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2017 .04.26
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21.信玄西上




 北条と上杉が同盟を結んでからというもの、上野の国は戦が絶えなかった。

 以前の敵、上杉輝虎は山を越えて来なければならず、一年中、関東にいる事はなかったが、今度の敵、北条氏はすぐそばにいた。武蔵鉢形(はちがた)城の北条新太郎氏邦(うじくに)が中心になって、ちょくちょく上野に進攻して来ては火を放ったり、稲を刈り取ったりして悩ませた。ただ、小競り合いばかりで大きな戦が起こらなかったのが救いと言えた。

 輝虎は越中の本願寺一揆と戦うのが忙しかったし、信玄は駿河進攻に本腰を入れていたため、北条軍との主戦場となったのは東海方面だった。

 元亀(げんき)元年(1570年)八月、上杉輝虎は徳川家康と同盟した。

 輝虎としては、信玄に邪魔されずに越中の攻略に専念したかった。家康としては、織田信長と同盟を結んでいるため領地を広げるには東に進むしかなかった。信玄と同盟を結んだままでは東へは進めない。信玄は今、北条と戦っている。その隙に、遠江(とおとうみ)の国すべてを平定しようとたくらんでいた。

 家康が裏切った事を知った信玄は翌年の正月、遠江に進攻して、さらに家康の本拠地、三河までも攻めた。しかし、五月に信玄は急に病に襲われて帰国した。

 信玄が三河に進攻した時、善太夫らは内藤修理亮(しゅりのすけ)と共に、北条領の武蔵の国まで進出して北条方の城を攻めていた。

 その年の十月に北条万松軒(氏康)が病のため亡くなった。五十七歳だった。跡を継いだのは三十四歳の氏政だった。

 氏政は父親の死後、上杉氏と断って、再び、武田氏と手を結んだ。

 輝虎は越中方面にばかり行っていて、万松軒が頼んでも信玄の領地に進撃して来なかった。信玄が駿河に進攻して来るたびに、信濃を攻めてくれと頼んでいたのに、一度も攻めては来なかった。輝虎と軍事同盟を結んでいても何の得にもならないと見切りをつけた万松軒は死ぬ前に、再び、信玄と同盟しろと言ったという。

 運の悪い事に武田と北条が同盟した時、輝虎は上野の国にいた。越中の事が一段落したので、北条との約束を守って、春になるまで西上野を攻めようとしていたのだった。

 この時、輝虎は不識庵謙信(ふしきあんけんしん)と号していた。

 謙信は利根川を越えて、武田方の石倉城、蒼海(おうみ)城(元総社町)を攻撃したが、箕輪城まで攻める事なく廐橋城に帰って行った。

 廐橋にて、機嫌よく新年を迎えていた謙信のもとに、北条と武田が再び同盟を結んだとの報が届いたのだった。北条氏のために兵を休める事なく、わざわざ、上野に出陣して来た謙信は顔を真っ赤にして怒り、やけ酒をあおった。
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22.五月雨




 静かな正月だった。

 一徳斎は何事もなかったかのように、箕輪城にて新年を迎えていた。善太夫を初めとして吾妻郡の武士たちは皆、ほっとして、笑顔で、一徳斎に新年の挨拶を述べた。

 去年、京都では大事件が起こり、年号が元亀(げんき)から天正(てんしょう)に変わっていた。

 織田信長が将軍足利義昭を京から追放して、事実上、室町幕府は終わりを告げていた。幕府をつぶし、新しい世の中が来るようにと年号を『天正』に変えさせたのは信長だった。

 その事を聞いた時、善太夫は、信長がどこかで新しい将軍を見つけて来るのだろうと思っていた。しかし、あれ以来、新しい将軍が迎えられたという話は聞かなかった。これからどうなってしまうのか分からなかったが、新しい世の中が来るような予感はしていた。

 相変わらず、戦は絶えなかった。しかし、一昔前の戦とは変わっていた。一昔前は羽尾と鎌原の合戦のように小さな合戦が絶えなかった。しかし、今の戦は、関東では必ず、上杉、北条、武田の三氏が絡んでいる。この三氏のうちの誰かが関東を平定する事となるだろう。関東が平定されれば戦はなくなるし、飾り物の公方(くぼう)様や管領という肩書も不要となる。

 すでに、信長は上方を平定してしまったのだろうか‥‥‥

 信長の名が関東にまで聞こえるようになったのは、つい最近の事だった。それが今、将軍を追放してしまう程の実力を備えている。信長が関東まで攻めて来る事は考えられなかったが、恐るべき男だとその名を肝に銘じていた。

 京都では幕府が崩壊しても、関東には北条氏の庇護のもと、古河公方は存在したし、上杉謙信も関東管領として、関東を平定するために山を越えてやって来る。善太夫の見た所、謙信は関東を平定する事はできないと思っている。謙信自身も諦めているのかもしれない。もし、平定する気があれば、北条と同盟を結んでいた時、西上州に攻め込んで来たはずだった。しかし、謙信は攻めては来なかった。

 北条と武田が再び同盟を結んだ今、西上州に攻め込む事は不可能と言えた。となると、関東を争うのは北条と武田という事になる。北条と武田が決戦をした場合、どちらが勝てるか分からなかった。北条は万松軒が亡くなって氏政の代となり、武田は信玄が亡くなって勝頼の代となった。万松軒と信玄は甲乙付けがたい名将だった。跡を継いだ二人のうち、どちらが優れているかで決まるだろう。善太夫としては勝頼の方が優れている事を願うしかなかった。

 善太夫は、謙信はもう関東の事は諦めているだろうと思っていたのに思い違いのようだった。謙信はその年の二月の初め、雪山を越えて沼田にやって来た。

 同じ頃、武田勝頼が行動を開始した。上野の国まで出陣命令は来なかったが、真田兄弟は甲斐に向かったという。

 謙信は沼田から廐橋城に入り、利根川を越えて西上州に攻めて来るかに見えたが南へと向かい、北条方の城を攻め続けた。特に、上杉と北条が同盟する時、中心になっていた由良(ゆら)氏への攻撃は厳しく、金山城を完全に包囲して猛攻を続けた。北条氏としても金山城が落ちてしまうと東上州が上杉領となってしまうので、氏政自身が小田原から大軍を引き連れて援軍に向かった。

 上杉軍と北条軍は金山城の南の利根川を挟んで対陣した。氏政は箕輪の一徳斎に上杉軍を後方から攻撃するように頼んで来た。同盟を結んでいるので断るわけにも行かず、一徳斎は廐橋城を攻撃すると共に大胡(おおご)城を攻撃し、善太夫ら吾妻衆には白井城を攻撃させた。

 謙信は兵糧の蓄えてある兵站(へいたん)基地の大胡城を攻撃されて、陣を引かざるを得なかった。謙信が大胡に向かって来るとの報を受けると一徳斎は全軍を引かせ、それぞれの城に戻らせた。謙信は一旦、大胡城に入った。謙信が引き上げると氏政も金山城に入って情勢を見守った。

 一方、勝頼は信玄の死後、初めての戦を見事、勝ち戦で飾っていた。

 勝頼が落としたのは、美濃(岐阜県)の明智城だった。明智城は信長方の城だった。勝頼が最初にこの城を狙ったのは信長に対する宣戦布告であった。勝頼は父の遺志を継いで、信長を倒し上洛する事を目標としていた。勝頼は初戦の勝利に満足して甲府に凱旋(がいせん)した。
23.長篠の合戦




 天正三年(1575年)三月の半ば、武田四郎勝頼は父、信玄の遺志を継いで、上洛のための出陣命令を領国内に下した。

 紀州(和歌山県)にいる将軍足利義昭と連絡を取り、本願寺顕如に門徒を蜂起させて上杉謙信を越中に釘付けにし、北条氏政に関東の事を頼み、浜松の徳川家康を一気に倒して、織田信長との決戦に勝利して、将軍義昭を京都に迎え入れるつもりでいた。しかし、三年前、信玄が上洛しようとしていた時とは状況がまったく変わっていた。

 越前(福井県)の朝倉氏、近江(滋賀県)の浅井氏は共に信長によって滅ぼされ、信長に敵対して、散々、信長を苦しめていた伊勢長島の本願寺一揆も倒されていた。今の信長は三年前、四方を敵に囲まれて四苦八苦していた信長とは違い、精神的にも兵力的にも充分な余裕を持っていた。

 勝頼がそれらの事を知らなかったわけではない。知らなかったわけではないが、高天神城を落とした自信が、信長など恐れるに足らずと思わせていた。また、父の生前、信長が武田軍を最も恐れていた事を知っている。信玄が亡くなったとはいえ、武田軍の武将たちは健在である。それらの武将たちも信長を倒せると確信を持っていた。

 善太夫は草津と長野原の事を嫡男(ちゃくなん)の三郎右衛門と家老の宮崎十郎右衛門に任せて真田に向かった。

 出陣の前、善太夫は三郎右衛門と木剣で立ち合った。打ち合う事なく、構えただけで終わったが、お互いに相手の腕が理解できた。

 善太夫は三郎右衛門の上達振りに目を見張り、三郎右衛門は義父の強さを改めて知り、まだまだ、修行を積まなければと思った。

 善太夫は木剣を下ろすと、「陰流の極意とは何じゃ」と聞いた。

 三郎右衛門は突然の質問に戸惑い、しばらく、義父を見つめていたが、「平常心(びょうじょうしん)だと思います」と答えた。

「うむ。平常心も必要じゃ。しかし、陰流の極意は『和』じゃ、という事をよく肝に銘じておけ」

「『和』ですか‥‥‥」と三郎右衛門は首をかしげたが、善太夫はうなづくと、「愛洲移香斎殿のお言葉じゃ」と言った。

「流祖様の‥‥‥」

「今は分からんかもしれんが、やがて、分かる日が来る」

 善太夫は三郎右衛門に愛洲移香斎と上泉伊勢守の事を話して聞かせた。三郎右衛門は興味深そうに聞いていたが、陰流の極意が『和』だという事は理解できないようだった。善太夫でさえ、その事を完全に理解したとは言えなかった。若い三郎右衛門が理解できないのは当然だが、その事を肝に銘じておけば、いつか必ず、理解できると信じていた。

 三郎右衛門は『和』という言葉を何度もかみしめていた。

 今回の戦に善太夫は東光坊ら忍びの者たちを連れては行かなかった。東光坊は去年の夏より、忍び集団を作るために、白根山中にて若い者たちを鍛えていた。忍び集団は、まだ完成していなかったが、東光坊は出陣するつもりで、若い者たちを引き連れて山を下りて来た。善太夫は東光坊に三郎右衛門と共に草津を守るように命じた。

 今回の戦は大きすぎ、敵も味方も多くの忍びを暗躍させる事となる。真田氏は当然、円覚坊が作り上げた忍び集団を活躍させる。真田氏だけでなく、武田の武将たちが皆、一流の忍びを使うに違いない。そうなると、善太夫が、まだ未完成の忍び集団を連れて行っても、何の役にも立ちそうもなかった。

 善太夫は東光坊に真田に負けない程の忍びを育ててくれと、改めて頼み、留守の守りを命じた。

 吾妻郡から善太夫と共に真田に向かったのは、鎌原筑前守、浦野下野守、横谷左近、植栗河内守、富沢勘十郎、富沢治部少輔、池田甚次郎らだった。彼らは一徳斎の墓参りをした後、真田源太左衛門、兵部丞に率いられて甲府へと向かった。岩櫃城は海野兄弟が、箕輪城は瀬下豊後守(せしもぶんごのかみ)が、上杉謙信に備えて守りを固めていた。

 甲府には各地から続々と兵が集まって来た。

 誰もが、武田の軍旗が京の都にひるがえる事を夢見ていた。

 勝頼が織田信長を倒し、信長に追い出された将軍を京に迎え入れて新しい幕府を開き、乱れた天下を一つにまとめて、戦のない太平の世を作る事を夢見ていた。
登場人物一覧



湯本善太夫    次郎、山伏→湯宿の主人→草津領主  1531-1575長篠戦死
鈴          善太夫の正妻、海野長門守の娘  1536-1583病死
小茶         善太夫の側室、中沢杢右衛門の妹  1540-1588病死
ナツ         小茶の娘、長女、真田家へ人質となり、小草野新五郎の妻となる  1556-
アキ         小茶の娘、次女、浦野義見斎の伜の妻となる  1560-
初          善太夫の側室、浦野義見斎の妹  1547-1599病死
ハル         初の娘、三女  1567-
湯本民部入道梅雲   善太夫の祖父  1484-1549病死
成就院        善太夫の大叔父、白根明神の先達山伏  1490-1561病死
湯本下総守      善太夫の父、草津領主  1509-1546河越戦死
善太夫の義母     鎌原筑前守の妹  1510-1571病死
善太夫の実母     信濃善光寺の商人の娘  1513-1585病死
湯本太郎左衛門    善太夫の義兄、草津領主  1527-1551平井戦死
義姉         沼尾湯本次郎右衛門の妻  1530-1582病死
しづ         善太夫の実の妹、生須湯本三郎右衛門の妻  1534-1579病死
光泉寺玄英      善太夫の義弟、三郎、光泉寺住持  1532-1604病死
成就院        善太夫の実弟、四郎、成就院を継ぐ  1538-1595病死
湯本善太夫      善太夫の叔父、湯宿の主人  1515-1546河越戦死


湯本次郎右衛門    沼尾湯本氏  1505-1551平井戦死
湯本次郎右衛門    善太夫の義兄  1524-1563岩櫃戦死
湯本左京進      善太夫の甥、小次郎、次郎右衛門長男  1545-
湯本雅楽助      善太夫の甥、小五郎、次郎右衛門次男  1550-
湯本三郎右衛門    生須湯本氏  1511-1546河越戦死
湯本三郎右衛門    小三郎、善太夫の義弟  1532-1566箕輪戦死
湯本三郎右衛門幸綱  小三郎、善太夫の甥、養子、妻は矢沢但馬守娘  1554-1625病死
湯本小四郎幸澄    小三郎の弟、甚左衛門  1557-
湯本小五郎幸将    小三郎の弟、新左衛門  1561-
湯本しほ       小三郎の妹、河原右京綱家の妻  1565-
湯本七左衛門     前口湯本氏  1514-1551平井戦死
湯本七郎左衛門    新七郎  1536-
湯本八郎右衛門    前口湯本氏、七左衛門弟  1516-1577病死
湯本新八郎      八郎右衛門長男  1539-1566箕輪戦死
湯本弥左衛門     沼尾湯本氏、次郎右衛門弟  1509-1579病死
湯本弥五郎      弥左衛門長男  1531-1575長篠戦死
湯本伝左衛門     小雨湯本氏、民部入道弟、湯本家家老  1509-1569病死
湯本五郎左衛門    伝左衛門長男、下総守従弟、又五郎、湯本家家老  1528-1575長篠戦死


宮崎十郎右衛門    小雨、湯本家家老  1512-1577病死
宮崎彦十郎      十郎左衛門長男、家老職を継ぐ  1533-
宮崎陣介       彦十郎弟、湯本家家臣  1538-
宮崎文右衛門     前口、湯本家家臣  1520-1574病死
宮崎弥太郎      文右衛門長男、湯本家家臣  1542-1575長篠戦死
坂上武右衛門     小雨、幼友達、湯本家家臣  1533-1566箕輪戦死
中沢杢右衛門     入山、義兄、湯本家家臣  1535-1572白井戦死
黒岩忠右衛門     小雨、湯本家家臣、鉄砲奉行  1531-1575長篠戦死
山本与左衛門     品木、湯本家家臣  1527-1566箕輪戦死
山本十郎左衛門    小雨、幼友達、湯本家家臣  1534-1595病死
市川久兵衛      小雨、湯本家家臣  1540-1566箕輪戦死
本多儀右衛門     入山、湯本家家臣  1531-1575長篠戦死
山口幸右衛門     入山、湯本家家臣  1539-1577負傷死
浦野佐左衛門     義見斎、日影、羽尾家家臣→湯本家家臣、義兄  1534-1609病死
富沢権右衛門     日影、羽尾氏家臣→湯本家家臣  1529-1583病死
篠原勘兵衛      赤岩、羽尾家家臣→湯本家家臣  1536-1575長篠戦死
関作兵衛       赤岩、羽尾家家臣→湯本家家臣  1535-1585病死
湯根三右衛門     小雨、湯本家家臣、河原者支配  1515-1578病死
湯根三右衛門     小雨、湯本家家臣、河原者支配  1536-
常楽院        先達山伏、細野氏  1509-1577病死
円覚坊        善太夫の師匠、飯縄山先達山伏  1515-1575戦死
東光坊        円覚坊長男、三郎右衛門の師匠、飯縄山先達  1539-1606病死
永泉坊        円覚坊配下  1533-


羽尾治部入道道雲   善太夫の伯父、羽尾城主  1504-1565病死
羽尾修理亮      道雲長男、従兄、岩櫃斎藤家家臣、妻は斎藤越前守娘  1527-1563岩櫃戦死
羽尾源六郎      道雲次男、従兄、箕輪長野家家臣、妻は長野信濃守娘  1530-1566箕輪戦死
海野長門守幸光    義父、長野原城主、岩櫃斎藤家重臣、道雲の弟  1507-1582自害
海野能登守輝幸    岩櫃斎藤家家臣、新当流の達人、幸光の弟  1510-1582沼田戦死
海野中務少輔     輝幸長男、妻は矢沢薩摩守娘  1544-1582沼田戦死
鎌原筑前守幸定    伯父、鎌原城主  1499-1546河越戦死
鎌原宮内少輔幸重   従兄、鎌原城主  1519-
鎌原筑前守重澄    幸重長男、鎌原城主、義弟、妻は海野長門守娘  1541-1575長篠戦死
黒岩伊賀守      鎌原家家臣
横谷左近       伯父、雁ケ沢城主、河越合戦にて負傷  1502-1548負傷死
横谷左近       従兄、雁ケ沢城主、妻は大戸真楽斎娘  1526-
横谷信濃守重行    左近の長男  1546-
西窪佐渡守知昭    伯父、西窪城主  1510-1572病死
西窪治部左衛門重知  従弟  1532-1565岳山戦死
西窪蔵千代丸     治部少輔重宗  1556-


常林寺住職      応桑、鎌原氏創建。
大学坊        長野原諏訪明神別当
雲林寺住職      長野原城下
善導寺住職      岩櫃城下


斎藤越前入道憲広   岩櫃城主、一岩斎  1506-1564病死
斎藤越前守憲宗    太郎、憲広長男  1528-1565自害
斎藤弾正左衛門憲春  四郎、憲広次男、柳沢城主  1533-1563戦死
斎藤城虎丸      憲広三男、岳山城主  1548-1565自害
斎藤弥三郎則実    憲広の甥  1531-
斎藤但馬守      憲広弟、高野平城主  1523-
大戸真楽斎      大戸城主、斎藤越前守義弟  1508-82
大戸丹後守      真楽斎長男、妻は長野業政娘  1530-
浦野右衛門尉     真楽斎次男。父死後、修験となり吉祥院と号す  1535-
浦野但馬守      真楽斎弟、権田城主  1619-82
浦野下野守      真楽斎の従弟。三島城主  1519-
浦野下野守      彦三郎、妻は斎藤憲広娘  1538-
浦野中務大輔     下野守弟 1522-
佐藤(折田)将監   憲広従弟、斎藤家被官、仙蔵城主  1521-1580
佐藤軍兵衛      豊後守、海野能登守弟子  1547-1618.7.15
富沢但馬入道     元斎藤家家老 1511-
富沢但馬守行連    新十郎、岩下城主、斎藤家家臣、妻は横谷左近の妹  1534-
富沢勘十郎      行連長男  1556-1575戦死
富沢伊予守      行連の従兄 斎藤家家老  1530-1575岩井堂戦死
富沢出羽守      沢渡村住、斎藤家家臣  1522-
富沢治部少輔     出羽守次男 岩井堂城主  1546-1575戦死
富沢主水       出羽守三男  1551-1565戦死
富沢加賀守      山田村住、斎藤家家臣  1522-
富沢豊前守      加賀守次男  1543-1614
池田佐渡守      斎藤家家老  1528-
池田甚次郎      佐渡守長男  1549-
塩谷将監       斎藤家被官  1523-
唐沢杢之助      沢渡住 斎藤家家臣  1530-1565戦死
唐沢玄審助      杢之助長男  1553-
唐沢右馬助      杢之助弟  1536-
植栗安房守      斎藤一門、斎藤家被官、植栗城主  1530-
植栗河内守      安房守長男  1552-
蜂須賀伊賀守     山田稲荷城主、斎藤家被官  1524-
蜂須賀新右衛門    伊賀守弟  1528-
尻高左馬助      尻高城主 斎藤一門
中山安芸守      中山城主 斎藤一門
中沢越後守      岩井堂城主、斎藤家家臣
荒牧宮内右衛門    斎藤家家臣
蟻川入道       斎藤家家臣
蟻川庄左衛門     斎藤家家臣
桑原平左衛門     斎藤家家臣
一場太郎左衛門    厚田村、斎藤家家臣
川合善十郎      斎藤家家臣
神保大炊助      斎藤家家臣
割田隼人正      横尾村 斎藤家家臣
秋間備前守      斎藤家被官
大野新三郎      斎藤家被官
赤松可遊斎      小川城主


長野信濃守業政    箕輪城主  1499-1561病死
長野左衛門大夫吉業  業政長男  1527-1546戦死
長野右京進氏業    業政次男  1546-1566自害
藤井備後守友忠    長野家家老、浜川城主    -1566戦死
下田大膳大夫正勝   長野家家老
長野三河守業氏    鷹留城主、業政兄 1494-
長野十郎左衛門業通  業氏長男、妻は業政娘、落城後、長野原に隠れる  1516-
長野弾正少弼     廐橋城主、妻は業政娘  1517-60病死
長野彦太郎      弾正少弼長男  1538-60斬死
小幡尾張守憲重    国峰城主  1518-1575戦死
小幡右衛門尉信実   憲重長男、妻は業政娘  1541-1592病死
小幡図書助景純    長野業政婿
倉賀野左衛門五郎直行 長野業政婿


足利左兵衛督晴氏   古河公方  1508-1560
足利左兵衛督義氏   古河公方、晴氏の嫡男、母は北条氏綱の娘  1541-1583


上杉民部大輔憲政   関東管領、平井城主  1523-1579.4.2病死
長尾左衛門尉憲景   白井城主、一井斎  1511-1583
長尾能登守顕景    総社蒼海城主、上野国守護代  1519-1570.6.29
長尾但馬守景長    足利城主→館林城主、山内上杉家家宰  1527-1569.7.15


真田弾正忠幸隆    一徳斎、武田家家臣  1513-1574.5.19病死
真田源太左衛門信綱  源五郎、幸隆長男  1537-1575.5.21戦死
真田兵部丞昌輝    幸隆次男  1540-1575.5.21戦死
武藤喜兵衛昌幸    幸隆三男  1547-1611
矢沢薩摩守頼綱    幸隆弟、右馬助  1518-1597
矢沢但馬守頼康    頼綱長男、三十郎  1540-
矢沢松 頼康娘    湯本三郎右衛門妻  1560-
祢津美濃守信直    幸隆義弟 松鶴軒  1515-
祢津宮内大輔元直   信直弟  1526-
祢津麻        元直娘  1549-
常田伊予守俊綱    幸隆弟 長野原城代  1521-1563戦死
常田永助       俊綱長男  1543-1575戦死
河原丹波守隆正    幸隆甥  1532-
河原左京亮      隆正弟、幸隆甥  1536-1575戦死
小草野若狭守     春原惣右衛門兄、孫右衛門、真田家家臣  1521-
丸山土佐守      真田家家臣  1522-
海野左馬助      真田家家臣  1512-
丸子藤八郎      真田家家臣  1530-
依田彦太郎      芦田家家臣
小泉左衛門      室賀家家臣


愛洲移香斎久忠    飄雲庵、陰流開祖  1452-1538病死
黒岩志乃       移香斎の妻  1499-
愛洲小七郎      移香斎の第七子(四男)  1519-1590
黒岩弥太郎      飄雲庵の医術の弟子、志乃の弟  1506-
ナツメ        小野屋の女将  1533-1591
愛洲孫太郎      ナツメの兄  1525-1594
サワ         風摩党の娘  1546-


上泉伊勢守秀綱    上泉城主、愛洲移香斎の弟子、新陰流の流祖  1508-
羽田源太郎      伊勢守の弟子  1525-
疋田豊五郎      伊勢守の弟子  1526-
神後藤三郎      伊勢守の弟子  1526-
奥平孫次郎      伊勢守の弟子  1526-
上泉次郎秀胤     伊勢守の長男  1530-
原沢佐右衛門     伊勢守の弟子  1531-
柳生但馬守宗巌    柳生城主、伊勢守の弟子  1527-


武田信玄       大膳大夫晴信 甲斐の大名  1521-1573
武田四郎勝頼     信玄の四男。武田家を継ぐ  1546-1582
山県三郎兵衛尉昌景  駿河国江尻城主、武田家重臣  1529-1575戦死
内藤修理亮昌豊    上野国箕輪城代、武田家重臣  1523-1575戦死
馬場美濃守信房    信濃国牧之島城主、武田家重臣  1515-1575戦死
穴山玄審頭信君    勝頼義兄 武田家重臣  1541-1582
土屋右衛門尉昌続   武田家家臣  1545-1575戦死
武田兵庫助信実    信玄弟    -1575戦死
原隼人佐昌胤     陣馬奉行、武田家家臣  1525-1575戦死
小山田左兵衛尉信茂  甲斐国岩殿山城主、武田家家臣  1540-1582
甘利左衛門尉昌忠   武田家家臣  1534-1564
三枝土佐守虎吉    1565年以降栄富斎、武田家家臣  1511-1584
三枝松善七郎昌吉   虎吉の男、武田家家臣、使番衆  1549-1624
三枝勘解由左衛門   武田家家臣  1538-1575戦死
曽根七郎兵衛     武田家家臣 足軽大将、上野石倉城を守る。
室賀兵部大輔     武田家家臣
芦田下野守信守    上野三岳城主、1572年遠江二俣城主、武田家家臣   -1575戦死
清野刑部左衛門    武田家家臣
安中越前入道     武田家被官   -1566自害
安中左近大夫     武田家家臣、長野業通婿  1537-1575戦死
那波無理之助     武田家家臣   -1575戦死


長尾弾正少弼景虎   平三郎、上杉政虎、輝虎、謙信、越後の大名  1530-1578
新発田尾張守長敦   上杉家家臣   -1580病死
河田伯耆守守重親   上杉家家臣、1569年頃、上野国沼田城代
松本石見守景繁    上杉家被官、三島郡荻城主、1565年以降、沼田城代
上野中務少輔     上杉家家臣、1569年頃沼田城代
北条丹後守高広    上杉家家臣、上野国廐橋城代
栗林肥前守      上杉家家臣
田村新右衛門     上杉家家臣
早川源蔵       上杉氏被官、越後早川郷の豪族  1529-1565戦死


北条相模守氏康    万松軒、小田原城主  1515-1571
北条相模守氏政    氏康嫡男(次男)  1538-1590
大石源三郎氏照    氏康三男、武蔵国滝山城主、1575年以降陸奥守  1540-1590
藤田新太郎氏邦    氏康四男、武蔵国鉢形城主、1575年以降安房守  1541-1597
北条三郎       氏康八男、上杉景虎  1552-1579
北条幻庵       早雲の弟、1552~1560年まで上野国平井城主  1493-1589
北条左衛門大夫綱成  武蔵国河越城主→相模国玉縄城主 氏康義弟  1515-1587
北条孫次郎康元    北条綱成次男、1552~1560年まで上野国沼田城主   -1583.6.2
由良信濃守成繁    上野国金山城主  1506-1578
由良信濃守国繁    成繁嫡男  1550-1611
今川刑部大輔氏真   駿河国守護  1538-1614


織田弾正忠信長    美濃国岐阜城主  1534-1582戦死
佐久間右衛門尉信盛  織田家家臣   -1582
徳川三河守家康    遠江国浜松城主  1542-1616病死
酒井左衛門尉忠次   徳川家家臣  1528-1596
奥平九八郎貞昌    三河国長篠城主、奥山休賀斎弟子  1556-1615


足利義輝       室町幕府第13代将軍  1536-1565暗殺
足利義栄       室町幕府第14代将軍  1540-1568
足利義昭       室町幕府第15代将軍  1537-1597
第二部 湯本三郎右衛門





1.小野屋








 雪の積もった山の中を錫杖(しゃくじょう)を鳴らしながら、二人の山伏が歩いていた。

 獣の足跡が所々にあるだけで、人の足跡など、どこにもない。そんな道なき道を二人は歩いている。先を行くのは貫録のある山伏で、その後を追っている山伏の顔には、まだ子供らしさが残っている。白い息を切らせて、ハアハア言いながら必死に歩いていた。

「師匠、ちょっと待って下さい」と若い山伏は雪の中に倒れ込んだ。

「もうすぐじゃ」と言ったきり、師匠と呼ばれた山伏はさっさと行ってしまった。

「くそっ」若い山伏は雪をつかんで口の中に放り込むと歯を食いしばって後を追った。

 しばらく行くと視界が開け、眩しい青空が見えた。師匠が岩に腰掛け、早く来いと手招きした。若い山伏は白い息を吐きながら、這うようにして、やっとの思いで、師匠のもとにたどり着いた。

 そこからの眺めは最高だった。広々とした関東平野が視界いっぱいに広がっていた。

「すごい!」と若い山伏は思わず叫んだ。疲れがいっぺんに吹き飛ぶくらい、いい眺めだった。こんなに広々とした土地を今まで見た事がなかった。

「よく見ておけ」と師匠は言った。「この広い土地を手に入れるために、越後(えちご)(新潟県)の上杉、相模(さがみ)(神奈川県)の北条(ほうじょう)、甲斐(かい)(山梨県)の武田が戦を繰り返しているんじゃ」

「へえ」と言いながら、若い山伏は好奇心のあふれる目をして遠くの方を眺めていた。平野の向こうに大きな川が流れ、その向こうには山々が連なっていた。

「今、武田と北条は同盟を結んでいる。利根川を境に西が武田、東が北条というふうに上野(こうづけ)の国(群馬県)を二つに分けている。武田と北条に勝手に分けられてたまるかと、そこに越後の上杉が北から攻めて来る。上杉は沼田を拠点として毎年、冬になるとやって来て、武田と北条の城を攻めるんじゃ」

「あの川が利根川なんですね」と若い山伏は川の方を指さした。

 師匠はうなづき、「利根川の向こうに見えるのは赤城山じゃ」と言った。

 赤城山は裾野の長い山だった。若い山伏は赤城山の裾野に沿って視線を南の方へと動かした。利根川の流れが輝きながら、広い平野を横切って、ずっと向こうまで続いていた。

「今もどこかで戦をしてるのですか」と若い山伏は師匠の顔を見た。

「いや」と師匠は首を振った。「いつもなら上杉勢は雪解けまで上野にいて、戦をしてるんじゃが、どうしたわけか去年のうちに帰ってしまった。どうやら、越中の方に行ってるらしい」

「越中ですか‥‥‥」

 越中(富山県)と言われても若い山伏には、どこだかわからないようだった。

「武田と北条が同盟を結んでいる限り、上杉の進出は難しいな。一昨年、上杉方の箕輪城(みのわじょう)(箕郷町)が武田に落とされてから、上杉方だった廐橋城(うまやばしじょう)(前橋市)は北条に寝返ってしまった。上杉は上野を諦めて越中方面を攻め取るつもりなのかもしれん。三郎、あそこに見えるのが箕輪城じゃ」

 三郎と呼ばれた若い山伏は師匠の指さす方を見た。山の裾野に城らしい建物が小さく見えた。

「あれが箕輪城‥‥‥」三郎は顔を曇らせて城を見つめた。

「あそこで父上は戦死したのですか」

「いや、お前の父上が戦死したのは、この上じゃ」と師匠は山頂の方を示した。

 三郎は見上げてみたが、どこも雪でおおわれ、どこなのかわからなかった。

「この山は榛名山といってな、山の上に綺麗な沼がある。その沼の近くにある砦で、お前の父親は殿軍(しんがり)として上杉の兵と戦い、全滅したんじゃ。立派な武将じゃった」

 三郎は山の上をしばらく見つめていたが、箕輪城へと視線を移すと、「今、あの城は武田の武将が守っているのですか」と聞いた。

「そうじゃ。内藤修理亮(しゅりのすけ)(昌豊)殿が守っておられる。さあ、行くぞ」

 師匠は山を下り始めた。

「どこに行くのです」

「あそこじゃ」と師匠は箕輪城を顎で示した。

 三郎は錫杖を突きながら師匠の後を追った。
2.上泉伊勢守








 船が伊豆半島を越えると、目の前に富士の山が見えて来た。

 雪をかぶった富士山は神々しい程に眩しかった。三郎はしばし、その美しさに見とれた。

「三郎、あそこに登ってみるか」と東光坊が横に来て聞いた。

「えっ、登れるんですか」

「登れん山はない。だが、今の時期は難しい。頂上は大雪じゃからな、夏まで待つしかない」

「登ってみたいです」

「うむ。だがな、富士山は登るよりも遠くから眺めていた方がいいかもしれん。山の中に入ってしまうとあの美しさはわからなくなる」

 三郎は富士山の華麗な姿を見つめながらも、浅香の事を思っていた。浅香にも富士山を見せてやりたいと思っていた。

 予定では江尻津(清水港)まで船で行くつもりだったが、沼津で降りる事にした。一気に船で行くよりも、富士山を眺めながら歩きたかった。

 駿河の国(静岡県中東部)は今川家の領国で、今、今川と北条と甲斐(山梨県)の武田は同盟を結んでいた。草津の湯本家は武田に属しているので、ここも味方の国だった。

 右手に富士山、左手に海を眺めながら、二人は駿河の都、駿府(静岡市)へと向かった。

 今川家のお屋形様(氏真)がいる駿府も小田原に負けない程、賑やかな都だった。小田原の城下ではあまり見られないお公家さんたちも多く住み、何となく雅な雰囲気があった。

「どうじゃ、琴音殿の事は忘れられたか」

 浅間(せんげん)様の門前にある宿坊に着いた時、東光坊はそう聞いた。

「琴音?」

 浅香に会ってから、琴音の事はすっかり忘れていた。

「忘れたらしいな、よかった、よかった」

「でも、浅香の事は忘れられません」

「ほう、今度は浅香か。お前も結構、浮気者じゃな」

「そんな、違いますよ」三郎はむきになって否定した。

 東光坊は笑いながら、「どうじゃ、浅香を忘れるために、今度は駿河の女子でも抱いてみるか」とからかった。

「浅香のような女は滅多にいません」

「まあ、そうじゃろうの。あれだけ高級な遊女は滅多におらん。お前、揚げ代がいくらだったか知ってるか」

「そんなの知りません」

「わしらにはとても払えん程、高価じゃ。わしがお屋形様から預かって来た一年分の銭でも足らんのじゃ。小野屋の女将さんに感謝して、浅香の事は夢だったと諦める事じゃ」

「いやだ、俺は諦めない。琴音を諦めて、浅香まで諦めろと言うのか」

「しょうがないんじゃ。どうしても諦めきれなかったら、お前がお屋形様になった時、迎えに行ってやる事じゃな。身請けするにも莫大な銭が掛かるが、お屋形様になればできない事もあるまい」

「俺は諦めない。浅香を絶対に草津に呼んでやる」

「呼んでどうする?」

「妻にする」

「ほう、それもいいじゃろう。まあ、頑張れ」東光坊は三郎を見ながら鼻で笑った。

 三郎はブスッとした顔をして、東光坊を睨んでいた。
3.真田郷








 三郎が京都で武術の修行に励んでいる時、関東では、武田と北条の合戦が繰り返されていた。

 永禄十二年(一五六九年)正月から四月まで、駿河の国で北条軍と睨み合っていた武田軍は、一旦、甲府に引き上げると今度は碓氷(うすい)峠を越えて、上野の国にやって来た。

 草津のお屋形、湯本善太夫は真田源太左衛門、兵部丞(ひょうぶのじょう)の兄弟と共に箕輪城で武田信玄を迎えた。上野の兵も加わって、大軍を率いた信玄は武蔵へと進撃した。北条方の城を攻めながら南下して行き、十月には小田原に迫り、城下を焼き払って小田原城を包囲した。

 簡単には落とせないと見極めた信玄は、四日間だけ包囲して甲府へと引き上げたが、引き上げる途中、北条軍とぶつかり、三増(みませ)峠において激しい合戦が行なわれた。

 勝負は武田軍の圧勝に終わった。しかし、味方の損害もひどく、東光坊の父親、円覚坊(えんがくぼう)は右腕を失う程の大怪我を負ってしまった。幸い、湯本家の者たちは内藤修理亮(しゅりのすけ)の指揮のもと小荷駄隊を守っていたので戦死者はいなかった。

 小田原から引き上げると信玄は休む間もなく、駿河へと出陣した。湯本家は駿河進攻には従わず、北から攻めて来る上杉軍に備えて、岩櫃(いわびつ)城(吾妻町)の守りを固めると共に、上杉方の白井(しろい)城(子持村)を攻撃した。

 三郎は迎えに来た東光坊から話を聞きながら、武田と北条の溝は深くなるばかりだと嘆いた。今の状況では三郎が北条の娘を嫁に貰う事など、とてもじゃないができなかった。その事を信玄に知られたら、間違いなく湯本家は潰される。死ぬ気で修行を積んで来たのに、世の中は三郎が望むようには動かなかった。

 長野原城に帰ると義父、善太夫はいなかった。上杉輝虎(てるとら)(後の謙信)が沼田にいるので、岩櫃城から離れる事はできず、来年の正月を家族で祝う事はできないだろうとの事だった。

 義母たちに挨拶を済ませて、小雨村に帰ろうとした時、三郎を訪ねて来た者があった。

 会ってみると旅の商人で、三郎の知らない男だった。商人は小声で小野屋の女将から頼まれたと言って、手紙を渡すと帰って行った。

 わざわざ、手紙をよこすなんて何事だろう。もしかしたら、琴音が来年、草津に来るのだろうかと浮き浮きしながら読んでみると、手紙の内容は三郎を谷底に突き落とすような残酷なものだった。

 十二月六日、駿河の蒲原城を守っていた幻庵の次男、新三郎と三男の箱根少将長順が武田軍に攻められ、守備兵共々全滅した。

 幻庵には三人の息子がいて、長男の三郎は九年前に戦死し、三郎の長男も五年前に戦死している。次男の新三郎が三郎の跡を継いでいたのに戦死してしまった。跡継ぎを失った幻庵は、琴音に婿を取って跡を継がせるしか道はなくなった。北条のお屋形様、万松軒(ばんしょうけん)と相談し、出家して早雲寺にいた万松軒の八男、西堂を婿に迎える事に決まった。

 十二月十五日、還俗(げんぞく)して北条三郎を名乗った西堂は、琴音と祝言を挙げ、新三郎の跡を継いで小机城主となった。

 琴音は二人の兄の戦死を悲しむ間もなく、祝言を挙げなればならなかった。兄たちが戦死するまでの琴音は来年の正月、三郎が小田原に来るのを首を長くして楽しみにしていた。しかし、兄たちの戦死によって自分の立場に気づいたのか、幻庵の言われるままに従った。琴音は幻庵の屋敷を出て、小机城に移って行った。申し訳ないが、琴音の事は諦めて、早く忘れてほしい。

 手紙にはそう書いてあった。
4.草津








 京都で修行中の三郎のもとに、小野屋からの使いが来たのは菊の花があちこちに飾られていた九月十日の朝だった。

 小野屋は下京の四条通りに出店があり、時々、草津からの便りを持って来てくれた。また、母親が心配して、便りをよこしたのだろうと会ってみると、京都の店では見た事もない行商人だった。

「琴音様が今、草津に向かっております」と行商人は三郎の耳元で囁いた。

 三郎は耳を疑い、もう一度、聞き直した。

「琴音様は祝言を挙げる前に、どうしても、草津に行きたいと幻庵様に申され、幻庵様もお許しになられました。わたくしどもの女将に連れられて、本日、小田原を発つ予定でございます」

「琴音殿が草津に‥‥‥」

 思ってもいない事だった。三郎は一瞬、ぼうっとなっていた。

「三郎様に会いに参るのでございます」と行商人は言った。

「本当ですか」と三郎は行商人の顔を見つめながら聞いた。梅干しのような顔をした行商人が草津温泉の守り本尊、薬師如来様の化身のように思えて来た。

「本当です。すぐに行かれますか」

「はい。お師匠様にお許しを得て、すぐに」

「お供いたします」と行商人は当然の事のように言った。

「えっ、一緒に草津まで?」と三郎は聞いた。

「はい。三郎様にもしもの事がございますれば、わたしとしても責任を取らなければなりません」

「責任を取るって‥‥‥もしかしたら、そなたは風摩ですか」

 行商人は笑っているだけで答えなかった。しかし、ただの行商人ではない事は確実だった。三郎は浮かれている自分を戒めた。もし、行商人が風摩だったら、自分の命を奪いに来たのかもしれない。そんな事はあり得ないとは思うが、今の世の中、何が起こるかわからなかった。

「そなたを信じないわけではないが、小野屋の女将さんの使いだという証拠を見せていただけませんか」と三郎は行商人に言った。

 行商人は笑った。そして、懐から袱紗(ふくさ)のような物を出して三郎に渡した。三郎は受け取ると袱紗を開いて見た。中には櫛が入っていた。秋の草花に赤とんぼが飛んでいる図柄は見覚えがあった。一昨年、初めて京都に来た時、琴音のために買った櫛で、去年の正月、琴音に贈った物だった。琴音も気に入ってくれて、大事にすると言ってくれた。北条三郎に嫁いだ後も大事に持っていてくれたのかと三郎はジーンと胸が熱くなって来ていた。

「琴音様は十六日には草津に着く予定でございます。急がなければなりません」

「わかりました」

 三郎は琴音の櫛を大切にしまうと上泉伊勢守の許しを得て、行商人と共に直ちに草津へと向かった。
5.草津








 琴音と別れてから一年余りが過ぎた。

 元亀三年(一五七二年)正月、三郎は小雨村のお屋形から長野原城へと向かった。四年間の旅も終わり、いよいよ、今年から善太夫のもとでお屋形様になるための修行を積まなければならなかった。

 今、謙信と名を改めた上杉輝虎が越後から廐橋城に出陣しているため、善太夫は家臣を引き連れて岩櫃城に詰めていた。謙信は毎年、冬になると上野にやって来た。お陰で、善太夫を初めとした吾妻郡の武将たちは地元で家族と共に正月を祝えなかった。今年の正月も留守を守る女子供年寄りだけの正月だった。

 琴音と別れた後、三郎はすぐに京都へと向かった。例の小野屋の行商人が女将に頼まれたと言って付いて来てくれた。琴音との楽しかった日々を胸の奥に仕舞って、三郎は京都で厳しい修行を積んだ。その年の暮れには故郷にも帰らず、一年余り、武術修行に熱中した。以前は剣術ばかりをやっていたが、去年は棒術、槍術、弓術の修行にも励み、戦の戦法も学んだ。後は実戦だった。実際に戦を経験して、今までの修行の成果を生かさなければならなかった。

 琴音から貰った尺八の稽古にも励んだ。貴重な尺八を貰ったのだから使いこなせなければ勿体ない。琴音と会う事はもう二度とないだろうが、幻庵とはまた会えるかもしれない。会った時、吹いてみろと言われて恥をかきたくなかった。

 三郎が道場の片隅で下手な尺八を吹いていると、

「それはもしや、幻庵殿の一節切か」と上泉伊勢守が通りがかって聞いて来た。

 そうですと答えると伊勢守はうなづき、

「わしもいただいた」と言って、吹き方を教えてくれた。

「大事にするがいい。この一節切は京都のお公家さんたちも欲しがっている。幻庵殿の手作りじゃから、そう数がある物ではないのでな」

「えっ」と三郎は驚き、「京都でも幻庵殿の一節切は有名なのですか」と聞いた。

「有名じゃよ。音がいいからのう。そんな音を出していたら幻庵殿に申し訳ないぞ」

 若い頃、幻庵が僧侶として京都で修行していたと聞き、三郎は驚いた。京都での修行の後、幻庵は箱根権現の別当職に就き、多くの僧兵や山伏を抱えていた箱根権現を北条家の支配下に組み入れる事に成功した。幻庵が別当職を勤めたのは十年余りで、在職中も辞めた後も京都には何度も来ていて知人は多かった。その交際範囲は広く、有名な高僧、位の高い公家衆、幕府の重臣、連歌師、茶の湯者、果ては遊女から四条河原の芸人たちまで親しく付き合っていた。武芸は勿論の事、鞍作りと尺八作りの名人だという事は三郎も知っていたが、その他に、鼓(つづみ)打ちや幸若舞(こうわかまい)にも堪能で、古典に詳しく、和歌や連歌はお公家さんたちが教えを請う程の技量を持っている。お茶道具の目利きは完璧、お茶を点てれば、うっとり見とれてしまう程の腕前で、絵を描けば狩野派の絵師が唸り、庭園を造れば幕府お抱えの庭師が目を見張り、何をやらせても見事にこなしてしまう芸達者だという。

「すごいお人じゃ」と伊勢守はとてもかなわないという顔をした。

 三郎もすごい人だと思った。改めて、幻庵の偉大さを知り、そんな人と知り合えた事を天に感謝した。
6.里々








 善太夫が故郷で正月を祝うのは久し振りだった。いつもはお屋形様が戦をしているのに浮かれて騒ぐわけにも行かず、自粛気味だったが、今年の正月は白井攻めに成功した事もあって、長野原の城下も小雨村も賑やかな正月になった。しかし、湯本家の者、全員が故郷に帰って来たわけではなかった。小次郎改め左京進に率いられた三十人余りの者が上杉勢に備えて、奪い取った柏原城に詰めていた。それでも、白井城が味方の手に落ちたので、敵がすぐに攻めて来る事はなく、危険な任務ではない。向こうでも故郷の事を思いながら、正月を祝っているに違いなかった。

 年が改まってすぐ、三郎は小野屋の女将から手紙を貰った。琴音が去年、無事に男の子を産み、幻庵は跡継ぎができたと大喜びしている。母親になった琴音は小机城の奥方として家臣たちともうまくやっていると書いてあった。夫となった四郎が人質として甲府に行った事は一言も書いてなかった。心配させまいとの女将の配慮だろう。三郎は琴音の出産を素直に喜び、遠い存在となってしまった琴音の事は思い出として胸の奥にしまって置く事にした。

 十日になると、雪の降る中、三郎は家臣たちを引き連れて柏原城に向かった。三郎たちは左京進たちと交替して柏原城の守備に当たった。

 柏原城は吾妻川と沼尾川の合流する断崖の上に建つ要害だった。沼尾川の西にあるので、吾妻側から攻めるよりも白井側から攻める方が困難で、余程の大軍に囲まれない限り、落とす事は不可能だと思えた。正式な城主が決まるまで、浦野下野守、植栗(うえぐり)河内守、荒巻(あらまき)宮内少輔、そして、湯本家の兵が守っていた。

 二月になって、箕輪城の真田一徳斎から出陣命令が届いた。武田のお屋形様は遠江の二俣城を落とし、三方ケ原で徳川三河守に大勝し、今、三河の国を進撃中だという。織田弾正を倒して一気に上洛する日も近い。上洛軍に負けてはいられない。こっちも一気に沼田の倉内城を落としてしまえという事となった。

 左京進が柏原城にやって来て、湯本家の兵はそのままで、三郎だけが岩櫃城にいる善太夫のもとに向かった。善太夫と共に白井城に行き、真田兵部丞と甘利郷左衛門を大将として沼田攻撃は始まった。

 沼田の倉内城は越後から来た援軍も加わって守りを固め、籠城態勢に入り、城から出ては来なかった。一徳斎は箕輪からも援軍を送ったが、籠城した敵を倒すには兵力が足らなかった。同盟した北条氏は下総方面で戦をやっていて、大軍を上野に向ける事はできそうもない。まごまごしていると越中に出陣している上杉謙信が沼田にやって来る。謙信が出て来たら勝ち目はまったくなかった。

 倉内城を囲んだまま膠着状態が続いた。四月になり、三郎は善太夫より草津に帰るように命じられた。山開きをして、そのまま草津を守れという。三郎は不満だったが仕方がなかった。今まで草津を守っていた左京進は柏原城の城将を務め、草津に帰る事はできない。三郎がやるしかなかった。

 山開きを無事に済ませた三郎はお屋形に入り、草津の家老、宮崎十郎右衛門に助けられながら草津を守った。
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