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2017 .09.23
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11.決意




 梅雨時の雨の中、羽尾道雲(はねおどううん)は鎌原(かんばら)城の近くで倒れている娘を助けた。

 粗末な身なりは泥だらけで、山の中を旅して来たのか手も足も傷だらけだった。長い髪を無造作に束ねて、苦しそうに顔をしかめていた。真っ黒に汚れていても、その顔立ちは美しく、胸元からのぞく白い肌は、道雲の欲望をそそった。

 娘を城内の屋敷に連れて行って、ゆっくりと休ませ、起きられるようになると風呂に入れて綺麗な着物を着せた。思っていた通り、風呂上がりの娘はまぶしい程の美しさだった。

 道雲はニコニコしながら娘の機嫌をとって、娘のために山のような御馳走を用意した。

「サワといいます。武蔵の国からやって参りました」

「ほう。武蔵から一人で来たのか」

 サワは弱々しく、うなづいた。「両親を戦(いくさ)で亡くして、万座(まんざ)の湯にいる叔母を訪ねてやって参りました。でも、急に差し込みに襲われてしまって‥‥‥」

「そうか、そうか、万座に叔母上がおるのか。ここから万座はすぐじゃ。わしが連れて行ってやろう。まずは腹ごしらえをして、ゆっくりと休む事じゃ」

「ほんとにありがとうございます。あたしみたいな者に、こんなにもよくして下さるなんて‥‥‥」

 サワは目に涙を溜めて、頭を下げた。

 道雲は目を細めて、「いいんじゃ、いいんじゃ」と何度もうなづいた。

 道雲は女好きで有名だった。

 正式な妻は、すでに亡くなっているが善太夫の伯母である。妻が生きているうちに六人の側室を持ち、死んでからも三人の側室を持った。その内、四人はすでに亡くなっていて、皆、道雲に弄(もてあそ)ばれた上の若死にだった。気に入った娘がいれば手当り次第に手をつけ、飽きの来ない娘だけを側室に迎えた。道雲の餌食(えじき)となった娘は領内に数知れなかった。

 鎌原城に移ってからも早速、娘あさりをして、タケという十八の娘を側室に迎えていた。タケを迎えて、まだ一月も経っていないのに、タケの事など忘れたかのように、サワに夢中になっていた。

 初めはおどおどしていたサワも道雲が自分を大切に扱ってくれるので、徐々に打ち解けて行った。

 梅雨が上がると道雲は浮き浮きしながら、サワを連れて万座の湯に登った。叔母に会って、正式にサワを側室に迎えるつもりでいたが、万座の湯にサワの叔母はいなかった。

 サワは気落ちして、がっかりしていた。道雲にしてみれば、その方がよかった。道雲は沈み込んでいるサワを慰め、とうとう、一夜を共にした。

 サワから見れば、道雲は父親以上も年上だったが、頼る者のいなくなった今、道雲を頼らざるを得なかった。欲しい物は何でも買ってくれるし、毎日、うまい物を食べさせてくれるので、サワは道雲に甘えっ放しだった。

 道雲は鼻の下を伸ばして、万座の湯でサワとの楽しい日々を過ごしていた。
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12.岩櫃城




 信州落ちした羽尾道雲が信州高井郷の武士を引き連れて、鎌原を攻めて来たのは九月に入ってからだった。

 鎌原宮内少輔はあらかじめ攻撃を察し、伜の筑前守(ちくぜんのかみ)に待ち伏せをさせた。道雲と筑前守は合戦に及び、筑前守は信州勢に押されて散り散りに逃げて行った。

 道雲は勢いに乗って攻め込んだが、それが罠(わな)だった。

 狭い谷間を抜けた時、突然、左右から襲われた。左からは西窪佐渡守(さいくぼさどのかみ)の長男、治部左衛門(じぶざえもん)の兵、右からは湯本善太夫の兵が襲いかかり、さらに後方からは筑前守の兵が攻めて来る。前方には宮内少輔が陣を敷いて待ち構えている。

 道雲の兵は総崩れとなり、四散して山中へと逃げ込んだ。

 善太夫は黒岩忠右衛門率いる鉄砲隊に道雲を狙わせたが、撃ち落とす事はできなかった。

 その後、道雲は岩櫃城下に逃げ込んだという情報が届いた。

 同じ頃、武田信玄は再び、上野(こうづけ)に進攻して来た。箕輪城、蒼海(おうみ)城(前橋市元総社町)、倉賀野城(高崎市)と攻め、北条軍と合流して武蔵の松山城(埼玉県比企郡吉見町)を包囲した。

 松山城が危ないと聞いて、上杉政虎は雪の降り積もった三国峠を越えて、十二月の初め沼田の倉内城に着陣した。

 政虎は沼田に集合せよとの出陣命令を下すと、直属の兵だけを引き連れて沼田にやって来た。突然の出陣命令だったため、兵がなかなか集まらなかった。仕方なく政虎は沼田にて越年し、関東の諸将には廐橋(うまやばし)城に集合させた。

 この時、政虎は将軍足利義輝(よしてる)から『輝』の一字を賜(たまわ)って、上杉輝虎(てるとら)と改名していた。

 年が明けて、永禄六年(1563年)となり、廐橋城には輝虎に新年の挨拶に訪れた武将たちで溢れた。しかし、輝虎はまだ、沼田にいた。輝虎が兵を引き連れて、廐橋城に入ったのは二月に入ってからだった。

 善太夫、鎌原宮内少輔、西窪治部左衛門の三人は病と称して、廐橋には出向かなかった。

 はっきりと武田方であると宣言したようなものだった。輝虎の大軍に攻められる可能性もあるわけだが、まだ、輝虎が出て来るのは早い。まず、岩下衆の旗頭である岩櫃城の斎藤一岩斎が、面目(めんぼく)を潰されたと攻めて来るに違いなかった。

 善太夫は長野原城に入り、襲撃に備えて守りを固めた。
13.氷雨




 長野原で戦死した一徳斎の弟、常田伊予守(ときたいよのかみ)の遺体は鎌原の延命院にて荼毘(だび)に付された。

 父と共に長野原城を守っていた長男の永助が喪主(もしゅ)となり、仮の葬儀が行なわれた。

 伊予守の初七日が過ぎるまで、一徳斎は延命院に籠もったまま、誰とも会おうとしなかった。

 善太夫は裏工作が済むと一旦、草津に帰って、戦死した孫左衛門らの葬儀をして、冬住みを済ませてから、一徳斎が動くのを待っていた。

 十月の九日、一徳斎はようやく動き出した。

 充分に休養した三千近くの兵を率いて、吾妻(あがつま)川に沿って東へと向かった。

 途中、羽尾道雲の籠もる羽尾城の前を通ったが、完全に無視したまま進んで行った。道雲は百人余りの兵と共に立て籠もっていた。急いで攻めなくても、自滅するのは目に見えていた。

 善太夫は長野原城にて一徳斎の軍と合流した。

 長野原城には海野長門守の兵が五十人程守っていたが、長門守はすでに寝返りが決まっていて、抵抗する事なく、城は明け渡された。

 驚くべき事に、長野原城内にはたっぷりの兵糧米(ひょうろうまい)が蓄えられてあった。前回の戦の時、ここの兵糧米はほとんど使い果たしたはずだった。これだけの兵糧米があるという事は、長門守によって運ばれたに違いなかった。

「味な事をするわい」と一徳斎は笑った。

 長門守が有利な条件で寝返るために、一徳斎に媚(こび)を売ったに違いないが、この兵糧米は嬉しい土産には違いなかった。

 一徳斎はさっそく、兵糧米を皆に分け与えた。

 長野原で一夜を明かした真田軍は二手に分かれて進軍した。前回、雁(がん)ケ沢でてこずったため、雁ケ沢に進むのはやめて、一軍は暮坂峠に、もう一軍は須賀尾峠に向かう事になった。

 一徳斎は三人の息子、源太左衛門、兵部丞(ひょうぶのじょう)、武藤喜兵衛に二千の兵を任せて暮坂峠に向かわせ、自らは六百の兵を率いて須賀尾峠に向かった。なお、長野原城には祢津松鷂軒(ねづしょうようけん)に二百の兵を指揮させ、羽尾道雲の動きを押えた。

 善太夫と鎌原宮内少輔は一徳斎と共に須賀尾峠に向かった。その日は大柏木まで進み、三光院に陣を敷いた。

 陣を敷くと間もなく、大戸真楽斎が伜の丹後守と共に陣中見舞いにやって来た。

 一徳斎は真楽斎を歓迎し、箕輪の長野氏に対する押えとして、権田(ごんだ)の辺りまで出陣してくれと頼んだ。真楽斎は任せてくれと胸をたたいて引き受けた。
14.東光坊




 岩櫃城攻撃の時、羽尾城に立て籠もっていた道雲は、落城後、戦勝祝いの挨拶をするために一徳斎のもとを訪れた。

 伜の源六郎が斎藤一岩斎の婿(むこ)なので、どうしても岩櫃城に行くと言うのを羽尾から出さなかった。わしとしては真田軍に参加したかったが、伜の立場もあるので、中立の立場でいる事に決めた。伜もようやく、真田に属する事に決めたので、よろしくお願いするとの事だった。

 道雲は善太夫から預かっていた善太夫の姪(めい)、ヤエを返して、七歳になる自分の息子を人質として差し出した。

 ずる賢い奴だと思ったが、一徳斎は許す事にした。今後の処置は信玄に聞かなければ分からないが、処置が決まるまで、羽尾の屋形で待っていろと言って帰した。ところが、道雲はおとなしくはしていなかった。ひそかに伜の源六郎を岳山(たけやま)城に送って、一岩斎が越後の上杉勢を連れて攻めて来た時、上杉方となるための準備もしていた。

 一徳斎は鎌原宮内少輔と善太夫に道雲の退治を命じた。

 道雲の弟、海野長門守と能登守が信濃に行った後の十一月の末、雪の降りしきる中、羽尾攻撃は行なわれた。不意の襲撃だったため、道雲は山の上にある羽尾城にて守りを固める間もなく、屋形を焼かれて逃げ出した。道雲の二人の側室と娘一人が捕えられ、人質として真田に送られた。

 道雲は妹婿の大戸真楽斎を頼って逃げたと思われるが、真楽斎も一徳斎をはばかって、匿ったとは言わなかった。しばらくの間、道雲の行方は分からなかった。

 十二月に武田信玄は北条万松軒(ばんしょうけん)と呼応して、上杉方の倉賀野城(高崎市)を攻めた。

 善太夫ら吾妻衆はその戦には参加しなくてもよかった。越後から出て来るであろう上杉輝虎に備えて、守りを固めていた。すでに、三国峠は雪でふさがれ、今年は来ないだろうと安心していたが、倉賀野城が危ないと聞くと、輝虎は大雪を踏み分けてやって来た。

 善太夫らは輝虎の無謀をあきれると共に、その行動力に恐れを感じないわけにはいかなかった。輝虎は廐橋城に入り、休む間もなく倉賀野城に向かった。

 信玄と万松軒は、輝虎が来ると聞いて、あっさりと兵を引いた。

 輝虎は武田、北条に寝返った城を次々と攻めて、再び、寝返らせた。

 倉賀野城を引き上げた信玄は箕輪城を軽く攻めてから大戸に向かった。一徳斎は大戸城にて信玄を迎えて、岩櫃城に案内した。一徳斎から紹介されて、善太夫は初めて武田信玄という男と対面した。

 想像していた信玄像と実際の信玄は少し違っていた。噂通りの入道頭で、百戦錬磨(れんま)の武将の面(つら)をしていたが、何となく、目だけが場違いのように、慈悲(じひ)深い優しい目だった。

 その目を見た時、善太夫は、この男になら付いて行って悔いはないと思った。きっと、一徳斎も鎌原宮内少輔も信玄の目に魅かれて被官となる決心をしたに違いない。

 この時、善太夫は心の底から、信玄のために上杉輝虎と戦おうと決心をした。
15.月見酒




 岳山合戦は斎藤城虎丸(じょうこまる)の重臣、池田佐渡守(さどのかみ)の降伏によって、無駄な血を流さずに済んだ。

 一時は越後の上杉輝虎と白井(しろい)の長尾左衛門尉(さえもんのじょう)が連合して、岳山城救援のために攻めて来るとの噂が流れ、一徳斎は倉賀野城を攻撃している武田信玄に援助を求めた。

 信玄は安中越前入道と三河衆三百人程を援軍として送って来たが、越後からは二千余りの兵が木の根峠を越えて四万(しま)の奥まで出陣して来た。一徳斎は岩櫃城の守りを固めると共に、長男源太左衛門に七百の兵を付けて沢渡(さわたり)の伊賀野山に着陣させた。さらに、仙蔵城と稲荷城の守りを固めて敵の動きを見守った。

 三野原(みのはら)一帯にて、川中島合戦のような武田軍と上杉軍の決戦が行なわれるかに思われたが、池田佐渡守が植栗主殿助(うえぐりとのものすけ)を使者として、稲荷城を守っていた植栗安房守(あわのかみ)を通して降伏を申し出て来た。

 上杉方が有利の状況にありながら、佐渡守が降伏したのは戦をするには時期が悪かったからであった。ようやく、田植えが終わったばかりで、戦場となる三野原から成田原にかけて、青々とした苗が風に揺れていた。戦に勝ったとしても、田を踏み荒らされて苗が全滅してしまったら民衆は逃散(ちょうさん)してしまうし、一岩斎が戻って来ても会わせる顔がなかった。

 一徳斎は佐渡守から人質を受け取って講和に応じた。四万の奥に布陣していた上杉軍は引き上げ、信玄からの援軍も帰って行った。

 これで、吾妻郡の武士はすべて武田方となった。上杉輝虎が廐橋に来る冬までは、平和な時が流れるだろうと誰もが思って安堵(あんど)していた。

 戦後の処理が一段落すると一徳斎は久し振りに本拠地の真田に帰って行った。

 善太夫も久し振りに本拠地の草津に帰って、草津の湯にのんびりと浸かった。

 草津の湯治客も徐々に増えつつあるようだった。武田方になった事によって、負傷した武田方の武将たちが来るようになり、一般の湯治客も信濃や甲斐の国から講(こう)を組んで来るようになっていた。ただ、戦に敗れて浪人となった武士が徒党(ととう)を組んでやって来るのには参っていた。

 奴らは難癖(なんくせ)を付けて宿屋に居座り、酔っ払っては、やりたい放題の事をやっていた。知らせを受ければ、すぐに追い払ってやれるのだが、奴らは必ず人質を取って、宿屋の主人を威(おど)すので、主人も恐れて泣寝入りする場合が多かった。

 善太夫は三郎右衛門に草津の出入り口を厳重にして、食いつめ浪人を入れないようにと命じていたが、奴らを取り締まるのは難しかった。負傷した武田家の武士に扮して別々に草津に入り、入ってから徒党を組んで悪さをしていた。表通りの大きな宿屋は狙わずに、目立たない裏通りの小さな宿屋ばかりを狙っていた。

 善太夫は東光坊に食いつめ浪人を見つけ出すように命じた。東光坊はその日のうちに二つの宿屋を占拠していた八人の浪人を捕まえて来た。善太夫はその八人をみせしめとして、髷(まげ)を切って、草津の入り口の木に三日間ぶら下げておいた。三日後に解き放してやったが、炎天下のもと三日間もさらされ、立つ事もできない程、弱っていた。これで、浪人たちが来なくなるとは思えなかったが、しばらくの間は大丈夫だろうと思った。
16.岳山城




 その年、永禄七年(1564年)も冬になると、律義(りちぎ)に上杉輝虎はやって来た。

 永禄三年に元管領の上杉憲政と一緒に大軍を引き連れてやって来て以来、年中行事の一つのように、毎年、冬になると必ずやって来る。大軍を率いて雪山を越えてやって来る事には感心するが、善太夫ら吾妻衆にとっては迷惑この上もない事であった。

 善太夫らは岩櫃城の守りを固めながら、上杉軍が攻めて来ない事を願った。

 幸い、輝虎は常陸(ひたち)の小田城と下野(しもつけ)の唐沢(からさわ)山城を攻めただけで、雪が溶けるのも待たずに、さっさと引き上げて行った。

 円覚坊の話によると、越中(富山県)にて本願寺の一揆が蜂起して、越前(福井県)の朝倉氏から救援を頼まれたため、いつもより早く帰ったのだという。武田信玄は、輝虎の後方を撹乱(かくらん)するために、本願寺の顕如上人(けんにょしょうにん)と同盟を結んだとの事だった。

 輝虎が引っ込むと信玄と北条万松軒が攻めて来た。万松軒は廐橋(うまやばし)まで進攻し、信玄は箕輪城を攻撃した。善太夫らも箕輪城攻撃に加わったが落とす事はできなかった。

 信玄は今度こそはと出陣して来たため、攻撃の手を緩めなかった。敵も味方もおびただしい犠牲を出した割には、いい結果は得られなかった。

 善太夫は信玄から、負傷者を治療のために草津の湯に入れてやってくれと直接に頼まれた。善太夫は喜んで引き受けた。

 草津は武田の兵で賑やかになり、かつての活気を取り戻したようだった。

 負傷しているとはいえ、病人ではないので、飯は食べるし酒も飲む。回復に向かって行けば、当然、女も欲しくなる。負傷兵目当ての遊女たち、旅の商人や旅芸人と続々、草津に集まって来た。宿屋の者たちも忙しい忙しいと悲鳴を挙げながらも喜び合っていた。

 雑兵だけでなく、負傷した武将たちも湯治に来たため、善太夫も忙しくなった。戦のない時は岩櫃城と草津を行ったり来たりしなければならなかった。

 客が多くなって景気がいいのは嬉しいが、十月になり冬住みが近いというのに、もう少しいさせてくれという武士の一行が現れたのには困った。無理に断る事もできないので、宿屋の者が誰もいなくなっても構わないというのなら、と言うとそれでもいいと言う。善太夫は彼らを宿屋に残して、小雨村に下りた。後で聞くと善太夫の宿屋だけでなく、他でも客が残っていると言う。

 先例を作ると毎年、こんな事になってしまう。善太夫は東光坊に残っている武士たちを威(おど)してやれと命じた。

 四、五日して、草津に残っていた武士たちは皆、下りて行ったと知らせが届いた。

「天狗が出た!」

「鬼が出た!」と喚(わめ)きながら血相を変えて逃げて行ったという。
17.箕輪城




 善太夫は岳山合戦の活躍によって、武田信玄より林村を賜(たまわ)り、領地はさらに広がった。

 善太夫が三日月の兜(かぶと)をかぶって決意を固めてから、わずか四年で領地は倍近くになっている。ただ、増えた領地が、伯父の羽尾道雲と舅(しゅうと)である海野長門守の領地だったという事が、善太夫にとって辛い所でもあった。

 羽尾を追い出された後、行方不明だった道雲は、東光坊によって須賀尾の山中に隠れているところを発見された。一徳斎の命により、義弟の三郎右衛門と横谷左近の長男、信濃守らの襲撃に会って殺された。丁度、岳山城を攻撃していた頃であった。

 善太夫にとって伯父である道雲は女癖に関して評判よくなかったが、武将としての活躍は目覚ましいものがあった。河越の合戦でも平井の合戦でも、吾妻衆の中心になって、兜首を幾つも取る活躍だった。岩櫃城の一岩斎でさえ、道雲には一目置いていた。しかし、時代の流れを読み取る事ができずに滅び去ってしまった。

 善太夫が湯本家を継いだ時、父親の代わりに戦の作法や駆け引きなどを教えてくれたのが道雲だった。亡くなったと聞いて、昔の事が色々と思い出された。

 長門守の方は信濃の国にて活躍して、以前の領地と同じ位の領地を賜ったと聞いている。岩櫃城を去る時は落ち込んでいたが、新天地に行って、うまくやっているのでよかったと思った。ただ、長門守が草津に訪ねて来た場合、どんな態度を取ったらいいのか複雑な気持ちだった。

 岳山城救援に間に合わなかった上杉輝虎は常陸、下総方面を攻撃して、五月になると越後に帰って行った。

 輝虎が引き上げると、善太夫は一徳斎に許しを貰って、しばらく草津で休んでいた。岳山合戦の時の傷がまだ、完治していなかった。

 早川源蔵を倒した後、城に登る途中、後ろから敵にやられたのだった。後ろから付いて来るので、味方だと思っていたら敵だった。つい、不覚を取ってしまった。その敵は倒したが、左内股(うちもも)に深く槍を刺された。その時は大した事ないと思っていたのに、毒が入ったのか、だんだんと腫れて熱を持ってきた。中の膿(うみ)を出して、草津の湯に浸かり、大分よくなっていたが、まだ完全ではない。近い内に、箕輪城の総攻撃が行なわれるので、それまでに治しておかなければならなかった。

 善太夫は草津にいた三郎右衛門を岳山に呼び、代わりに自分が草津に登った。

 草津は戦の負傷者で一杯だった。どこの宿屋もいっぱいで、六つしかない湯小屋はいつも何人もの人が並んでいた。

 御座(ござ)の湯は癩病(らいびょう、ハンセン病)に効くというので、癩病患者が利用していた湯だった。混んでいる時は彼らも遠慮して夜になってから入るようにしていたが、負傷した武士が多くなってから、武士たちに締め出されて、夜も入れない状況となっていた。善太夫は何とかしなければならないと滝の湯を広げ、御座の湯は夜間に限って、癩病患者が利用できるようにした。
18.入湯停止令




 箕輪の合戦にて、善太夫は義弟の三郎右衛門を失ったが、その悲しみに浸っている暇はなかった。

 三郎右衛門と共に戦死した五十人の兵は皆、善太夫の家臣だった。善太夫は残された家族たちを見舞って慰め、活躍を誉めて、跡を継ぐべき者に所領(しょりょう)や扶持(ふち)を安堵(あんど)しなければならなかった。善太夫が合戦に参加せず、岳山城にいた事に苦情を言う者が多かった。善太夫は何を言われても、ただ頭を下げる事しかできなかった。

 当時の武士は江戸時代の平和な時代を生きている武士と違って、主人と家臣の間は強い信頼関係によって結ばれていた。家臣は主人が気に入らなければ、さっさとやめてしまい、新しい主人を捜すのは当たり前の事だった。主人はただ威張ってばかりいたのでは駄目で、家臣たちの面倒をよく見なければならなかった。この主人だったら、命を預けられると思わなければ、家臣たちは付いては来ない。家臣だけでなく、領内に住む農民、職人、商人たちの場合も同じだった。彼らを保護して面倒を見なければ、皆、他所(よそ)のもっといい所に行ってしまう。

 主人と家臣あるいは住民たちは人間同士のつながりで結ばれていた。人間同士のつながりであるため、主人が亡くなって跡を継ぐ者が前の主人より劣った場合、その主人を見捨ててしまう者が多く出て、箕輪城の長野氏のように滅び去ってしまう場合が多かった。

 善太夫は四十九日に小雨村の光泉寺にて戦死した者たち全員の慰霊祭(いれいさい)を行なった。その日は雪の散らつく寒い日だったが、家臣たちは全員集まり、死んで行った者たちの霊を慰めた。

 箕輪城が落ちて西上州の攻略も一段落し、一徳斎は甲府に行かなければならなくなった。

 武田信玄が次に狙っていたのは駿河の国(静岡県)だった。

 駿河の今川義元(よしもと)と信玄は同盟を結んでいた。ところが、六年前の永禄三年(1560年)、今川義元は尾張(おわり)の織田信長に攻められ、桶狭間(おけはざま)にて戦死してしまった。信玄は駿河の情報を集めて、いつの日か、海のある駿河の国を奪い取ろうとたくらんでいた。信濃と西上州を平定した今こそ、駿河攻略を実行に移す時だと言えた。

 信玄は上野の国に真田一徳斎と内藤修理亮(しゅりのすけ)、二人の重臣を置いておくのは勿体ないと思った。上野の事は箕輪の修理亮に任せて、一徳斎を呼び戻す事にした。駿河進攻、そして、その後の上洛作戦を実行するためにも一徳斎の頭脳を信玄は必要としていた。

 一徳斎が岩櫃城を退くにあたって、一徳斎の推薦によって、岩櫃城の城代に選ばれたのが、海野長門守と能登守の兄弟だった。二人は斎藤一岩斎の旧領を与えられて、岩櫃城に戻って来た。

 永禄九年(1566年)の十一月の事で、二人が岩櫃城を去ってから三年の月日が過ぎていた。

 海野兄弟は岩櫃城代として吾妻郡を支配する事となったが、長野原城主の湯本善太夫、鎌原城主の鎌原宮内少輔、西窪(さいくぼ)城主の西窪佐渡守、雁(がん)ケ沢城主の横谷左近、三島城主の浦野下野守、植栗(うえぐり)城主の植栗安房守、岳山城主の池田佐渡守の七人だけは、海野兄弟の支配外として真田氏直属の部下となった。

 海野兄弟が岩櫃城に戻って来た事によって、善太夫は岩櫃城の城代でも岳山城の城代でもなくなり、岩櫃城内の屋敷はそのまま与えられたが、常に岩櫃城にいなくてもよくなった。
19.海野能登守




 一年間、白根明神の宿坊に入り、山伏姿となって修行を積んだ三郎右衛門は見違えるように逞(たくま)しくなっていた。体付きが一回り以上も大きくなり、十五歳だというのに背丈は善太夫を越していた。善太夫は頼もしい跡継ぎができた事を心から喜んでいた。

 三郎右衛門は正月の数日を善太夫たちと過ごしただけで、東光坊と一緒に旅に出た。大和(やまと)の国(奈良県)の大峯(おおみね)山を登るのが目的だった。

 善太夫も大峯山には登りたかった。しかし、善太夫の旅は毎年、冬だったため、大峯山も雪におおわれて登る事はできなかった。

 吉野から大峯山を越えて熊野まで行く奥駈けの行(ぎょう)は山伏なら誰でも一度は経験したい修行だった。自分のできなかった奥駈けを、三郎右衛門には是非、経験させたかった。善太夫は喜んで、三郎右衛門を送り出した。

 武田信玄は永禄十一年(1568年)二月に、三河の徳川家康と手を結んで、共に駿河の今川氏を攻める事を約束した。信玄は着々と駿河攻略作戦を進めていた。

 利根川以西の上野の国が完全に武田領となったので、吾妻郡は平穏な日々が続いていた。

 四月の末、善太夫は岩櫃城に来ていた。

 甲府から一徳斎の三男、武藤喜兵衛が来たため、郡内の武士は皆、集まっていた。

 海野兄弟が岩櫃城代となって以来、武藤喜兵衛が年に一度、信玄の代理として甲府から様子を見に来る事になっていた。

 今回で二度目である。去年は初めての事で、どう迎えたらいいのか戸惑ったが、今年は順調に行った。

 喜兵衛は岩櫃城に入る前に草津に来ていた。去年の火災から無事に復興したかどうか、信玄に命じられて見に来たのだった。

 初めて草津を訪れた喜兵衛は新築した善太夫の湯宿に泊まって、湯の町の風俗を物珍しそうに眺めて歩いた。去年の今頃は大騒ぎだったが、あの後、大きな戦がなかったので、今年は負傷兵が押しかけて来る事もなく、無事に済みそうだった。

 喜兵衛は去年よりずっと広くなった滝の湯につかって、「さすがに噂に聞くだけの事はある。今度は仕事ではなく、のんびりと来たいものだ」と満足そうにうなづいた。

 その後、善太夫と共に岩櫃城に向かった喜兵衛は、集まった武士たちに信玄の言葉を伝え、城代の海野兄弟から郡内の状況や敵の情勢などを聞いて、三日間滞在すると機嫌よく帰って行った。
20.信玄と輝虎と万松軒




 毎年、年末になると大軍を率いてやって来た上杉輝虎も永禄十一年(1568年)はやって来なかった。やって来なくて助かったのだが、毎年、恒例のようにやって来たものがやって来ないと、何となく拍子(ひょうし)抜けしたような感じだった。

 善太夫らは十一月に入ると、輝虎に備えて、武器、弾薬、兵糧を揃え、岩櫃城にて待機していた。

 越後からもたらされる情報では、輝虎は今、信玄と通じて反乱を起こした本庄越前守(ほんじょうえちぜんのかみ)を退治するために、揚北(あがきた、阿賀野川以北)の本庄城(村上市)を包囲しているという。今年は多分、上野には出て来ないだろうと言うが、大雪の三国峠を平気で越えて来る輝虎の事だから分からなかった。

 十二月に入り、すぐには来られないだろうから、出陣命令が出たら、すぐにでも集まるようにと解散する事となった。

 善太夫は長野原城に帰ってからも、越後からの情報を集めていたが、結局、輝虎はやって来なかった。

 養子にした三郎右衛門が東光坊と共に旅から帰って来たのは、そんな時だった。

 およそ一年間見ない間に、三郎右衛門は驚く程、成長していた。山伏の衣は薄汚れてぼろぼろになり、顔は真っ黒に日に焼けして、目は異様に輝いていた。

「いい旅じゃったか」と善太夫が聞いた。

 三郎右衛門は大きくうなづいて、「世の中というものが、これ程までに広いという事をはっきりと知る事ができました」と力強く言った。

 善太夫は満足そうにうなづいた。「そうか、世の中は広かったか」

「はい。草津なんて、いや、この吾妻郡なんて、ほんのちっぽけな所だという事を思い知らされました。世の中は広いです」

「うむ。海は見たか」

「はい、海はでっかいです。実際に目にした時はもう、飛び上がらんばかりに驚きました。大きな船にも乗りました。小田原には水軍というものがありまして、海の上で戦をするそうです」

「ほう、小田原に行ったのか、小田原の都も凄かったじゃろう」

「凄かったです。あれが都だと初めて知りました。市場には、ない物はないという程、色々な物がありました。それに、女の人たちがやけに綺麗でした」

「ほう、小田原の女子(おなご)が綺麗じゃったか。小田原で遊んだのか」

「はい、少しだけ‥‥‥そういえば、小田原で小野屋の女将(おかみ)さんに会いました」

「なに、ナツメに会ったのか」

「はい。宿坊に泊まっていたら、使いの人が来て、小野屋の立派な屋敷に呼ばれて御馳走になりました」

「そうか‥‥‥女将は元気じゃったか」

「ええ‥‥‥母の事を懐かしそうに話してくれました。女将さんとは古くからのお知り合いだったのですね」

「ああ」

「急に母の事を話すので、びっくりしました」

「そうか‥‥‥」
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酔雲
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男性
自己紹介:
歴史小説を書いています。
酔雲の著書













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