた。

 湯本家は三郎右衛門が継ぎ、老母には善太夫の湯宿が残された。

 ナツメは善太夫の死後、正式に出家して善恵尼を名乗り、善太夫の命日には必ず、草津を訪れた。

 湯本三郎右衛門は真田家の跡を継いだ武藤喜兵衛改め真田安房守昌幸(あわのかみまさゆき)に従って戦に明け暮れる事となる。

 戦国の世は、まだまだ終わりそうもなかった。

 世の中は移り変わって行くが、草津の湯煙だけは、昔と変わらずに立ち昇っていた。





第1部・湯本善太夫  完
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