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2024 .04.20
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4.草津








 京都で修行中の三郎のもとに、小野屋からの使いが来たのは菊の花があちこちに飾られていた九月十日の朝だった。

 小野屋は下京の四条通りに出店があり、時々、草津からの便りを持って来てくれた。また、母親が心配して、便りをよこしたのだろうと会ってみると、京都の店では見た事もない行商人だった。

「琴音様が今、草津に向かっております」と行商人は三郎の耳元で囁いた。

 三郎は耳を疑い、もう一度、聞き直した。

「琴音様は祝言を挙げる前に、どうしても、草津に行きたいと幻庵様に申され、幻庵様もお許しになられました。わたくしどもの女将に連れられて、本日、小田原を発つ予定でございます」

「琴音殿が草津に‥‥‥」

 思ってもいない事だった。三郎は一瞬、ぼうっとなっていた。

「三郎様に会いに参るのでございます」と行商人は言った。

「本当ですか」と三郎は行商人の顔を見つめながら聞いた。梅干しのような顔をした行商人が草津温泉の守り本尊、薬師如来様の化身のように思えて来た。

「本当です。すぐに行かれますか」

「はい。お師匠様にお許しを得て、すぐに」

「お供いたします」と行商人は当然の事のように言った。

「えっ、一緒に草津まで?」と三郎は聞いた。

「はい。三郎様にもしもの事がございますれば、わたしとしても責任を取らなければなりません」

「責任を取るって‥‥‥もしかしたら、そなたは風摩ですか」

 行商人は笑っているだけで答えなかった。しかし、ただの行商人ではない事は確実だった。三郎は浮かれている自分を戒めた。もし、行商人が風摩だったら、自分の命を奪いに来たのかもしれない。そんな事はあり得ないとは思うが、今の世の中、何が起こるかわからなかった。

「そなたを信じないわけではないが、小野屋の女将さんの使いだという証拠を見せていただけませんか」と三郎は行商人に言った。

 行商人は笑った。そして、懐から袱紗(ふくさ)のような物を出して三郎に渡した。三郎は受け取ると袱紗を開いて見た。中には櫛が入っていた。秋の草花に赤とんぼが飛んでいる図柄は見覚えがあった。一昨年、初めて京都に来た時、琴音のために買った櫛で、去年の正月、琴音に贈った物だった。琴音も気に入ってくれて、大事にすると言ってくれた。北条三郎に嫁いだ後も大事に持っていてくれたのかと三郎はジーンと胸が熱くなって来ていた。

「琴音様は十六日には草津に着く予定でございます。急がなければなりません」

「わかりました」

 三郎は琴音の櫛を大切にしまうと上泉伊勢守の許しを得て、行商人と共に直ちに草津へと向かった。
 梅吉と名乗った行商人は足が速かった。三郎は負けるものかと必死になって後を追った。

 もう二度と会えないものと思っていた琴音が草津に来る‥‥‥信じられなかった。まるで、夢を見ているようだった。

 三郎は雲の上を歩いているかのような軽い足取りで草津へと走った。

 草津に着いたのは、十六日の昼頃だった。三郎自身、草津に来るのは久し振りだった。故郷に帰って来るのはいつも年末で、草津は雪に埋もれていた。久し振りに嗅ぐ温泉の臭いは強烈で、懐かしさを感じた。

 村の中心にある湯池(湯畑)を懐かしそうに眺めながら、湯池の脇にある善太夫の湯宿の門をくぐると古くからいる番頭が、「いらっしゃいませ」と声を掛けて来た。

「やあ、ただいま」と三郎が笑うと、

「あれ、若様ではございませんか」と驚いた。

 琴音はまだ着いていなかった。三郎が湯宿を守っている祖母と話をしているうちに、梅吉はどこに行ったのか消えてしまった。

 善太夫の湯宿は草津で一番格式の高い宿屋で、利用客のほとんどは武田家の武将たちだった。湯本一族の本家が経営し、主人は代々、善太夫を名乗っている。草津の領主である善太夫はこの湯宿の主人だった。ところが、父親、兄と相次いで戦で亡くし、善太夫が湯本本家を継ぐ事になった。しかし、戦続きで湯宿を継ぐ者もなく、善太夫が領主と湯宿の主人を兼ねなくてはならなかった。善太夫だけでなく、どこの湯宿も継ぐ者がおらず、武士と湯宿の主人を兼ねていた。

 善太夫は三郎の弟、小五郎に湯宿を継がせるため養子に迎えた。湯宿の主人になるには御師(おし)の資格が必要なので小五郎は今、白根明神で修行をしている。小五郎が一人前になるまで、善太夫の母と側室の小茶様が湯宿を守っていた。

 湯池のある広小路に面した一等地に善太夫の湯宿はあり、その後ろの小高い丘の上に領主のお屋形が建っている。今、善太夫は上杉と北条に備え、岩櫃城に詰めていて留守だった。

 三郎は琴音のための部屋の用意をした。うまい具合に一番いい部屋は空いていた。床の間の掛物を選び、花を飾り、夜になると冷え込むので火鉢も用意した。準備が整うと、久し振りに温泉に浸かって汗を流し、着替えを済ますと首を長くして琴音を待った。

 じっとしていられず、草津の入り口にある白根明神の鳥居まで迎えに出掛けた。

 当時、白根神社は運動茶屋公園から草津小学校にかけての一帯にあり、広い境内には、いくつもの宿坊が建ち並び、大勢の山伏たちが修行を積んでいた。山伏だけでなく、侍たちの子弟も武術の修行に励んでいる。三郎も三年間、ここで武術を習っていた。

 琴音がやって来たのは、半時(一時間)程してからだった。琴音は革袴をはいて馬に跨がり、左右に同じく馬に跨がった侍女を従えていた。その後ろに荷物を積んだ荷車と一緒に小野屋の女将がいた。女将の後ろには、三郎と共に京都から来た梅吉の姿もあった。

 三郎は琴音の側まで走って行った。琴音は三郎に気づくと馬から飛び降りた。思わず、抱き締めたい衝動に駆られたが、三郎はぐっと堪えて、琴音を見つめた。

 琴音は少し恥ずかしそうに俯いていた。でも、顔を上げると嬉しそうに笑って、「とうとう、草津に参りました」と言った。

「ようこそ、ずっと、お待ちしておりました」と三郎は答えた。

「ずっと?」

「ええ、ずっと」

 三郎は琴音に櫛を返した。琴音は笑った。

「わたしの宝物なの」と言って琴音は大事そうに懐にしまった。

 二人の姿を小野屋の女将は微笑みながら見守っていた。

 善太夫の湯宿に案内すると、「へえ、随分、立派になったわねえ」と女将は感心しながら部屋の中を見回した。

「新しいお宿ができたら、来るって約束したんだけど、結局、来られなかったの。琴音ちゃんのお陰で、来られてよかったわ」

 三年前の四月、山開きを待っていたかのように湯治客が続々と草津に殺到した。宿屋に入りきれない者たちは空き地に掘っ建て小屋を立てて部屋が空くのを待ち、湯小屋はいつも客が一杯で、のんびりと温泉にも浸かれない有り様だった。四月の末、客たちの不満が爆発して打ち壊しが始まり、広小路の東側はほとんどが焼け落ち、西側もほとんど破壊されてしまった。武田のお屋形様にお願いして、六月一日から九月一日まで草津の湯治を停止してもらい、総出で村の再建に取り組んだ。

「あの時は大変でしたよ」と三郎は当時の事を思い出しながら言った。

 その時、三郎は師匠の東光坊に連れられて白根山中で修行していて、夕方、白根明神に戻って来てから、その事を知った。慌てて薬師堂に行き、石段の上から村を見下ろすと目を覆いたくなるような悲惨な状況になっていた。まるで、草津で大戦が行なわれたかのような信じられない光景だった。善太夫の宿屋も焼け落ち、三郎が生まれた生須湯本家の宿屋は焼けてはいなかったが、無残に破壊されていた。幸いだったのは、高台の上に建つお屋形が無事だったのと、思っていた程の怪我人がでなかった事だった。三郎も湯本家の者たちや白根明神の山伏、村人たちと共に、三ケ月間、必死になって村の再建に従事した。

「よかったわね。見事に立ち直って」

「女将さんのお陰だって、父上は言っておりました」

 女将が村の再建のために莫大な銭を持って来てくれたのを三郎は知っていた。

「いいのよ。そんな事」と女将は手を振った。

「でも、敵地なのに、よく来られましたね」と三郎は小声で聞いた。

「武田のお屋形様は物わかりのいいお方だから大丈夫よ。箕輪の内藤様にも恩を売ってあるしね。でも、北条家の名は出さないでね。伊勢から来た商人の一行という事にしておいて」

「はい。伊勢屋さんですね」

「そういう事」

「さっき、小野屋さんの前を通ったら、看板が『伊勢屋』に変わっているんで、びっくりしました。店の者に聞いてみると、小野屋が潰れたので、伊勢屋が買い取ったって言っていました。店の者たちも皆、関西訛りがあったので、一瞬、本気にしましたよ」

「善太夫様の立場がありますからね。箕輪のお店も、甲府のお店も『伊勢屋』に変えました」

「真田にも伊勢屋さんがありましたけど、あれもそうなのですか」

「ええ、そうよ」

「成程、さすがですね」

「武士と商人というのは、そう簡単には切り離せないのよ。お互いに相手を利用している所があるから、敵の商人だから追い出せっていうわけには行かないの。武田家が今、一番欲しがってるのは鉄砲なの。鉄砲を手に入れるには、商人の手を借りなければならないでしょ。小野屋がその鉄砲を扱ってるから追い出すわけにはいかないのよ」

「武田家に鉄砲を売っているのですか」

 女将はうなづいた。

「あなた、織田弾正様を知ってるでしょ。弾正様は将軍様から勧められた管領職を断って、その代わりに堺港に代官を置く事を許して貰ったの。目当ては鉄砲よ。弾正様は将軍様の家来になるより、数多くの鉄砲を手に入れる事を選んだのよ。堺が弾正様の支配下に入ってしまったので、鉄砲は今まで以上に手に入りにくくなってしまったの。でも、小野屋が堺に進出したのは、もう百年も前の事だから、商人同士のつながりは強いの。そこで、何とか鉄砲を手に入れる事ができるのよ。北条家としても鉄砲はいくらあっても欲しいんだけどね、商人としても付き合いがあるでしょ。時には敵にも流すのよ」

 三郎は女将の言った事に驚いた。織田弾正が鉄砲を手に入れるために堺港を支配したとは、考えてもみない事だった。堺には海外貿易をしている裕福な商人が大勢いた。彼らから役銭を取って、それを軍資金にするのだろうと思っていた。堺の商人たちが鉄砲を扱っているのは知っていたが、まさか、鉄砲を集めるためだったとは考えもつかなかった。織田弾正という男はやはり、今までの武将とはまったく違った考えを持っているに違いない。堀久太郎が自慢気に話していた通りの大物なのかもしれなかった。

「そのうち、鉄砲の力で織田弾正様は近畿一帯を支配下に置くでしょうね」

「ええ、そうですね」と三郎はうなづいた。「織田弾正殿はやる事が大きい。岐阜の城下を見て驚きました」

「そうね。素晴らしいお城を建てたわね‥‥‥あら、難しい話ばかりしてるから、琴音ちゃんが退屈そうよ。わたしたちはお邪魔のようだから退散しようかしら」

 女将は二人の侍女を連れて部屋から出て行った。二人きりになった三郎と琴音は、お互いに話したい事はいくらでもあるのに黙り込んでしまった。

「夢みたい」と、しばらくしてから琴音が言った。

 何から話したらいいか考えながら庭を見ていた三郎は琴音の顔を見た。二年近く、会わないうちに琴音は随分と大人っぽくなっていた。まだ十六歳なのに、辛い目に会って、それを乗り越え、強くなったようだった。そして、以前に増して美しくなっていた。

「草津に来たなんて、今でも信じられない」

「疲れませんでしたか」と三郎は聞いた。言ってから、つまらない事を聞いてしまったと後悔した。

 琴音は首を振った。

「楽しかった。わたし、旅なんてした事なかったから、ほんとに楽しかったんです。全然、疲れませんでした」

「馬に乗って来るなんて驚きました」

「馬に乗るのは好きなんです」と琴音は笑った。さわやかな笑顔だった。

「お屋敷の庭でお稽古しました。兄と一緒に遠乗りもしましたけど、こんなに遠くまで来たのは初めてです。ほんとに楽しかった。あっ、そうだ、お土産があるんです」

 琴音は荷物の中から細長い物を出して三郎に渡した。刀だろうと思ったが、重さが違った。三郎は土産物を両手で捧げながら、「何です」と聞いた。

 フフフと笑いながら、「開けてみて」と琴音は言う。

 高級そうな布でできた袋の紐を解き、中から出て来たのは尺八だった。

「父が作った物です。父が持って行けって」

 尺八を手にするのは初めての三郎だったが、見事な尺八だという事はすぐにわかった。特に竹の切り口は見事だった。その切り口を見ただけで、幻庵が一流の武芸者だという事がわかった。今の三郎の腕では、とてもかないそうもなかった。

「『幻庵の一節切(ひとよぎり)』って呼ばれて、結構、人気があるんですよ。北条家の武将たちも競って欲しがります。袋の方はわたしが作りました」

「琴音殿が‥‥‥」と改めて、三郎は袋を見た。綺麗に仕上がっていて、お姫様育ちの琴音が作ったとは思えなかった。これだけの物が作れれば、立派な奥方様になれるだろうと思った。「ありがとうございます。大切にいたします」

「でも、大切にしまって置かないで下さいね。一節切は吹かないと価値がありません」

「尺八なんて吹いた事ないし‥‥‥」三郎が持ち方もわからないでいると、琴音はクスクスと笑った。

「わたしが基本を教えてあげます。後はお稽古次第です」

「お願いします」と三郎は頭を下げた。

 旅装を解いて小袖姿に着替えた琴音を連れて、三郎は草津の村を案内した。村の中央にある広小路は、各地からやって来た湯治客で賑わっていた。

 四年前に箕輪城が落ち、西上野が武田領になって以来、領内での合戦はなくなり、湯治客も増えていた。しかし、武田と北条の同盟が壊れてから、武蔵方面からの客はいなくなり、もっぱら、武田家の領内から来る客ばかりだった。

 広小路には御座の湯、綿の湯、脚気の湯、滝の湯と四つの湯小屋があり、少し離れた所に地蔵の湯と鷲の湯があった。ほとんど、回りから丸見えで、勿論、混浴だった。皆、草津に来た解放感からか、何の抵抗もなく裸になっている。

 滝の湯を眺めながら、琴音は目を丸くして驚いていた。裸の男女を見るのは初めてなのだろう。恥ずかしそうに笑いながら、楽しそうに湯に入っている人たちを眺めていた。

「これが硫黄の臭いなのね」と琴音は言った。

「うん、臭いだろう。でも、すぐに慣れるよ」

「あれにも慣れちゃうのかしら」と琴音は裸の人々を見た。

「慣れるさ」と三郎は笑った。

 広小路には様々な芸人たちも集まっていた。

「お祭りみたい」と琴音は楽しそうに見て回った。

 広小路を一回りして、御座の湯の先にある石段を登り、山門をくぐって薬師堂に参拝した。薬師堂の南隣にある光泉寺にも参拝して、光泉寺の門前に並ぶ土産物屋を眺めた。知らない間に、二人の後ろに琴音の侍女が二人、ついて来ていた。

 三郎が気づくと軽く頭を下げたが近づいて来ようとはせず、一定の距離をおいて琴音を守っていた。何となく、ただの侍女ではないようだった。

「あの二人は琴音殿の侍女なのですか」と聞くと、琴音は振り返って侍女を見て、首を振った。

「女将さんが付けてくれたのです。きっと、風摩の人たちでしょう」と琴音は当たり前の事のように言った。

「やはり」と三郎は言って、風摩の事が気になったが、気にしないようにした。今は、琴音との時間を大切にしたかった。

 三郎は琴音を連れて、市場の立つ立町の通りを横切って地蔵の湯へと向かった。地蔵の湯の周辺は草津の盛り場だった。飲み屋や遊女屋が建ち並び、日暮れ間近になれば化粧した女たちが通りに出て来て手招きをするが、まだ日は高い。盛り場はひっそりとしていた。

 盛り場を抜けると常楽院という修験の寺があり、その境内に地蔵の湯はあった。木曽義仲の守り本尊だったというお地蔵様を祀る地蔵堂や不動堂もあり、茶店や見世物小屋も並んでいる。地蔵の湯からあふれ出した湯が川になって流れ、賽の河原と呼ばれる河原には、あちこちに石を積んだ五輪の塔ができていた。現在、土産物屋が並ぶ泉水通りの奥にある西の河原は、この当時は鬼ケ泉水と呼ばれる不気味な場所で湯治客が近づく事はなかった。

 地蔵堂、不動堂をお参りして、地蔵の湯を覗いてから、三郎は琴音を地蔵の湯を見下ろす高台の上に建つお屋形に案内した。

「あそこが三郎様のお屋敷なの?」と琴音が坂道からお屋形を見上げながら聞いた。

「そうなんだけど、まだ、あそこに住んではいないんだ」

「どうして」琴音は振り返って、不思議そうな顔をした。

「今まで、ずっと旅をしていただろう。帰って来るのはいつも年末だから、冬住みの小雨村のお屋形の方で暮らしてるんだよ」

「冬住みって?」

「草津は冬の間は雪が深くて住めないんだ。冬の間は山を下りて、冬住みの村で暮らすんだよ」

「へえ、面白いんですね」

「草津、独特の習慣だな」

 お屋形の門の前を通ると門番が一瞬、あれ、といったような顔をして三郎たちを見た。三郎は気づかれないように琴音の手を引いて、さっさと広小路へと戻った。

「あそこに入りたい」と琴音は滝の湯を指さした。

「えっ」と三郎は驚いた。

 当時、宿屋には内湯はなく、温泉に浸かるには湯小屋を利用するしかなかった。しかし、琴音がまだ明るいうちから、入りたいと言い出すとは思ってもいなかった。

「わたし、ここにいる間はやりたい事は何でもやろうと決めて来たの。小田原に帰ったら、やりたい事なんてもう、できなくなっちゃうもの」

 三郎はうなづき、祖母から手拭いを貰って来ると、琴音と一緒に滝の湯に入った。裸になるのをためらうかと思ったが、琴音は大胆に、さっさと着物を脱ぐと裸の人々の中に入って行った。

 キャーキャー言いながら、楽しそうに滝を浴びている琴音の裸を三郎は眩しそうに眺めていた。ふと、あの侍女たちが見ているのではと回りを見回してみたが、どこにもいなかった。

 お互いに裸になって温泉に浸かってから、何となく、わだかまりのあった二人の溝はなくなり、素直な気持ちで、お互いを見るようになって行った。

 その夜、二人は当然の事のように結ばれた。

 琴音は五日間、草津に滞在した。二人は新婚の夫婦のように同じ時を共に過ごした。馬に乗って山の紅葉を見に行ったり、冬住みの小雨村や三郎が育った生須村に行ったり、琴音の横笛に合わせて、下手な一節切を吹いたり、夜遅くまで酒を飲みながら語り合ったりもした。琴音は北条三郎と一緒になって、別れさせられた時の気持ちなど、包み隠さず素直に話した。三郎も琴音が祝言を挙げたと聞いた時の気持ちを素直に話した。

「あたし、来月、四郎様に嫁ぎます」と琴音は顔を赤くしながら言った。

「もう決めたのか」と聞くと、琴音は唇を噛み締めて、うなづいた。

「このまま、ずっと、草津にいないか」と三郎は思い切って言ってみた。

 琴音は嬉しそうに三郎を見つめると、「いたい。このまま、ずっと、ここにいたい」と言った。

 天にも昇る心地だった。しかし、琴音は俯き、空になった酒盃を見つめながら、寂しそうな顔をして首を振った。

「でも、駄目なのよ。あたしは北条幻庵の娘だもの。ここに来られただけで充分に幸せ。ここに来る事を許してくれた父上のためにも、あたしは四郎様に嫁ぎます」

「そうか‥‥‥」

 三郎は琴音をじっと見つめていた。小田原に帰したくはなかった。このまま、ずっと一緒にいられたら、お屋形様の跡継ぎという地位も、何もかもいらないと思っていた。でも、琴音の目には強い決心が現れていた。涙で目を潤ませながらも、一度、決めた事は決してひるがえさないという意志の強さが感じられた。琴音は目をそむけると涙を拭いて、穏やかな微笑を見せようとした。

「でも、今はあなたのお嫁さんよ」と甘えるような声で言った。

「そうだな」と三郎はうなづいた。

「ねえ、滝の湯に入りましょう」

「大丈夫か。酔っ払ってないか」

「大丈夫、平気よ」と琴音は立ち上がったが、足取りはフラフラしていた。

「駄目だ」と三郎は琴音を抱き上げた。

「危ないから、もう、寝よう」

 琴音は三郎の首につかまりながら、可愛く、うなづいた。

 小野屋の女将はどこに行ったのか、帰る時まで顔を見せなかった。侍女の二人は常に側にいたが、琴音が何をしても何も言わなかった。琴音は伸び伸びとやりたい事をやって、小田原へと帰って行った。

 別れる時、琴音は三郎をじっと見つめ、何も言わずに微笑した。三郎も何も言わず、微笑を返した。途中まで送って行きたい気持ちをぐっと押さえて、三郎は琴音の後ろ姿を見送った。琴音は一度も振り返らなかった。琴音の震える細い肩を見送りながら、幸せになってくれるようにと願っていた。
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