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2024 .04.26
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17.上杉三郎景虎








 九月の初め、吾妻を攻めた北条陸奥守(氏照)が廐橋城主の北条丹後守の父親、安芸入道芳林と共に越後に進撃して行った。その頃、越後では形だけの和睦が破れ、各地で戦が再開していた。

 先発していた北条安房守(氏邦)は樺沢城(塩沢町)を攻め落とし、喜平次の本拠地ともいえる坂戸城(六日町)を攻めていた。安房守と共に出陣した北条丹後守は本拠地の北条城(柏崎市)に戻って、兵を引き連れ、三郎景虎を助けるため御館に向かっていた。

 陸奥守は九月の半ばには安房守と合流し、坂戸城に猛攻を加えた。喜平次景勝は信濃飯山城にいた武田左馬助に救援を頼み、武田軍は千曲川沿いに越後に侵入し、坂戸城に向かった。北条軍の包囲をかい潜って坂戸城に入った武田軍は、喜平次の命によって坂戸城を受け取り、北条軍と対峙した。坂戸城には上野の人質たちがいて、それらは皆、武田の手に移った。その中には、真田軍に敵対している尻高氏、中山氏の人質も沼田衆の人質もいた。

 北条軍と武田軍が越後で戦っている頃、吾妻ではじっと我慢の守勢が続いていた。八幡山城、中之条古城を奪い取った後、北条軍は吾妻に攻めては来なかった。三郎右衛門は寄居城を守りながら、沼田で殺された月陰党の者たちの事を考えていた。

 ムツキは月陰砦の一期生で、柏原城攻めの時、キサラギたちと狐火になって活躍してくれた。素顔は滅多に見られなかったが、背がすらっとしていて笑顔の可愛い娘だった。

 ヤヨイ、ウヅキ、雲月坊、残月坊は二期生だった。ヤヨイとウヅキは御寮人様が草津に来られた時、仲居に扮して御寮人様たちを守ってくれた。ヤヨイは色っぽい娘で、踊りもうまかったらしい。ウヅキは雪のような白い肌をした小柄な娘で、琴がうまかったらしい。雲月坊、残月坊は去年、砦を下りた時、一度、会っただけだった。一年間、行願坊と各地を旅をした後、すぐに沼田に行ったらしい。残念ながら、二人の顔を思い出す事ができなかった。湯本家のために死んで行ったというのに、顔も覚えていないなんて自分が情けなかった。

 玉川坊、東蓮坊、円実坊は古くから東光坊の配下として働いていた。玉川坊と円実坊は長篠の合戦の時、向こうの様子を知らせてくれたし、東蓮坊は長篠の合戦の以前から沼田にいて敵の動きを探っていた。

 さらに、白井城下にいた随勝坊、廐橋城下にいた妙心坊も殺されていた。二人とも十年近くも城下に住み込んで、敵の情報を集めていた。

 お頭である東光坊が越後に行っている留守に十人も殺されてしまった。戦だから仕方がないというが、危険を感じながら引き上げさせなかったムツキたちの事はいつまでも悔やまれた。決して、彼らの死を無駄にしてはならないと肝に銘じていた。

 十月の半ば、三郎右衛門は矢沢三十郎、植栗河内守と共に岩櫃城に呼ばれた。すでに、中城にある真田屋敷は完成していた。喜兵衛は主立った武将たちを新しい広間に集め、ニヤニヤしながら一同を見まわした。

「北条軍が越後から戻って来た」と喜兵衛は言った。

「なに、逃げ戻って来たのか」と海野長門守が驚いて聞き返した。

「そうではない。雪に閉じ込められる前に引き上げて来たのだろう」

「成程、北条軍は雪に弱いとみえる」長門守は白い顎髭を撫でながら、うなづいた。

「陸奥守と安房守は兵を率いて、ひとまず沼田の倉内城に入った。この後、どうなるかが問題だ。北条軍が今後も上野に残れば、今の状態が春まで続く事になる。北条軍が引き上げれば、ようやく攻撃に移る事ができる。中之条の古城、横尾の八幡山城は勿論の事、柏原、尻高、中山、そして、沼田と白井を奪い取らなければならない。その覚悟でいてもらいたい」

 皆、顔を引き締め、喜兵衛の話を聞いていた。その中に、まだ十五歳の鎌原孫次郎がいた。父親の筑前守を長篠の合戦で亡くし、十二歳で家督を継いだが、まだ若すぎると祖父の宮内少輔が代わりに出陣していた。しかし、その祖父も八幡山の合戦で戦死してしまった。祖父と亡くなった家臣たちの仇を討たなければならないと孫次郎は唇を噛み締め、力強く、うなづいていた。

 越後に進撃した北条軍は結局、武田左馬助が守る坂戸城を落とす事はできなかった。人質たちを奪い返せと必死に攻めたが、坂戸城の守りは堅かった。やがて、雪がちらつく季節となった。雪の少ない土地で育った兵たちは大雪を恐れ、士気も低下した。北条軍は城攻めを諦め、樺沢城に撤退した。まごまごしていると三国峠が雪で塞がれて帰れなくなってしまう。陸奥守と安房守は弟の四郎と北条安芸入道に五百の兵をつけて残し、必ず、春まで待ちこたえよと命じて引き上げて来た。

 倉内城に入った陸奥守と安房守は兵を休ませた後、共に越後から引き上げて来た河田伯耆守を残して、お屋形様のいる廐橋城へ向かった。倉内城には治部少輔が二千の兵と共に守っていて、焼け落ちた城の普請に精出していた。廐橋城に入った陸奥守と安房守は、お屋形様の相模守(氏政)と軍議を重ね、左衛門佐(氏忠)を沼田に、治部少輔(氏秀)を廐橋に残し、他の者はひとまず、本拠地に帰す事に決めた。
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18.上杉三郎景虎








 尻高城が落城すると北条氏も黙ってはいられなくなり、正月の半ばには上野に出陣して来た。鉢形の北条安房守が一千の兵を引き連れ、沼田の倉内城に入り、河越の大道寺駿河守が五百の兵を率いて廐橋城に入った。

 柏原城には白井からの援軍が加わり、攻め落とす機を逸してしまった。植栗河内守は悔しがったが後の祭りだった。寄居城には矢沢源次郎の兵が加わり、三郎右衛門は左京進に任せて岩櫃城で待機した。

 奪い取った尻高城には海野能登守が嫡男の中務少輔と共に入り、中山城の攻略を始めると共に、沼田にいる北条軍に対する守りを固めた。さらに、矢沢薩摩守が人質として甲府にいた尻高源次郎と中山安芸守の家老の伜、平形五郎、越後の坂戸城から送られて来た尻高源三郎と中山九兵衛を連れて来て加わった。

 その頃、雪に埋もれた越後の戦況は喜平次方の有利に展開していた。廐橋城主の北条丹後守は兵を率いて三郎景虎のいる御館に入り、三郎方の総大将となって活躍した。御館の士気は上がったが、旗持城(柏崎市)を何度も攻めるが落とす事ができず、中越、下越との連絡を断たれたまま食料の確保にも苦しんでいた。

 二月一日、喜平次は各地から集めた大軍をもって御館を攻撃した。城下はすべて灰燼となる程の猛攻で、三郎方の大将となった北条丹後守が重傷を負い、その傷が元で二日後には亡くなってしまった。同時に北条軍が籠もっている樺沢城の攻撃も始まり、二月半ばには樺沢城は落ち、北条軍は敗走した。雪に埋まった三国峠を越え、無事に上野に逃げ戻ったのは半数にも満たない惨めな結果となった。琴音の夫、四郎は家臣たちに守られ、何とか生き延びた。丹後守の父親、安芸入道もひどい凍傷を負いながらも廐橋城にたどり着いた。

 敗軍を迎えた沼田の安房守は怒り狂ったが、雪の越後に攻め込む事はできなかった。雪が解けるまで、何としても三郎に踏ん張ってもらうより仕方がない。城下の僧侶や山伏を集め、三郎の無事と喜平次の調伏(ちょうぶく)の祈祷をするよう命じた。

 尻高城に入った矢沢薩摩守は尻高源次郎と源三郎の兄弟を新しい城主と認め、中山氏の二人の人質を利用して、中山安芸守の降伏を誘っていた。安芸守は上杉に差し出した人質までも武田が手に入れた事に驚き、心は傾いていたが、武田に寝返ると中山城は北条軍のいる倉内城の前面に立つ事になる。北条軍を恐れて、なかなか決まらなかった。三月の半ばになって、ようやく薩摩守の説得にうなづき、降伏した。薩摩守は兵を率いて中山城に入り、北条に対する守りを固めた。

 中山安芸守が武田方に寝返った頃、越後では、ついに御館が落城していた。二月の末、北条(きたじょう)氏の本拠地、北条城(柏崎市)が落城し、三月三日には琵琶島城(柏崎市)から海路送られた食料も敵に奪われ、御館は完全に孤立してしまった。逃げ出す兵も日を追って多くなり、十七日、三郎景虎は不利な状況を打開するため、和議を計ろうと嫡男の道満丸を人質として春日山城に送る決心をした。道満丸は喜平次の甥なので、殺される事はないだろうと前関東管領の上杉立山(憲政)に頼み、春日山城に向かわせた。ところが、春日山城に行く途中、立山と道満丸は敵兵に捕まり、その場で殺されてしまった。喜平次は、間違いだ、兵たちが勝手にやってしまったと言うが、後の揉め事を避けるために喜平次が殺せと命じたに違いなかった。残る道は小田原に帰って、兄を頼るしかないと三郎は御館を捨て、堀江玄審助の守る鮫ケ尾城(新井市)を目指した。無事に鮫ケ尾城に入る事はできたが、すぐに敵兵に囲まれた。堀江玄審助は三郎を見捨てて降伏し、三郎は最後まで付き従っていた小田原からの家臣たちと共に自害して果てた。三月二十四日、上杉謙信の一周忌も過ぎた後の事だった。

 三郎右衛門が三郎景虎の死を知ったのは四月に入ってからだった。一年余りも越後にいた東光坊が水月坊たちを連れて、ようやく帰って来た。

「師匠、お帰りなさい。どうも御苦労様でした」と三郎右衛門は岩櫃城内の屋敷で東光坊たちを迎えた。共に連れて行った若い三人は疲れ切ったような顔をしているのに、東光坊は疲れた様子もなく、逆に生き生きしているようだった。ゆっくり休めと三人を帰した後、三郎右衛門は酒の用意をさせた。
19.沼田攻撃








 北条軍が上野から引き上げた後、真田喜兵衛は着実に勢力を広げて行った。中之条古城、横尾八幡山城、尻高城を攻め取り、中山城、名胡桃城、箱崎城を調略をもって味方に引き入れた。小川城も時間の問題と言える。柏原城も攻め落とし、後は沼田の倉内城、白井城、廐橋城を奪い取れば、東上野へと進出できる事となった。廐橋城は箕輪の内藤修理亮が担当し、倉内城は喜兵衛が担当している。両城が武田方となれば、挟まれた白井城は自然に落ちるだろうと見られた。

 柏原城が落ちた後、白井勢が攻めて来る事もなく、表向きは平穏な日々が流れた。そんな頃、信濃仁科郷(大町市)より武田のお屋形様の弟、仁科五郎(盛信)が草津にやって来た。前もって知らせを受けていたので、三郎右衛門は金太夫の宿屋に部屋の用意をして待ち受けた。

 仁科五郎は十人の供を連れただけの軽装でやって来た。その供の中に二年前、御寮人様を連れて来た落合九郎兵衛がいた。

「その節はえらいお世話になった。後で御寮人様から聞いたんじゃが、そなたはすべてをご存じだったそうじゃのう。二人とも心から喜んでおったわ。ありがとう」

「いえ。お客様に楽しんでいただくのが、わたしどもの勤めでございますから」

「そうか、そうか。今回、我らのお屋形様は高遠に移る事になった。織田徳川に対する前線に行くわけじゃ。これからはのんびりもできまいと思われ、草津に来たんじゃよ。よろしく頼むぞ」

 九郎兵衛は陽気に笑った。前回は御寮人様を守る任務があったので緊張していたが、今回はお屋形様のお供なので、いくらか気が楽なのかもしれなかった。

「どうぞごゆっくりして下さいませ」と三郎右衛門は丁寧に頭を下げ、充分な持て成しができるように九郎兵衛から五郎の好みを聞いた。五郎が酒好きなのは知っていたが、やはり、女の方も好きらしい。三郎右衛門は草津中の遊女屋から美しい女たちを集めて宴に出させるように金太夫に命じた。すでに、金太夫の宿屋には里々たちが仲居として入り、仁科五郎を陰ながら守る手筈となっていた。

 村内を見て歩いた後、滝の湯に入った五郎は美女たちに囲まれて御機嫌で酒を飲んでいた。三郎右衛門も五郎に勧められるまま宴に加わり、五郎の隣に座っていた。

「やはり、いい所だ。お松やお菊の話を聞いて、俺も行きたくなってな、思い切って出て来たんだ。来てよかったよ」

「お松御寮人様は出家されたまま甲府におられるのですか」

「うむ。今は甲府にいるが、俺は高遠に呼ぼうと思っているんだ。出家したとはいえ、甲府にいると何かとうるさいらしい。越後と同盟して、誰かが喜平次のもとに嫁がなくてはならなくなった。お屋形様はお松にも声を掛けたらしい。お松はきっぱりと断り、お菊が行く事になったんだが、お菊にとって、それが幸せなのかどうか、俺にはわからん」

 五郎は遠くを見つめるような目をして首を振った。三郎右衛門は二年前のお菊御寮人様の面影を思い出していた。あの時はまだ十五歳で、あどけない顔をしていた。

「お菊御寮人様がご自分で行くとおっしゃったのですか」と三郎右衛門は聞いた。

 五郎はうなづいた。「あいつも嫁に行く事など諦めていたからな。突然、湧いて来た話に戸惑ったようだが、あいつはお松のように出家するような度胸はない。自分が行くしかないと諦めたんだろうな。喜平次という男、滅多に口も利かず、何を考えているのかわからん男だという。苦労すると思うが、幸せになってくれと願うしかないわ」

 その夜は疲れたと言って、五郎は気に入った遊女を連れて早めに休んでしまった。
20.沼田攻撃








 天正七年(一五七九年)九月十五日、武田四郎(勝頼)は大軍を率いて伊豆に出陣し、黄瀬川を挟んで北条相模守(氏政)の軍と対峙した。お互いに戦うのは初めてだった。北条の先代のお屋形様、万松軒(氏康)が亡くなった後、武田と北条の同盟は結ばれ、以後、七年間、同盟は続いた。天正五年には四郎と相模守の妹の婚礼があり同盟が強化されたにもかかわらず、上杉謙信の突然の死によって同盟関係は破れた。

 四郎は川向こうに展開する北条軍を眺めながらも後方が気になっていた。北条と同盟を結んだ徳川三河守(家康)が動けば挟み撃ちを食らってしまう。目の前の敵に集中して攻撃を仕掛ける事ができなかった。思った通り、三河守は動いた。十七日に掛川に出陣したとの報が入ると四郎は大した攻撃もせずに兵を引き、江尻城主の穴山玄審頭(げんばのかみ)に徳川の動きを警戒させて甲府に帰った。北条軍も追撃する事なく引き上げて行った。

 その頃、岩櫃城にいた真田喜兵衛は北条軍に備えながら着実に沼田攻めの下準備を進めていた。前以て調略のしてあった下川田城、上川田城、名胡桃城は真田軍に包囲されると抵抗する事もなく開城した。下川田城主の山名信濃守、上川田城主の発知(ほっち)図書助、名胡桃城主の鈴木主水正が越後に送った人質は武田の手に移っていた。人質の無事を喜び、三人は武田に忠誠を誓った。ただ、北条にも人質を取られているため、今後の展開次第ではまた寝返る事も考えられる。早いうちに沼田の倉内城を落とさなければならなかった。

 小川城は飽くまでも北条に付くべきだと主張していた南将監(しょうげん)が、小川可遊斎と北能登守に城を追い出され、武田方となった。南将監は利根川を渡り、対岸にある明徳寺城に逃げ込んだ。

 真田軍の大将、矢沢薩摩守は中山城から本陣を名胡桃城に移し、利根川以西の下川田城、上川田城、名胡桃城、小川城に吾妻衆を入れて守りを固め、倉内城を窺っていた。

 作戦成功の知らせが岩櫃に届くと喜兵衛は名胡桃城の対岸にある明徳寺城を攻略するため、自ら兵を率いて名胡桃城に向かおうとした。ところが、廐橋より北条軍が進攻して来たとの報が入った。喜兵衛は名胡桃行きを中止し、前線の柏原城と岩井堂城に警戒するよう命じた。

 五千余りの兵を引き連れた北条安房守(氏邦)は武田に寝返った廐橋城を包囲し、軽く威嚇した後、北上して白井城に入った。

 柏原城を守っていた三郎右衛門たちは守りを固めて、北条軍の動きを見守った。武田に奪われた柏原城を取り戻すため、大軍が攻めて来る事も充分に考えられた。もし、攻めて来たら、決して城を明け渡す事なく、北条軍を足止めさせてやろうと城兵は皆、必死の覚悟を決めた。しかし、北条軍は攻めては来なかった。柏原城など、いつでも落とせると甘く見たのか、沼田へと向かって行った。

 十月二十一日、北条軍の名胡桃城と小川城の攻撃が始まった。名胡桃城と小川城は利根川の西岸の崖上にある城で、一里も離れていない位置にあった。利根川を渡った北条軍は二手に分かれて両城に猛攻を加えた。各地で小競り合いが始まったが、矢沢薩摩守は無理をさせず、籠城戦に持ち込んだ。すでに十月も末、一月、我慢すれば雪が降って来る。雪に弱い北条軍は引き上げるに違いないと見ていた。

 予想より早く、十一月の初めに大雪が降って来た。一晩で二尺余りも積もった雪は両城を囲んでいる北条軍の動きをふさいだ。さらに、やむ気配もなく降り続く雪に兵たちの動揺が広がり、安房守は歯噛みしながらも引き上げ命令を下した。雪解けまで情勢が変わる事はないと判断した安房守は、倉内城を藤田弥六郎、渡辺左近允、金子美濃守に任せ、猪股能登守を撤退させる事とし、利根川の渡河点を堅守するため明徳寺城の守りを強化して引き上げて行った。

 伊豆から甲府に戻って来た武田四郎は喜平次との約束を果たすため、お菊御寮人様の嫁入りの準備を始めた。十月二十日、お菊御寮人様は信松尼となったお松御寮人様に別れを告げ、越後に向けて旅立って行った。小諸城主の武田左馬助が護衛として従った。

 花婿の喜平次は二十五歳、花嫁のお菊御寮人様は十七歳。春日山城下はまだ戦後の復興が間に合わず、荒れ果てていたが、お菊御寮人様は城下挙げての大歓迎を受けた。婚儀も盛大に行なわれ、甲斐の御前様と皆から尊称された。

 甲府に来ていた仁科五郎は妹を見送ると高遠城へと入った。

 高遠城は元々、諏訪一族の城で、武田信玄が諏訪氏を滅ぼした後、秋山伯耆守が伊那郡代として入り、四郎が諏訪氏を継ぐと秋山伯耆守に代わって城主となった。信玄の嫡男、太郎(義信)が自害してしまうと、四郎は甲府に呼ばれ、信玄の弟、逍遙軒が入った。そして、今度、四郎の弟、仁科五郎が城主となり、逍遙軒は下伊那の大島城(松川町)へと移り、織田徳川に対する守りを強化した。
21.次男誕生








 沼田攻めから帰った三郎右衛門は草津に上った。お松の怒った顔がちらつき、馬の足取りも重かった。もうこれ以上、延ばすわけにはいかない。まもなく、生まれそうだった。

 三郎右衛門はお屋形の自室に入るとお松を呼んだ。

「お帰りなさいませ。ご無事で何よりでございました。まずは温泉に入ってのんびりなさいませ」お松は嬉しそうな顔をして三郎右衛門に挨拶をした。

 嫁いで来てから五年が経ち、まだ二十一歳なのに、すっかり奥方としての貫禄がついていた。いつもニコニコしていて怒る事など滅多にないが、今日は覚悟をしなければならなかった。

「話があるんだ」と三郎右衛門はお松から視線をはずして言った。

「何でございます」とお松は首を傾げ、大きな目で三郎右衛門を見つめた。

「実はな‥‥‥」と言ったきり、その先の言葉が出て来なかった。

「どうしたのでございます。もしや、どなたか戦死なされたのですか」

「いや、そうではない。実は‥‥‥すまん。許してくれ」三郎右衛門は両手をついて謝った。

「だめです。許しません」とお松は言った。

 顔を上げるとお松は恐ろしい顔をしていた。

「お前、知っているのか」

「知らないと思っていたのですか」

「どうして知っているんだ」

「草津中の噂になっております。知らないのはお屋形様だけでございましょう」

「なに、噂になっている?」

「お屋形様が東光坊様の娘さんといい仲になって子供ができたという噂です」

「誰が一体、そんな噂を‥‥‥」

「誰が流したかが問題ではございません。お屋形様はわたしにお約束なさいました。決して浮気はしないと‥‥‥」

 膨れっ面をしながらも、お松の目には涙が溜まっていた。

「すまん。つい‥‥‥」

「つい、手を出してしまわれたのですか」と涙声で言ってから、お松は堪え切れずに顔をそむけて涙を拭いた。

 声を殺して泣いているお松を見ながら、悪い事をしてしまったと三郎右衛門は心の底から詫びていた。ようやく泣きやむと、恨めしそうな顔をして三郎右衛門を横目で見て、

「お美しいお方でございますからね、お久さんは」と言った。

「お久?」三郎右衛門は怪訝な顔をしてお松を見つめた。

「ごまかしてもだめです」とお松は三郎右衛門をじっと睨んでいた。弱気なお松は消えて、再び、強気なお松に戻っていた。

「噂を聞いて、わたしはすぐに会いに参りました。ほんと、びっくりしましたよ。あんなに大きなおなかになって。あの人、金太夫様の仲居をしていたお方ではありませんか。東光坊様の娘さんだなんて、ちっとも知りませんでした。東光坊様も知らんぷりしているなんて、まったくひどい事です」

「いや、東光坊を責めるな。東光坊も子供の父親の事は知らなかったんだ」

「まあ、父親にも内緒だったのですか」

「この前、言ったら、こっぴどく怒られた。薩摩守殿に合わす顔がないと言ってな」

「ほんとですよ。お祖父様に合わす顔がないのはわたしの方です」

「すまん。薩摩守殿にも本当の事を話して許してもらうつもりじゃ。もう二度と浮気はせん。許してくれ」

「許すも許さないも、もうすぐ子供は生まれます。子供には何の罪はございません」

「すまん」

「子供が生まれる前にお久さんをここに移して下さい」

「なに、ここに入れるのか」

「お屋形様のお子が他所で生まれたら可哀想ではありませんか。村の者たちは皆、知っております。ここに迎えなければ、わたしが悪者になってしまいます。辛いけれど覚悟を決めました」

「すまん」三郎右衛門はもう一度、深く頭を下げた。
22.新城築城








 武田軍が上野から去って行くと北条軍が攻めて来て、武田に奪われた城を一つ一つ取り戻して行った。大胡城だけは廐橋勢によって守られ、無事だったが、女淵城、膳城、山上城、今村城、茂呂城、江田城、反町城は奪われた。白井勢も北条軍に呼応して、内藤勢に奪われた八崎城、真田勢に奪われた不動山城を奪い返した。北条軍が沼田まで攻めて来る事はなかったが、以前の状況に戻ってしまった。

 天正九年(一五八一年)正月、武田四郎は近いうちに攻めて来るであろう織田信長に備え、本拠地となるべく新たな城を築く決心をして、真田安房守を普請(ふしん)奉行に任命した。新城の位置は甲府の北西五里程にある片山(韮崎)七里岩の上と決められた。そこは四郎の義兄、穴山玄審頭の領地で、新城築城を勧めたのも玄審頭だった。

 江尻城主として駿河の国を守っている玄審頭は去年の十一月、入道となり梅雪斎不白と号していた。東の北条、西の徳川、織田を追い払って駿河の国を守り抜くために、決心を新たにし、信玄にならって入道したという。

 新しい城の事を調べるために甲府に行った東光坊から、その事を聞いて三郎右衛門は首をひねった。

「穴山殿はどうして今頃、城を築く事をお屋形様に勧めたのだろう」

「勿論、織田の大軍に備えてじゃ」

「お屋形様は織田軍が攻めて来たら籠城するつもりなのか」

「それも一手じゃ。信長といえども五万もの大軍を率いての長期戦は難しい。信長が甲斐に釘付けになっている間に、西の毛利、北の上杉が動き出す。そうすれば、信長も引き上げるしかあるまい。北条の小田原城が上杉、武田の大軍に囲まれてもビクともしなかったようにな」

「成程。安房守殿は織田の大軍に囲まれても絶対に落ちない城を築いているわけか」

「そういう事じゃ。ただな、それ程の城を築くとなると莫大な費用が掛かる。遠征続きで財政が困難になっている今、不満が募っているのは確かじゃ。下手をすると武田家を救うための城が裏目に出てしまう事もある」

 三郎右衛門は小田原城を思い出していた。新しく築く城がどれ程の規模なのかわからないが、難攻不落の城を築くとなれば、想像を絶する費用と大量の資材や相当数の人足が必要になる。確かに、下手をしたら領民たちの不満を買う事になるかもしれなかった。

「もし、城を築かなかったらどうなる」と三郎右衛門は聞いてみた。

「織田の大軍を迎え撃つしかあるまい。敵が領内に入って来る前に、野戦を仕掛けて勝つしかない。しかし、信長は野戦を嫌って、長篠の時のように守りを固めるじゃろう。あの時の二の舞いを演じたら、武田はもう終わりじゃ」

 京都から戻って来た行願坊は五万の兵力で信長は攻めて来るだろうと行っていた。それだけの兵力と数千の鉄砲があれば、たとえ野戦に持ち込めたとしても、武田軍が勝てるとは思えなかった。やはり、新しい城は必要なのかもしれない。

 正月の末、吾妻衆にも築城のための動員令が来た。家十軒に対して人足一人、三十日間の徴用というもので、人足の糧米も負担して、二月十五日までに甲府に行かなければならなかった。今回、徴用されたのは西吾妻の湯本、西窪、鎌原の三氏だった。

 冬住みの時期でよかったと三郎右衛門は家老の湯本伝左衛門に人足を集めさせた。そのまま、伝左衛門に甲府まで連れて行って貰うつもりだったが、真田安房守より知らせがあり、冬住みの間、普請を手伝ってくれという。

 三郎右衛門だけでなく、西窪治部少輔、鎌原孫次郎も呼ばれ、三人は人足を率いて、雪の鳥居峠を越え、甲府へと向かった。
23.新城築城








 梅雨が明けると、越後の国からも湯治客がやって来た。去年、一昨年と北条領の武蔵の国からの客が来なくなり、小さな宿屋ではお得意様が減ったと嘆いていた。同盟した上杉領から新しい客を連れて来なければならないと白根明神の山伏たちが越後に向かったが、三郎景虎の死後も越後では内乱が続き、治安が悪く、湯治どころではなかった。ようやく、去年の秋、喜平次景勝は越後国内を平定し、久し振りに平和が訪れた。

 武田信玄が上野に攻めて来るまでは、草津と越後の交流は盛んに行なわれていた。三郎右衛門が物心つく以前の事で、湯治客は勿論、塩や海産物、米も越後から入って来ていた。上杉謙信の父親、長尾弾正少弼(為景)も大勢の家臣を引き連れて草津に来たという。草津が武田領となり、上杉謙信と敵対関係になると毎年、来ていた客も草津には来られなくなった。二十年振りにやって来たという者もかなりいて、懐かしそうに滝の湯を浴びていた。

 湯治客で賑わっている七月の半ば、真田安房守が突然、草津にやって来た。新城の築城が順調に行っているので、骨休みだと言って温泉に浸かった。その夜、三郎右衛門は安房守と二人だけで酒を飲み、海野兄弟は異状なしと告げた。

「そうか」と安房守は顔色を変えずにうなづいた。

 三郎右衛門を見つめ、何か言いたそうな顔をしたが何も言わなかった。三郎右衛門も安房守の本心を聞きたかったが、答えを知るのが恐ろしく、聞く事はできなかった。安房守は新城の事ばかりを三郎右衛門に話して聞かせ、今に自分の城を築いてみたいと言っていた。草津に一泊した安房守は沼田に向かい、沼田衆の案内で子持山の参詣をしてから七里岩の普請現場に帰った。

 九月の半ばにも、疲れたと言って安房守は草津に来た。三郎右衛門は海野兄弟に怪しい素振りはないと告げた。

「そうか」と安房守は落ち着いた表情でうなづいた。

「北条に寝返った彦次郎からも何の知らせもないようです。能登守殿も中務少輔殿も彦次郎の消息をまったく知りません」

「わしの取り越し苦労じゃったか」と言って、安房守は苦笑した。気のせいか、何となく不気味な笑いに思えた。

 安房守は草津から岩櫃城へと行き、吾妻衆を集めて、城下にある善導寺に参詣した。三郎右衛門も岩櫃まで行き、参詣に従った。それはただの参詣ではなかった。岩櫃城から善導寺までの道は厳重に警固され、善導寺も武装した兵で囲まれた。三郎右衛門を初めとした吾妻衆の主立った武将たちは正装して安房守に従い、善導寺本堂での法会の後、客間での酒宴に相伴した。

 驚きのあまり、どうして安房守がこんな事をするのか三郎右衛門にはわからなかった。安房守は普段から仰々しい事が好きではなかったはずだった。草津に来ても幕を張って湯小屋を占領する事はなく、気楽に湯治客と共に入っていた。新城普請の忙しい中、わざわざ戻って来て、どうして、こんな大袈裟な参詣をするのだろうか。

 安房守が帰ってから、その答えがようやくわかった。まさしく、東光坊の言った通りだった。安房守はすでに真田領国を見据えていた。今日の安房守の姿は吾妻郡の領主に成り切っていた。子持山の参詣もきっと利根郡の領主に成り切っていたに違いない。海野兄弟の成敗も現実のものとなるような気がして、背筋が寒くなるのを感じた。
24.裏切り








 例年に比べて雪が多く、岩櫃城もすっぽりと雪で覆われていた。岩櫃城代となった三郎右衛門は長野原の事は雅楽助に任せ、岩櫃城にいる事が多くなり、月陰党の者たちも岩櫃城下に『万屋(よろずや)』を出して移って来ていた。

 白根山中に月陰砦を作ってから七年が経ち、修行を積んだ若い者たちは三十人にもなっていた。東光坊の留守に、北条の風摩党にやられて五人が亡くなってしまったが、その後は、東光坊の的確な指示のお陰で誰も亡くなってはいない。

 一期生の水月坊は仁科五郎の側室になった四期生のハヅキを守るため、三期生の光月坊を連れて高遠城にいて、向こうの様子を知らせていた。子供を産むために仁科郷にいた五郎の奥方様は無事に女の子を産み、子供と共に高遠城に移っていた。信松尼(しんしょうに)となったお松御寮人様も城内に新しい屋敷を建てて貰って住んでいる。三郎右衛門の養女となったハヅキは五郎に可愛がられ、奥方様ともうまくやっているという。

 水月坊と同じく一期生の山月坊は白井城下、新月坊は鉢形城下にいて、それぞれ敵情を探っていた。他の者たちは、草津、長野原城下、岩櫃城下にある『万屋』にいる事が多く、必要に応じて各地に飛んでいた。

 三郎右衛門の次男を産んだ里々は砦に戻って、キサラギ、ミナヅキと共に師範をしているが、時々は我が子を見るために山を下りていた。身を引いた里々のためにも立派な武将に育てなければならないとお松は久三郎を我が子だと思って育てている。すでに、お松は里々の素性を知っていた。子供を産んだ時、色々といたわってくれたお松に対し、嘘をつき通す事ができず、里々は三郎右衛門に断って素性を明かした。里々が三郎右衛門と噂のあった遊女だと聞いてお松は驚いたが、それ以上に、忍びとして若い者を鍛えていると聞いて信じられないという顔をした。お松は里々の気持ちを理解し、湯本家のために働いてくれと里々の事を許した。三郎右衛門と里々の関係はその後も続いていて、里々は二度と妊娠しないように充分に気をつけていた。

 今年ももうすぐ終わるという師走(しわす)の暮れ、徳川の本拠地、浜松城下にいた正顕坊(しょうけんぼう)が岩櫃城にやって来た。正顕坊は月陰砦の修行者ではなく、古くからの東光坊の配下だった。東光坊の真似をして医者に扮して浜松に住み着いてから二年余りが過ぎていた。

「こちらはすごい雪ですな。浜松は暖かくて住みやすい所ですぞ」と正顕坊はすっかり医者という態度で穏やかに笑った。

「徳川が動いたのか」と三郎右衛門が聞くと、正顕坊は神妙な顔をしてうなづいた。

「大量の兵糧を集めて諏訪原城(金谷町)に入れております」

「諏訪原城というのは駿河と遠江の国境近くにある城だったな」

「はい、大井川の側にございます」

「徳川が駿河に攻め込むというのだな」

 正顕坊は首を振った。「徳川だけではないでしょう。あれだけの兵糧を集めるというのは織田の大軍が来るものと思われます」

「すると織田と徳川の連合軍が駿河、いや、甲斐に攻め込むというのか」

「近いうちに行なわれるものかと」

「うーむ。いよいよ、織田が動くか」

 三郎右衛門は腕組みをして考えた後、顔を上げた。

「直ちに浜松に戻って、敵の動きを正確に知らせてくれ。東光坊と相談して若い者を何人か連れて行くがいい」

「はっ、かしこまりました」

 正顕坊が引き下がると、三郎右衛門は絵地図を広げて眺めた。諏訪原城に兵糧を入れたという事は織田信長は駿河を攻め、北上して甲斐に攻め込むに違いなかった。駿河を守っているのは江尻城にいる穴山梅雪だった。梅雪が織田徳川の連合軍を相手に持ちこたえる事ができるか不安だった。もし、梅雪が戦う事なく籠城してしまえば、敵は難無く甲斐の国に入ってしまう。
25.裏切り








 三月三日、新府城から岩殿城を目指した武田四郎の一行は、無残にも荒れ果てた古府中に着くと、まだ無事に残っていた一条右衛門大夫の屋敷で休憩してから東へと向かった。その夜は、信玄の従妹(いとこ)、理慶尼のいる柏尾の大善寺に泊まった。翌日、笹子峠の登り口、駒飼(こまがい)に着いた時、小山田左兵衛はお屋形様を迎える準備を整えなければならないと先に岩殿城へ帰って行った。

 いつまで経っても迎えは来なかった。九日の夜に左兵衛の家臣が来たと思ったら、人質として残っていた母親を強引に奪い去って行った。土壇場(どたんば)になって信頼していた左兵衛に裏切られた四郎は死を覚悟して天目(てんもく)山を目指した。天目山は武田家の先祖、武田安芸守(あきのかみ)信満が戦死した場所で、幼い頃、父の信玄に連れられて来た事があった。先祖と同じ地で死ぬのも何かの因縁だろうと四郎は死に場所に選んだ。しかし、織田軍の追っ手は早く、天目山にたどり着く事なく、十一日の昼前、田野(たの)で休んでいた所を四方から攻撃を受け、全員が討ち死にを遂げた。

 武田四郎勝頼は三十七歳で無念の生涯を閉じた。北条家から嫁いだ奥方様は実家に帰る事を拒み、十九歳の若さで散って行った。跡継ぎの太郎信勝は十六歳で見事に切腹して果てた。去年、生まれた次男は大善寺に行く途中、具合が悪くなり、春日居の渡し場近くに住む渡辺嘉兵衛に預けられた。嘉兵衛は四郎の遺児を匿(かくま)い通して育てたが、翌年の三月、看護の甲斐もなく病死してしまった。

 日を追って逃亡者が相次ぎ、最後まで、お屋形様に従って亡くなった者は七十人足らずしかいなかった。その中には一昨年、お屋形様と一緒に草津に来た土屋惣蔵、跡部尾張守、小宮山内膳と去年、一条右衛門大夫と共に来た秋山紀伊守と小原丹後守もいたという。草津の遊女、初花(はつはな)を迎えに来ると言った土屋惣蔵は、あの後、何度か手紙をよこし、初花は本気で惣蔵が迎えに来るのを楽しみに待っていた。

 岩櫃城にいた三郎右衛門が武田のお屋形様の死を知ったのは二日後の十三日の夕暮れだった。お屋形様の後を追っていた多門坊と静月坊が戻って来て、詳しい状況を知らせてくれた。

 お屋形様の終焉(しゅうえん)の地となった田野の周辺は織田の追っ手だけでなく、落ち武者狩りに加わった地元住民たちも押し寄せていた。皆、殺気立ち、現場に近づく事は容易ではなく、二人は落ち武者狩りの者たちに混じって近くまで行った。すでに織田勢によって現場は封鎖され、侵入する事はできなかった。合戦は正午には終わり、夕方には織田軍も撤退した。数十人の者たちが現場に残っていたが、警戒は厳重とは言えなかった。二人は忍び込んで側まで行ってみた。言葉では表現できない程、無残な光景がそこにあった。首のない武将たちの死骸があるのは、どこの戦場でも目にする光景だったが、二十人余りもの身分ある女たちの死骸が血だらけになって転がっているのは目を覆いたくなるほど悲惨な光景だったという。

 二人と一緒に甲府に行った東月坊は、人質として新府の城下で暮らしていた真田安房守の家族たちを守りながら先に帰っていた。安房守の奥方、長男の源三郎、次男の源次郎、三人の娘、それに、安房守の兄、源太左衛門の娘と兵部丞の息子、弟の加津野市右衛門の家族、矢沢三十郎の娘たちも一緒で、総勢百人余りが危険な目に会いながらも無事に帰って来た。源三郎と源次郎に仕えていた三郎右衛門の弟、小四郎も無事だった。何度も盗賊と化したならず者たちに襲われそうになり、まるで、落ち武者になったような気分だったという。佐久から浅間越えをして来た一行は鎌原城で休んだ後、鳥居峠を越えて真田へと帰って行った。

 正月末の木曽伊予守の裏切りから始まって、木曽での敗戦、伊那衆の逃亡、穴山梅雪の裏切り、高遠城の落城、そして、土壇場での小山田左兵衛の裏切りと続き、わずか一月半で、武田家が滅び去ってしまうとは、想像すらできない事だった。甲斐、駿河、信濃、西上野の領主として君臨していた武田家が消えてしまったなんて、悪い夢でも見ているようだった。

 先月の末、箕輪城を奪い取った北条安房守は吾妻に攻め込もうと隙を窺っていたが、武田家が壊滅状態に陥った事を知ると信濃を侵略しようと西へと向かった。松井田城を落とし、碓氷(うすい)峠を越えて佐久に攻め込もうとしていた。岩櫃城を守っていた三郎右衛門たちがホッと胸を撫で下ろした時、武田家の滅亡の知らせが届いたのだった。

 多門坊と静月坊が引き下がった後、三郎右衛門は縁側に座り込んだまま、呆然としていた。早く、皆に知らせなければならないと思いながらも、亡くなってしまったお屋形様や奥方様の面影を偲(しの)んでいた。そこに東光坊が、のそっと現れた。

主要登場人物

 

 


ゆもとぜんだゆうゆきまさ
湯本善太夫幸政  (1531-) 草津の領主で長野原城主。 

ゆもとさぶろうえもんゆきつな
湯本三郎右衛門幸綱  (1554-) 善太夫の甥で跡継ぎとなる。 

ゆもとさきょうのしん
湯本左京進  (1545-) 三郎右衛門の従兄。 

ゆもとうたのすけ
湯本雅楽助  (1550-) 左京進の弟。 

とうこうぼう
東光坊  (1539-) 信濃飯縄山の山伏。三郎右衛門の師匠。
 
りり
里々  (1556-) 草津の遊女。 

ほうじょうばんしょうけん
北条万松軒  (1515-) 小田原の北条家のお屋形様。 

ほうじょうさがみのかみうじまさ
北条相模守氏政  (1538-) 万松軒の嫡男。 

ほうじょうげんあん
北条幻庵  (1493-) 万松軒の叔父。北条家の長老。 

ほうじょうどうかん
北条道感  (1515-) 万松軒の義弟。北条綱成。 

   
ナツメ  (1533-) 小野屋の女将。 

 みお
お澪  (1558-) ナツメの姪。 

ことね
琴音  (1558-) 幻庵の娘。 

かみいずみいせのかみひでつな
上泉伊勢守秀綱  (1508-) 新陰流を編み出した武将。 

たけだしんげん
武田信玄  (1521-) 甲斐武田家のお屋形様。 

たけだしろうかつより
武田四郎勝頼  (1546-) 信玄の四男で信玄の死後、お屋形様となる。 

にしなごろうもりのぶ
仁科五郎盛信  (1557-) 信玄の五男。信濃仁科家を継ぐ。 

   ごりょうにん
お松御寮人  (1562-) 信玄の五女。織田信長の嫡男、勘九郎と婚約。 

   
お菊御寮人  (1563-) 信玄の六女。 

さなだいっとくさい
真田一徳斎  (1513-) 信濃真田家のお屋形様。 

さなだげんたざえもんのぶつな
真田源太左衛門信綱  (1537-) 一徳斎の長男。 

むとうきへえまさゆき
武藤喜兵衛昌幸  (1547-) 一徳斎の三男。甲斐武藤家を継ぐ。 

やざわさつまのかみよりつな
矢沢薩摩守頼綱  (1518-) 一徳斎の弟。 

やざわさんじゅうろうよりやす
矢沢三十郎頼康  (1540-) 薩摩守の長男。 

   
お松  (1560-) 三十郎の長女。 

うんのながとのかみゆきみつ
海野長門守幸光  (1507-) 岩櫃城代。 

うんののとのかみてるゆき
海野能登守輝幸  (1510-) 長門守の弟。岩櫃城代。 

うんのなかつかさしょうゆうゆきさだ
海野中務少輔幸貞  (1544-) 能登守の長男。妻は矢沢薩摩守の娘。 

さいくぼじぶしょうゆうしげむね
西窪治部少輔重宗  (1556-) 西窪城主。 

うえすぎけんしん
上杉謙信  (1530-) 越後上杉家のお屋形様。関東管領。 

うえすぎさぶろうかげとら
上杉三郎景虎  (1552-) 北条万松軒の息子で謙信の養子となる。 

うえすぎきへいじかげかつ
上杉喜平次景勝  (1555-) 謙信の甥で謙信の養子になる。 

おだだんじょうちゅうのぶなが
織田弾正忠信長  (1534-) 美濃岐阜城主。 

とくがわみかわのかみいえやす
徳川三河守家康  (1542-) 三河岡崎城主。

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