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2024 .03.28
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21.信玄西上




 北条と上杉が同盟を結んでからというもの、上野の国は戦が絶えなかった。

 以前の敵、上杉輝虎は山を越えて来なければならず、一年中、関東にいる事はなかったが、今度の敵、北条氏はすぐそばにいた。武蔵鉢形(はちがた)城の北条新太郎氏邦(うじくに)が中心になって、ちょくちょく上野に進攻して来ては火を放ったり、稲を刈り取ったりして悩ませた。ただ、小競り合いばかりで大きな戦が起こらなかったのが救いと言えた。

 輝虎は越中の本願寺一揆と戦うのが忙しかったし、信玄は駿河進攻に本腰を入れていたため、北条軍との主戦場となったのは東海方面だった。

 元亀(げんき)元年(1570年)八月、上杉輝虎は徳川家康と同盟した。

 輝虎としては、信玄に邪魔されずに越中の攻略に専念したかった。家康としては、織田信長と同盟を結んでいるため領地を広げるには東に進むしかなかった。信玄と同盟を結んだままでは東へは進めない。信玄は今、北条と戦っている。その隙に、遠江(とおとうみ)の国すべてを平定しようとたくらんでいた。

 家康が裏切った事を知った信玄は翌年の正月、遠江に進攻して、さらに家康の本拠地、三河までも攻めた。しかし、五月に信玄は急に病に襲われて帰国した。

 信玄が三河に進攻した時、善太夫らは内藤修理亮(しゅりのすけ)と共に、北条領の武蔵の国まで進出して北条方の城を攻めていた。

 その年の十月に北条万松軒(氏康)が病のため亡くなった。五十七歳だった。跡を継いだのは三十四歳の氏政だった。

 氏政は父親の死後、上杉氏と断って、再び、武田氏と手を結んだ。

 輝虎は越中方面にばかり行っていて、万松軒が頼んでも信玄の領地に進撃して来なかった。信玄が駿河に進攻して来るたびに、信濃を攻めてくれと頼んでいたのに、一度も攻めては来なかった。輝虎と軍事同盟を結んでいても何の得にもならないと見切りをつけた万松軒は死ぬ前に、再び、信玄と同盟しろと言ったという。

 運の悪い事に武田と北条が同盟した時、輝虎は上野の国にいた。越中の事が一段落したので、北条との約束を守って、春になるまで西上野を攻めようとしていたのだった。

 この時、輝虎は不識庵謙信(ふしきあんけんしん)と号していた。

 謙信は利根川を越えて、武田方の石倉城、蒼海(おうみ)城(元総社町)を攻撃したが、箕輪城まで攻める事なく廐橋城に帰って行った。

 廐橋にて、機嫌よく新年を迎えていた謙信のもとに、北条と武田が再び同盟を結んだとの報が届いたのだった。北条氏のために兵を休める事なく、わざわざ、上野に出陣して来た謙信は顔を真っ赤にして怒り、やけ酒をあおった。
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22.五月雨




 静かな正月だった。

 一徳斎は何事もなかったかのように、箕輪城にて新年を迎えていた。善太夫を初めとして吾妻郡の武士たちは皆、ほっとして、笑顔で、一徳斎に新年の挨拶を述べた。

 去年、京都では大事件が起こり、年号が元亀(げんき)から天正(てんしょう)に変わっていた。

 織田信長が将軍足利義昭を京から追放して、事実上、室町幕府は終わりを告げていた。幕府をつぶし、新しい世の中が来るようにと年号を『天正』に変えさせたのは信長だった。

 その事を聞いた時、善太夫は、信長がどこかで新しい将軍を見つけて来るのだろうと思っていた。しかし、あれ以来、新しい将軍が迎えられたという話は聞かなかった。これからどうなってしまうのか分からなかったが、新しい世の中が来るような予感はしていた。

 相変わらず、戦は絶えなかった。しかし、一昔前の戦とは変わっていた。一昔前は羽尾と鎌原の合戦のように小さな合戦が絶えなかった。しかし、今の戦は、関東では必ず、上杉、北条、武田の三氏が絡んでいる。この三氏のうちの誰かが関東を平定する事となるだろう。関東が平定されれば戦はなくなるし、飾り物の公方(くぼう)様や管領という肩書も不要となる。

 すでに、信長は上方を平定してしまったのだろうか‥‥‥

 信長の名が関東にまで聞こえるようになったのは、つい最近の事だった。それが今、将軍を追放してしまう程の実力を備えている。信長が関東まで攻めて来る事は考えられなかったが、恐るべき男だとその名を肝に銘じていた。

 京都では幕府が崩壊しても、関東には北条氏の庇護のもと、古河公方は存在したし、上杉謙信も関東管領として、関東を平定するために山を越えてやって来る。善太夫の見た所、謙信は関東を平定する事はできないと思っている。謙信自身も諦めているのかもしれない。もし、平定する気があれば、北条と同盟を結んでいた時、西上州に攻め込んで来たはずだった。しかし、謙信は攻めては来なかった。

 北条と武田が再び同盟を結んだ今、西上州に攻め込む事は不可能と言えた。となると、関東を争うのは北条と武田という事になる。北条と武田が決戦をした場合、どちらが勝てるか分からなかった。北条は万松軒が亡くなって氏政の代となり、武田は信玄が亡くなって勝頼の代となった。万松軒と信玄は甲乙付けがたい名将だった。跡を継いだ二人のうち、どちらが優れているかで決まるだろう。善太夫としては勝頼の方が優れている事を願うしかなかった。

 善太夫は、謙信はもう関東の事は諦めているだろうと思っていたのに思い違いのようだった。謙信はその年の二月の初め、雪山を越えて沼田にやって来た。

 同じ頃、武田勝頼が行動を開始した。上野の国まで出陣命令は来なかったが、真田兄弟は甲斐に向かったという。

 謙信は沼田から廐橋城に入り、利根川を越えて西上州に攻めて来るかに見えたが南へと向かい、北条方の城を攻め続けた。特に、上杉と北条が同盟する時、中心になっていた由良(ゆら)氏への攻撃は厳しく、金山城を完全に包囲して猛攻を続けた。北条氏としても金山城が落ちてしまうと東上州が上杉領となってしまうので、氏政自身が小田原から大軍を引き連れて援軍に向かった。

 上杉軍と北条軍は金山城の南の利根川を挟んで対陣した。氏政は箕輪の一徳斎に上杉軍を後方から攻撃するように頼んで来た。同盟を結んでいるので断るわけにも行かず、一徳斎は廐橋城を攻撃すると共に大胡(おおご)城を攻撃し、善太夫ら吾妻衆には白井城を攻撃させた。

 謙信は兵糧の蓄えてある兵站(へいたん)基地の大胡城を攻撃されて、陣を引かざるを得なかった。謙信が大胡に向かって来るとの報を受けると一徳斎は全軍を引かせ、それぞれの城に戻らせた。謙信は一旦、大胡城に入った。謙信が引き上げると氏政も金山城に入って情勢を見守った。

 一方、勝頼は信玄の死後、初めての戦を見事、勝ち戦で飾っていた。

 勝頼が落としたのは、美濃(岐阜県)の明智城だった。明智城は信長方の城だった。勝頼が最初にこの城を狙ったのは信長に対する宣戦布告であった。勝頼は父の遺志を継いで、信長を倒し上洛する事を目標としていた。勝頼は初戦の勝利に満足して甲府に凱旋(がいせん)した。
23.長篠の合戦




 天正三年(1575年)三月の半ば、武田四郎勝頼は父、信玄の遺志を継いで、上洛のための出陣命令を領国内に下した。

 紀州(和歌山県)にいる将軍足利義昭と連絡を取り、本願寺顕如に門徒を蜂起させて上杉謙信を越中に釘付けにし、北条氏政に関東の事を頼み、浜松の徳川家康を一気に倒して、織田信長との決戦に勝利して、将軍義昭を京都に迎え入れるつもりでいた。しかし、三年前、信玄が上洛しようとしていた時とは状況がまったく変わっていた。

 越前(福井県)の朝倉氏、近江(滋賀県)の浅井氏は共に信長によって滅ぼされ、信長に敵対して、散々、信長を苦しめていた伊勢長島の本願寺一揆も倒されていた。今の信長は三年前、四方を敵に囲まれて四苦八苦していた信長とは違い、精神的にも兵力的にも充分な余裕を持っていた。

 勝頼がそれらの事を知らなかったわけではない。知らなかったわけではないが、高天神城を落とした自信が、信長など恐れるに足らずと思わせていた。また、父の生前、信長が武田軍を最も恐れていた事を知っている。信玄が亡くなったとはいえ、武田軍の武将たちは健在である。それらの武将たちも信長を倒せると確信を持っていた。

 善太夫は草津と長野原の事を嫡男(ちゃくなん)の三郎右衛門と家老の宮崎十郎右衛門に任せて真田に向かった。

 出陣の前、善太夫は三郎右衛門と木剣で立ち合った。打ち合う事なく、構えただけで終わったが、お互いに相手の腕が理解できた。

 善太夫は三郎右衛門の上達振りに目を見張り、三郎右衛門は義父の強さを改めて知り、まだまだ、修行を積まなければと思った。

 善太夫は木剣を下ろすと、「陰流の極意とは何じゃ」と聞いた。

 三郎右衛門は突然の質問に戸惑い、しばらく、義父を見つめていたが、「平常心(びょうじょうしん)だと思います」と答えた。

「うむ。平常心も必要じゃ。しかし、陰流の極意は『和』じゃ、という事をよく肝に銘じておけ」

「『和』ですか‥‥‥」と三郎右衛門は首をかしげたが、善太夫はうなづくと、「愛洲移香斎殿のお言葉じゃ」と言った。

「流祖様の‥‥‥」

「今は分からんかもしれんが、やがて、分かる日が来る」

 善太夫は三郎右衛門に愛洲移香斎と上泉伊勢守の事を話して聞かせた。三郎右衛門は興味深そうに聞いていたが、陰流の極意が『和』だという事は理解できないようだった。善太夫でさえ、その事を完全に理解したとは言えなかった。若い三郎右衛門が理解できないのは当然だが、その事を肝に銘じておけば、いつか必ず、理解できると信じていた。

 三郎右衛門は『和』という言葉を何度もかみしめていた。

 今回の戦に善太夫は東光坊ら忍びの者たちを連れては行かなかった。東光坊は去年の夏より、忍び集団を作るために、白根山中にて若い者たちを鍛えていた。忍び集団は、まだ完成していなかったが、東光坊は出陣するつもりで、若い者たちを引き連れて山を下りて来た。善太夫は東光坊に三郎右衛門と共に草津を守るように命じた。

 今回の戦は大きすぎ、敵も味方も多くの忍びを暗躍させる事となる。真田氏は当然、円覚坊が作り上げた忍び集団を活躍させる。真田氏だけでなく、武田の武将たちが皆、一流の忍びを使うに違いない。そうなると、善太夫が、まだ未完成の忍び集団を連れて行っても、何の役にも立ちそうもなかった。

 善太夫は東光坊に真田に負けない程の忍びを育ててくれと、改めて頼み、留守の守りを命じた。

 吾妻郡から善太夫と共に真田に向かったのは、鎌原筑前守、浦野下野守、横谷左近、植栗河内守、富沢勘十郎、富沢治部少輔、池田甚次郎らだった。彼らは一徳斎の墓参りをした後、真田源太左衛門、兵部丞に率いられて甲府へと向かった。岩櫃城は海野兄弟が、箕輪城は瀬下豊後守(せしもぶんごのかみ)が、上杉謙信に備えて守りを固めていた。

 甲府には各地から続々と兵が集まって来た。

 誰もが、武田の軍旗が京の都にひるがえる事を夢見ていた。

 勝頼が織田信長を倒し、信長に追い出された将軍を京に迎え入れて新しい幕府を開き、乱れた天下を一つにまとめて、戦のない太平の世を作る事を夢見ていた。
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