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2017 .04.26
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11.月陰党








 善太夫の一周忌の二日前、三郎右衛門は草津の光泉寺で住職の玄英(げんえい)と法要の打ち合わせをしていた。そこに慌ただしく駈け込んで来たのは弟の小五郎だった。

 小五郎は今年の春から善太夫の湯宿を継いでいた。代々、湯本本家の湯宿の主人は善太夫を名乗っていたが、宿屋の主人が先代のお屋形様の名を継ぐのは憚られるので、白根明神の長老と相談して、金太夫と名乗る事となった。

「兄上、大変でございます」と金太夫は息を切らせ、額の汗を拭きながら言った。

「何を慌てているんだ。まさか、武田のお屋形様が来られたわけではあるまい」

 三郎右衛門が冗談を言うと玄英は和やかに笑った。

「それが、小野屋の女将さんがお見えになられたのでございます」

「ほう、やはり来られたか。来られると思っていた。別に驚く事でもあるまい」

「そうじゃないんです。女将さん、出家しちゃったんですよ」

「なに、出家した?」

 三郎右衛門は口を開けたまま、金太夫の顔をじっと見つめていた。あの女将が出家するなんて思いもしなかったので、確かに驚きだった。しかし、善太夫と女将の関係を思えば当然の事のようにも思えた。

「尼さんの格好でいらっしゃって、本当に驚きましたよ」と金太夫は言っていた。

「そうか‥‥‥出家したのか‥‥‥」と三郎右衛門は独り言のように呟いた。

「そして、お年寄りのお客様と御一緒です。幻庵様と言えばわかると言っておりましたが」

「なに、幻庵様だと。馬鹿者、なぜ、それを早く言わんのだ」

 三郎右衛門は玄英に急用ができた事を告げ、金太夫と共に薬師堂の方へと向かった。

「兄上、幻庵様って誰なのです」

 慌てている三郎右衛門を見ながら、金太夫は不思議そうに聞いた。金太夫が見た所、幻庵と名乗った老人は小田原の商人の御隠居といった風だった。

 三郎右衛門は辺りを見回し、人がいないのを確認してから、金太夫の耳元で、「北条家の長老様だ」と囁いた。

「えっ」と金太夫は間の抜けた顔をして三郎右衛門を見た。

「まさか、草津まで来られるとは‥‥‥こいつは大変な事になったぞ」

 しっかりしろと言うように三郎右衛門は金太夫の背中を叩いた。

「お忍びだと言っておりました」

「そうか。そうだろうな。そうでなくては困る。まったく、女将も急に、とんだお客様を連れて来られたもんだ。金太夫、一番上等な部屋は空いているだろうな」

「それが」と言って金太夫は困ったような顔をした。

「小諸の武田左馬助殿の紹介されたお客様の一行が泊まっておられます」

「おお、そうだった」

 武田左馬助は武田のお屋形様の従弟だった。長篠の合戦の後、お屋形様の右腕として活躍し、武田家中でも重きをなしていた。その左馬助の紹介で小諸城下の裕福な商人たちが今、金太夫の湯宿に滞在していた。

「今更、追い出すわけには‥‥‥」

「そいつはまずい」

「それで、慌てて参ったのでございます」

「うむ、何とかしなくてはならんな。今はどこにおられるんだ」

「幻庵様ともう一人のお客様はさっそく、滝の湯に入っておられます。お供の方々は宿屋の庭で馬の世話などをしておりますが、小野屋の女将さんは取りあえず、お屋形の方に御案内いたしました」

「そうか。お前は光太夫と安太夫の所に行って、上等な部屋が空いているか見て来い。湯本家にとって大切なお客様が来られたと言ってな」

「わかりました」とうなづくと金太夫は石段を駈け下りて行った。
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12.二人の女








 天正五年(一五七七年)の元旦、二十四歳になった三郎右衛門は去年の十一月に生まれた長女の小松を抱きながら、静かな新年を迎えていた。越後の上杉謙信は越中に出陣中で関東に出て来る心配はなく、湯本家では柏原城に詰めている者たち以外は家族と共に新年を迎えていた。

 翌日は例年のごとく海野兄弟に新年の挨拶をするため岩櫃城に向かった。去年の柏原城の無血開城以来、三郎右衛門の名は有名になっていた。今まで、善太夫の跡継ぎに過ぎなかった三郎右衛門はようやく、草津の領主として皆に認められた。何となく三郎右衛門に辛く当たっていたような長門守でさえ、ニコニコしながら善太夫殿はいい跡継ぎを迎えなさったと始終、機嫌がよかった。

「兄上はな、善太夫殿の奥方、お鈴殿をそなたが追い出したものと勘違いしていたんじゃよ」と能登守は長門守が席をはずすと、三郎右衛門にそっと言った。「それに、兄上はわしの娘婿の左京進が湯本家を継ぐべきじゃとずっと思っていたんじゃ」

「そうだったのですか」

「わしもそう思っておった。しかし、そなたが各地を旅をし、京都で上泉殿の道場で修行していると聞いて気が変わった。さすが、善太夫殿じゃと思ったわ。わしも長い間、旅をしていたからわかる。お屋形様となる者はしっかりと世間の動きというものを知らなくてはならん。この吾妻の山の中から世間を見ていただけでは世の中に遅れてしまう。これからは益々、世の中の流れは速くなるじゃろう。そなた、忍びを使って各地の情報を手に入れているそうじゃの。いい事じゃ。お互いに、この吾妻郡を敵から守り通そうではないか」

「はい」と三郎右衛門は力強くうなづいた。

「それにしても、柏原城の事は見事じゃった。白井では、あの城の事を狐火城と呼んで恐れているそうじゃ。雨の降る夜は未だに、狐火が飛び回っているそうじゃの」

 あの時、三郎右衛門は何もしなかった。ただ松明をかついで城に近づいて行っただけだった。命懸けで活躍したのは月陰党の者たちなのに、彼らの存在はまったく消え、すべてが三郎右衛門の手柄になっていた。城攻めの前、東光坊が彼らの手柄を褒めてやってくれと言った意味が、ようやく三郎右衛門にもわかって来た。武士ならば戦死したとしても、それなりに丁重に扱われるが、彼らが亡くなっても公表される事はなく、闇に葬られてしまう。お屋形様である三郎右衛門が彼らの活躍をちゃんと認めてやらなければならないのだった。

「武田のお屋形様じゃがの」と能登守は言っていた。

「武田のお屋形様がどうかなさいましたか」と三郎右衛門は我に返って聞き直した。

「近いうちに祝言を挙げなさるらしい」

「えっ、武田のお屋形様には奥方様がいらっしゃらなかったのですか」

 お屋形様の事は以前、真田喜兵衛から聞いた事はあったが、奥方様の事まで詳しく聞いてはいない。長男がいると聞いて、てっきり奥方様がいるものと思い込んでいた。

「以前、織田弾正(信長)の姪を迎えたんじゃが、その奥方様は御長男の武王丸殿を産むとすぐに亡くなわれてしまった。その後、お屋形様は正式な奥方様をお迎えになってはおらんのじゃよ」

「そうだったのですか。まったく知りませんでした」

「織田弾正は信玄殿をもっとも恐れておったんじゃ。信玄殿の機嫌を取るために様々な贈り物もした。そして、今のお屋形様、四郎殿に是非に自分の姪を嫁に貰ってくれと言って来たんじゃ。当時、四郎殿は諏訪四郎と名乗っていて武田家の総領ではなかった。信玄殿もいいじゃろうと承諾したんじゃよ。ところが、信玄殿が駿河進攻を決めると総領だった太郎(義信)殿と対立した。太郎殿の奥方様は駿河の今川殿の娘だったんじゃ。武田家は信玄派と太郎派に分裂しそうになったんじゃが、信玄殿はすばやく対処して、太郎派の者たちを捕らえて殺し、太郎殿は幽閉された揚げ句に自害なされたんじゃ」

「はい。その事は真田喜兵衛殿より聞きました」

「うむ。仕方なかったんじゃよ。治部大輔(義元)殿が織田弾正に討たれた後の今川家はかつての勢いを失い、放って置けば徳川に攻め滅ぼされてしまうかもしれなかった。徳川に奪われるなら、武田の領土にしようと信玄殿は決心なされたのじゃろう。たとえ、総領の太郎殿を犠牲にしてもな‥‥‥織田弾正は四郎殿に嫁いだ姪が亡くなってしまうと、今度は自分の長男、奇妙丸(信忠)に信玄殿の娘を嫁に貰いたいと言って来た。信玄殿はまあいいじゃろうと、それも承諾したんじゃよ」

「織田弾正の長男の嫁は武田家の娘だったのですか」

「いや。約束はしたが実現はしなかった。奇妙丸と婚約したのは信玄殿の五女でお松殿というんじゃが、当時、奇妙丸は十一歳、お松殿は七歳じゃった。順調に行けば五、六年後には祝言を挙げたじゃろうが、武田家と織田家の間が不仲になり、婚約は自然解消という形になってしまったんじゃよ」

 三郎右衛門の知らない事がまだまだ多かった。敵対している武田家と織田家が婚姻で結ばれていたなんて考えられない事だった。お屋形様の跡継ぎの武王丸殿には武田家と織田家と武田に滅ぼされた諏訪家の血が流れていた。何となく恐ろしく、何となく哀れだった。

「奇妙丸というのは、秋山殿がおられた美濃の岩村城を攻めた時の大将だった織田勘九郎ではありませんか」

「おお、そうじゃよ」と能登守はうなづいた。

 やはり、そうだった。武田家の娘と婚約していたのは上泉伊勢守の高弟、疋田豊五郎に新陰流を教わっている岐阜城主となった勘九郎だった。

「という事はお松殿というお方ももう年頃になってるのではありませんか」

「うむ。もう十六、七じゃろうのう」

「その後、嫁に行かないのですか」

「嫁に行ったという話は聞かんからのう。甲府におられるんじゃろうな。いや、随分と話がそれてしまった。今度、武田のお屋形様が迎える奥方様は北条家の娘なんじゃよ」

「えっ、北条家ですか。でも、北条家と武田家は同盟を結んでいるのでしょう」

「結んではいるが、織田と徳川に対抗するために結び付きを強化しなければならんのじゃろう。その事もあって喜兵衛殿も今年の正月は甲府から帰って来られないのじゃ」

 喜兵衛が帰って来られないのは三郎右衛門も知っていた。今年は帰れないので真田へは挨拶に来なくてもいいと喜兵衛から知らせが届いていた。

「そこでじゃ。吾妻衆からも誰かを送らなければならん。わしの伜が行く事になっておるんじゃが、そなたも一緒に行ってくれんか。そなたは以前、甲府に行った事もあろう。お互いに真田家の一族でもあるしな」

「はい、それは構いませんが」

「そうか。行ってくれるか。伜の奴も喜ぶじゃろう。伜の奴、甲府で生まれ、十二歳まで向こうにいたんじゃが、その後、甲府には行ってはおらん。武田家の家臣たちが居並ぶ中に出て行くのは心細いと怖じけづいておるんじゃ。そなたが一緒なら大丈夫じゃ。伜をよろしく頼むぞ」

「はい‥‥‥」

 伜を頼むと言われても三郎右衛門は困った。能登守の伜、中務少輔は三郎右衛門よりも十歳も年上だった。それでも、能登守から見ると頼りなく見えるのか、三郎右衛門が一緒なら大丈夫だとすっかり安心していた。
13.二人の女








 甲府から帰って来た三郎右衛門は二人の女に悩まされていた。一人はやっとの思いで忘れたのに、思いもしない場所で再会した里々、もう一人は陰ながら三郎右衛門を守って甲府まで行ったキサラギだった。

 二度と会う事はない、忘れようと思っても、再会した時の里々の顔が瞼から離れなかった。それに、顔付きも体つきも三年前と同じように見えたのに何かが違っていた。その何かがわからないのも気に掛かっていた。

 キサラギは甲府から帰るとやぼったい女中に戻って、何もなかったような顔をして台所で働いていた。生須村にいる父親が急に倒れたと言って半月間、休みを貰ったらしい。冬住みの間はキサラギもおとなしかった。三郎右衛門と出会っても、頭を下げるだけで言葉を交わす事もなかった。やがて、草津の山開きとなり、三郎右衛門はお松と子供を連れて草津のお屋形に移った。台所で働く女中たちも何人かは草津に移った。ムツキは草津に移ったが、キサラギは長野原に残ったらしい。

 その頃、上杉謙信が大軍を率いて関東に攻めて来るとの風聞が流れ、三郎右衛門は兵を率いて柏原城に詰めていた。草津の事は雅楽助に任せ、左京進と共に柏原城を取り返そうと攻めて来る白井勢と戦っていた。幸い、謙信の関東出陣は中止となり、白井勢も城攻めを諦めて引き上げて行った。三郎右衛門が長野原に戻って来たのは五月の初めだった。具足(甲冑)を脱ぎ、妻子のいる草津に行こうと思ったが、留守の間に起こった様々な事を片付けているうちに暗くなってしまい草津行きは諦めた。その夜、キサラギが三郎右衛門の部屋に突然、現れた。

「お屋形様、お話がございます」とキサラギは頭を下げたまま言った。

「何だ、何かあったのか」

 何か重要な情報を持って来たのかと思い、三郎右衛門はキサラギ見た。キサラギは顔を上げると真剣な顔付きをして三郎右衛門を見つめた。キサラギは素顔に戻っていた。女中の格好ではなく、少し着飾っているようだった。どこかに行って来たのかと思いながら、三郎右衛門はキサラギが話すのを待った。

 キサラギは何かを言いかけたか、何も言わずに俯いた。行灯(あんどん)の明かりのせいか、キサラギの仕草が色っぽく感じられた。

「どうしたんだ」と三郎右衛門は声を掛けた。

 キサラギは顔を上げると意を決したかのように口を開き、「あたし、お屋形様の事がずっと好きでした」と言った。

 突然の告白に三郎右衛門はうろたえた。

「お前、何を言ってるんだ」

「いいえ、聞いて下さい。お屋形様のために働きたいと思って、厳しい修行にも耐えて参りました。陰ながらお屋形様を助けようと決心いたしました。でも、毎日、お屋形様のお側にお仕えしているうちに、もう我慢ができなくなりました。お願いでございます。今宵、一夜だけ、お側に置いて下さいませ」

「お前、何を言っているんだ」

「お屋形様はあたしが嫌いなのでございますか」とキサラギは泣きそうな顔をして三郎右衛門ににじり寄って来た。

「嫌いではない。嫌いではないが、そんな事はできん」

「お願いでございます、お屋形様」

 キサラギは目に涙を溜めて、三郎右衛門に訴えていた。三郎右衛門はその涙に負けそうになったが、じっと堪えた。

「お前の気持ちは嬉しいが、それはできん」

「お松様のように名のある武将の娘でないと駄目なのでございますね」

「何を言う。そんな事はない」

「先代のお屋形様は側室をお二人もお持ちになられたと聞いております」

「お前を側室にしろというのか」

「いいえ、そんな事は言っておりません。たった一度、一度だけでいいのでございます。所詮、あたしは陰なのです。側室になれるとは思ってもおりません」

「陰か‥‥‥」

 思い詰めたようなキサラギに負け、その夜、三郎右衛門はキサラギを抱いた。鍛え抜かれたその体は、まるで鋼鉄のようにしなやかで、三郎右衛門が今まで知っている女とはまるで違っていた。そして、信じられなかったがキサラギは生娘だった。子供の頃から陰ながら三郎右衛門に憧れ、他の男には目もくれなかった。十六になった六月、東光坊の配下に声を掛けられ、三郎右衛門のために働けると喜んで山に入って修行を積んだ。その修行の中には遊女に化けるための手練手管もあったが、もと遊女だったという老女が師範だったため、実際に男に抱かれたわけではない。初めての仕事だった柏原城では敵の武将に抱かれそうになったが、最後の一線は守り通した。どうしても、最初の男は三郎右衛門以外にはいないと決めていたのだという。三郎右衛門に抱かれた後、これで思い残す事なく、どんな任務でもやり遂げられるとキサラギは寂しそうな顔をして言った。

 その後、キサラギはさえない女中に化けたまま、三郎右衛門に近づいて来る事はなかった。そのいじらしさが可愛く思え、キサラギの存在は三郎右衛門の心の中に深く入り込んだ。
14.御寮人様




 梅雨が明けて、蒸し暑い六月十八日の日暮れ間近、東光坊と共に仁科郷に行っていた山月坊が長野原に戻って来た。二人の御寮人様は昨日、仁科郷のお屋形を出発したという。

 やかましいセミの鳴き声を聞きながら、いよいよ、いらっしゃるかと三郎右衛門は、「供回りはどんな具合だ」と庭にひざまずいている山月坊に聞いた。

「侍女が四人、護衛の侍が八人、それに、駄馬の馬丁が四人でございます」

「ほう」と三郎右衛門は呟いた。思っていたよりも少人数だった。その人数ならば、金太夫の宿屋だけで間に合いそうだ。

「いつ頃、こちらに着くのだ」

「のんびりしておりますので、四日は掛かるかと思います」

「四日というと明後日という事だな」

「はい。前日は鎌原様の所に泊まるようでございます」

「成程」と三郎右衛門はうなづいてから、「御寮人様はどんなお方だ」と聞いた。

「それはもうお二人とも気品のあるお顔立ちで、美しいお姫様でございます」と山月坊はまるで、天女でも見たような、うっとりとした顔付きで言った。

「そうだろうな」と言いながら、三郎右衛門は武田のお屋形様の顔を思い出していた。端正な顔立ちをしているお屋形様の妹なら当然、美しいだろうと思った。しかし、よく考えてみると、お屋形様の母親は諏訪の姫様で、二人の御寮人様とは母親が違った。きっと、二人の母親も美しい人なのだろう。

「うむ、御苦労だった。今晩はゆっくりと休むがよい。明日、鎌原に行き、御寮人様が来られたら、すぐに知らせるように」

「はい。かしこまりましてございます」

 翌朝、三郎右衛門は草津に向かった。晴れ渡った夏空が広がり、白い雲が所々に浮かんでいる。山の中ではカッコウがのどかに鳴いているが、今日も暑くなりそうだ。

 善恵尼は首を長くして待っていた。いくら、のんびりするつもりだと言っても、さすがに一月もブラブラしているのは退屈のようだった。それに、北条のお屋形様の娘、鶴姫様が急遽、安房(千葉県南部)の里見左馬頭(義頼)に嫁ぐ事に決まり、二十八日までには小田原に帰らなくてはならないという。

「何とか間に合ったわね」と善恵尼は張り切って準備を始めた。弟の金太夫は善恵尼に命じられて走り回っていた。宿屋の事は善恵尼に任せ、三郎右衛門は町奉行を勤める雅楽助に御寮人様の事を告げ、警固を頼んだ。

「そいつは大変だ。もしもの事があったらえらい事になる。草津までの道筋を厳重に警固しなければなるまい」

 雅楽助はとんだ事になったとひどく慌てていた。
15.御館の乱








 御寮人様たちが草津から帰った二ケ月後の閏(うるう)七月、しばらく甲府に滞在していた真田喜兵衛が草津にやって来た。三郎右衛門が慌てて長野原から草津に上ると喜兵衛は湯上がりのさっぱりした顔で金太夫の宿屋でくつろいでいた。

「草津は涼しくていいな。今年は七月が二度もあったせいか、甲府は残暑が厳しくてかなわん」と言いながら、笑顔で三郎右衛門を迎え、甲府の様子を話してくれた。

「長篠の合戦から二年が経ち、ようやく武田家も立ち直ったようだ。亡くなった武将たちの後釜も何とかお役目をこなしている。まあ、以前とまったく同じとは言えんがな。この先、経験を積んで行けば、まずは大丈夫だろう」

 そう言う喜兵衛自身もすっかり真田家のお屋形様という貫禄が身についていた。

 三郎右衛門が正月に嫁いだ花嫁の事を聞くと、北条家の姫様と武田のお屋形様はうまく行っているという。姫様はまだ十四歳で、お屋形様の御長男、武王丸(信勝)殿は十一歳、まるで、娘といってもいい年頃なんだが、お屋形様はお気に入りで可愛がっておられるようだと言って笑った。

「北条との同盟が強化され、徳川と織田の連合軍と戦う準備はできた。まずは徳川勢に囲まれている遠江の高天神城を助けなければならん。高天神城を奪われたら遠江を徳川に取られるだけでなく、駿河も危なくなってしまうからな」

「いよいよ、徳川を倒しますか」

 喜兵衛は扇子を仰ぎながら、うなづいた。

「来月には出陣する事となろう。越後の謙信は越中に出陣した。当分、関東へは出て来ないだろうが、吾妻衆には守りは固めてもらわなくてはならん」

「喜兵衛殿は遠江まで出陣するのですか」

「うむ。そのために帰って来たんだ」

 喜兵衛は草津に一泊し、翌日、岩櫃城に行き、吾妻衆を集めて、今後の事を相談すると出陣の準備をしなければならないと忙しそうに真田へ帰って行った。

 八月に入り、武田のお屋形様は領内に出陣命令を下し、八月の末、一万五千余りの兵を率いて遠江に出撃した。徳川勢を追い散らし、高天神城に兵糧や弾薬を入れる事には成功した。しかし、武田軍が引き上げると徳川軍は再び高天神城を包囲して、新たに砦を築き始めた。

 その頃、上杉謙信は能登の七尾城(七尾市)を落として加賀に進攻し、手取川で織田軍と戦い、圧倒的な勝利を得ていた。織田信長が上杉謙信に大敗したとの報が三郎右衛門のもとに届いたのは冬住みの始まった十月の半ばの事だった。知らせを持って来たのは沼田城下にいた東光坊の配下、東円坊で、七尾城にいる謙信より沼田の城代、河田伯耆守に書状が届き、沼田城下では、織田を倒し、謙信の上洛も間近だと大騒ぎをしているという。

「大納言になった信長も毘沙門天にはかなわなかったか」

 三郎右衛門は改めて、上杉謙信という武将の偉大さと恐ろしさを知った。そして、信長を共通の敵とした武田と上杉が同盟して、共に戦えばいいのではないかと思った。この時、武田方の武将は皆、密かに宿敵の謙信に拍手を送っていた。
16.長男誕生








 三郎右衛門たちが岩櫃城に戻ったのは六月も末になっていた。梅雨も上がり、暑さも盛りを迎えていた。

 海野長門守と海野中務少輔に、武田家が喜平次景勝と同盟を結んだ事を告げると二人とも唖然とした顔をした後、「何という事じゃ」と長門守は怒鳴り、三郎右衛門、西窪治部少輔、鎌原宮内少輔の三人を恐ろしい顔で睨みつけた。

「武田のお屋形様は一体、何を考えておられるのじゃ。前線の事も考えず、勝手に同盟など結びおって。喜平次と結んだじゃと。喜平次と結べば北条は敵になるではないか。北条の大軍がすぐ目の前にいるんじゃぞ。どうして、そんな事になったんじゃ。わしらに納得できるよう、きちんと説明してもらおうか」

 長門守がすごい剣幕で怒鳴り散らしたため、三郎右衛門も治部少輔も俯いてしまった。さすが、年を食っている宮内少輔は落ち着き払って説明をした。

「すると、真田のお屋形様は蚊帳(かや)の外だったのだな」と黙って話を聞いていた中務少輔が口を挟んだ。父親の能登守は出掛けているのか、姿を現さなかった。

「前線におられた小諸の左馬助殿が中心になって交渉を始めたようじゃ」

「上杉との交渉は海津の春日弾正殿が当たっていたのではないのか」

「春日弾正殿は先月、お亡くなりになられた」

「なに、春日弾正殿が亡くなった‥‥‥」

 中務少輔は信じられないという顔をして伯父の長門守を見た。長門守は怒りが治まらないとみえて、真っ赤な顔をして一人でブヅブツ言っていた。

「春日弾正殿が生きておられれば、こんな事にはならなかったじゃろうと真田のお屋形様は言っておられた」

「うーむ」と言いながら中務少輔は腕を組んで宙を睨んだ。その仕草は父親にそっくりだった。

「何という事じゃ。武田のお屋形様はわしらの事など何も考えておられん。まったく、どうしたらいいんじゃ」長門守はたるんだ頬の肉を震わせながら、ウーウー唸り続けた。

「伯父上、決まってしまった事は仕方がないでしょう。確かに、三郎景虎が謙信の跡を継いでしまえば、越後は北条領となり西上野は北条勢に囲まれる。同盟を結んでいるとはいえ、北条は西上野を手に入れようとするに違いない。遅かれ早かれ、北条とは戦わなくてはならんのだ。われらとしては何が起ころうとも、この吾妻の地を守り抜かなければならない」

 中務少輔はこちらの今の状況を説明してくれた。

 廐橋城の城主、北条丹後守、白井城の城主、長尾一井斎が三郎景虎方に付いたので、北条氏は難無く、その二城を手に入れた。沼田の倉内城も三郎方だったが、城代の河田伯耆守が越後攻めに出掛けた後、もう一人の城代、上野中務少輔が喜平次方に寝返ってしまった。北条軍は倉内城を攻めたが、敵はしぶとくなかなか落ちない。いつまでも、こんな所で足止めを食ってはいられないと、鉢形城主の安房守率いる北条軍は猿ケ京の宮野城を攻め落として越後に進軍した。宮野城が落城したのは二日前の事で、北条氏に頼まれて吾妻衆も城攻めに加わり負傷者が何人も出た。倉内城は今、江戸城主の北条治部少輔と河越城主の大道寺駿河守の兵三千余りが包囲している。吾妻衆は倉内城と共に寝返った尻高城と中山城を攻めているという。

「今の時点では、喜平次方の尻高も中山も味方になったわけだ。味方同士で傷つけあう事もない。早いうちに引き上げさせなければならない」と中務少輔は言った。

「尻高、中山攻めに北条軍は加わっているのですか」と三郎右衛門は聞いた。

「いや、われらに任されているはずだ」

「それなら、戦をやめて引き上げる事もできるわけですね」

「うむ、できるだろう。ただ、親父が今、沼田にいるんだ」

「何じゃと」と宮内少輔が言って、中務少輔の顔を見つめた。

 三郎右衛門も驚いた。どうして、能登守が沼田にいるのか理解できなかった。
17.上杉三郎景虎








 九月の初め、吾妻を攻めた北条陸奥守(氏照)が廐橋城主の北条丹後守の父親、安芸入道芳林と共に越後に進撃して行った。その頃、越後では形だけの和睦が破れ、各地で戦が再開していた。

 先発していた北条安房守(氏邦)は樺沢城(塩沢町)を攻め落とし、喜平次の本拠地ともいえる坂戸城(六日町)を攻めていた。安房守と共に出陣した北条丹後守は本拠地の北条城(柏崎市)に戻って、兵を引き連れ、三郎景虎を助けるため御館に向かっていた。

 陸奥守は九月の半ばには安房守と合流し、坂戸城に猛攻を加えた。喜平次景勝は信濃飯山城にいた武田左馬助に救援を頼み、武田軍は千曲川沿いに越後に侵入し、坂戸城に向かった。北条軍の包囲をかい潜って坂戸城に入った武田軍は、喜平次の命によって坂戸城を受け取り、北条軍と対峙した。坂戸城には上野の人質たちがいて、それらは皆、武田の手に移った。その中には、真田軍に敵対している尻高氏、中山氏の人質も沼田衆の人質もいた。

 北条軍と武田軍が越後で戦っている頃、吾妻ではじっと我慢の守勢が続いていた。八幡山城、中之条古城を奪い取った後、北条軍は吾妻に攻めては来なかった。三郎右衛門は寄居城を守りながら、沼田で殺された月陰党の者たちの事を考えていた。

 ムツキは月陰砦の一期生で、柏原城攻めの時、キサラギたちと狐火になって活躍してくれた。素顔は滅多に見られなかったが、背がすらっとしていて笑顔の可愛い娘だった。

 ヤヨイ、ウヅキ、雲月坊、残月坊は二期生だった。ヤヨイとウヅキは御寮人様が草津に来られた時、仲居に扮して御寮人様たちを守ってくれた。ヤヨイは色っぽい娘で、踊りもうまかったらしい。ウヅキは雪のような白い肌をした小柄な娘で、琴がうまかったらしい。雲月坊、残月坊は去年、砦を下りた時、一度、会っただけだった。一年間、行願坊と各地を旅をした後、すぐに沼田に行ったらしい。残念ながら、二人の顔を思い出す事ができなかった。湯本家のために死んで行ったというのに、顔も覚えていないなんて自分が情けなかった。

 玉川坊、東蓮坊、円実坊は古くから東光坊の配下として働いていた。玉川坊と円実坊は長篠の合戦の時、向こうの様子を知らせてくれたし、東蓮坊は長篠の合戦の以前から沼田にいて敵の動きを探っていた。

 さらに、白井城下にいた随勝坊、廐橋城下にいた妙心坊も殺されていた。二人とも十年近くも城下に住み込んで、敵の情報を集めていた。

 お頭である東光坊が越後に行っている留守に十人も殺されてしまった。戦だから仕方がないというが、危険を感じながら引き上げさせなかったムツキたちの事はいつまでも悔やまれた。決して、彼らの死を無駄にしてはならないと肝に銘じていた。

 十月の半ば、三郎右衛門は矢沢三十郎、植栗河内守と共に岩櫃城に呼ばれた。すでに、中城にある真田屋敷は完成していた。喜兵衛は主立った武将たちを新しい広間に集め、ニヤニヤしながら一同を見まわした。

「北条軍が越後から戻って来た」と喜兵衛は言った。

「なに、逃げ戻って来たのか」と海野長門守が驚いて聞き返した。

「そうではない。雪に閉じ込められる前に引き上げて来たのだろう」

「成程、北条軍は雪に弱いとみえる」長門守は白い顎髭を撫でながら、うなづいた。

「陸奥守と安房守は兵を率いて、ひとまず沼田の倉内城に入った。この後、どうなるかが問題だ。北条軍が今後も上野に残れば、今の状態が春まで続く事になる。北条軍が引き上げれば、ようやく攻撃に移る事ができる。中之条の古城、横尾の八幡山城は勿論の事、柏原、尻高、中山、そして、沼田と白井を奪い取らなければならない。その覚悟でいてもらいたい」

 皆、顔を引き締め、喜兵衛の話を聞いていた。その中に、まだ十五歳の鎌原孫次郎がいた。父親の筑前守を長篠の合戦で亡くし、十二歳で家督を継いだが、まだ若すぎると祖父の宮内少輔が代わりに出陣していた。しかし、その祖父も八幡山の合戦で戦死してしまった。祖父と亡くなった家臣たちの仇を討たなければならないと孫次郎は唇を噛み締め、力強く、うなづいていた。

 越後に進撃した北条軍は結局、武田左馬助が守る坂戸城を落とす事はできなかった。人質たちを奪い返せと必死に攻めたが、坂戸城の守りは堅かった。やがて、雪がちらつく季節となった。雪の少ない土地で育った兵たちは大雪を恐れ、士気も低下した。北条軍は城攻めを諦め、樺沢城に撤退した。まごまごしていると三国峠が雪で塞がれて帰れなくなってしまう。陸奥守と安房守は弟の四郎と北条安芸入道に五百の兵をつけて残し、必ず、春まで待ちこたえよと命じて引き上げて来た。

 倉内城に入った陸奥守と安房守は兵を休ませた後、共に越後から引き上げて来た河田伯耆守を残して、お屋形様のいる廐橋城へ向かった。倉内城には治部少輔が二千の兵と共に守っていて、焼け落ちた城の普請に精出していた。廐橋城に入った陸奥守と安房守は、お屋形様の相模守(氏政)と軍議を重ね、左衛門佐(氏忠)を沼田に、治部少輔(氏秀)を廐橋に残し、他の者はひとまず、本拠地に帰す事に決めた。
18.上杉三郎景虎








 尻高城が落城すると北条氏も黙ってはいられなくなり、正月の半ばには上野に出陣して来た。鉢形の北条安房守が一千の兵を引き連れ、沼田の倉内城に入り、河越の大道寺駿河守が五百の兵を率いて廐橋城に入った。

 柏原城には白井からの援軍が加わり、攻め落とす機を逸してしまった。植栗河内守は悔しがったが後の祭りだった。寄居城には矢沢源次郎の兵が加わり、三郎右衛門は左京進に任せて岩櫃城で待機した。

 奪い取った尻高城には海野能登守が嫡男の中務少輔と共に入り、中山城の攻略を始めると共に、沼田にいる北条軍に対する守りを固めた。さらに、矢沢薩摩守が人質として甲府にいた尻高源次郎と中山安芸守の家老の伜、平形五郎、越後の坂戸城から送られて来た尻高源三郎と中山九兵衛を連れて来て加わった。

 その頃、雪に埋もれた越後の戦況は喜平次方の有利に展開していた。廐橋城主の北条丹後守は兵を率いて三郎景虎のいる御館に入り、三郎方の総大将となって活躍した。御館の士気は上がったが、旗持城(柏崎市)を何度も攻めるが落とす事ができず、中越、下越との連絡を断たれたまま食料の確保にも苦しんでいた。

 二月一日、喜平次は各地から集めた大軍をもって御館を攻撃した。城下はすべて灰燼となる程の猛攻で、三郎方の大将となった北条丹後守が重傷を負い、その傷が元で二日後には亡くなってしまった。同時に北条軍が籠もっている樺沢城の攻撃も始まり、二月半ばには樺沢城は落ち、北条軍は敗走した。雪に埋まった三国峠を越え、無事に上野に逃げ戻ったのは半数にも満たない惨めな結果となった。琴音の夫、四郎は家臣たちに守られ、何とか生き延びた。丹後守の父親、安芸入道もひどい凍傷を負いながらも廐橋城にたどり着いた。

 敗軍を迎えた沼田の安房守は怒り狂ったが、雪の越後に攻め込む事はできなかった。雪が解けるまで、何としても三郎に踏ん張ってもらうより仕方がない。城下の僧侶や山伏を集め、三郎の無事と喜平次の調伏(ちょうぶく)の祈祷をするよう命じた。

 尻高城に入った矢沢薩摩守は尻高源次郎と源三郎の兄弟を新しい城主と認め、中山氏の二人の人質を利用して、中山安芸守の降伏を誘っていた。安芸守は上杉に差し出した人質までも武田が手に入れた事に驚き、心は傾いていたが、武田に寝返ると中山城は北条軍のいる倉内城の前面に立つ事になる。北条軍を恐れて、なかなか決まらなかった。三月の半ばになって、ようやく薩摩守の説得にうなづき、降伏した。薩摩守は兵を率いて中山城に入り、北条に対する守りを固めた。

 中山安芸守が武田方に寝返った頃、越後では、ついに御館が落城していた。二月の末、北条(きたじょう)氏の本拠地、北条城(柏崎市)が落城し、三月三日には琵琶島城(柏崎市)から海路送られた食料も敵に奪われ、御館は完全に孤立してしまった。逃げ出す兵も日を追って多くなり、十七日、三郎景虎は不利な状況を打開するため、和議を計ろうと嫡男の道満丸を人質として春日山城に送る決心をした。道満丸は喜平次の甥なので、殺される事はないだろうと前関東管領の上杉立山(憲政)に頼み、春日山城に向かわせた。ところが、春日山城に行く途中、立山と道満丸は敵兵に捕まり、その場で殺されてしまった。喜平次は、間違いだ、兵たちが勝手にやってしまったと言うが、後の揉め事を避けるために喜平次が殺せと命じたに違いなかった。残る道は小田原に帰って、兄を頼るしかないと三郎は御館を捨て、堀江玄審助の守る鮫ケ尾城(新井市)を目指した。無事に鮫ケ尾城に入る事はできたが、すぐに敵兵に囲まれた。堀江玄審助は三郎を見捨てて降伏し、三郎は最後まで付き従っていた小田原からの家臣たちと共に自害して果てた。三月二十四日、上杉謙信の一周忌も過ぎた後の事だった。

 三郎右衛門が三郎景虎の死を知ったのは四月に入ってからだった。一年余りも越後にいた東光坊が水月坊たちを連れて、ようやく帰って来た。

「師匠、お帰りなさい。どうも御苦労様でした」と三郎右衛門は岩櫃城内の屋敷で東光坊たちを迎えた。共に連れて行った若い三人は疲れ切ったような顔をしているのに、東光坊は疲れた様子もなく、逆に生き生きしているようだった。ゆっくり休めと三人を帰した後、三郎右衛門は酒の用意をさせた。
19.沼田攻撃








 北条軍が上野から引き上げた後、真田喜兵衛は着実に勢力を広げて行った。中之条古城、横尾八幡山城、尻高城を攻め取り、中山城、名胡桃城、箱崎城を調略をもって味方に引き入れた。小川城も時間の問題と言える。柏原城も攻め落とし、後は沼田の倉内城、白井城、廐橋城を奪い取れば、東上野へと進出できる事となった。廐橋城は箕輪の内藤修理亮が担当し、倉内城は喜兵衛が担当している。両城が武田方となれば、挟まれた白井城は自然に落ちるだろうと見られた。

 柏原城が落ちた後、白井勢が攻めて来る事もなく、表向きは平穏な日々が流れた。そんな頃、信濃仁科郷(大町市)より武田のお屋形様の弟、仁科五郎(盛信)が草津にやって来た。前もって知らせを受けていたので、三郎右衛門は金太夫の宿屋に部屋の用意をして待ち受けた。

 仁科五郎は十人の供を連れただけの軽装でやって来た。その供の中に二年前、御寮人様を連れて来た落合九郎兵衛がいた。

「その節はえらいお世話になった。後で御寮人様から聞いたんじゃが、そなたはすべてをご存じだったそうじゃのう。二人とも心から喜んでおったわ。ありがとう」

「いえ。お客様に楽しんでいただくのが、わたしどもの勤めでございますから」

「そうか、そうか。今回、我らのお屋形様は高遠に移る事になった。織田徳川に対する前線に行くわけじゃ。これからはのんびりもできまいと思われ、草津に来たんじゃよ。よろしく頼むぞ」

 九郎兵衛は陽気に笑った。前回は御寮人様を守る任務があったので緊張していたが、今回はお屋形様のお供なので、いくらか気が楽なのかもしれなかった。

「どうぞごゆっくりして下さいませ」と三郎右衛門は丁寧に頭を下げ、充分な持て成しができるように九郎兵衛から五郎の好みを聞いた。五郎が酒好きなのは知っていたが、やはり、女の方も好きらしい。三郎右衛門は草津中の遊女屋から美しい女たちを集めて宴に出させるように金太夫に命じた。すでに、金太夫の宿屋には里々たちが仲居として入り、仁科五郎を陰ながら守る手筈となっていた。

 村内を見て歩いた後、滝の湯に入った五郎は美女たちに囲まれて御機嫌で酒を飲んでいた。三郎右衛門も五郎に勧められるまま宴に加わり、五郎の隣に座っていた。

「やはり、いい所だ。お松やお菊の話を聞いて、俺も行きたくなってな、思い切って出て来たんだ。来てよかったよ」

「お松御寮人様は出家されたまま甲府におられるのですか」

「うむ。今は甲府にいるが、俺は高遠に呼ぼうと思っているんだ。出家したとはいえ、甲府にいると何かとうるさいらしい。越後と同盟して、誰かが喜平次のもとに嫁がなくてはならなくなった。お屋形様はお松にも声を掛けたらしい。お松はきっぱりと断り、お菊が行く事になったんだが、お菊にとって、それが幸せなのかどうか、俺にはわからん」

 五郎は遠くを見つめるような目をして首を振った。三郎右衛門は二年前のお菊御寮人様の面影を思い出していた。あの時はまだ十五歳で、あどけない顔をしていた。

「お菊御寮人様がご自分で行くとおっしゃったのですか」と三郎右衛門は聞いた。

 五郎はうなづいた。「あいつも嫁に行く事など諦めていたからな。突然、湧いて来た話に戸惑ったようだが、あいつはお松のように出家するような度胸はない。自分が行くしかないと諦めたんだろうな。喜平次という男、滅多に口も利かず、何を考えているのかわからん男だという。苦労すると思うが、幸せになってくれと願うしかないわ」

 その夜は疲れたと言って、五郎は気に入った遊女を連れて早めに休んでしまった。
20.沼田攻撃








 天正七年(一五七九年)九月十五日、武田四郎(勝頼)は大軍を率いて伊豆に出陣し、黄瀬川を挟んで北条相模守(氏政)の軍と対峙した。お互いに戦うのは初めてだった。北条の先代のお屋形様、万松軒(氏康)が亡くなった後、武田と北条の同盟は結ばれ、以後、七年間、同盟は続いた。天正五年には四郎と相模守の妹の婚礼があり同盟が強化されたにもかかわらず、上杉謙信の突然の死によって同盟関係は破れた。

 四郎は川向こうに展開する北条軍を眺めながらも後方が気になっていた。北条と同盟を結んだ徳川三河守(家康)が動けば挟み撃ちを食らってしまう。目の前の敵に集中して攻撃を仕掛ける事ができなかった。思った通り、三河守は動いた。十七日に掛川に出陣したとの報が入ると四郎は大した攻撃もせずに兵を引き、江尻城主の穴山玄審頭(げんばのかみ)に徳川の動きを警戒させて甲府に帰った。北条軍も追撃する事なく引き上げて行った。

 その頃、岩櫃城にいた真田喜兵衛は北条軍に備えながら着実に沼田攻めの下準備を進めていた。前以て調略のしてあった下川田城、上川田城、名胡桃城は真田軍に包囲されると抵抗する事もなく開城した。下川田城主の山名信濃守、上川田城主の発知(ほっち)図書助、名胡桃城主の鈴木主水正が越後に送った人質は武田の手に移っていた。人質の無事を喜び、三人は武田に忠誠を誓った。ただ、北条にも人質を取られているため、今後の展開次第ではまた寝返る事も考えられる。早いうちに沼田の倉内城を落とさなければならなかった。

 小川城は飽くまでも北条に付くべきだと主張していた南将監(しょうげん)が、小川可遊斎と北能登守に城を追い出され、武田方となった。南将監は利根川を渡り、対岸にある明徳寺城に逃げ込んだ。

 真田軍の大将、矢沢薩摩守は中山城から本陣を名胡桃城に移し、利根川以西の下川田城、上川田城、名胡桃城、小川城に吾妻衆を入れて守りを固め、倉内城を窺っていた。

 作戦成功の知らせが岩櫃に届くと喜兵衛は名胡桃城の対岸にある明徳寺城を攻略するため、自ら兵を率いて名胡桃城に向かおうとした。ところが、廐橋より北条軍が進攻して来たとの報が入った。喜兵衛は名胡桃行きを中止し、前線の柏原城と岩井堂城に警戒するよう命じた。

 五千余りの兵を引き連れた北条安房守(氏邦)は武田に寝返った廐橋城を包囲し、軽く威嚇した後、北上して白井城に入った。

 柏原城を守っていた三郎右衛門たちは守りを固めて、北条軍の動きを見守った。武田に奪われた柏原城を取り戻すため、大軍が攻めて来る事も充分に考えられた。もし、攻めて来たら、決して城を明け渡す事なく、北条軍を足止めさせてやろうと城兵は皆、必死の覚悟を決めた。しかし、北条軍は攻めては来なかった。柏原城など、いつでも落とせると甘く見たのか、沼田へと向かって行った。

 十月二十一日、北条軍の名胡桃城と小川城の攻撃が始まった。名胡桃城と小川城は利根川の西岸の崖上にある城で、一里も離れていない位置にあった。利根川を渡った北条軍は二手に分かれて両城に猛攻を加えた。各地で小競り合いが始まったが、矢沢薩摩守は無理をさせず、籠城戦に持ち込んだ。すでに十月も末、一月、我慢すれば雪が降って来る。雪に弱い北条軍は引き上げるに違いないと見ていた。

 予想より早く、十一月の初めに大雪が降って来た。一晩で二尺余りも積もった雪は両城を囲んでいる北条軍の動きをふさいだ。さらに、やむ気配もなく降り続く雪に兵たちの動揺が広がり、安房守は歯噛みしながらも引き上げ命令を下した。雪解けまで情勢が変わる事はないと判断した安房守は、倉内城を藤田弥六郎、渡辺左近允、金子美濃守に任せ、猪股能登守を撤退させる事とし、利根川の渡河点を堅守するため明徳寺城の守りを強化して引き上げて行った。

 伊豆から甲府に戻って来た武田四郎は喜平次との約束を果たすため、お菊御寮人様の嫁入りの準備を始めた。十月二十日、お菊御寮人様は信松尼となったお松御寮人様に別れを告げ、越後に向けて旅立って行った。小諸城主の武田左馬助が護衛として従った。

 花婿の喜平次は二十五歳、花嫁のお菊御寮人様は十七歳。春日山城下はまだ戦後の復興が間に合わず、荒れ果てていたが、お菊御寮人様は城下挙げての大歓迎を受けた。婚儀も盛大に行なわれ、甲斐の御前様と皆から尊称された。

 甲府に来ていた仁科五郎は妹を見送ると高遠城へと入った。

 高遠城は元々、諏訪一族の城で、武田信玄が諏訪氏を滅ぼした後、秋山伯耆守が伊那郡代として入り、四郎が諏訪氏を継ぐと秋山伯耆守に代わって城主となった。信玄の嫡男、太郎(義信)が自害してしまうと、四郎は甲府に呼ばれ、信玄の弟、逍遙軒が入った。そして、今度、四郎の弟、仁科五郎が城主となり、逍遙軒は下伊那の大島城(松川町)へと移り、織田徳川に対する守りを強化した。
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